第21話 カブトムシを探して
山村留学に来てから、私の朝は自分でも驚くほど早くなった。
朝日が昇ると、隣接する森のどこかしこから野鳥のさえずりが聴こえてくる。
そんな里山の目覚めのサイクルに、まだ新参者の私も溶け込み始めていた。
「あれ?」
野鳥の声に混ざって、どこか遠くの方で鶏が鳴いている。里山の集落のどこかで飼っている家があるみたいだ。
ケッコーいう天然のアラームに耳を傾けていると、窓の外から小春ちゃんの明るい声が聴こえてきた。
「おっはよー」
朝五時前。鶏が目覚めてすぐに、私達は行動を開始した。
今日は天候も申し分ない。予定どおりカブトムシを獲りに出掛けることとなり、虫取り網と虫かごを装備した小春ちゃんは、昇りたての朝日に彩られた小径を私の手を引いて進んでいく。
「何匹取れるかなー」
期待に声を弾ませる小春ちゃんは、早朝からきっちりエンジンが掛かっている様子だ。
それに比べて、私は今もアイドリング状態で、たまに大きな欠伸をしつつ小春ちゃんに手を引かれるままに、大きな一本杉を目指した。
小春ちゃんが言うには、本来夜行性のカブトムシは、昼間はあまり人前には姿を見せないのだという。
たくさんカブトムシを獲りたければ、夜の山中に分け入って探すべきなのだろうが、そこは暗闇の気味悪さに加え、保護者の外出許可が下りないこともあって、日が昇ってすぐという極端な早朝になるわけだ。
小春ちゃんが言っていた一本杉は、一体何年そこにあるんだというくらいの立派な巨木だった。私と小春ちゃんが手を繋いで大きく手を広げたとしても、その太い幹の半分もいかないだろう。
頭上で枝葉を伸ばす巨木のその雄大さに、私は何かしら神秘的なものを感じてしまった。
「おっきいやろ。この辺りで一番長生きの杉やねん」
「何歳くらいなの?」
「さあ、ちょっと分かんないけど、おばあちゃんより長生きなんは確かやよ」
きっとこの一本杉は、この里山の景色を誰よりも長く見続けてきたのだろう。
長い年月の中で、たくさんの人たちがここを通り、この杉を見上げてきた。
その中には、かつて虫取り網を片手に里山を駆け巡った二人の少女の姿もあったのだろう。
スウッと風が抜けていき、頭上の枝葉がサラサラと音を立てた。
やあ、久しぶりだね。
今こうして手を繋いで通りがかった私たちを見て、かつて通りがかった少女たちと勘違いしてしまった木が、そう挨拶してくれたような気がした。
「こっちやよ」
一本杉の裏手には、森に分け入る細い道が続いていた。
小春ちゃんは私の手を引いて、朝露で濡れる木漏れ日の細道へと鼻歌混じりに踏み込んでいく。
その鼻歌は、どうやら一昨日一緒に観たジャイアントデッカーのオープニングみたいだ。
落ち葉を踏みしめながら小春ちゃんの後をついて行くと、大きく枝を張った立派な樹の下まで来た。
私は一目見て、小春ちゃんが目指していたクヌギの樹がこの樹であることを理解した。
「おー、おるおる」
見上げた太い幹には、光沢のある大小の昆虫たちが群らがっていた。その密集度に気味の悪さを感じたせいか、気付けば腕に鳥肌が立っていた。
「なんだか、いっぱいいるね」
「樹液にはカブトムシ以外のやつもいっぱい集まってくるんよ。あのちっさいギラギラしてるのがカナブンで、あの触覚長いのがカミキリムシ、今はおらへんけど、たまにスズメバチとかもたかってたりするねんよ」
凶暴そうな昆虫の名前が挙がって、私は思わず訊き返した。
「スズメバチ!? それって危ないやつだよね」
「あんまし刺激せんようにしてたら大丈夫やよ。それにうち、逃げ足速いし」
確かに小春ちゃんならスズメバチを巻いて逃げきれそうだ。しかし、私は間違いなく逃げ切れない自信があった。
蜂の餌食になっている自分を想像して、背筋がゾクッとなった。
「あのさ、小春ちゃん、スズメバチがいたらスルーしようよ。ね、ね」
「そんな怖がらんでもええよ。さくらちゃんはうちが守ったげるから」
小春ちゃんは手に持った網を自信満々に振って見せた。
「もし飛んで来たらこいつで一網打尽にしたげるから安心して。うちの華麗な網捌き知ってるやろ」
「たしかに凄かったけど……」
確かに小春ちゃんの網捌きは一級品だ。しかし、相手は獰猛なスズメバチだ。蜻蛉や蝶を捕獲するのとはわけが違う。
私の頭には、激怒したスズメバチに二人揃って追いかけ回されている画しか浮かんでこなかった。
「どうやら二匹おるみたいやよ。一匹はメスみたいやけど」
「メス?」
「角のないずんぐりした奴やよ。ちょっと待っててな。今、まとめて網で捕るから」
そして、小春ちゃんは樹液にたかる甲虫たちを、網の淵でこする様にして器用にまとめて捕獲した。
ワラワラと網の中で脚を動かす虫たちを、私は悪寒を感じつつ、一歩身を引いて眺める。
小春ちゃんは網の中に手を突っ込んで、カブトムシ以外の甲虫を手際よく摘まんで網から追い出していく。
「なかなか立派なやつゲットや。なあさくらちゃん、メスはどうする?」
「どうするって?」
「うちはメスはいっつも逃がしたってるねん。角ないし、あんましカッコええことないから」
小春ちゃんはメスのカブトムシを掴んで見せてくれた。
色や大きさは似通っていたが、カブトムシの特徴である角が無く、フンコロガシの様ないで立ちだった。
「なんだか、別の昆虫みたいだね」
「そうやろ。あんましメスはパッとせえへんねん」
結局メスはそのまま逃がしてやった。
小春ちゃんはオスを籠に入れてから、また森の奥へと私の手を引いていく。
「まだ行くの?」
「樹液の出てる樹があと三本ほどあるんよ。うちだけが知ってる秘密の狩場やねん」
「私を連れてったら秘密じゃなくなるよ」
「さくらちゃんは特別。他の子らには内緒やよ」
特別と言って秘密を分けてもらえたことで、なんだか私はフワフワした気分になった。
小春ちゃんはこうして時々、私に魔法をかける。
「うん。二人だけの秘密だね」
それから小春ちゃんに手を引かれて、カブトムシをもう一匹捕まえた。
小春ちゃんに網を渡され、今度は私が捕まえたが、蝉の時よりも余程簡単だった。
それから最後に立ち寄ったクヌギの樹の下で、小春ちゃんは私を振り返った。
「あそこにおるけど、メスみたいや。結局今日の収穫は二匹やったか……」
その時、樹上を指さしていた小春ちゃんの声が途切れた。
「どうしたの?」
「さくらちゃん、ちょっと珍しいのがおるみたいや。ちょっと見えにくいけど、あれは多分ノコギリクワガタや」
「ノコギリクワガタ?」
「あんまりお目にかかられへんレアもんやよ。滅茶苦茶ラッキーやわ」
小春ちゃんは上機嫌で網を伸ばしていく。
「よっしや。獲れた」
網の中に入っていたのは、赤っぽい色のいかつい顎を持った体長六センチくらいのクワガタだった。成る程、のこぎりのような長い顎を持っている。
「やった! 久々の大物や」
小春ちゃんは指でクワガタの胴体を摘まんで、興奮気味に私の眼前に突き出した。
「どう? カッコええ?」
「うん。凶暴そうなやつだね」
「挟まれたら痛いでー。ハサミの前に指を持ってったらあかんよ」
そこは心配ない。私は絶対にこの凶悪そうなやつに近づかないと決めた。
「なあ、さくらちゃん、どっちがこいつを飼うか、あとでじゃんけんして決めようよ」
「私はいい。それは小春ちゃんが飼ってあげて」
「ホンマ? うち、もろうてええん?」
私が即答すると、小春ちゃんはパッと笑顔を咲かせて、いかついクワガタを籠に入れた。
そして、上機嫌でもと来た道を引き返す。
一本杉の脇を抜け、舗装された道にようやく戻ってきた時には、早起きの蝉がもう鳴き始めていた。
「ねえ、小春ちゃん、朝ごはんまだなんでしょ」
朝早くから出掛けたので、私と同じように、小春ちゃんも朝ごはんを食べていないはずだった。
「うん。家に帰ってから食べるつもりやよ」
「うちで食べてって。お母さんもそのつもりで用意してるから」
「ほんま? じゃあ遠慮なく」
私は今日も青く晴れた空を見上げる。
「今日も一緒だね」
「うん。まだ始まったばっかりやよ」
小春ちゃんは私の方を向いて、太陽のような笑顔を見せる。
そして、きっと私も同じような笑顔を返している。
私は今日も夏の妖精の隣にいられることを、心から嬉しく思っていた。




