第36話 曲がる魔球
一回の裏で二点を取った「チームこはるん」は、「チームドラゴンズ」に一点返されて、今二対一で三回表を迎えていた。
ワンナウトから回ってきた打者は、あの節子先生だった。
「やから、なんで傘もっとんねん!」
いさぎ悪く、日傘片手に打席に立った先生に、たっつんはややキレ気味に言い放った。
野球だろうが何だろうが絶対に太陽の下には出ない。その徹底ぶりに、寧ろ私は清々しさすら覚えた。
だが、片手で振った先生のバットは、小春ちゃんの速球を捉えた。
まさかのダークホースに、チームこはるんは浮き足立つ。
頭上を越えていったボールに、小春ちゃんが大きな声を上げた。
「アカン。外野まで行ってしもうた。悪いけどさくらちゃん取って来て」
「え? 取りに行くの? 走って?」
「ライト守ってる池田のじいちゃん、もう十年前ぐらいから肩上がらへんねん。お願いや。このままやったらランニングホームランになってまう」
小春ちゃんに急かされて、私はとにかく池田のおじいちゃんのもとへと走った。おじいちゃんはニコニコしながら拾ったボールを持って突っ立っている。
「はあ、はあ、はあ」
全力疾走して肩で息をする私を、おじいちゃんはにこやかに迎えてくれた。
「いやあ、実は十年ほど前から肩が上がらへんねん。えらい走らせてしもうて悪いなあ」
それはさっき小春ちゃんから聞いた。そして今はそういった会話でほっこりしている場合ではない。
「はあ、はあ……おじいちゃん、とにかく私にボール頂戴」
「ああ、そうやった。ほんならあとは頼むわな」
ボールを掴んで振り返ると、先生はまだ二塁と三塁の間を走っていた。日傘を持って走っている分、時間がかかっているみたいだ。
「さくらちゃーん! バックホームや!」
良く通る小春ちゃんの声で、どこへ投げればいいのか分かったけれど、とてもじゃないけどそんなとこまで届かない。
「セカンドに中継入ってるから! かっちゃんに投げたって!」
小春ちゃんに気を取られていて気付かなかったが、五年生の男の子、下田勝彦君が中継に入って大きく手を振っていた。
「さくらちゃーん、こっちやー!」
私は大きく腕を振ってかっちゃんにボールを投げる。しかし、かなり手前にボールが落ちてしまい、中継役の少年が慌ててボールを拾いに走り出す。
「かっちゃーん! バックホームや!」
小春ちゃんの良く通る声がまた広がる。
白い日傘は三塁を回ってホームを目指して走っていた。
遠目なので良く分からないが、先生のペースは明らかに遅かった。多分日ごろの運動不足のせいで、そろそろ疲れて来たのだろう。
そして小春ちゃんに中継からのボールが通った。ボールを掴んだ小春ちゃんと白い日傘が向かい合う形になる。
すると、白い日傘がクルリと反転して三塁ベースへに向かって走り出した。小春ちゃんはそれを自慢の脚で追いかける。
私はそれを遠目に見ながら、絶対に先生は小春ちゃんから逃げ切れないと確信していた。
「アウト!」
必至に逃げようとした先生だったが、思ったとおりタッチされた。
それでも最後まで日傘を手放さなかった先生に、大した人だとまた私は感心させられたのだった。
三回の裏にチームこはるんが二点を追加し、四回の表にたっつんのチームドラゴンズがまた二点を返した。
水筒の麦茶もなくなって、もういい加減野球を止めたくなってきた頃合いで、ようやく最終回に入った。
「うおりゃー!」
全く疲れというものを知らないのか、小春ちゃんは大きく腕を振って六年生のみっちゃんを三振に打ち取った。
そしてまたあのダークホース、節子先生の打順が回ってきた。
相変わらず日傘だけは手放さない。バットか傘かどちらかを選べと言われたなら、彼女は傘を選ぶだろう。
「頼むで先生!」
神頼みのように両手を合わせて、たっつんは先生を打席へと送り出した。
そして、左手に傘、右手にバットの二刀流で、先生はまたヒットを打った。
今度は一塁どまりではあったものの、次に打席に立ったたっつんは、逆転を確信したかのように、バットの先端を外野のさらに奥へと向けた。
「予告ホームランや。勝負や、こはるん!」
「えらい大きく出たな。ほんならうちも本気だそうやないの」
小春ちゃんは手に持っていたボールを握り直した。
「今日のために特訓してきた秘蔵の魔球を使う時が来たようや。打てるもんなら打ってみい」
「流石こはるんや。そんなもんまで用意してたんか」
二人とも絶対何かに影響されてる。
何だかドラマティックな感じの展開に、私は給水機の冷たい水を飲みたいなと思いつつ、その勝負の行方に注目した。
「ほんならいくでー!」
「おっしゃー、来いやー!」
そして小春ちゃんは大きく腕を振りかぶった。
しなる様に腕を振った小春ちゃんの指先からボールが放れていく。
真っ直ぐに突き進んでいったボールは、突然ギュインと曲がった。冗談抜きのすごい変化球に、私は本当に驚嘆してしまった。
パン!
すごい勢いで横曲がりした球は、そのまま坊主頭の顔面に吸い込まれていって、すごい音を立てた。
「ぎゃ!」
尻もちをついたたっつんは、ほっぺたを押さえて涙目で猛抗議した。
「いたたた。なにするんや!」
「ごめん。ちょっと手が滑ってしもうた。堪忍やで」
空気の詰まった柔らかいボールだが、きっと痛かったに違いない。
一球目でいきなり頬にデッドボールを食らった少年は、バットを置いてブツブツ言いながら一塁へと走って行った。
そして、次の打席に立った五年生の松山泰三くんは、明らかに先ほどの魔球にビビっていた。
「なあこはるん、普通の球にせえへんか? な、そうしようや」
「そうはいかん。この大事な場面で使わんでいつ使うんや。ここからは魔球一本で勝負するねん」
「いややなあ……」
そして……
「デッドボール」
誰もが予想したとおり、打者に向かってくるボールを受けて、泰三くんも頬を押さえながら塁に出た。
満塁になったことで、いよいよ雲行きがおかしくなってきた。
「タイムタイム」
キャッチャーをしていた四年生の米田竜一君、通称リュウちゃんが、小春ちゃんのもとへと走っていく。
何やらやり取りをしているけれど、セカンドを守る私の耳に、会話は届いてこない。
しばらくして、小春ちゃんは魔球を封印して投球を再開した。どうやらリュウちゃんの説得が効いたようだ。
もし魔球を投げ続ければデッドボールを量産するに違いない。
次のバッターを打ち取って、打席には二年生の石川珠美、通称たまちゃんが立っていた。
ツーアウトだが満塁の場面だ。三年生以下には打ちやすい下投げのボールを投げるルールなので、小春ちゃんの剛速球は使えない。
じりじりと照り付ける太陽の下で、そこにいる全員が、小春ちゃんと打席に立った小さな女の子の勝負に注目していた。
そして小春ちゃんの二投目が甘く入ってきたのを、たまちゃんは見逃さなかった。
やや大振りで振り抜いたボールは、大きな放物線を描いてショートとレフトの間に落ちていった。
「はしれー!」
日傘を差した先生がホームベースを踏んで、セカンドにいたたっつんもあっという間に帰って来た。
そのあとのバッターは抑えたものの、この回で二点を入れられたチームこはるんは、一点を追いかける形で最後の攻撃を迎えたのだった。