ウワサの噂の噂男の噂
ウワサって知ってる?
なんの噂?
ウワサの噂。
どういう意味?
だからさ。ウワサの噂よ。
意味わかんないんだけど。なんのこと?
ウワサっていう名前の、妖怪? 怪物? とにかくそういう名前の化け物の噂。
まぎらわし。なにそれ。はじめて聞いた。
じゃ、教えてあげる。
もったいぶっちゃって。面白いオチに期待。
おいおい。落語や小噺じゃあるまいし、噂話にオチを求めるんじゃありません。
はいはい。
はいは一回。
あんたはわたしの母親か。
あはは。
あはは。
……ようし話すよ。次号の学級新聞に載せる予定のネタだから率直な感想をお願いね。人気低迷を覆す一発逆転を狙ってるんだから。
えー、責任重大だ。
そう。学級新聞の未来は君にかかってる、ってね。それでは、オホン……ウワサに関する噂話。誰が名付けたか知らないが、ウワサと呼ばれる怪異がいる。名は体を表すというけれど、その名の通り、噂に関する噂の怪異。ウワサは噂を蔓延させる。どんな噂というならば、とある男の噂也。男は捨て子。生来、片目片足が不自由であった。元服を迎えても背丈のほどは四尺二寸という小男。鼻っ柱に横一直線の刀傷があり、両の眼の下までを横断している。そこを境にして、パカリと頭蓋が開けられそうな具合の深い傷。男は極悪非道、傍若無人な性質であった。盗み騙りは朝飯前。人攫いに人殺し。姦通、暴力、なんでもござれ。ウワサは語る。あらゆる男の悪事をつまびらかにして、そして、いずこかへと去っていく……
……
……
……終わり?
終わり。どうだった。
講釈師みたい。
あたしの語りはどうでもよろしい。
ウワサ、噂って連呼されるから、聞いててわけわかんなくなった。難しい。
記事になって文字で読めば大丈夫なはずだよ。怪異の名前は判別しやすいようにカタカナでウワサって書く予定だから……それより他に感想はないのかね。
なんか、あんまり怖くないっていうか、パンチが弱い感じがする。ただの噂好きの人って感じ。喋ってるだけだし。それで喋ったらどっかに行くんでしょ。ウワサってやつより、その話の内容の悪人のほうがよっぽど怖くない?
うーん……そっかあ……紙面の都合でいろいろ端折ってるから、内容を見直して詳細を足したほうがいいのかな……あっ、そうだ。絵もあるのよ。記事の横に載せるつもり。ちょっとこれも見て。
わざわざ描いたの?
漫研の子にお願いしたんだ。これがウワサの姿。
……ふうん。なんか顔がぐちゃぐちゃな以外は普通の人だね。無理して若ぶってる大人って感じの服のセンス。繁華街の裏路地なんかにいそう。目立つけど、印象に残らないっていうか。
ぐちゃぐちゃなのは、ウワサの顔がいつも違うっていう表現。男だったり、女だったり、老人だったり、子供だったり、いろんな姿を持ってるんだ。それで、気づいたときにはそばにいて、おもむろにさっき言ったみたいな極悪人のことを語る。
その極悪人って誰なんだろう。
フフン。いい質問だね。うちの学校の前にある川を上っていってさ、商店街を抜けて、橋を渡ったところに鼻塚があるでしょ。
お城があった山のふもとの?
うん。鼻塚が建てられてるとこに昔、村があって、そこに住んでたんだって。
そうなんだ。いつの話?
大昔。たぶん戦国時代とか。
だったらこのウワサの絵をもっと浮世絵っぽくしたらどうだろ。
浮世絵が成立したのは江戸時代だよ。
戦国時代の絵ってなに。
なにって言われても……よく知らないけど狩野派とか? 襖絵とか屏風絵の。
じゃあそれ。漫研じゃなく美術部に頼みなよ。もっと”お化け!”って感じにさ。おどろおどろしい雰囲気があったほうがよくない?
あのね。描いてくれた子は自分の絵が学級新聞に載るって喜んでくれてたのよ。それに、あたしはこの絵が気に入ってるんだから。記事を手に取ってもらうにはインパクトだけじゃなくポップさも必要。とっつきやすさが重要なの。
そんなもんか。
そんなもんです。
……で、極悪人がそこに住んでたって話はウワサが言ってたの?
違う。数学の先生。
なんで?
新聞部の顧問だもん。それに郷土史を調べてるんだ。すごい情熱なんだよ。ノートいっぱいにメモ書いててさ。職員室で見せてもらったことあるけど、やばいよ。
なのに歴史じゃなくて数学の先生してるんだ。
趣味と実益は別ってことでしょ。
それって数学の先生っぽいね。
なにそれ。
鼻塚っていえばさ。
ん?
ちょっと前に雷で塚が欠けたとか、割れたとかで、騒ぎになってなかった?
そうそう。そうなんだよ。あれがあってからウワサの噂が急に広まったみたいなんだよね。なんだか臭うよね。陰謀の香りだよ。あたしまだ、雷が落ちてから鼻塚がどうなってるか自分の目で確認してなくってさ。今日の放課後に見に行こうと思ってるんだ。一緒に行かない?
ええー。今日はだめ。明日のテストの予習しておきたいし。
まーじめ。えーらい。じゃあひとりで行くよ。
ごめんね。
ぜんぜんいーよ。あっ。先生来ちゃった。昼休み終わるの早すぎ。じゃまたね。
「……またそちらのお家にお邪魔してるんじゃないかって」
「えっと……」
言い淀んでスマホを見る。友達の親と喋るのは、見知らぬ大人と会話するよりも緊張してしまう。手に妙な汗をかいてきたのを袖で拭って、家の固定電話の受話器を首と肩のあいだに挟むと、スマホの画面を素早く操作。彼女からの連絡はなし。壁にぼんやりと浮かびあがっている自分の影をしばらく見つめて、
「……そうです。今日は泊まっていくって」
「やっぱり」溜息まじりのざらついた声「電話代わってもらえますか?」
「ちょっとコンビニに出かけてて、まだかかると思うんですけど」
「じゃあ、あとで家に連絡するように伝えておいてください」
「はい。わかりました」
「お願いしますね。親としてはきちんと連絡がないと心配なんです」
「そうですよね」反射的に同意したものの、我ながらあまりに等閑な言い方だったので、それを隠すために「わかります」と付け足した。けれど、軽薄な感じが余計に強調されてしまう。
首を竦めて耳を澄ませていると、受話器の向こうから紙を擦るような音。ややあって、笑い声だと気がつく。すこしやわらかく聞こえる調子で、
「いつもあの子と遊んでくれてありがとう。今度、うちに遊びにいらっしゃい。ケーキを用意しておくから」
「ホントですか」
声が弾んでしまう。ケーキと聞いてテンションが上がった自分の現金さが恥ずかしい。顔が見えているわけじゃないのに、言い訳するみたいに口をすぼめて、
「楽しみにしてます」
「ええ。あの子に伝えておいてね。お願い」
「はい」
「それじゃあ失礼します」
「あっ、はい。失礼しまーす」
受話器には死にかけの心電図みたいな音が取り残される。
スマホをもう一度確認。やっぱりなんの連絡もない。けれど、こういうときの彼女は大抵、取材だなんだのと張り切って、どこかに張り込んでいるに決まってる。深夜の幽霊トンネルだとか、呪われた廃旅館だとか、有名な自殺スポットとか。徹夜もへっちゃら。羨ましいぐらいに元気でパワフル。家に帰れないときは、あとで怒られないように、わたしに口裏合わせを頼む。深夜にふらっとうちにきて、実際に泊まっていくことも何度かあった。今日は鼻塚に行くって言ってたっけ。わたしにアリバイ作りの事前交渉をするのも忘れるぐらいに根を詰めて、調査に熱中しているのだろう。
将来はさぞかし有能な熱血記者になるのだろうか。でも、案外ああいうタイプは学生のうちに燃え尽きてしまって、就職はせずに、かわいいお嫁さんの座に落ち着いてしまうかもしれない。幼馴染の先輩といい感じらしいと、サッカー部のマネージャーの子が言っていた。
電話をかけてみるがつながらない。三十分毎に電話をするのを二時間やってみて諦める。もう日が変わりそうだ。すこし心配になってくる。家から電話がかかってきたことを一応メールで知らせておいたけれど返信はなし。
「……大丈夫かな」
やろうと思っていたテスト勉強が全然手についてない。いっそ鼻塚にまで見に行こうかとも考えたけれど、本当に鼻塚にいるかどうかはわからないし、それになにより夜にあんなところに行くのは怖い。たくさんの人の、ちょん切られた鼻が地面の下に埋まっているのだ。合戦で死んだ人たち。勇ましい侍たちの鼻。無骨に角ばってて、ちょっと陽に焼けたりなんかしちゃって、脂ぎってて、でもいまは土色に乾ききってて、誰かが噛んだクタクタのスルメみたいな鼻がうじゃうじゃと……
想像するだけで眉間の奥あたりが痒くなってくる。
彼女の影響で学校の勉強にはなんの役にも立たない変なことにばかり詳しくなってしまった。
昔の合戦なんかでは、倒した相手の首を切って持ち帰ったそうだ。そうしないと誰が誰を倒したかがわからなかったらしい。自分が強敵を打ち倒した証拠。手柄を立てたご褒美を貰うための首実検というやつ。ゲームの主人公だったら倒したって言えば誰も疑わないけど、現実は違う。いまだったらスマホで写真を撮ればいいだろうか。でも、写真加工って手もあるし、やっぱり実物が必要かな。大将みたいな重要人物以外の雑魚兵士を倒した場合は、首まるごとは必要なくって、手軽な耳だけを切って、倒した敵の数をかぞえたのだとか。切るのは耳じゃなく鼻の場合もあった。このあたりでは鼻だったのだろう。そういう鼻を供養する鼻塚があるんだから。
なんだか厭な気持ちがモヤモヤと湧きあがってきた。
寝よう。
寝てしまおう。
寝る前に、台所に行って水を飲む。喉がむずむずする。乾燥しているのかもしれない。二杯目を飲んで軽く咳払い。風邪をひいたかな。額に手を当てるとすこし熱っぽい気もする。氷を飲んでしまったときみたいに、喉の奥になにかがつっかえているような感覚。
部屋に戻ってベッドに横になる。頭から布団をかぶって考える。明日の朝一番に彼女に電話をしよう。あのお母さん、心配してるだろうな。申し訳ない気分。なんでわたしがこんな気分にならないといけないんだ。腹が立ってきた。罰としてなにか奢らせよう。そうだ。商店街の隅にできた新しいカフェ。あそこに今度一緒に行こう。それでフルーツたっぷりのパフェを……
怖ろしい奴じゃ。仏を仏と思うとらん。社を土足で踏み荒らして、供え物を食い散らかしておった。しかし、儂らのなんと無力なことか。見て見ぬふりをせにゃならん。奴を誡めることなんぞできやせん。目が合うただけでも殺されちまうんだからねえ。奴が腰に提げとる刀はな……妖刀だ。血を吸わせるために何十、何百と殺しおった。戦場でねえ。敵も味方も関係なしに殺して、殺して、殺しまくって、奴以外はだあれも生きてはおらんかった。戦で負けたのは奴の所為じゃ。奴だけが戻ってきたのがその証拠じゃ。奴がいなけりゃ、今頃村はこんな有様になっちゃあいなかったはず。新しい城主様は儂らのことを疑うとる。あんな奴が村の一員じゃあかくもありなん。口惜しや。口惜しや。御助け。御助け。奴は鬼子。忌まわしい。近づいてはならん。触れてはならん。追いやらなけりゃ。遠くへ、遠くへ……
変な夢を見た。彼女が夢に出てきた。十年も二十年も歳を取ったような顔をしていた。けれど、わたしにはそれが彼女だってはっきりとわかった。ひどく嗄れた声で、口惜しい、だとか、忌まわしい、なんて言葉を何度も何度も繰り返していた。
結局、連絡は取れないまま。
わたしが寝ているあいだに、彼女のお母さんからまた電話があった。うちのママが出て、それで彼女が泊まってるって嘘をついたのがバレちゃった。目覚めてすぐに大目玉。でも向こうはわたしの噓なんて、最初っから見破っていたようだ。だから寝ずに彼女を捜していたんだとか。それを聞いて、すごく心苦しくなった。反省しなさい、と言われて、わたしは本当に反省していたのだけれど、ママからしたらまだまだだったらしい。ママの口は家を出るまでガミガミとお説教を垂れ流し続けていた。
落ち込んだ気分での通学路。乾いた風が吹くと、溝に落ちた小石がからからと鳴る。おおきな咳が出て、鼻の奥がツンと痛くなった。いつも彼女と合流していた三叉路は今日に限って車一台見当たらず、わたしはひとりぼっちだった。しばらく歩くと、乳母車にお人形を乗せたお婆さんがけたたましい車輪の音と共に道の向こうからやってきて、わたしには目もくれず、足早に通り過ぎていった。
教室に到着。座っていても、お尻が浮いているような感覚。
彼女の席は空っぽ。授業が始まっても、終わっても。
スマホを確認しすぎて先生に怒られた。
彼女のいない教室はやけに静かで、広々としていて、肌寒い。
テストの結果はズタボロ。
無駄だとわかっていても、気づけば空席に視線が吸い寄せられる。彼女の席は無言のまま。わたしは批難されているように感じてしまって、行動を起こさずにはいられなかった。
帰宅しようとする同級生の波をかき分けて、真っ先に教室を出る。学校の前を流れている川を辿って商店街へ。そこで一旦川が途切れる。ステンドグラスみたいなアーケードから差し込む光に照らされながら、店を覗くまばらな人々。アーケードの出口の手前に新品のにおいがするカフェ。その前を横切ると、また川が現れた。橋を探す。橋を渡った先に鼻塚があるはず。
商店街から離れると、川を挟んだ向かい側がもう山の風景になる。大量に茂っているナツボウズの落ち葉で窒息しそうになっている川はどんどん痩せ細っていき、そのまま消えてしまうんじゃないかと思いはじめたころ、やっと橋を見つけた。けれど、橋というにはあまりにも簡素。欄干はなく、平たい岩を横倒しにしただけ。幅はひとりが通るのが限界の狭さで、長さは三歩半ほど。踏むと表面はでこぼこしていて、自転車なんかじゃ絶対に通れなさそうだ。
転ばないように足元に視線を落としていると、前から人がやってきていた。影に気がついて、
「ごめんなさい」
横に避けようとしたが、そこは川。たたらを踏んで立ち往生。視線を上げると、見知った顔。
「あっ。先輩」
「よう」
先輩は片手を中途半端に上げると、わたしの顔をじろじろと見た。わたしは後ろに下がって道を譲る。すれ違った先輩が歩きながら話しかけてきたので、橋を渡ろうとしていた足をしかたなく曲げて、がっしりした背中についていくことにした。
傾いた太陽が先輩の体を日時計にして長く暗い影を道路に投げかける。先輩の影は電柱の影と混じり合って、どれがどれだかわからなくなった。
「お前も鼻塚に行くつもりだったのか」
「先輩は見に行ってたんですか」
「うん」
日焼けした顎がぎゅっと引かれる。長身で手も足も長い。彼女の幼馴染で、恋人でもあるらしい。わたしはあまり親しくはない。彼女と先輩が一緒にいるときに何度か話をしたことがある程度。彼女は恋愛話を嫌っていたし、わたしも興味がなかったから、彼女から先輩のことを聞いたりすることもなかった。
授業が終わってから真っ先にここまできたのに、先輩はどうやって先回りしたんだろう。やっぱりサッカー部だから足が速いのかな。全力疾走で鼻塚を見に行っていたのかもしれない。そんなことを考えていると、わたしの疑問にまで先輩は先回りしてきて、
「今日は学校休んだ。あいつを捜してたんだけど。どこにもいない」
幼馴染としても彼氏としても当然心配だろう。わたしは茜が迫りつつある空気に声を掠れさせながら、
「……鼻塚に行くっていうのは聞いてたんですか?」
「そっちこそ、いつ聞いたんだ」
つっけんどんな態度に息が詰まる。いくらサッカー部のエースで人気があるからといって、わたしならこんな不愛想なのとは付き合わない。
「昨日、ウワサについて話してて、そうしたら鼻塚を調べるって……」
「ウワサって名前の化け物だろ」先輩は肩越しにふり返って「おれも調べるのを手伝わされてたんだ。タマを追いかけるのもネタを追いかけるのも同じだろうって」
彼女なら言いそうだ。案外尻に敷かれているんだろうか。
歩いていると商店街にまで戻ってきてしまった。先輩は新しくできたカフェに入ろうとしている。ちょっぴり躊躇したけれど、まだもうすこし話を聞きたいのでついていく。外に置かれている看板を横目で見てお値段を確認。いまの財布の中身だとぎりぎり。
カフェのなかは買い物帰りと思われる客でいっぱいだった。カフェというより、ファミレスみたいな雰囲気。甘い香りだけじゃなくて、パスタやドリアみたいな軽食の香り。それからコーヒーの苦い香り。四人掛けのテーブルが、わたしの腰よりわずかに上ぐらいの高さの仕切り壁で区切られている。仕切り壁の横の線が、腰かけている人の首を切り取って、歓談する表情だけをひどく陽気に浮かびあがらせていた。
窓際の席について、先輩はコーヒー、わたしはカフェオレを注文。ついでにパンケーキを頼む先輩をよほど物欲しそうに見てしまっていたのか、先輩は「おれが全部奢るよ」と、わたしの分も頼んでくれた。
いいとこあるじゃん、なんて思っていたら、
「鼻」
「鼻?」
「形がいい」
「わたしの鼻ですか?」
「うん。目と目のあいだに鼻骨があるだろ」
先輩が手をやるのを真似して触ってみる。皮膚の下に固い骨の感触。
「その下の鼻の山のなかには軟骨がふたつあるんだ。真ん中あたりにひとつ、先っぽのほうは鼻翼軟骨って言って、鼻の孔に沿って翼みたいに広がった形をしてる。鼻翼っていうのは、小鼻のこと。鼻の両側のふくらみ。こういう骨で鼻の形が決まってくる。鼻の形がいいってことは、骨の形がいいってことだ」
指先でなぞる。わたしの鼻の稜線はスキーのジャンプ台みたいになっていて、先っぽがツンと出っ張っている。鼻を褒めるられるなんてはじめての経験。喜んでいいのかもわからない。思わず苦笑めいた表情になって、そのまま笑ってしまえばよかったのだが、笑うタイミングを逃して固まった。
飲み物が運ばれてきた。パンケーキはまだ。
「詳しいんですね」
「顔面にボールを食らって骨折したことがあるから」
そう言われて見たら、先輩の鼻筋はほんのすこし曲がっているような気がした。横に分厚くて、鷲鼻気味に真ん中が出っ張った鼻。その鼻の頭が傾いで、右の鼻孔だけ戸締りを忘れて半開きになっている感じ。鼻と上唇のあいだには産毛みたいなヒゲ。剃っているみたいだけれど、肌が弱いのか、ほんのりと赤らんでいる。
無遠慮な視線を向けていたら、見返されて慌てて逸らす。クリーム色をしたカフェオレのつややかな水面を逃げ場にして覗き込んでいると、先輩はさっきとまったく変わらない声の調子で、
「鼻を切るときには口がついてくることもあったみたいだ」
「えっ?」
「死体の鼻を指でつまんで、そこに上から刀の刃を当てるだろ。鼻骨に沿わせて斜めに切る。そうすると、滑った刃が鼻を通り過ぎて唇に当たって、口ごと削いでしまうんだ」
なんの話か一瞬わからなかったが、遅れて鼻塚のことだと気がついた。わたしが黙りこくっていると、先輩は続ける。
「そういう下手くそが多かったからなのかな。昔、あのあたりにあったっていう村は口捨村って名前らしい。”こうしゃ”って言っても学校の校舎じゃないぞ。口を捨てるって書いて口捨。先生の話だと、もっとずっとずっと昔には別の字があてられていて、巧みな者って漢字で巧者村だったそうだ。鍛冶職人なんかがたくさんいたって」
「なんで、急に、そんな話?」
つっかえながら疑問を差し挟むと、
「ウワサの噂の先は聞いた?」
パンケーキが運ばれてきた。甘い香りで彩られたお皿がテーブルに並べられているあいだ、わたしと先輩は口を閉じる。薄く焼かれたパンケーキが積み上げられたてっぺんには四角いバターとたっぷりのシロップ。
無言で先輩はナイフを手に取った。わたしもパンケーキにナイフを入れるが、さっきの話のせいで、どろりとしたバターが鼻、切れ目が口に見えてくる。人の顔からひっぺがされた鼻と口。思い切って十字に切れ目を入れてやると、余計に陰惨。フォークで一切れ食べてみるが、あんまり味がしなかった。カフェオレで無理やり流し込むと、咳がこみあげてきて、ぐっと息を止めて堪える。ややあってゆっくりと息を吐いて、
「わたしが聞いたのは悪い男の人の……」
先輩の質問の答えを遅れて返そうとしたら、
「それはいい」
手のひらを掲げて止められる。
「喋らなくていい。もうわかった」
あまりにも勝手な言いぐさに、そっちが聞いたくせに、と思いながら、眉をひそめて口をとがらせる。
先輩はおおきなパンケーキの切れ端を、ろくに噛みもせずに呑みこむと、
「ウワサの噂にはいろんな種類がある。例えば、口捨村はいい村、だなんてのも」
「いい村?」
「黙って聞いてて」
口を利きたくなくなってきた。わたしはムッとして首を引っ込める。すると先輩は突然、
「名主はいい奴。組頭はいい奴。百姓代もいい奴。鍛冶師もみーんないい奴。男も女も老人も子供も。裕福で人がよくって、豊かな暮らしをしている……」
口捨村というところの宣伝大使でもあるかのように、村の長所を並べ立てる。彼女に聞いた噂とはまるで違って、悪い男の人の話は一言だって出てこない。
さんざん喋った先輩は、枯れた喉をパンケーキのバターで湿らせて一息つくと、重い荷物を下ろしたみたいな顔をして、
「一応、お前はウワサの話をするなよ」
わたしが首を傾げると、険しい瞳のあいだに深い皺が刻まれる。
「ウワサの噂をすると、ウワサになるって噂があるんだ」
「それって……どういうことですか?」
「わからない、から試してみようと思ってる。もしかしたら、あいつ、ウワサになってるのかもしれない」
先輩の言うあいつとは彼女のこと。荒唐無稽な話に思えたが、先輩があまりにも真剣な態度だったので、わたしは開きかけた口を閉じて、視線を落とすと、また口を開いて、もくもくとパンケーキを片付けることだけに専念しはじめた。先輩はもう食べ終わって、窓から表の商店街を眺めている。そろそろ夕暮れ。お惣菜を買い歩く主婦に混ざって、仕事帰りのスーツ姿がちらほらと行き交いはじめている。
ウワサになるというのはどういう意味だろう。妖怪になるってこと? それとも噂として語られるってこと? 妖怪になったから彼女は消えた?
そもそもウワサってなんなの?
見せてもらった絵を思い出す。商店街の歩行者や、カフェのなかでの雑談に紛れていてもおかしくはない普通っぽさ。けれど顔がぐちゃぐちゃ。いくつもの姿を持ってるって聞いた。男の人。女の人。老人。子供。それが噂話をするという怪異。
彼女はどこかでウワサとして噂話をしているのだろうか。なんの噂を? やっぱり、あの悪人の噂? でも、先輩はそうじゃない噂もあるって言ってた。口捨村はいい村。いい人が住むいい村だって。
やっぱり無茶がある。おかしい。そんなこと。あるはずない。彼女はきっと長丁場の取材をしているだけ。連絡できないのはスマホを壊しちゃったんだ。迷子になっているのかも。もしかして、山に入ったのかな。鼻塚は山のふもとにある。山の上には城があるらしい。正確には城の跡。観光地でもなんでもなくって、誰も訪れたりはしない。
「山に入ったのかも」
「捜した。名前を呼びながら一周してきた」
「でも、昨日の今日だし、ちょっと遠出してるだけじゃないですか。あの子そういうところあるし。放浪癖っていうか」
「だとしても、絶対おれには連絡する」
ずいぶんな自信だ。わたしは彼女の親友だって胸を張って言えるけど、そこまでの自信はない。なんだか哀しくなって、目を伏せてしまう。先輩は今日、学校を休んで、朝からずっと彼女を捜していたのだ。それでもまったく見つからず、疲れ切った挙句、やぶれかぶれになって、ウワサと彼女の失踪を結びつけたのだろう。
消沈した空気のまま、話すこともなくなる。パンケーキは最後の一枚。お皿の上のシロップを全部吸い取ってぶよぶよになっている。泣き腫らした顔みたい。ナイフの先でつついてもてあそんでいると、先輩が伝票を手に取って席を立った。
「出よう」
わたしは先輩とパンケーキを見比べる。もう食べるつもりはなかったけど、未練がましくフォークを握って、やっぱりお皿の端に置く。カチンと抗議めいた甲高い音が鳴ったが、店員も、他のお客さんもふり向いたりはしなかった。
カップの底で冷え切っていたカフェオレを飲み干して鞄を手に取る。先輩が横を通り過ぎるのを待ってから腰を浮かせようとして、ふと見上げると、先輩の頭越しに向こう側の席が見えた。仕切り壁に切り取られた、くたびれたおじさんの顔がふたつ。目を見開いて真剣な表情。こんなところで仕事の取引かな。それとも上司の愚痴合戦だったりして。
……あれ? 先輩って、こんなに背が低かったっけ?
瞬きすると、おじさんたちの顔は先輩の体で隠れていた。見間違いだった? それとも、先輩が背中を丸めていたんだろうか。けれど、立ち上がってあらためて眺める先輩の背中は、スポーツマンらしくしゃっきりとしている。
なんだったんだろう。窓から射し込む夕陽がとってもまぶしいから、光の加減で目がくらんで、見てもいないものを見た気になったのかもしれない。いま、すごく疲れているから、そんなことがあっても不思議じゃない。
お会計は宣言通り、先輩が全部奢ってくれた。お礼を言って店を出る。
夕暮れが、空にどろどろと覆いかぶさっている。鼻塚に行こうと思っていたけれど、今日のところはもう帰ろう。先輩が見てきたって言うのなら、彼女はいなかったのだろうし。
ふたりで並んで商店街の外へ。
「じゃあな」
先輩はまだ彼女を捜す気らしい。住宅街とは反対方向へと足を向けた。ちらりと見えた横顔は、ジグソーパズルで一個だけ余っているピースに似ていた。パズルはすでに完成していて、行き場をなくしたピース……自分の形がわからなくなって、知ってる誰かを求めている……
「……あのっ!」
「なんだ?」
ふり向いた顔。夕陽を浴びて、全面が茜に染まっている。表情はわからない。わかるのは輪郭だけ。先輩は俯いて、木の節みたいに出っ張った喉仏を軽く触ると、くぐもった咳払い。
思わず目をつぶってしまう。瞼の裏に、口紅を塗りたくったみたいな顔の影が張りついている。
「……さようなら」
「うん。バイバイ」
目を開けると、後ろ手を振って去っていく先輩の背中。角を曲がって、見えなくなった。夕陽で焼けついた道路。鳴き声のない鴉の影。どこかの家の夕飯の香り。
気のせいだ。気のせいに決まってる。見間違いに決まっている。
息をするのも忘れて走り出す。
ふり払おうとしても、ふり払えない……先輩の鼻。
鼻の上に横向きの傷があったのが見えた。まるで刀で切られたみたいな深い傷。
激しい咳がこみあげてきた。空咳が止まらない。両手で口を押さえていないと吐きそうだ。吐きそうなのは胃のなかのものじゃない。言葉。言葉が喉奥からこぼれそうになっている。先輩にだめだと言われたからだろうか。自分がそんな天邪鬼だとは思ってなかった。喋るなと言われると喋りたくなるだなんて。ウワサの噂を。
深呼吸。はらわたが、うねうねする感じ。言葉は頭のなから出てくるものだと思っていたけれど、もしかして、はらわたから出てくるのだろうか。まるで、回虫みたいに、そこで成長をして……
ふたりっきりで仲良さそうにパンケーキ食べてたんだって。
えっ!? つまり……付き合ってるってこと?
ってこと。たぶんね。商店街の奥に新しくできたカフェあるじゃん。そこでコソコソ顔寄せ合ってなんか楽しそうに話してたらしいよ。
でも先輩ってたしかあの子と付き合ってるんじゃないの。ほら。新聞部の。うるさい子。幼馴染だって聞いたけど。幼馴染バリアーで近づけないから、目の敵にしてる子がいっぱいいるらしいって。
浮気だよ。浮気。浮気に決まってるじゃん。でさあ。相手の子って、その新聞部の子の親友なんだって。
キャア。略奪愛だ。ねえ、どっちから誘ったのかな。
やっぱり女の子のほうでしょ。先輩モテるし。新聞部の子、昨日学校休んでるらしいんだよね。浮気を知ったからじゃないかって。
ショックだよねえ。親友と彼氏に同時に裏切られたんだもん。それで堂々デートするなんて、ちょっと神経疑っちゃうな。
でもさ。せっかくの新聞部なんだから、落ち込むよりスクープにしちゃえばいいのにね。”親友に彼を寝取られました!”みたいな。
いいね。絶対読む読む……そういえば最近の学級新聞ってなに書いてんだろ。
さあ。全然興味ないし。誰が読んでるんだろうねアレ。
読んでるって話、まったく聞いたことないけど。
そういえば漫研の子が挿絵を頼まれたって。
そんなのやらされるんだ。かわいそー。
余った新聞って捨てるのかな。
ええっ。もったいな。
紙の無駄だよね。
「メールでも待ってるの?」
「へっ?」
あんまり喋ったことのないクラスメートから話しかけられて、素っ頓狂な声をあげてしまった。それまでじっと見つめていたスマホの画面から目を上げると、ずっと昔から友達だったかのような親しげな微笑み。わたしの机にしなだれかかると、化粧の匂いがする顔を寄せてきて、耳打ちするみたいに、
「サッカー部の先輩?」
「えっ、と、そう、かな」
しどろもどろになる。昨日、商店街を出るときに連絡先を交換して、なにかあったら教えてくれると約束してもらっているのだ。けれど、まったく連絡なし。電話をかけても出ない。彼女と一緒で音信不通。
「やっぱり」
クラスメートはしたり顔で、
「やるね」
その”やるね”は”やっちゃったね”というふうに聞こえた。なんだかよくわからないけれど、面白がっているみたいな調子。
それだけ言って立ち去ろうとするクラスメートをわたしは無意識に呼び止めていた。すぐにスカートがひるがえされて、わたしの机に片手をつくと、
「なになに? 先輩のこと?」
「そうじゃなくて」
「なんだ」露骨にがっかりして、突き放すみたいに「なに?」
わたしは金魚みたいにちいさく口を開いたり、閉じたりを繰り返して、結局、舌の上の乗せた言葉を呑みこむ。
「……なんでもない」
「そっか。なんかあったら相談してよね。恋愛相談はいつでも受け付けてるから」
「えっ? うん……」
笑顔で離れていったクラスメートは、教室の隅で輪を作っていたグループに合流すると、なんだか賑やかにしている。わたしは今日も空っぽのままの彼女の席に目を向けて、それからまたスマホに視線を落とした。
彼女のお母さんは捜索願を出そうと考えているらしい。
どこにも彼女はいない。いなくなってしまった。
咳が出る。喉を内側からノックされてるみたい。
変だ。
昨日から。もしかしたら、一昨日からかもしれない。すごく変。
喋りたい。喋りたくって仕方がない。あのことを。ウワサのことを。ウワサの噂を喋りたい。しかもその噂は、誰に聞いたわけでもない内容。わたしが無意識に考えた妄想なのか、それとも、はらわたにいるやつが……
いまもクラスメートに喋ってしまいそうになった。なんとか堪えたけど、衝動はどんどん強くなっている。今朝も危なかった。仕事に出かける前のパパに、朝ごはんを作ってくれているママに、喋りそうになった。このあとの授業で先生にあてられでもしたら、黒板の問題の答えじゃなく、ウワサの噂を喋ってしまうかもしれない。そんな想像をすると、ひどく怖ろしくなってきた。
席を立つ。次の授業は休もう。どうせ今日最後の授業だし、ひとつぐらい。保健室へ。いや、だめ。保険の先生がいる。誰もいないようなところ。トイレの個室。
鍵をかけて息をつく。昨日、先輩に聞いたときには全然信じていなかったのに。おかしなことを言っていると思っただけだったのに。
ウワサの噂をすると、ウワサになるって本当だろうか。
わたしは先輩みたいに試してみる気にはならない。怖い。とても怖い。得体のしれない衝動が、はらわたあたりからずっとこみ上げ続けている。回虫どころかとんだ大蛇だ。暴れて、口をこじ開けようとしている。そうして、別の誰かに寄生するのだ。わたしと同じように、わたしから噂を聞いた誰かもこうなって……虎視眈々と、わたしに噂を喋らせる機会を狙っているウワサ。蛇じゃなくて虎。わたしの喉なんか簡単に切り裂けるおおきな牙……個室を出て手洗い場へ。冷たい水を顔に浴びせる。しゃんとしろ、と自分を力づける。そうして顔を上げると、鏡のわたしと目が合った。口が勝手に言葉を紡ごうとする。話す相手が自分でもいいなんて、とんだ節操なし。口を手で押さえて、息を止める……ずっとそうしているとお猿さんみたいに顔が真っ赤っ赤になってきた……ひどい隈だ。病気みたい。まるで狸……それなら声は虎鶫だ……なに考えてるんだろ……無意味な思考……もっともっと無意味なことで頭のなかを満たさなきゃ……そうしないと、ウワサのことばかり考えてしまうから……
そういえば、彼女は鏡を怖がってたな……遊園地に行ったとき、ジェットコースターやお化け屋敷なんかは平気な顔で楽しんでたのに、ミラーハウスに足を踏み入れた瞬間、座り込んじゃったりして……なだめたり、すかしたりして、なんとか立たせるんだけれど、すぐに蹲る。びっくりした。あんなに怖がるなんて……ついには泣きはじめちゃったから、仕方がなくアトラクションの入口のほうから出してもらったっけ……ジュースを両手の袖で抱えて、ベンチに腰掛けた彼女は、一気に缶の中身を飲み干すと、自分の顔を指でなぞって、きゅっと細い鼻を滑って、唇の小高い山を辿って、その裾野を通り過ぎて、口の右下あたりを、短く切った爪で二回つついて、すると、不意に人差し指を引っ込めて、今度は親指で、ぶっきらぼうを装うみたいに、もう一度顔に触れて、あたしってここにほくろあるでしょ、って、それが嫌いなんだ、って……隣に座っていたわたしは、口元にほくろがあるってチャームポイントじゃない、って、かわいいと思うけど、って、じっと見てると、彼女は顔を逸らして……やけに弁解がましい調子で全然違うことを言い出した。高所恐怖症みたいなものだから……わたしが高いところが苦手なのをやり玉にあげて、広すぎるのがよくなかった、って……でも、わたしは知っている。あのとき、彼女は……彼女が見ていたのは、鏡に映ったわたしの顔……わたしの顔を怖がっていたんだ……無数に増殖する他人の顔……
ぷはあ、と思いっきり息を吸い込む。深呼吸を繰り返すと、気分がわずかによくなってきた。
どうすればいいのだろう。ずっとこのままなんだろうか。ウワサの噂を吐き出さないと、いつか、はらわたを食い破られるか、それとも破裂してしまうのか。
「先生が……」
思い出した。数学の先生。郷土史に詳しい。ノートいっぱいのメモ。彼女が言っていた。もしかしたら先生なら、解決法を知ってるかも。予鈴だ。急がないと、先生が帰ってしまう。
帰宅する生徒が一斉に廊下へと出てくる。それを押しのけながら、階段を駆け下りたわたしは、勢い込んで職員室の扉を開けた。
教室とは違う大人の匂い。大人になると空気まで気取らないといけないらしい。息が切れていたわたしは思いっきり吸い込んでしまって、職員室の前で咳こむはめになった。気圧されながら足を踏み入れる。横長の部屋の中央に寄せて、教師用の机がぎちぎちに並んでいる。一日の授業が終わって満席状態。けれど、そのなかに数学の先生はいない。扉のそばにいた理科の先生に尋ねると、フラスコの底みたいな眼鏡が持ち上げられて、
「どうだったかな」
面倒そうな声。ぐるりと職員室を見回して、窓際に置かれた机に目を向ける。そこが数学の先生の席。無人。やたらと大声での所在確認。
「今日はお休みですよ」
答えたのは社会の先生。こちらに背中を向けたまま、プリントの束をめくって、
「無断欠勤ですよ。まったく……」
おおきな溜息をつきながら、ふり返って、わたしがいるのにはじめて気がついたらしくウッと空気を呑みこんだ。毛虫に似た太い眉毛がぴくぴくと震える。
「いや、たぶん体調不良でしょう。風邪気味だったみたいですし。お気の毒に」
話しながら眉毛がぴょこぴょこと近づいてきたので、眼鏡はバトンタッチとばかりに自分の席に戻っていった。忙しそうにファイルを手に取って、それから引き出しを開けると、探し物が見つからないらしく、怪訝そうにレンズを光らせながら、奥のほうを覗き込んでいる。
そんな様子をちらと見て、三角の眉毛が四角くなって、わたしに向き直ると、
「なんの用ですか」
「先生って新聞部の顧問だから……」
眉毛が反り返る。
「ああ。そうですね。そういえばそうです。だから新聞部もお休みですかね。あなた新聞部の部員さんですか」
一瞬悩んだけれど「はい」と頷いて「記事を書くのに必要な資料を先生が持ってるんです。見させてもらいたいんですけど」
せめて先生のノートが見れたら、事態を改善する方法が見つかるかもしれない。こっちは一刻を争っているのだ。けれど、返ってきたのは渋い顔。
「勝手にはちょっと……先生がまたいらっしゃったときに見せてもらうといいでしょう。しかし、熱心でえらいですねえ」
プリントの束を気にするそぶりをしながら、追い払うみたいな笑顔。笑顔に張りつく二匹の毛虫。
「これから職員会議がありますので」
睫毛のない瞳がすぼめられ、まだなにか用があるのかと訝しんでいる表情。大人たちは続々と、職員室の奥にある扉へとなだれこんでいく。あちらは会議室。わたしがお腹を押さえて俯いたのを見て、
「大丈夫ですか? 早くおうちに帰って、休んだほうがいいんじゃないですか」
「……お邪魔しました」
「はい。気をつけて帰りなさい」
ぴしゃりと扉が閉じられた。
へえ。へえ。そうなんでございますよ。いやあ。まったく景気のいい村でしてねえ。いい村なんですよ。是非お立ち寄りになってください。景気がよけりゃあ善人揃いときている。いい村の秘訣はいい人が住んでいることでございますなあ。村の一番でっかいお屋敷が名主様のものなんだが、奥方に娘さん、下男、下女に至るまで、本当にまあ平和で、なごやかなお人なんでございますよ。虫も殺したことがないって顔してねえ。たぶん殴られたって殴り返したりはしねえんじゃねえかなあ。特に名主の娘さんなんかは、ちょっと評判になるぐらいのいい娘でねえ。器量がよくて、別嬪で、それこそ妾にでも……へへ、失礼、御免なさいねえ。つい口が滑っちまって。妻に欲しいなんて御方はたくさんいらっしゃるわけでございます。いくら金を積んでも、手に入れてえって……あんたがたもお気に召すんじゃあねえかなあ……ああ。御助け。御助け。堪忍してくだせえ。いらぬ差し出口でございましたねえ……立派な鉈だ。立派な腕だ。立派なお髭だ。あんたがたもいい人だねえ。腕っぷしが強そうないい男だ。世間の荒波に揉まれてきたっていう、いい顔していらっしゃる。うん。うん……他ってえとなあ。組頭はいい焼き物をたっくさん蒐集していてねえ。そのなかには、お隣の藩主様なんかが喉から手が出るほど欲しがってる逸品もあるってえ話だ。百姓代は酒に目がなくてねえ。蔵にゃあいい酒が山と積まれてる。飲めば、ほうっ、って息が漏れるような名酒の数々。あれを浴びるように飲んだら、さぞかし気分がいいでございましょうねえ。頼めば飲ましてくれるかもしれませんぜ。なにせいい人だからねえ。その鉈持って訪ねてみなさるといい。あの村はとってもいい村だから……
うたた寝をしてしまっていたようだ。ずっと体育座りで身を縮めていたから体が痛い。首を起こした途端に机の裏に頭をぶつけた。じんじんする。こぶになっていないといいけど。
先輩が夢に出てきた。妙にへりくだって、びくびくしながら、聞き取りずらい早口で、いい村だとかいい人だとか、そんなことばかり。ひどく姿勢が悪くて、ものすごくちいさく見えた。そして、やっぱり、鼻の頭に傷があったような気が……
暗い。
いま何時?
ポケットからスマホを取り出して電源を入れる。20時20分ジャスト。数字と目が合う。二十二十。廿廿だ。顔文字でよく使う数字。着信があったみたい。ママ。心配してるだろうな。でも、連絡はできない。だって、いま電話やメールなんかをすると、うっかり話したり、書いたりしてしまいそうなんだもの。ウワサのことを。
机の下からこっそりと顔を出してみる。電気が消された職員室。誰もいない。
まるでスパイ。自分がこんなことをするなんて考えたこともなかった。
会議室で職員会議が開かれているあいだに、わたしはもぬけの殻の職員室に忍び込んだ。そうして、先生のノートを確認しようとしていたのだけれど、思ったよりも早く会議が閉会。咄嗟に先生の机の下に体を押し込んで、それから人がいなくなるまで隠れることに。
体を伸ばして、窓の外に目を向ける。月は見えない。雲がかかっているようだ。遠くの繁華街のビルの明かりが靄を透かしたみたいにぼやけている。運動場を見下ろすが、当然ながら誰もいない。影ひとつ落ちてやしない。
先生のノートを探さなくては。
スマホのライトを机の上に向ける。先生の机はきれいに片付いている。まっさらでなにもない。まるで使われてないみたいに。机の上はそんなふうなのに、引き出しを開けるとなかはごちゃごちゃ。わたしもクローゼットにとりあえず全部しまって、ママに片付けたって言うから共感を覚えてしまう。
飴の袋。レモン味だ。鍵。自転車のものっぽい。数本の鉛筆。全部HB。大量のペン。黒に混じって赤と青が二本ずつ。定規や分度器、コンパスなど。さすが数学の先生。わたしが見たことないような製図に使うらしい道具がいくつもある。
一番上の引き出しはそんな感じ。二段目も似たようなもの。一番下のおおきな引き出しに手をかける。
ぎっしりと、ファイルやノートが詰まっている。ノートを一冊引き抜いてページをめくる。授業に関するものだ。これじゃない。取り出してはしまうのを繰り返していると、新聞部、と表紙に書かれたノートを発見した。
濃い鉛筆の色。先生はよくチョークを折るけれど、普段から筆圧が強いらしい。ページの隅々まで、ところせましと文字が躍っている。達筆すぎて読みづらい。日付を追ってぱらぱらとページをめくる。一語一語に注意して目を凝らしていると、見つけた。
口捨村。
(ページの上部には部費のことについてが書かれている。部費が削減されたので、学級新聞の発行部数を減らすか、取材費や部活で使う道具、その他を節約することで工面するかを決めなければならない。それぞれの経費について計算した数字が並んでいる下に)
鼻塚について面白い話を聞いた。昔あの辺りにはこうしゃ村という村があったらしい。表記としては巧者村もしくは口捨村と書く。仔牛村、仔羊村という表記も見られるそうだが、これは聞き間違えた誰かが残した誤表記のようだ。優秀な鍛冶師が多くいたとのことで、それなら巧者村と呼ばれていたのも頷ける。村の鍛冶師、それらが製造する武器を巡ってふたりの武将による諍いがあり、合戦が行われるまでになった。その合戦の後、巧者村という字が口捨村に変えられることになったのだという。
情報提供者は……
(次のページには先生が自分で調べたらしい口捨村に関する歴史が書かれている。たくさんの注釈の線が横に伸びて、補足事項の洪水。口捨村の地図と思われるスケッチもあった)
歴史特集を組まないかと部員に提案するも反対多数。生徒の関心を引けないだろうとのこと。
(不満気な文字。それから載せることになった別の記事についての話題。時折思い出したように、口捨村の断片的な情報が書かれている。情報提供者の名前。参考書籍とそのページ数。新聞のスクラップがいくつか)
ウワサという妖怪の名前があがった。最近流行りの都市伝説のようだ。詳しく調べて記事にできそうなら次の学級新聞に載せることに決定。
(”ウワサ”に赤ペンで丸印。そこから矢印が引かれて”ウワサとは?”。わたしが彼女や先輩から聞いたような話が大量に羅列されている。目で追っているうちに思わず口に出して読んでしまいそうになっていた。誰にも聞かれていなければ、ウワサの噂について話しても大丈夫だろうか。ノートから目を離す。スマホのライトが職員室の天井に当たる。トラバーチン模様の虫食い穴がぶつぶつと浮かびあがって、隅のほうには蜘蛛の巣。ジョロウグモだろうか。銀糸で編まれたみたいな綺麗な巣だ。巣の真ん中で身じろぎひとつしない蜘蛛。蜘蛛は好きだ。厭な虫を食べてくれるから。そういえば、蜘蛛は分類的には昆虫ではないと教えてくれたのは彼女だったか、他の誰かだったか。昆虫というのは節足動物のなかでも足が六本あるもののことで、蜘蛛の足は八本。だから違う。蠍の仲間だって。あんなに虫みたいなのに虫じゃないなんて。それで、虫を捕まえて、食べているなんて……ウワサも、そうなのかもしれない。人間みたいな顔をして誰かの隣に……風がうるさいな。窓が鳴っている。雨が降ってるみたいだ。今日は傘を持ってきてないのに。ママが夜は雨が降るって言っていたような気もする……でも、こんなに帰りが遅くなるなんて、思ってなかったし……ノートに目を落とす。すると、不意に彼女の名前が飛び込んできた)
大半の情報を一人で集めた聞き込み能力の高さに驚嘆。行動力が高く、優秀な記者ではあるが、記事の内容に偏りがあるのが気になる。読ませる記事を目指すのはいいが、正確さがなにより重要だ。ウワサの記事をふたつの号に分けて、先の号でおおまかな情報を、次の号でウワサの噂を語ると自らがウワサになるという感染症のような性質を明かして、読者をびっくりさせようという仕掛けを考えている。一部のウワサの噂についても、少数のパターンであるからと例外に位置付けて、恣意的に除外しているきらいがある。新聞記事は連載小説ではない。しかし、あまり注意しすぎると彼女の自主性を損ねてしまうのではないかという懸念が……
(先生の悩みが延々と書かれている。こんなに生徒のことを考えていたなんて驚きだ。あまりやる気のないように見えていた。いつも目を擦っていたから……物音。息を潜める。用務員のおじさんの見回りだろうか。職員室の前を誰かが通り過ぎていった。雨が強くなっている。風もひどい。外から窓が叩かれているみたい。遠くで雷が落ちた。山の方角)
ウワサについて自分も調べていると、口捨村と関係があるのではないかという疑惑が湧き上がってきた。ウワサの噂のなかに時折現れる”御助け”とは、詫助のことではないだろうか。”おお、詫助”という言葉を”御助け”と聞き間違えている可能性が……
(詫助ってなんだろうと思っていたら、どうやら人の名前のようだ。すこしページを遡ると先生が調べた口捨村についてのメモのなかに詫助という人の話が書かれていた。詫助の読みは”たすけ”か”わびすけ”のいずれか。”御助け”が口癖で、詫びてばかりだったらしいというので、こういう渾名がつけられただけで、本名じゃないだろうと先生は結論づけている。読む限り、ずいぶんと情けない人のようだ。口が達者で、人の顔色を窺ってばかり。合戦に駆り出されたけれど、怖くなって死んだふり。その挙句、本物の死体と間違われて、鼻を切られそうに……)
ウワサの噂の端々から読み取れる悪漢の特徴と一致するところが多い。捨て子。背丈は四尺二寸の小男(隣に括弧で”約127cm”と書かれている)。鼻っ柱にある真一文字の深い刀傷。片目片足。但し、ウワサの噂のひとつに悪漢は生まれつき片目片足という話があるが、詫助は鍛冶修行中に片目と片足を痛めており、事実とは異なる。このあたりは脚色がされているのかもしれない。
怪異としてのウワサが成立する過程で、詫助の存在が重要な役割を担ったのは間違いないと思われる。詫助が駆り出されたという大合戦では、詫助以外の全員が死亡している。それほど激しい戦だったらしい。そして、口捨村、その時点での巧者村は一方の陣営に加担していた。合戦の後、両陣営共に疲弊するが、加担していた陣営のほうが兵糧の差で敗北。村は戦時のことでお咎めを受けて、困窮に陥る。
大合戦を制していれば、という思いは村人全員が強く持っていたようだ。結果、訪れた不幸の責任は合戦唯一の生存者である詫助に押し付けられることになった。口さがない言葉を浴びせかけられることもしばしば。行き場のない怒りの捌け口としての村八分。この時の村人の憤りが、ウワサの原型になっているのではないだろうか。
(先生は独自の考察を色々と発展させている。口捨村への興味が再燃したらしく、新しく調べられた情報がちらほら。鼻塚を地中探査機で調査しようとか、いっそ掘り返させてもらおう、なんて計画すら大真面目に立てている。先生の考えでは、あの鼻塚に埋まっているのは、合戦で鼻を切られた武士のものではなく、口捨村の住人の鼻の可能性があるのだという。鼻を削ぐ行為は、首級代わり以外に、刑罰としてもおこなわれていたらしい……楽しそうな文字。こういう歴史的な事実を照合したりするのが好きなのだろう。それから、このあたりの記述は私見に過ぎないから新聞部の部員には話さないようにしようと、自分で自分に釘を刺すようなことも書いてある。けれど、彼女は先生から聞いたって言っていたし、ちょびっとは話してしまったようだ。先生であっても自分の発見したことを誰かに自慢したくなるものなのかもしれない)
ウワサの噂は二種類に分類できる。悪漢に関する噂とそうでないもの。そうでない噂の内容は共通して村を褒め称えている。これをグループA、グループBと……
(ページの左と右にでかでかとグループA、グループBという囲いの線が引かれて、そこにたくさんの数字が放り込まれている。数字は多種多様なウワサの噂それぞれに割り振られた識別番号。Aに比べてBは明らかに少ない。十分の一以下だ)
AとBに属する噂の内容には大きな隔たりがある。このことから、ウワサというのは二種類の怪異だと考えられないだろうか。Aを語るウワサA、Bを語るウワサB。ここで仮にウワサBのことを噂男、Aは従来通りただのウワサと呼ぶことにする。噂男としたのはウワサBこそが詫助ではないかと思われるからである。そしてウワサというのは口捨村の住人たち。二種類の語り部の話が混じり合ってウワサという怪異に統合されてしまったという仮説である。
(先生は知らない。ウワサはいるってことを。架空の存在として仮説を立てたりなんかしてる。けれど、二種類いるというこの仮説には信憑性がありそうだ。ウワサの噂をするとウワサになる。だったら、噂男の噂をすると噂男になるんじゃないだろうか。だって、噂男の、詫助の語る噂を、いい村だいい人だって話をしていた先輩は、きっと噂男に……)
噂男が村を褒め称えているのは健気にもまだ共同体に戻ろうとしている証左。つまはじきにされた者の処世術だろう。ウワサという怪異に統合され、ある意味で村と一体になったのは噂男にとって喜ぶべきことなのかもしれない。
(本当にそうだろうか?)
行方不明
(彼女のことだ。文字が滲んでいる。水をこぼしてしまったみたいで、このあたりは読めない)
部員の間で風邪が流行しているようなので一時的に部活を休止にする。各自で記事を持ち帰って完成させるように課題を出す。再開予定日は……
(ページをめくるとなんの脈絡もなく)
怪異を紹介するからには対処法も掲載するべきなのではないだろうか。口裂け女ならポマード、カシマレイコなら問いかけへの答え方、狐狗狸さんやエンゼルさんの帰し方の作法など、そういった情報がなければ記事としては手落ちであろう。
(これはいつ書かれたのだろうか。昨日? 今日? 今日なわけはないか。無断欠席って言われていたし。字が荒れている。わたしは目を皿のようにして何度も文章を読む。読み間違いがないように)
ウワサの対処法に関する噂はない。噂をするとウワサになる。噂を口にしなければいいというのは至極単純な対策法だが、もしも、ウワサや噂男になってしまったら、もう助からないのだろうか。ウワサの噂をするとウワサに、噂男の噂をすると噂男に……
(あれ? 噂男の噂をすると噂男に……先生はどこでこれを知ったんだろうか?)
もしかしたら、ウワサは噂男を、噂男はウワサをそれぞれの噂に閉じ込め、虚構の存在にしようとしているのではないだろうか。噂には噂を。ウワサを噂にすれば退治できるのかもしれない。しかし、それでは噂男に加担することになり、その者は噂男になる。逆も然り。出口がない。ウワサと噂男の両方を……
(噂には噂を……噂には噂を……ウワサと噂男の両方を……風がすごくうるさい。また、雷が光った……)
不意に顔を上げると、窓になにかが張りついていた。ちいさな暗い瞳が、わたしをじっと見つめている。いや、目じゃない。硝子に押しつけられた鼻の孔。その下には大欠伸でもしてるみたいに開かれた、ちょっと間抜けな口の輪っか。鼻と口。ぺらぺらの皮膚だけが、濡れた新聞紙みたいにぺたんと窓に吸いついている。実際雨でずぶ濡れだ。息を呑んで、吐くことができない。鼻塚に埋まっていた鼻が、雷で掘り起こされ、嵐に乗ってここまで飛んできたのだろうか。まさか。突拍子もない想像。横殴りの雨が、窓にぶつかっている。ぶつぶつ、ぶつぶつ、喋り声にも聞こえる調子。ぶつぶつ、ぶつぶつ。御助け。御助け。ぶつぶつ。ぶつぶつ。きゅっと細い鼻。黄土色の唇の山が盛り上がって、右下のあたりにはほくろが……
あの噂聞いた?
爛れた恋愛模様のやつ? 親友の彼氏奪ったって。
違う違う……でも、そういえば先輩、最近登校してなくってさ。元カノと駆け落ちしたって話だよ。
マジ? やるね。浮気からの大逆転ってことか。いいなあ。一生に一度はそんな大恋愛してみたい。
でも大変だよ。どうやって暮らすの。
そりゃあ、バイトでなんとかするんでしょ。
そんな生活してたらサッカー選手になれないじゃん。先輩ってプロ目指してたんじゃないの。
だから、夢を捨てて愛を選んだってことでしょ。素敵じゃない。
将来のことを考えられない人って結婚相手としてはやだな。
たしかに。一時の感情に流される人って暴力とかふるいそう。
どっちなのよあんたは。
あはは……で、なんだっけ?
噂だよ噂。
なんの噂?
ウワサの噂の噂男の噂をする噂女の噂って、知ってる?
ここまでお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
読んで下さった皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。
評価やコメントなどをもらえれば嬉しく思います。よろしければぜひ。
活動報告にあとがきを投稿していますので、こちら私のマイページから2024/7/5付けのものをご確認ください。
それではまた別の作品でも出会えることを心より願っております。
2024/7/5の井ぴエetcでした。