第30話 緑色のかき氷
お母さんは私の山村留学を六日間延ばしてくれた。
私がこのタイミングで熱を出したこと、またお父さんの海外出張が伸びたことも重なり、母は延長に踏み切ったそうだ。
言葉に出しはしなかったが、母は私がこの里山で特別な出会いをしてしまったことを理解してくれていた。きっとかつての自分と重ね合わせて、私にこの里山での時間をプレゼントしてくれたのだと、そう思った。
お母さんの言いつけを守ってゆっくり体を休めたその翌日、私は小春ちゃんと夏の冒険を再開した。
そして再開早々、私は初めて自分から小春ちゃんにリクエストをした。
あの甘い桃と葡萄をくれたおじいさんとおばあさんにお礼を言いたい。私がそうお願いすると、小春ちゃんは胸を叩いて引き受けてくれた。
「勿論ええよ。さくらちゃんが行ったらきっと喜んでくれるわ」
夏の強い陽射しの下、私たちは大きな水筒を肩から提げ、つば広の麦わら帽子を被って出かけた。
今日もやかましいクマゼミの声を聴きつつ、分校へと続く道を逸れて、小春ちゃんと私は枝分かれした坂道を下っていく。
今日も繋いだ小さな手。
その頼り無さげな柔らかさに、私は自分がまだ里山にいるのだとあらためて実感する。
木漏れ日の細道を辿る小春ちゃんが、繋いだ手を大きく振る。
「さくらちゃん、憶えてる? 桃とピオーネくれたんは、松田のじいちゃんやねん」
「えっと、確かバーベキューの時に会った」
「そうそう、いっつも眼鏡探してるじいちゃんや。あのとき桃と葡萄獲りにおいでってゆうてたやろ。そんで見舞いにってもらいに行ってきたねん」
「そうだったんだね」
小春ちゃんに手を引かれて坂を下っていくと、傾斜した土地に一望できる葡萄畑があった。
「この辺日当たりがええとこやねん。お日様いっぱい当たらんと葡萄は美味しくならへんらしいわ」
「お日様のお陰で、あんなに甘かったんだね」
近づいていくと、葡萄棚には袋を被せた葡萄がたくさんなっていた。そして、そこで作業している見覚えのあるおじいさんに、小春ちゃんが大きく手を振った。
「じいちゃーん。松田のじいちゃーん」
おじいさんは手を止めて首に掛けてあった手拭いで顔を拭うと、こちらへ歩いてきた。
「おお、小春ちゃんと、さくらちゃんやないか。そんでもう体はええんか?」
「はいお陰様で。すっかり良くなりました」
「ほうか、よう来てくれたなあ。ささ、こっちでピオーネ収穫しい」
おじいさんは軽く手招きをして付いて来るよう促す。
「えっ? いや、もうたくさん頂いたし……」
「そう言わんと、もぎたてのやつ食べて行っておくれ。出来るだけおっきいのが美味しいから、よう選んでな」
お礼を言いに来たのに、気さくなおじいさんに勧められ、また葡萄をご馳走になることになった。小春ちゃんと一緒だと、どこへ行ってももてなされる気がする。
大きな葡萄の葉の天井のお陰で、強い陽射しの中でも快適に葡萄狩りができた。
もぎたての大きな粒のピオーネを、小春ちゃんは大きく口を開けて半分くらい含む。それから果肉を押し出して、皮の部分を指で摘まんだままチュウと吸う。
「皮と実の間の部分が甘くって美味しいんよ」
「じゃあ私も……」
私も見習って同じようにやってみる。
確かに甘い。小春ちゃんの言うとおりだった。
「うん。ホントだ」
甘い葡萄を小春ちゃんと並んで食べながら、お母さんも連れてきてあげたら良かったと、自分だけ美味しいものを食べさせてもらっていることに、私はちょっとだけ申し訳なさを感じたのだった。
葡萄畑で食べたもぎたてのピオーネは、固形のジュースのように果汁が詰まっていて、濃厚だった。
葡萄を堪能した私たちを、今度は桃の果樹園へとおじいさんは案内してくれた。
ほんのりとピンクに色づいた大きな桃を一つずつ取らせてもらい、その場で皮を剥いてかぶりついた。
果汁が滴り、半透明の汁がTシャツを少し濡らした。小春ちゃんも私と同じように、白いTシャツに汁を垂らして桃にかぶりついている。
おじいさんは、ニコニコしながら感想を聞いてきた。
「どうや? 美味しいか?」
「すごい美味しいです。でも一個食べたらお腹いっぱいになりそう」
隣で口元をベタベタにしていた小春ちゃんがニッと笑う。
「こんなんジュースと一緒や。みんなすぐにおしっこになるって」
大らかにケラケラと笑う小春ちゃんに、おじいさんもワハハと声を上げて笑う。
「ほんまや。流石小春ちゃん。ええことゆうなあ」
ちょっと下品な話題に、私はちょっと大人しくなる。
でも小春ちゃんの言うとおりかも。
私は里山が育んだ瑞々しい果実をまた一齧りして、心の中で二人に共感していたのだった。
おじいさんの農園を出たあと、また小春ちゃんと手を繋いで坂を上った。
二人の手には白いビニール袋。
中には大きな桃とピオーネがひと房入っている。
いいと遠慮したのだけれど、お土産に持って帰れとおじいちゃんに渡された。
申し訳ない心情の私とは反対に、小春ちゃんは戦利品を片手にホクホクだ。きっと小春ちゃんはあちこちでこんな感じでご馳走してもらっているに違いない。
まるで人懐っこい猫みたいだな。
それから小春ちゃんと私は、出来るだけ木陰を探しながら、分校への道を辿った。
「もう一軒は本田のばあちゃんちや。ばあちゃんの家は蜜柑農家で、夏の間はシャインマスカットを育ててるねん。分校からさらに十分ほど行ったところに家があって、その山側に葡萄畑があるんよ」
快晴の空の下。今日は分校には立ち寄らずにそのまま真っすぐ歩みを進める。
やかましい蝉の声と、照り付ける太陽。
肩から提げた水筒のお茶がどんどん減っていく。
「あちー、今日はあんまし風ないなあ」
「ホントだね……」
それにしても喉が渇く。水筒のお茶を節約しようと、持たせてもらったピオーネの粒を二人で口に含むと、何だかすごく温まっていた。
「これは、ホットグレープや」
「ほんまや」
何気なく返した私の顔を、小春ちゃんは不思議そうな顔で見つめる。
「いま、さくらちゃん『ほんまや』って言った?」
「そう言えば、言ったかも」
「へへへ、うちの言葉うつってきたんやない? その調子やで」
「へへへへ」
麦わら帽子の下で、私たちは笑いながらまた歩き出す。
誰もいない里山の道には二人の少女の姿だけ。
歩みを進める少し荒れたアスファルトの向こうに、夏の幻影のような陽炎が揺らめいていた。
もぎたてのシャインマスカットを、迎えてくれたおばあちゃんは振る舞ってくれた。
「暑かったやろ。よう来たねえ」
歳の頃は八十歳を過ぎているであろう、少し背中の曲がったおばあちゃんは、少し待っておくれと言って、奥へと引っ込んでいった。
待っている間、私と小春ちゃんは日陰になっている縁側に腰かけ、手入れされた日本庭園風の庭を眺めていた。
「なんだかいっぱいお土産もらっちゃったね」
ここへ来て白いビニール袋がまた増えた。
おばあちゃんは葡萄棚でもいだシャインマスカットと、畑でとれた水茄子をたくさん入れてくれた。
ちょっと行儀が悪いかも知れないけれど、私と小春ちゃんは頂いた袋の中身を覗き込む。
「おっきい水茄子やなあ」
丸々として張りのある立派な水茄子は相当食べ応えがありそうだ。小春ちゃんが言うには水茄子は殆ど水分らしく、浅く糠漬けにするのが一番美味しいらしい。また、そのままお醤油を垂らして食べてもいいと教えてくれた。
「うち水茄子の漬物好きやねん。なんか得したわー」
小春ちゃんの喜ぶ顔を眺めながら、私はまた今こうして知らない人の家でもてなしを受けていることに、不思議な感覚を覚えていた。
「なんだか嘘みたい」
「え? なにが?」
小春ちゃんは私がポツリと口にしたことを聞き返す。
「あの駄菓子屋の焼きそばから始まって、今もこうして里山の人たちに優しくしてもらってる。小春ちゃんと一緒だと、どこに行っても温かく迎えられる。不思議だなって」
「そう? うちは便乗させてもろうてるだけやよ」
軽く聞き流そうとする小春ちゃんに、私は小さく首を横に振った。
「私はそう思ってないよ。小春ちゃんはきっと特別なんだよ。少なくとも私の眼にはそう見える」
「もう、いややわあ、あんましおだてんといて」
日焼けした顔を赤く染めて、小春ちゃんは恥じらいを見せる。そんな小春ちゃんが可愛くって、私はついもうちょっとくすぐってみたくなってしまう。
「ね、小春ちゃん。私思うんだけど、きっと小春ちゃんはみんなのアイドルなんだよ」
その言葉は見事に小春ちゃんの心臓を撃ち抜いたようだ。茹で上がったタコのように真っ赤になった小春ちゃんは、平手で私の背をバンバン叩いた。
「もう、さくらちゃんったらなにゆうてんの。アイドルやなんて、うちそんなんちゃうから。もうほんま堪忍して」
そんな感じで舞い上がっていると、おばあちゃんがお盆にかき氷を載せて戻ってきた。
「冷たいもんの方がええと思うて、氷かいてきたんよ」
「わあー」
私と小春ちゃんは二人同時に声を上げた。
緑色のシロップのかかったかき氷には、シャインマスカットの粒がたくさん乗っていた。
「いただきまーす」
また一つ忘れられない夏の味が増えた。
そよ風に揺れる風鈴の音を聞きながら、私は時折キーンと痛くなる額を押さえつつ、その冷たい甘さをゆっくりと味わった。




