第29話 目覚めの朝
まだ完全に熱の下がり切っていなかった私は、小春ちゃんの持ってきてくれた甘い桃を食べ終えてからまた布団に入った。
いつの間にか陽射しが傾いて部屋の中が暗くなって来た頃、部屋の外からお母さんとあの山崎のおじさんの声がしてきた。
おじさんも私のお見舞いに来てくれたのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら、いつしか私はまた夢の続きを見ていた。
翌朝は鳥のさえずりで目を覚ました。
少し開いたカーテンから、朝の光が射し込む。
布団から身を起こして、私は自分の体調が回復していることを実感した。
この部屋には時計はないけれど、なんとなく外の明るさと自分の感覚で、いま大体六時くらいだということが分かった。
昨日小春ちゃんに、今日は私が小春ちゃんを迎えに行くと約束した。
遊びに行くことを、お母さんは許してくれるだろうか。
まだ布団をかぶって寝ているお母さんを起こさないよう、私はそっと部屋を出た。
冷たい水で顔を洗って、麦茶を取り出そうと冷蔵庫の戸を開けると、溢れ出しそうなくらいの桃と葡萄と目が合った。
昨日小春ちゃんが持ってきてくれたものだ。どれも見たことの無いくらい大粒で立派だった。
あんまり美味しそうだったので、私は色違いの葡萄の房から一粒ずつ摘みとって、味見をしてみることにした。
「こっちはピオーネで、それでこっちは、シャインマスカットって言ってたな」
大粒の葡萄はどちらもびっくりするほど甘かった。昨日の桃もそうだったが、この里山で獲れる果実はどれも嘘みたいに美味しかった。
「小春ちゃん……」
昨日玄関で泣いていた彼女の顔を思い出して、胸が苦しくなった。
私が熱を出したのは自分のせいだと、小春ちゃんは小さな胸を痛めていた。
私はずっと着っぱなしだったパジャマをワンピースに着替えて、出掛ける準備をした。
本当はちゃんとお母さんの承諾を貰わないといけないと分かっている。
でも、どうしてもすぐに行って、もう元気だよって顔を見せて安心させてあげたかった。
「お母さんごめんなさい」
玄関で靴を履いてからそう小さく言って、私はそおっと扉を開けて外に出た。
そして私は目に入ってきたその姿に、一瞬息をすることを忘れた。
朝の光をはね返す向日葵柄のワンピース。
早起きの蝉が鳴き始めた里山で、私の夏の妖精が、森林を抜けてきた陽射しに照らされて佇んでいた。
「小春ちゃん!」
「さくらちゃん!」
駆け寄ってきた小春ちゃんの腕が、私をきつく抱きしめる。
私は吃驚しつつ、その抱擁に身を任せた。
「どうして、どうしてここに?」
「気になって、なんとなく。でもさくらちゃんに会えるような気がしてたねん」
抱擁されたまま、しばらく気恥ずかしくって棒立ちになっていた私は、突然ハッとなった。
「あっ、駄目だよ、もし風邪だったら小春ちゃんにうつしちゃうかも」
「そんなん気にせんでええねん。うち、体だけは丈夫なんや。学校かって一回も休んだことないんよ。ところでもう調子はええん? 熱は下がったん?」
「うん。このとおり。小春ちゃんのお見舞いのお陰だよ」
「そっかー。良かったー」
腕を解いて、照れ笑いを浮かべる小春ちゃんの顔を見ながら私はこう思うのだ。本当に小春ちゃんの持ってきてくれた果物のお陰で、こんなに元気になったのではないだろうかと。
「桃も葡萄もびっくりするくらい美味しかった。特にあの緑色の葡萄、あんなの食べたの生まれて初めて」
「シャインマスカットやろ。あれは最近この辺でも栽培し始めた品種やねん。皮ごと食べられるから手えも汚れへんし、けっこう人気みたいやねん」
「ごめんね。いっぱいもらっちゃって」
「ええねん、ええねん。さくらちゃんが病気やって言うたら、果樹を育ててるじいちゃんばあちゃんが持ってけって、いっぱいくれてん。うちは配達しただけやから」
小春ちゃんのその優しさにまた胸が苦しくなる。
私は自分から小春ちゃんの手を取った。
「行こう。小春ちゃん」
「え? どこに行きたいん?」
「えっと、どこがいいかな……」
全く考えもなく、遊びに出かけようとしていた私は、その場で考え込んでしまう。
小春ちゃんと過ごすことの出来る時間はもう僅かしかない。その焦りから私は空回りしてしまっていた。
「さくら!」
背後から掛けられたお母さんの声に、私は飛び上がった。
振り返ると、お母さんはパジャマ姿のまま玄関扉を開いて、こちらにかなり険しい顔を向けていた。
「朝ごはんも食べないでなにしてるの!」
けっこう強く言われて尻込みするも、私はどうしても我儘を通そうとした。
「朝ごはんはちゃんと食べるから。私、小春ちゃんと遊びたい。熱も下がったみたいだし、ね、お母さん、いいでしょ」
必至でお願いしたが、お母さんは首を縦には振ってくれなかった。
「駄目よ。今日はゆっくりしてなさい」
「そんな……」
娘の体調を気遣うお母さんの気持ちは私にも分かっていた。それでも、小春ちゃんと一緒に残された時間をこの里山で過ごしたかった。
振り返ると、小春ちゃんは目の淵を赤くして、その感情をこらえていた。私も同じように涙をこらえながら下を向く。
お母さんはそんな私たちに、さっきまでとは違う優しい口調で、中に入るよう勧めた。
「さ、二人とも入って。朝ごはんにしましょう」
うつ向いて黙り込んだままの私に、お母さんは困った子だわと、ささやかな愚痴を呟いた。
「いい加減にしなさい。今日一日、家でゆっくりしてなさい。小春ちゃんと遊びたいんだろうけど、それは明日にしなさい」
「え?」
聞き間違いだと思った。
今日の午後にはここを引き払うのだと私は聞かされていたはずだ。
「明日って、どうゆうこと?」
私の質問に、お母さんは苦笑しながら答えてくれた。
「昨日山崎のおじさんに、もうしばらくここを使わせてってお願いしたのよ。そしたらおじさん、いくらでも使ってくれていいって。それで正式に滞在期間を延長しておいたのよ」
「ホント!?」
「ホンマに!?」
私と小春ちゃんは同時に素っ頓狂な声を上げた。
お母さんはニコリとして頷いた。
「ええ。お父さんが出張から帰ってくるまではこっちにいるつもりよ」
「やった! またさくらちゃんと一緒や!」
「うん。また小春ちゃんと一緒だ。やった!」
手を取り合って飛び上がって喜ぶ私たちを、お母さんは手招きする。
「朝ごはん、忘れてない?」
私と小春ちゃんは元気よく「はーい」と応えた。




