第3話 故郷
窓の外にいた女の子に気が付いた私は、しばし開け放った窓越しに、そのサクランボのヘアゴムと凝視し合った。
低い柵ごしに、全く遠慮ない視線を投げかけてくる女の子に、なんとなくこちらも目を離せなくなっていた。
先に目をそむけた方が負けといったルールがあるわけでは無いが、その女の子の眼力からは逃れられない、そんな錯覚さえ覚えてしまうほどの熱い真剣な眼差しだった。
「あら?」
ようやくお母さんが様子のおかしい私に気付いて、窓の外に目を向けた。
続いておじさんも、目から熱線が出ているような眼光鋭い女の子に気付いた。
「あれ? 小春ちゃんやないか」
開いた窓ごしにおじさんが手を振ると、女の子も手を振り返してきた。
やっと女の子の注意が逸れたことで、「じーっ」という音がしてきそうなくらいに向けられていた視線から解放された。
「なんや? 早速見に来たんか?」
「うん。今日来るって聞いてたから」
子供らしい、はつらつとした声だ。滲み出る好奇心を全く抑えようともせずに、女の子は柵に手をかけて身を乗り出す。
「前から楽しみにしとったもんな。紹介するからこっちに回っておいで」
「えっ! ええん?」
「ええよ。早うおいで」
女の子はサッと踵を返して駆けだすと、すぐに玄関先に現れた。
「やまちゃん、入ってええん?」
「ええけど、わしやなくって、この人らに挨拶してからやで」
女の子は玄関先でぺこりと頭を下げた。
「上ノ郷小学校三年、畠山小春です」
少し逆光気味だけれど、ようやく女の子の全体像を見ることが出来た。
背はあまり高くない。きっと私と同じくらい。
ショートカットの髪にさくらんぼのヘアゴムのアクセント。括った髪がぴょんと斜めに伸びて、それがこの女の子の快活さをさらに際立たせていた。
日焼けした肌に大きくて綺麗な目。
愛嬌のある小さな口元に、柔らかそうなほっぺた。
向日葵の柄のワンピースが本当によく似合っていた。
きっと私は、この夏の妖精に一瞬魅入られていたに違いない。
お母さんはパッと顔をほころばせて、そんな私の肩に手を置いた。
「さくら。同い年なんだって。良かったね」
同級生と聞いて興味が湧いたのは、当然私だけじゃない。
さくらんぼのヘアゴムの女の子、畠山小春も同じ様に食い付いてきた。
いや、どう見てもその温度差は私の比ではない。
一点集中で顔を凝視されて、なんだかいたたまれない気持ちになった。
「同級生……うちといっしょ……」
珍しいものにバッタリ出くわしたような反応だ。
遠慮ない視線に晒されて、しばらく固まっていた私の頭を、お母さんは手でポンポンとはたいた。
「なにしてるの? ちゃんとご挨拶なさい」
「あ、あの、一ノ瀬さくらです。畠山さんと同じ三年生です」
前のめりな女の子と対照的に、気後れしてしまった私の自己紹介は、ずいぶんと大人しめな感じになった。
「さくらちゃん……」
玄関先で、噛み締めるようにそう呟いた女の子を、お母さんは手招きした。
「小春ちゃん、そこじゃあなんだし、さあ中に入って」
「はい。お邪魔します」
やや畏まって、脱いだ靴を揃えてから入って来た女の子は、リビングの天井を見上げて「ほー」と関心していた。
「天井高い。うちの家と全然違う」
見上げたままの女の子に、おじさんがちょっと自慢げに解説し始めた。
「ええやろ。二階建てやない分、天井が高いんや。どうや? 泊まってみたいやろ」
「え! 泊まってええん?」
物凄い食い付きだ。期待に溢れた瞳で見つめられたおじさんは、頭を搔きながら、余計なことを言ってしまったと言わんばかりに顔をしかめた。
「いやまあ、そうゆう訳にはいかんのや。あくまでもお客さん用やからな」
「なんや。期待させといて裏切られた。うちの心を弄んで愉しんでるんやろ」
分かり易いくらいがっかりした女の子は、拗ねた様子で口を尖らせた。
「悪かったって。ええとそうや、なあ明日香ちゃん、この子、畠山って苗字やけど園枝ちゃんのとこの子なんやで」
「園枝ちゃんって、北野園枝ちゃん? ほんまに!?」
よっぽど吃驚したのか、声のトーンが一段跳ね上がった。そしてお母さんは女の子の顔を穴が開くほど見つめる。
「んー、言われてみれば昔の園枝ちゃんに似ているような気がする……」
「なんなん? お母さんのこと知ってるん?」
顔を近づけて凝視するお母さんに向かって、女の子は目を輝かせた。
「うん。いっぱい知ってるよ。そうかー、園枝ちゃんまだこっちにおったんやー」
「うち、お母さん呼んでくる!」
ワンピースの裾をひるがえさせて、女の子は玄関へと踵を返した。
「あ、ちょっと、ちょっと待って」
「すぐやから。お母さん連れてくるまでそのまま待っといて!」
慌ただしく靴を履いて飛び出して行った背中を見送って、お母さんとおじさんはお互いに苦笑し合った。
「な、園枝ちゃんの子やろ」
「ほんまや。間違いなく園枝ちゃんの子やわ」
そう呟いたお母さんは、走り出て行った女の子の背中に、懐かしい誰かを重ね合わせているようだった。
おじさんとお母さんが通じ合っているのを見ていて、私はなんだか自分だけ置いて行かれているような気分になった。
「ねえお母さん、園枝ちゃんって?」
「え? ああ、幼馴染よ。前に話したでしょ、この村でお母さん、しばらく住んでいたことがあったって」
「うん。おばあちゃんの家で住んでたって言ってた」
「園枝ちゃんはね、その時のお母さんのお友達なの。忘れられない、とても大切なお友達だった……」
お母さんは、懐かしさを噛み締めるように、少女時代の思い出を語った。
小学二年生の時、両親の離婚で、母親の実家があるこの村へ引っ越してきたこと。
当時から過疎化が進んでいて、総勢十人しかいなかったこの村の分校に、たった一人だけ同級生がいたこと。
それが真夏の太陽のような明るい女の子だったということ。
お母さんって、こんなお喋りだったかな。
思い出話の尽きない楽し気なお母さんを、私は新鮮な気持ちで眺めていた。
役場から案内してくれたおじさんも帰っていき、いつの間にか窓の外で五月蠅く鳴いていた蝉の声が変化し始めた。
ケケケケケケケ……
「ヒグラシが鳴き始めたわね」
お母さんは目を閉じて、窓の外から聴こえてくるその声に耳を傾ける。
「ヒグラシ?」
「夕方になったら鳴きだす蝉よ。涼し気な声でしょ」
「うん。ほんとだ」
独特なその鳴き声と調和するように、窓から入り込んでくる風が僅かに涼しく変化し始めた。
私も同じように目を閉じて、その涼し気な声に耳を傾ける。
本当に遠くまで来たんだ……
あらためて感慨深く里の空気感に耽っていた時に、玄関先からあの声が聴こえて来た。
「お母さん連れてきたー」
そして、向日葵のワンピースを着た夏の妖精は、お母さんが話してくれた懐かしい思い出の手を引いて再び現れた。