第31話 お母さんの特技
私のカブトムシはとうとう十匹になった。
今朝早起きして小春ちゃんと一緒にクヌギの木を巡回し、四匹のカブトムシを捕まえたのだ。
「目標の十匹。達成したー!」
小春ちゃんと喜びのハイタッチをして、捕まえたカブトムシを籠の中に入れてやると、先住の甲虫たちと重なり合うように新参者がワラワラと動き回る。
「なんだか混み合ってるね」
「そう? こんなもんやよ」
そう言えば小春ちゃんの家で見せてもらった虫籠も、こんな感じで飽和状態だった。雑魚寝になって申し訳ないが、大きな籠も無いことだし、我慢してもらうことにしよう。
私は誰が誰だか解らないまま、新参者の四匹に、それぞれ、かりんとう、えびせん、キャラメル、ポップコーンと名をつけた。
取り敢えず、これ以上混み合うと気の毒なので、明日からはクワガタを優先的に獲ろうということになった。
勿論私はあの凶暴そうな顎を持つ奴らには近寄らないと決めていたので、もし捕まえても小春ちゃんに譲るつもりだ。
私と小春ちゃんは、朝のひと仕事を終えて、お母さんの用意してくれたトーストを齧る。お皿に添えられてある果物が豪華なのは、小春ちゃんが持ってきてくれたお見舞いのお陰だ。
「なあさくらちゃん、今日は釣りに行くって言ってたよね」
「うん。そうだよ。九時になったら山ちゃんが迎えに来るんだって」
「楽しみやなー。今日のお昼はご馳走や」
一日雨が降ったお陰で、順延になっていた最後の山村留学プログラムが、今日のマス釣りだった。
今日は小春ちゃんのお母さんもマス釣りに参戦する予定だ。
釣った魚は、養魚場のスタッフがお昼に塩焼きにしてくれるらしい。
そしてたくさん釣り上げたら持ち帰れるらしいので、お母さんも意気込んでいた。
マス釣り場は小学校とは反対側に車を走らせて約四十分の山間部にあった。
前に小春ちゃんが案内したいと言っていた場所だったので、私はほっとした。もし今日ここへ来なかったら、別の日に自転車で山を登らされたに違いない。
「よっしゃー、いっぱい釣るでー」
車を降りるなり、小春ちゃんはやる気をみなぎらせた。
勝手が分かっているのか、小春ちゃんはパッと私の手を取ると駆け出した。
いきなり全開の小春ちゃんの背を、山ちゃんの声が追いかける。
「小春ちゃん、そんな焦らんでもええよ。魚はどこにも逃げへんから」
「時間制限有るんやろ。ほんなら早うスタートせな」
多分小春ちゃんは、家から持って来た大きなクーラーボックスをいっぱいにするつもりだ。
私は小春ちゃんの心理を的確に分析しつつ、彼女なら本当にあの大きなクーラーボックスをパンパンに出来るのではないかと想像するのだった。
渓流をそのまま利用したマス釣り場には、ところどころに幾つかの仕切りがあり、そこに養殖したニジマスを放流していた。
私と小春ちゃんは糸が絡まないよう、少し離れて釣り竿の糸を垂らした。
釣りを始めてからしばらくして、私の竿にいきなり強い引きがきた。
「ワッ! なんか来た!」
大きく竿がしなり、ピンと張った糸が動き回る。どうしていいのか分からずアタフタしていると、山ちゃんが来て引き上げるのを手伝ってくれた。
「ゆっくり竿を立てたら、こっちに寄って来るやろ。そうや。上手やで」
「それで、ここからどうするの?」
「川べりまで寄せたらこうしてタモを使って最後は上げてやるんや」
山ちゃんは浅瀬で抵抗する魚を簡単に網ですくい上げた。
「それで針を呑み込んだやつはこうやって取ってやるんや」
山ちゃんは専用の金具を使って、飲み込んだ釣り針を器用に外してくれた。
「さくらちゃんは釣りのセンスあるみたいやな。この調子でがんばりや」
「うん。ありがとう」
餌を付け直して糸を垂らすと、今度は小春ちゃんが興奮したような声を上げた。
「オー!」
小春ちゃんは手慣れた様子で竿を捌き、タモで魚を簡単に掬った。
「まず一匹や。さくらちゃん、まだ同点やで」
「え? ひょっとして競争してるの?」
ニカッと白い歯を見せた小春ちゃんに、私はもう勝負が始まっていることを悟ったのだった。
私は自分が思っていた以上にたくさんマスを釣った。
結果は、私が六匹で、小春ちゃんは八匹だった。
しかし、蓋を開けてみると、母親二人は二桁も釣りあげていた。
私と小春ちゃんがワイワイ言いながら釣っていた時に、母親二人は静かに黙々と釣果を重ねていた。
どうやら本気で勝負していたみたいだった。
「クソッ、明日香ちゃんに負けた!」
「フフフ、釣りやったら園枝ちゃんに負けへんで」
おばさんが十六匹、お母さんが二十匹。まさかの釣り名人だったお母さんに私が一番驚いた。
「お母さんにこんな特技があったなんて……」
「フフフ、さくら、お母さん昔は釣りキチ明日香って言われてたんよ」
「なんや、明日香ちゃん、いっこも腕なまって無いやん。滅茶苦茶悔しいわ」
「私がおらへん間にもっと腕磨いとかなあかんかったみたいやね。園枝ちゃん」
口惜しがる小春ちゃんのお母さんに、お母さんは勝ち誇ったような顔をしていた。
それから木陰のテラスで、釣りたてのマスを塩焼きにしてもらってみんなで食べた。
「なにこれ、すごい美味しい」
今まで悠々と泳いでいたニジマスには気の毒だが、ほんのりオレンジ色のふかふかの身は本当に美味しかった。
大きなマスの塩焼き二匹と、ここのマスを使った柿の葉寿司を頂いて、ちょっと豪華な昼食を終えた私たちは、そのまま川べりのテラスで寛ぐ。
「明日香ちゃん、相変わらずやったなあ」
見事にパンパンになったクーラーボックスをポンと叩いて、山ちゃんが今日のお母さんの釣果を振り返った。
「昔よう釣り上げた魚、おすそ分けしてくれてたの思い出したわ。時間制限なかったら、渓流の魚みんな釣って帰られそうやな」
「そこまでやないよ。でも久しぶりに本気で釣ったわ。園枝ちゃんが勝負仕掛けて来たし」
お母さんが明るく突っつくと、おばさんは子供みたいにプッと膨れた。
「うちは何も言うてへんかったよ。明日香ちゃんから仕掛けて来たんや」
「いいや、目が本気やった。今日こそ負かしたるって、その目がゆうとった」
きっと遠い昔にもこういった勝負をしてたのだろう。軽く揉め合いながらも、二人はどこか楽しげだった。
じゃれ合う母親二人を放っておいて、小春ちゃんが私の手を取って席を立つ。
「さくらちゃん、あっちの川辺に足を浸けに行こうよ」
「うん」
席を立った私たちにお母さんが声を掛ける。
「あんまり深いところに行ったら駄目よ」
「うん。泳ぐわけじゃないから大丈夫」
鳥のさえずりが響き渡る深い山の渓谷に、真夏の陽光が射し込む。
とても涼し気な透明度の高い川べりに、私は小春ちゃんと手を繋ぎながら走っていった。