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第1話 山村留学

 エアコンの効いた車内から外に出ると、強い夏の陽射しと、五月蠅いくらいの蝉の声の洗礼を受けた。

 高くて青い空。

 七月の緑に覆われた山々の上に広がるその空には、余計なものなど一切なかった。

 たっぷりと湿度を含んだ夏の空気が、エアコンで冷えた体を急激に暖めていく。

 見渡す限り山ばかり。

 田園風景の県道沿いにポツンと現れた自動販売機に硬貨を入れて、お母さんが私に声を掛ける。


「何にする?」

「えーとね」


 グイと首をのけぞらせて、私は自販機のジュースをよくよく吟味する。

 甘いものは大好き。

 長いドライブももうすぐ終わり。大きな水筒の麦茶はもう殆ど飲み切った。


「これがいい」


 手を伸ばしてボタンを押そうとすると、ほんの少し指が届かない。


「ミックスジュースね。また甘いのを選んだわね」


 お母さんがボタンを押すとゴトリと音がして、取り出し口の透明な板が揺れた。

 手を突っ込んで、自販機の吐き出した冷たいペットボトルを取り出すと、ちょっとふざけたものが出て来た。


「へー、みっくちゅじゅーちゅ、だって」


 まあまあへたくそな文字のラベルを、私が声に出して読んでみると、お母さんはフッと鼻で笑って見せた。


「この辺ではミックスジュースをそう呼ぶのかしら。まあ飲んでみなさいよ」

「うん」


 お母さんも興味が湧いたのか、硬貨を入れて同じボタンを押した。

 照り付ける太陽の下、二人並んでキャップを外し、良く冷えたペットボトルに口をつける。

 冷たく甘い液体が喉を通っていく感触を愉しんでいると、目の前に広がる田んぼの緑が、風をはらんで形を変えていった。


 ス―――ッ


 それはまるで見えない生き物がそこにいて、緑の絨毯をなぞって行ったかのようだった。


「ふー、でも間違いなくミックスジュースだわ」


 お母さんには甘すぎたのだろう。微妙な顔で感想を述べた。

 そんな甘さが私には丁度いい。


「そう? 結構いけるよ」


 私はじりじりと照り付ける日射しの中、ただ美しいだけの夏の田園風景を前に、期待と不安の味をゆっくりと味わった。


 和歌山県の山間部。

 和歌山北部を東西に流れる紀ノ川を超えて紀伊山地に分け入り、入り組んだ県道をナビを頼りにひたすら車を走らせ、ようやく目的である村の役場に辿りついた。


 上ノ郷村へようこそ


 駐車場の入り口にあった大きな木製の看板に書かれたその文字が、到着した私たちを歓迎してくれた。

 役場というものが一般的にどのようなものかは知らなかったが、そこに建っていいたのはログハウス調の立派な建物だった。


「へえー」


 お母さんは車から降りるなり、四方を山に囲まれた役場を見上げて感心していた。


「さあ、行ってみましょう」


 ちょっと弾むようなお母さんの声。

 きっと私と同じように、この特別な空気感に胸を昂らせているのだろう。

 木製の取っ手に手をかけて、お母さんが重たそうな扉を引くと、涼しい空気が足元を揺らした。

 お母さんに手を引かれて扉をくぐった私は、まず天井の高さに驚かされた。

 三角屋根そのままの天井と、大きな梁。手の届かない高さにある大きな窓から瑞々しい樹々の緑が覗いていた。

 

「あのー」


 私の手を引いていたお母さんが、受付の窓口の女の人に声を掛けると、すぐにカウンターの奥にいた胡麻塩頭のおじさんが席を立った。


一ノ瀬(いちのせ)さん?」


 溌溂はつらつとしたよくとおる声でおじさんに名前を呼ばれ、お母さんもカウンター越しのおじさんに聞こえるよう、少しボリュームを上げて用件を告げる。


「はい。えっと山村留学の窓口がこちらだと聞いてまして……」


 お母さんがそう応えると、そのまま胡麻塩頭のおじさんはカウンターを回り込んで、こちらへやって来た。

 おおよそ六十歳くらいだろうか。私は勝手に頭の中で、埼玉に住んでいる祖父と比べてみる。

 近くで見ると、おじさんは頭に浮かんだ祖父に比べていくぶん若々しかった。

 目も鼻も眉も口も、みんなくっきりとした顔の人だ。おまけに輪郭までくっきりしている。

 普段から畑仕事でもしているのか、背は高くはないが、しっかりした体つきをしていて、結構日焼けしていた。それと、あとちょっと、祖父よりもお腹がポコッと出ていた。

 おじさんは、人懐こい笑顔を顔中に浮かべて、お母さんの顔をじっと見てきた。


明日香あすかちゃんやろ。久しぶりやなあ。よう戻って来たなあ」

「もしかして山崎のおじさん?」


 吃驚したような声を上げてすぐに、お母さんの顔がほころんだ。何かが込み上げてくるような、そんな表情だった。


「そうや。憶えててくれたんか。二十年ぶりくらいかいな」

「二十五年やよ。そやけどおじさん、あたま白なったねえ」


 聞きなれない方言をお母さんが喋っている。

 東京に住んでいる私には馴染みのないイントネーションと訛りだった。

 おじさんと同じ流暢さで、楽し気にスラスラと方言で話をしているお母さんの姿を、私はポカンとした顔で見上げていたに違いない。


「さくらはこっちの方言初めてよね。びっくりしたんじゃない?」


 私は無言で頷いた。意気投合している二人に、少し気後れしてしまった感じだ。

 おじさんはそんな私の視線に合わせるように、少し腰を折って屈んだ。

 太い眉と大きな目。その顔の近さに、私は戸惑いを覚えてしまう。

 田舎の人の距離感とはこうゆうものなのだろうか。


「可愛いらしい娘さんやなあ、さくらちゃんって言うんか、いま何年生やった?」


 初対面でかなりフランクに尋ねられて、また尻込みしてしまうも、無言でお母さんに自己紹介を促されてしまった。


「一ノ瀬さくらです。小学校三年生です……」


 あんまし大きな声が出ない。

 おじさんの半分もいっていない感じだ。


「上手に挨拶できたなあ、わしは山崎庄吉やまざきしょうきちいいます。ここの役場の観光課の課長です。山村留学でさくらちゃんがここにいる間、おっちゃんが二人をサポートするからよろしくな」


 ニッと笑って見せたおじさんにつられて、私も笑顔で返す。

 お母さんの昔からの知り合いみたいだし、少々言葉遣いがガサツな感じ以外は良さげな印象だった。


「さあて、早速宿泊先まで案内するか。明日香ちゃん、わしについておいで」


 久しぶりの対面を喜び合って、おじさんは役場の駐車場に停めてあった軽トラに乗り込むと、そのまま山村留学先の宿舎がある村に向かって車を発進させた。

 安全運転の軽トラのお尻に、私達の車はついて行く。

 緩いカーブの道を挟むようにして続くのどかな田園風景と、それに溶け込むかのような古い家々。

 夏の陽射しを跳ね返すあの軽トラは、私たちをどんな所へ連れて行ってくれるのだろう。

 対向二車線の道をしばらく行くと、おじさんの運転する軽トラは、どう見ても車二台は対向できそうにない狭い急こう配の道に、躊躇いもなく入って行った。


「うわ、脱輪しそう」


 緊張で力強くハンドルを握りしめたお母さんは、どんどん登っていく軽トラに置いていかれないように必死でついて行く。

 強張った表情でハンドルを握るお母さんの恐怖が伝染し、さっきまで景色を愉しんでいた私の余裕は、跡形もなく吹き飛んでしまった。

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