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第2話 夏の妖精

 とんでもなく細い急斜面の道を、脱輪の恐怖でオタオタしながら行きついた先に、私の山村留学先であるその村はあった。


「やっとついたー」


 相当なストレスを感じていたのだろう。ようやく狭路の運転から解放されたお母さんは、整備された駐車場に車を停めると、ハンドルにもたれ掛かるように、まず大きく安堵の息を吐いた。

 車から降りると、足元は真新しい白いコンクリート。

 傾斜ばかりのこの辺りで、今いる所だけが綺麗に整備されている。

 背後には雑木林の森があり、一段低くなったところには今通って来た狭い道が見降ろせた。

 駐車スペースの奥には、まだ出来立てといったログハウスが三棟建っており、おじさんはその一番奥にある一軒へと私たちを案内した。


「ちょっと待ってな」


 そしておじさんは、手にしていた鍵束をじゃらじゃらと鳴らしながら、その一つを使って木製の扉を開けた。


「ここが今日から、さくらちゃんたちが寝泊まりするところやよ」


 おじさんが開いた重そうな木製の扉の奥には、子供の心をくすぐるようなドキドキする空間があった。


「すごい……」


 高い天井。

 大きな窓から明るい陽射しが射し込んでいる。

 ここは木の匂いでいっぱいだ。

 床も壁も大きな柱も天井の梁も、全てが真新しい木でできていた。


「わあ」


 おじさんが開けてくれた大きな窓から見える景色に、私は思わず感嘆の声を上げてしまっていた。

 お母さんが私の横に並んで、同じように窓の外に目を向ける。


「本当に綺麗……やっと帰って来れた……」


 お母さんは懐かしいものに出会ったかのようにそう言うと、大きく山の空気を吸い込んだ。

 急こう配の狭路を上ってきた甲斐あって、窓からの眺望は最高だった。

 広がった視界の先には夏の陽射しに照らされた青く霞んだ山々があり、その麓には綺麗に区分けされた田畑が広がっていた。


「どう、さくら、上がって来た甲斐あったでしょう?」

「うん」


 田畑の鮮やかな緑が際立つ。あらためてこうして見ると、家が少ないのに気付かされた。

 窓から身を乗り出して視線を巡らせると、さっき立ち寄った役場を見つけることができた。

 ジオラマのような小ささだ。

 比較対象を見つけたことで、自分たちがずいぶん高いところまで上がってきたのだとあらためて実感できた。


「お母さん、あれ」

「うん、さっきまでいた役場だね」

 

 母娘の反応を窺っていたおじさんは、その反応に満足げな顔をしている。


「明日香ちゃんは懐かしいんちゃうか。分校に通う道すがら、毎日見晴らしのええとこ通ってたもんな」

「うん。なんだか思い出した。でもほんとに素敵……」

「喜んでくれて何よりや」


 そして、やや得意げにその絶景について語り始めた。


「いやー、これを建てる時に、役場で色々意見が出てな。チイとは便利がええ役場の近くにするかとか、学校の近くにするかとか、いろんな案が出たんやけどな……」


 口を動かしながらも手を動かして、おじさんは私たちの荷物を中へ運び込んでくれた。


「道も狭いし便利も悪いけど、まあ山村留学やし、ちょっと便利悪いくらいの方が楽しんでもらえるかと思ってな。景色優先でここにしたってわけや。便利悪いゆうても、まだ集落もあるし、移動スーパーも一日おきに来てくれるし、意外と便利なんよ……」


 それから寝室と予備室、トイレとお風呂場を見せてもらって、私たちはリビングのテーブルで一息ついた。

 おじさんが淹れてくれた予め冷蔵庫で冷やしてくれていた麦茶を、私とお母さんはゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。


「えらい喉、乾いとったみたいやなあ」


 お母さんは空にしたグラスをテーブルに置いて苦笑する。


「さっきの狭い急坂で緊張したんよ。ほんま寿命縮まってしもうたわ」


 二人とも本気で恐怖で縮み上がったのだが、それをおじさんは軽く笑い飛ばした。


「大丈夫やよ。今まで脱輪して谷に落ちてった車はおらんらしいし」

「私が第一号になりそうやわ」


 きっとお母さんは真面目にそう言った。

 また冗談だと受け取ったおじさんは、軽く鼻で笑ってから話題を変えた。


「扇風機あるけど、ちょっと暑かったらエアコンつけたらええ。小さいけど冷蔵庫も有るし、キッチンは今時のシステムキッチンで使い勝手もええ筈や。今日の夜は歓迎会でバーベキューする予定やから、夕方六時くらいに分校跡の会館に来てくれたらええよ」


 おじさんは四人掛けのテーブルの上に、この付近の地図を広げて見せてくれた。そして蚕のような肉付きのいい指で地図をなぞった。


「明日香ちゃんは憶えてるやろうけど、会館はここや。多少手え入れとるけど、昔あった分校がそのまんま会館になっとるんや」

「そっかー、もう学校ないんやねー」


 お母さんは地図に目を落としながら、寂しさと懐かしさを噛みしめているみたいだった。


「教室とか多少改築されて、今は村営のカフェになってるんや。意外と人気で、休みになったら遠くから来る人もおるんやで」

「そうなん? すごいやないの」


 そしておじさんは、地図に置いた太い指を少しずらしてから顔を上げた。


「明日香ちゃんの家、この辺りやったな」

「うん。今はどうなん?」

「畑になっとるよ。ばあちゃん亡くなってから、荒れ放題になっとったけど、今は明日香ちゃんの親戚の坂本のじいちゃんが管理しとるよ。畑作ってトマトとかなっとるよ」

「そうなんや。おじいちゃんは元気なん?」

「ああ、元気や。またさくらちゃんと一緒に顔出したったらええ」


 二人が知らない話題を懐かし気に語り始めたので、私はまた涼しい風がそよぐ絶景の窓から遠くの景色に目を向けた。

 胸のすくような夏のパノラマ。蝉の声を聴きながら窓の外の絶景を眺めていると、視界の隅に何やら動くものが映ったような気がした。


「あっ……」


 その時もう私の耳には、やかましく鳴いている蝉の声は入ってきていなかった。

 私の目を一瞬で惹きつけたもの。それは窓の外にある右手の柵の向こうからこちらを窺っている、サクランボのヘアゴムを付けた女の子だった。

 夏の日差しを受けて佇む、向日葵ひまわりの柄のワンピースを着た女の子。

 それはまるで、夏の妖精のように私の眼には映った。

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