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第17話 昆虫採集

 大人になると、誰しも体を動かすのが億劫になり、口ばかりを動かすようになる。

 お母さんたちは、まだまだおしゃべりしたいらしく、運動エネルギーを持て余している小春ちゃんと、彼女のエネルギーに感化されっぱなっしの私は、母親二人を置いて二人で昆虫採集に出掛けることにした。

 気を付けてねのひと言で、お母さんは私を送り出してくれた。

 きっと小春ちゃんのお陰だろう。いつの間にかお母さんも、娘の心配を過剰にしなくなった。

 そういえばお母さんが言っていた。

 ずっと昔、私と同じように、お日様のような女の子に手を引かれて冒険をしたのだと。

 きっとお母さんは、私にもそんな冒険をさせてあげたいと思っているのだ。

 そして私の前には、虫取り網を片手に、手を引いてくれる女の子がいる。

 そう。私は今、彼女と冒険をしているんだ。

 森に続く小径を進む小春ちゃんの背中を見ながら、私の胸は初体験を前に期待に高鳴っていた。


「さくらちゃん、あそこにセミがおるよ」

「どこ?」


 小春ちゃんは大きく枝を伸ばす立派な樹の下で立ち止まると、太い幹の一点を指さした。


「ほら、あの枝のすぐ下やよ。今からうちがお手本を見せるから、よう見といてな」

「うん。がんばって」


 小春ちゃんは手に持った虫取り網をそろそろと近づけてゆく。

 枝葉の隙間から射し込んでくる木漏れ日に、私は目を少し細めながら、虫取り網の動きを目で追いかける。

 気が付いていないのか、蝉はやかましく鳴き続けている。

 さらに網を近づけると、蝉の鳴き声が突然止んだ。

 だが、蝉が気付いた時には、小春ちゃんの網はパッと蝉を捕えていた。


「やった!」


 思わず声を上げた私に、小春ちゃんはフフンと鼻を鳴らす。


「まあこんなもんです。次はさくらちゃんの番やよ」

「うん、がんばる」


 ビービー口惜し気なクマゼミを籠に入れて、次の獲物を探す。

 虫取りなんてしたことが無かったが、小春ちゃんの鮮やかな網さばきをみて、私もちょっとやってやろうという気になった。


「さくらちゃん、ほらあそこにおるよ」

「え? どこ?」


 小春ちゃんは別の樹の一点を指さして私と並ぶ。


「ほら、あの幹にたかってる。さっきよりも低い所におるから取り易いよ」


 保護色なのか、木の表面と全く見分けが付かない。

 それでも根気よく目を凝らしていると、まだらに射し込む陽光のお陰で、ようやくそこに蝉がいることを視認できた。


「よーし、見ててね」


 そろそろと近づいて行って、幹の下まで来た。まだ蝉は機嫌よく鳴いている。

 そーっと、網を伸ばしていくと、ピタリと鳴き声が止んだ。

 気付かれた。私は急いで網を被せに行った。


 ビッ!


 短い悲鳴のようなものを残して、蝉は森の奥へと消えて行った。


「惜しかったねー」


 小春ちゃんが、残念でも無さそうに明るく笑う。


「逃げられちゃった」

「いっぱいおるから、そのうち捕まえられるよ。ほら、あそこにもおるよ」

「よーし、次こそ」


 それから失敗を繰り返し、五回目のトライで見事クマゼミを捕獲した。


「やった! 小春ちゃん、やったよ!」

「よし、そのまま網を下まで降ろして。うちが籠に入れたげる」


 籠に入れると、さっき小春ちゃんが捕った蝉と全く見分けがつかなくなった。


「記念すべき第一号が、どっちか分からなくなっちゃった」

「分かるよ。こっちがさくらちゃんの捕ったやつ。ほんでこっちがうちの捕ったやつ」

「なんで? なんで分かるの?」


 全く見分けがつかない。どこがどう違うのだろう。


「うちの捕ったのはビービー鳴いてるほう。さくらちゃんのは鳴いてないやろ」

「そういえば、でもなんで鳴かないの?」

「鳴くのはオスだけなんよ。メスは鳴かへんから区別できるんよ」

「へー、そうなんだね」


 知らなかった。きっと里山の子供達にはこれくらい常識なのだろう。


「よーし、じゃあ記念すべき蝉が混ざらないように、蝉はこのくらいにしておいて、他の虫を捕りに行こうよ」

「うん」


 それから、分校跡のグランドまで戻って、太陽の下、伸びた雑草をかき分けて、草を食むバッタを捕まえた。

 たくさんバッタを籠に入れ、今度は悠々と夏の空を飛ぶ蜻蛉を追いかける。

 小春ちゃんは、長い雑草の先端にとまった蜻蛉を見事な網捌きで捕まえる。私も真似してやってみたけれど、なかなか上手くいかない。


「全然上手くいかないや」

「さくらちゃん、さっきのバッタと同じような感じやと多分無理やよ。ちょっと貸してみて」


 網を渡すと、小春ちゃんは網を水平に振って見せた。


「トンボは上から網を被せるんじゃなく、こんな感じで横からスイングさせて捕るねん。シュッて音がするぐらい早く網を動かしたら、蜻蛉が逃げ出す前に捕まえられるよ」


 小春ちゃんのアドバイスどおり網を水平に素早く振ってみると、意外と簡単に蜻蛉は網の中に入った。


「やった。見て小春ちゃん」

「な、うちの言うたとおりやろ」


 網の中で羽をバタつかせていた蜻蛉を、小春ちゃんは器用に掴んで私に見せてくれた。


「綺麗な青色だね」

「シオカラトンボっていうねん。見たこと無い?」

「どうかな。蜻蛉は飛んでるけど、こんなに近くでちゃんと見たのは初めて」


 いい機会なのでよくよく観察してみると、小さな頭にアンバランスなくらいの大きな目がくっついていた。


「つぶらな瞳だね」


 その表現が可笑しかったのか、小春ちゃんはケラケラ声を立てて笑った。


「トンボはでっかい目してるやろ。人間と違って見える範囲、滅茶苦茶広いねんて」

「ふーん、ちっさいのに高性能なんだね」


 そのあと蜻蛉を何匹か捕まえたけれど、小春ちゃんはその蜻蛉たちを籠に入れずにみんな逃がしてやった。

 彼女が言うには蜻蛉は肉食で、籠の中に入っている小さなバッタを食べることもあるらしい。

 私には、そんな配慮を当たり前のようにしている小春ちゃんが、ちょっと恰好良く見えた。

 それから花壇の周りを飛んでいた蝶を二人で追いかけた。

 小春ちゃんが三匹。私が一匹。

 小春ちゃんが言うには、蝶は虫かごに入れると、すぐに羽を傷つけてしまうから、持って帰れないらしい。

 小春ちゃんは当たり前のように、捕った蝶をすぐに空へ放してやる。


「バイバーイ」


 空に舞って行く蝶に手を振って小春ちゃんは私の手を取る。


「ブランコのろーよ」


 小春ちゃんと初めて出会った日に乗ったブランコで、私は脚を大きく揺らす。


「ハハハハ」


 楽しげに笑う声が私の隣で大きくスイングする。

 もうずっと前からこうしてブランコに乗っているような感覚。

 どうしてかな、君とは出会ったばかりなのにね。


「ほらさくらちゃん、昨日行ったお稲荷さんの鳥居が見えるよ」

「え? どこ?」

「ほら、あっちあっち、あの赤いやつ」

「あ、本当だ」


 遠く向かい合うように続く山の稜線の中に、長い階段を上がってくぐった赤い鳥居が私にも見えた。


「すごい。あんなに大きかったのに、こんなにちっさいなんて」

「あっちの山まで今から行ってみる?」

「えっ? 冗談だよね」

「本気やよ。ただし声だけやけど」


 そして小春ちゃんは胸いっぱいに風を吸い込み、大きな口を開けた。


「やっほー!」


 小春ちゃんが言ったとおり、彼女の声はちゃんと届いた。そしてここまで帰って来た。


「すごい。こだまが帰って来た」

「さくらちゃんも、お稲荷さんまで行っておいでよ」

「うん!」


 大きく脚を揺らしながら、私は胸いっぱいに風を吸い込む。

 そして私の声は里山を駆け抜けていくのだ。


「やっほー!」


 こんなにおっきな声を出したのはきっと初めてだ。

 あの小学校で一緒にウサギを探したみんなにも届いているだろうか。


「さくらちゃんの声、帰って来たね」


 小春ちゃんは飛び出していきそうなくらい、大きく脚をスイングさせる。


「うん。私も聴こえた」


 逆光の光が、大きく脚を揺らす小春ちゃんの輪郭を浮き上がらせる。

 私は特別な夏の一日がゆっくりと過ぎていくのを切ない気持ちでただ見つめる。

 そして私は、叶うことのない願いを心の中で呟いた。


 この美しい里山で、あなたと一緒に同じ季節を過ごせてゆけたなら、どんなに幸せだろう。


 今こうして大きくスイングする二つのブランコは、来週の今頃には、もう二つ同時に揺れることは無いのだ。


「ハハハハ」


 明るい小春ちゃんの笑い声が茜色の美しい空に広がる。

 いつの間にか特別な存在となってしまった少女と同じブランコに揺られながら、私は今ここでしか感じることの出来ない夏の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

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