第16話 良く冷えた西瓜
会館から小春ちゃんの家に戻った時には午後二時を過ぎていた。
小春ちゃんの家の敷地に入ってすぐに、お母さんは感嘆の声を上げた。
「わあ、昔のままやわー」
私は朝に一度ここに立ち寄っていたけれど、そういえばお母さんは少女時代に何度もここへ来ていたはずだった。
お母さんは子供の様にちょっとはしゃいでる。
「園枝ちゃんと、よくその辺でケンケンパしたよね」
「やったやった。あれは流行ったなー」
「それと、あの辺りに犬小屋があったよね」
「シロの小屋やろ。ずいぶん前に死んでしもうて、あれから犬は飼ってないんよ」
「そっか、よく一緒に散歩させに行ったよね。分校のグランドで放してやったら、そのまま脱走したこともあったよね」
「明日香ちゃん、よう憶えてるなー」
お母さんたちの話は尽きることは無さそうだ。
とにかく懐かしさを噛み締めている二人の話に、私たちもしばらく付き合っていたが、待っているのに飽きたのか、お喋りに夢中の母親の背中を、小春ちゃんはトントンと掌で叩いた。
「なあ、お母さん、そろそろ家に入らへん? おばあちゃんがスイカ用意してくれてるはずなんよ」
「そうなん? じゃあみんなで食べよっか」
私たちを家に迎え入れると、小春ちゃんのお母さんは台所へと向かって行った。
「ちょっとスイカ切って来るから居間でゆっくりしといて。小春、あんたは麦茶用意して」
「うん、分かった」
当たり前なのだろうが、お母さんはこの家の勝手がよく分かっていた。
迷わず居間に入ったお母さんは、そこにあった硝子棚の前まで行って、その中身を覗き込む。
私も横に並んで、お母さんの視線の先を見上げてみた。
「トロフィー?」
「うん。メダルもあるよ。園枝ちゃん、昔たくさん賞をもらってたから」
「ふーん、何の賞なの?」
「陸上よ。園枝ちゃんはとにかく脚が速くって。県大会で入賞したこともあるの。中学になって彼女とは離れてしまったけど、お手紙に陸上部に入ったって書いてあった。それからまた色んな賞を貰ったんでしょうね」
そこへ小春ちゃんが、お盆に乗った麦茶の入ったグラスをカタカタ言わせて、居間に入ってきた。
「ありがとう小春ちゃん」
お母さんはお盆を受け取って机にグラスを並べる。
「お母さんは?」
「いまスイカ切ってる。おばあちゃんがタライに氷いっぱい入れて冷やしてくれてた」
「おばさん……おばあちゃんはお元気?」
「元気やよ。運動不足で体力はないけど、頭の方は相変わらずです」
「そう。それは良かったわ」
お母さんはそう言って、小春ちゃんが運んでくれたグラスに口をつけた。
この里山に残してきたものが、お母さんの中にはたくさんあって、それをとても大切に思っている。安堵した横顔を見て私はそんな気がしたのだった。
「小春ちゃん、おばあちゃんにご挨拶させてもらえるかしら?」
「おばあちゃん、お父さんの車でお昼から歯医者に行ってるねん。多分、もうそろそろ帰ってくるんやと思うけど」
「そう、じゃあ帰ってきたらご挨拶させてもらうわね」
約束の西瓜を用意して、出掛けてしまったようだ。私も後でお礼を言っておこう。
グラスの麦茶をグッといってから、私はさっきの硝子棚のことを小春ちゃんに訊いてみた。
「あの硝子棚に、小春ちゃんのものも入ってるの?」
「うちのはあのちっさいメダル三つだけ。あとはお母さんのやつばっかり」
「すごいね。まだ三年生なのに三つもメダルもらってるなんて」
素直に感心すると、小春ちゃんの頬がパッと赤くなった。
「かけっこで一等賞になっただけやよ。いややわあ、もう、さくらちゃん、あんまりおだてんといて」
気恥ずかしさからか、小春ちゃんは自分のグラスに入っていた麦茶を一気に全部飲み乾した。
そして台所から、声が聴こえて来た。
「スイカ切れたよー」
「あ、準備できたみたいや。そしたら行こう」
居間から廊下に出ると、右手のガラスの引き戸が大きく開け放たれていた。
そこに、スイカの乗ったお盆を手にした小春ちゃんのお母さんが立っている。
「明日香ちゃん、昔みたいにここで食べようよ」
「うん。そうだね」
陽だまりの縁側で、私たちは脚を伸ばす。
蝉の声に彩られた夏の空の下、庭にいくつか植えられた向日葵が、僅かにそよぐ風に揺れている。私と小春ちゃんは、独特の爽やかな匂いを鼻に感じながら、赤くて大きな夏の甘さを、口いっぱいに頬張って愉しむ。
そして、良く冷えた西瓜を手に、ずっと離れていた親友と並んで座るお母さんは、爽やかな甘さと一緒に、懐かしい思い出の味をゆっくりと味わっていた。
「なあ明日香ちゃん、久しぶりにやってみる?」
「うん。いいよ」
お母さんが応えると、小春ちゃんのお母さんは口をすぼめて西瓜の種を庭に向かって吹き出した。
何をするのかと吃驚した私をよそに、続いてお母さんが唾と一緒に種を飛ばした。
「あっ、うちもやる」
そして小春ちゃんも二人に続いて種を飛ばす。
唾と一緒に放物線を描いたスイカの種は、嘘みたいに遠くに飛んで行った。
「さあ、さくらの番やよ」
お母さんは、ちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべて私を促す。
「え? 私も? どうやって飛ばすのか分からないよ」
躊躇う間もなく、小春ちゃんは種飛ばしのノウハウを語り始める。
「それはうちが教えたげる。まず一個だけ口の中に種を残しとくんよ。それから……」
丁寧な説明を聞き終えて、ちょっと恥ずかしい気持ちは残るものの、私も種飛ばしに挑戦することにした。
「ガンバレ、さくらちゃん!」
小春ちゃんの大きな声が、私の背中をドンと押した。
ブッ!
唇をすぼめて種を飛ばすと、それなりに飛距離が出た。
「おー!」
二人のお母さんも、小春ちゃんも、そしてなにより私自身が、ささやかで小さな黒い種に、思わず声を上げていた。
パチパチパチ
お母さんは私に拍手をくれた。
「初めてにしてはよく飛んだよ。でもさっきの勝負は園枝ちゃんが一番やったかな」
「へへへ、ごめんね本気出してしもうて。そやけどこれは三回勝負やねん。逆転のチャンスはあと二回あるで」
小春ちゃんは拳をグッと握って、対抗心を剥き出しにする。
「今度は負けへんで」
「子供やからって容赦せえへんで」
「うちも身内やからって手え抜かへんで」
燃え上がる母娘を前に、私とお母さんは必至で笑いをこらえる。
そして小春ちゃんのお母さんの圧勝で、種飛ばしの勝負は幕を閉じた。
西瓜を食べ終え、小春ちゃんはパッと私の手を取った。
「そしたらさくらちゃん、裏の山に腐葉土取りに行こう」
「そうだった。お母さん、ちょっとクラッカーの腐葉土取って来る」
「クラッカー?」
「今朝、小春ちゃんがくれたカブトムシの名前。飼うのに西瓜と腐葉土がいるの」
「ああ、それで西瓜を用意してくれてたわけね」
約束どおり、小春ちゃんの家の裏手にある山へ行き、カブトムシ用の腐葉土を籠に入れた。
「これでよし。なあさくらちゃん、これからいっぺん戻って、網と籠を持って虫取りに行かへん?」
「虫? えっと、どんな虫かな……」
カブトムシは何とか許容範囲だったけれど、あまり虫は好きな方ではない。
「色々おるよ。バッタ、カマキリ、チョウ、そんであのやかましい蝉とか。昆虫やないけど沼の方に行ったらカエルとかもおるねん」
「カエル!? ムリムリムリ!」
「カエルいやなん? まあ生臭いし、うっかり踏んだら簡単に破裂してしまうからそれでやね。でもアマガエルは可愛いよ。ちっさいし緑色やし」
こうして私たちは、網と籠を持って虫取りに出掛けることになった。




