第28話 特別な甘さ
いったい今は何時なのだろうか。
いつもなら鳥のさえずりで目を覚ますはずが、今日はなんだか変だった。
カーテン越しに見える外の明るさは、まだ日の出を迎えていなさそうな薄暗さだ。
違和感を感じた私は、薄暗い部屋の中で体を起こそうとした。
「寝てなさい」
お母さんの声だった。
隣の布団からゆっくりと身を起こしたお母さんは、私の額に冷たい手を当てた。
「やっぱり熱いわね」
お母さんの言葉でようやく違和感の正体に気付いた。
ぼんやりとして重苦しいこの感覚。
明らかに熱が出ている時の感覚だった。
「お母さん、私……」
「昨日の夜、何だか辛そうだったからおかしいなって思ってたの。やっぱり熱が上がって来たみたいね」
昨日、くたくたに疲れて帰った私は、ご飯を食べてすぐに布団に入った。今思えば、あの時から少し熱っぽかったのかも知れない。
私は纏まりのつかないぼんやりとした思考で、首を回してカーテン越しの少し明るくなってきた窓を見上げる。
日が昇ってしばらくすれば、また小春ちゃんが迎えに来る。
こんなところで横になっているわけにはいかない。
「お母さん」
「どうしたの?」
「私ね、小春ちゃんとカブトムシ獲りに行く約束してるの」
「駄目よ。何言ってるの。今日はゆっくりしておきなさい」
許してくれるわけがない。それでもどうしてもあの子に会いたかった。
「明日、明日帰るんでしょ。あと一日だけしかないのに……」
「仕方ないでしょ。それにもし悪い風邪だったらどうするの。さくらだけじゃなくて、小春ちゃんにうつしてしまうかも知れないわよ」
お母さんの言うとおりだった。こんな状態で小春ちゃんに会えるわけがない。分かってはいるのだけれど、理性がまるで働かなかった。
私は自分の体の弱さに苛立ちを覚えながら、ただ布団にくるまることしか出来なかった。
「さくらちゃーん」
耳に届いた小春ちゃんの元気な声に、私はハッとして目を覚ました。
いつの間にか、あれからまた眠ってしまっていたようだった。
体を起こそうとした私を、お母さんがそっと手で押さえる。
「お母さんが出るから、さくらはそのまま休んでなさい」
「……」
玄関先でお母さんと小春ちゃんの話す声が聴こえてくる。
いつもは良くとおる小春ちゃんの声が、今日は聞こえ辛い。はっきりと聴こえてくるのはお母さんの声だけだった。
「……ごめんなさいね。そうゆうことだから今日はゆっくりさせておくわ」
ぼんやりした頭の中で二人の会話に耳を傾けていると、小さな嗚咽が聴こえて来た。
「うちの……うちのせいや。うちがさくらちゃんを引っ張り回したから……」
小さな嗚咽は、そのまま泣き声に変わった。
ぼんやりとしていた頭のままで、私は布団の中でもがくようにして身を起こした。
居ても立っても居られなくて、そのまま布団から出てふらつきながら部屋を出た。
「小春ちゃん」
「さくらちゃん……」
玄関で泣きべそをかく小春ちゃんに、私は出来るだけ元気な笑顔を作る。
「小春ちゃんのせいなんかじゃない。私、時々こんな感じで熱が出たりするんだ。それより約束してたのにごめんね」
「そんなことはええねん。それより起きてきてええん?」
「うん。今日一日ゆっくりしてたら、きっと明日は大丈夫だから。明日は私が小春ちゃんを迎えに行くから」
やっとそこまで言えた時に、私は腰砕けのようになって膝をついてしまった。
足に力が入らない。小春ちゃんはそんな私を見て、またポロポロと涙をこぼした。
「さくらちゃんごめん。本当にごめんなさい……」
小春ちゃんはただ後悔を滲ませて、それからしばらく玄関先で立ちすくんだまま泣いていた。
小春ちゃんが帰ったあと、私はまた布団に入って目を閉じた。
お母さんが開けてくれた窓から、里山の匂いのする優しい風が入り込んでくる。
深い森の静けさと、耳に心地よい鳥のさえずりが、布団から出られない私をゆっくりと癒してくれる。
いつの間にか、また私は眠りに落ちていた。
夢の中で、私はやっぱり小春ちゃんに手を引かれて里山を冒険していた。
「小春ちゃん……」
喉の渇きのせいで私は目覚めた。
部屋にお母さんはいない。
体を起こしてみると、だるさはあるものの、朝に比べればずいぶんましになっていた。
部屋を出てリビングに行くと、本を読んでいたお母さんが振り返って安心したような顔を見せた。
「少し顔色が良くなったわね」
「うん。喉乾いた」
「麦茶でいい?」
「うん」
グラスに入れてもらった冷たい麦茶を喉を鳴らして飲み乾すと、また少し頭の中がすっきりした。
お母さんは私の額に手を当てると、ホッとしたように息を吐いた。
「熱、だいぶ下がってそう。良かったね」
「ホント? 小春ちゃんと遊んでもいい?」
「まだ駄目。きっと疲れがたまってるのよ。今日はゆっくりしてなさい」
お母さんはそのまま台所に行って冷蔵庫の戸を開けた。
「もう三時よ。お腹空いたでしょ」
壁に掛けられた時計を見上げると、あと五分で三時になろうとしていた。
「朝ごはんも、お昼ご飯も食べてないでしょ。どう? 何か食べれそう」
「うん。ちょっとは」
お母さんが用意してくれていたハムとレタスを挟んだサンドイッチは、長い時間なにもお腹に入れていなかった私の食欲を大いに刺激した。
残さず食べ終わった私を見て、お母さんは冷蔵庫から大きな桃をひとつ取り出して、そのまま剥き始めた。
私は対面キッチン越しに、その見事な桃を見て思わず声を上げる。
「美味しそう」
お母さんは包丁を片手に笑顔を見せる。
「食欲出て来たみたいね。良かった」
「その桃、もらったの?」
昨日冷蔵庫を開けた時には桃は無かった。いつこんな美味しそうなものがうちに来たのだろう。
「ええ、小春ちゃんが来てね。お見舞いにって置いて行ってくれたの」
「小春ちゃんが……」
眠っていて全く気付いていなかった。小春ちゃんは私のためにもう一度足を運んでくれていたのだ。
「いつ? いつ小春ちゃんは来てくれたの?」
「お昼前に。汗びっしょりになって来てくれたわ」
お母さんは綺麗に六等分した桃の乗ったお皿を、私の前に置いた。
「桃だけじゃないのよ。大粒のピオーネと、シャインマスカットも、たくさん持ってきてくれたの。きっとあの子、この辺りの果樹園を周ってもらってきてくれたんだろうね」
「うん。きっとそうだね……」
目頭が熱くなった。炎天下の中、果実の詰まった重い袋を運んでいる小さな体を私は思い描いた。
私はほんのりと冷えた桃を口に含み、その特別な甘さを味わう。
「おいしい」
そう言葉にしたとき、テーブルの上にポトリと涙が落ちていった。




