第26話 川遊び
土曜日の朝。私はまた早起きして小春ちゃんとカブトムシを獲りに出かけた。
三匹のカブトムシを捕まえて計六匹となり、私の籠の中は早くも手狭になりつつあった。
私はクラッカーの後輩たちに、恒例の名前を付けた。
順番に並べていくと、ビスケット、プリッツ、クッキー、コーンフレーク、ポテトチップスだ。
小春ちゃんほどの選別眼を持っていない私は、既に誰が誰なのか、判別がつかなくなってしまっていた。
それでも気が向いた時に名前を呼んでやると、なんとなくだが自分のカブトムシだという実感が湧くのが、なんだか不思議な気分だった。
そして小春ちゃんは、あのレアもののノコギリクワガタに最強の名前を付けていた。
その名もダイナマイトデストロイヤー。
実際はどうだか知らないが、無敵っぽい名前だった。
朝のひと仕事を終え、ログハウスに戻ると、私は小春ちゃんと並んで朝ごはんを食べる。
何も言わずとも、カブトムシ獲りから帰ってくると、お母さんはテーブルに三人分の朝食を用意してくれていた。
そして私は、向かい合わせにパンを齧るお母さんに、二人の小さな冒険譚を今日も聞かせるのだ。
「この調子なら十匹いけそうね」
お母さんはカブトムシを集めることに殊更関心がある訳ではないだろう。
この里山で起こることを、お母さんは無条件に近いくらいに好意的に受け取っていた。
今自分たちを取り巻く環境が、娘をより良い方向へと導いてくれるのだと、そう信じているのだ。
こっちへ来てからお母さんは変わった。
すっかり肩の力が抜けて、とにかくよく笑うようになった。
東京にいた時に私が毎日顔を合わせていた彼女は、少し神経質で、よくため息をつく人だった。
でもそれは本来の姿ではなかったのだろう。私が気付けなかった本当のお母さんは、もっとおおらかで、ちょっと子供っぽい人だった。
お母さんはここへ帰ってきて何かを取り戻した。
そして私は、今この美しい里山で、乾いたスポンジに清らかな水が浸透していくように、特別なものを吸収して成長している。
私は隣でトーストを齧る小春ちゃんの顔に目を向ける。
口の端に、パンくずと苺ジャムをつけた夏の妖精。
また今日も彼女の隣にいられることが本当に嬉しかった。
「今日も一緒だね」
「そうやよ。うちらはいっつも一緒やよ」
朝の光が部屋を彩る。
今日も私の目に映る世界は、期待に満ちた鮮やかな色で彩られていた。
土曜日の今日は山村留学プログラムはお休みだ。
ゆっくり過ごすのかと思いきや、お母さんは小春ちゃんのお母さんとちょっとした約束をしていた。
分校跡の会館は土曜日と日曜日だけ、教室を使ったカフェを営業している。
小春ちゃんのお母さんは、そこを切り盛りしているメンバーの一人で、もし良かったら手伝ってみないかとお母さんに声を掛けていたのだった。
飲食店に携わるのは初めてらしく、お母さんは朝から少しそわそわしていた。
私と同じように、また少女時代の親友に手を引かれて、お母さんも冒険に足を踏み出したのだ。
そして私も冒険をする。
昨日農業体験の後にみんなで学校へ移動し、ドッジボールをした。たっぷり二時間ほど遊んでから、今日もみんなで遊ぶ約束をしていた。
夏の遊びと言えば、水辺の遊びだ。
山間のこの村は、海に行こうとすれば車で何時間もかかる。
幸いなことに、自転車で行ける距離に、子供たちがいつも遊んでいる綺麗な川があって、みんなでお弁当持参で集まろうということになった。
友達同士で川遊びというのは流石に許してもらえないかと思ったけれど、お母さんはあっさり了承してくれた。
何でもお母さんも昔よく遊んだ川らしい。流れも大したことないし、そんなに深い所もない比較的安全な場所で、しかもあのラジコンカーのお姉さんもついてくるというので、余計にあっさり話がまとまった。
当日は現地集合。分校跡の辺りにいるのは私たち三人だけなので、山を下りた後、私と小春ちゃんはお姉さんの自転車の後に続いて、全く車の通っていない広域農道を進んでゆく。
夏の匂いが充満する緩やかな下り坂にさしかかると、先頭を行くお姉さんが声を上げた。
「いくよー!」
田園風景を貫く真っ直ぐな舗装路を、縦一列に並んだ三人は、風のように走り抜けてゆく。
火照った体を冷ましていく夏風が本当に心地いい。
蝉の鳴き声が聴こえなくなり、今は風の音だけ。
前を走る小春ちゃんのTシャツが、風をはらんで大きく膨らむ。
「きもちいいー」
夏の陽射しを跳ね返す小春ちゃんの白いTシャツは、遠くにそびえ立つ入道雲と同じくらい真っ白で眩しかった。
目的の場所まで到着した時には、もうみんな水着になって清流に足を浸けていた。
「さくらちゃん、こっちこっち」
予めTシャツの下に水着を着てきたので、私も早速みんなと合流した。
女の子たちが一塊になっているところに行くと、川縁に石を積んで小さな池のようなものをみんなで作っていた。
人が入るには小さすぎる。魚を入れておく生け簀のようなものだろうか。
「これは?」
「生け簀やよ。今男子が魚捕まえに行ってるねん」
四人程集まっていた女の子の中の、五年生の松浦由美ちゃんが説明してくれた。
由実ちゃんの長い三つ編みの髪から、ぽたぽたと雫がしたたり落ちいる。よく見ると、みんなもうひと泳ぎしたような雰囲気だった。
「さくらちゃん、こっちやよ」
小春ちゃんにパッと手を掴まれ、私はあとについて行く。
冷たい清流に足を浸けると、足裏に細かい丸い石の感触。
小春ちゃんは薄青くて透明度の高い水の中へと私の手を引いて進んで行く。
「この辺で一回水に浸かろうよ」
「うん」
丁度腰までもない深さだ。透き通った流れの真ん中で、小春ちゃんは「ヨシ」と気合を入れると一気に肩まで水に浸かった。
「ひゃー、冷たい!」
小春ちゃんが高らかに悲鳴を上げる。
とても彼女のようには行かないが、私もその目の覚めるような冷たさにゆっくりと身を沈めていく。
一気に汗が引いていく。さっきまで大汗をダラダラ流して自転車をこいでいたのが嘘みたいだ。
皮膚の表面にしびれるような感覚。
こんな冷たい水が山の中に流れているなんて。
ずっと浸かっているのが耐えられない程、里山の清流は冷たく透き通っていた。
渓流の水音に蝉の声。そこに子供たちの声が響き渡る。
男の子たちは魚を追いかけ、女の子たちは沢蟹を探した。
「いた」
石を上げてみるとオレンジ色っぽい沢蟹が姿を見せた。なんだか可愛い姿をしている。
みんな見つけた沢蟹をさっき拵えていた生け簀に入れているみたいだけど、それ以前に私は蟹をどう摘まんでいいのかで悩んでいた。
「さくらちゃん、こうするんよ」
小春ちゃんは自分の捕った沢蟹を、上手く人差し指と親指で摘まんで見せてくれた。
「爪で挟まれんようにこんな感じで摘まむねん。さあ、やってみて」
おっかなびっくり真似してみると、意外と簡単に摘まめた。
「やった。ねえ小春ちゃん、この子どうするの?」
「さっきの生け簀に入れに行こうよ」
小さな生け簀を見に行くと、男の子たちが捕まえた魚が三匹ほど窮屈そうに泳いでいた。
小春ちゃんはその中に、自分の捕まえた沢蟹を入れてやる。
私も小春ちゃんに倣って、蟹を入れておいた。
「魚はいるけど、蟹はいないね」
自分たちの捕まえた蟹以外見当たらなかったので私がそう言うと、小春ちゃんは生け簀の一点を指さした。
「あそこにおるよ。ほらあそこにも。沢蟹は石の下にすぐ隠れてしまうから分かりにくいんよ」
「へえ、じゃあ、この中にもう結構いるってこと?」
「多分。みんなけっこう捕まえてる感じやし。ほら、みっちゃんもまた捕まえてきた」
六年生の三浦美千代。通称みっちゃんは両手に沢蟹を摘まんで戻ってきた。
「こはるん、さくらちゃん、そっちはどう?」
「うちは三匹。さくらちゃんは今一匹捕まえた。みっちゃんはえらいペースで捕まえてるなあ」
みっちゃんは少し自慢げに両手の沢蟹を生け簀に放してやる。
私はふと浮かんだことを、みっちゃんに訊いてみた。
「この生け簀に入れた魚と蟹はどうなるの?」
みっちゃんは腕を組んで少し考える。
「逃がしてあげるときもあれば、男子が持って帰ったりすることもあるよ」
「家に水槽があるってこと?」
「うーん、多分……」
みっちゃんは生け簀の魚を見ながらハッキリと言った。
「食べるんやないかな。魚は塩焼きで、沢蟹は素揚げで」
「こっ、これ食べられるの?」
「ちっさいけど魚はアマゴやし、沢蟹はよう揚げたら香ばしくって美味しいよ」
宝探しのようで楽しかった沢蟹捕り。みっちゃんの話を聞いたあと、私はちょっと生け簀の中の彼らが気の毒になってしまった。
本当にこんな石みたいなものが美味しいのだろうか。
私はまた見つけてしまった沢蟹を指で摘まんで、どうしても考えてしまうのだった。




