アヴァロン学院.3
アヴァロン学院に入学して、一週間ほどが過ぎた。
相変わらず五月の風は生ぬるくはあるものの、梅雨の気配はすぐそこまでやって来ていた。
梅雨を嫌う人は多い。実際、梢や杏は梅雨入りを憂いているようだった。だが、私はむしろその逆で、雨が増えるこの季節を好んでいる。愛している、と言ってもいいかもしれない。
雨は、閉じこもっている自分を正当化させてくれたし、篠突くように降れば外界の音を遮断してもくれる。そして、時には感傷に浸る私を慰めるようにしとしと降る。
自然の恵みの中で、こん何も孤独に寄り添ってくれるものを、私は知らない。
迫る烈日も。
今は遠い、刺すような冷気も。
舞い散る桜も。
鮮やかな紅葉も。
四季折々、閉じこもる私をあの手この手で責め立てる。
ふと、私は学院長室へと向かう道すがら、足を止めた。
窓の外ではクラブ活動に勤しむ生徒たちが、爽やかな汗と笑顔を、まるでこれが青春のテンプレートだと言わんばかりの幸福感をまとってさらしていた。
(…とはいえ、外へ出たから良いというものでもないけれど…)
祖母の善意を無下にしたくなくて自分で選んだ道だ。他の家族にだって、迷惑をかけたいわけじゃない。
しかしながら、だからといって前向きな気持ちで外に出てきたわけでは断じてない。
何かが変わるなど、とても思えなかった。
人はそう簡単には変わらない。
変化や進化は、往々にして長い年月と共にある。
フィクションの中で起こる、一夜にして世界が変わるような激動は、あくまで創作上のものにすぎない。
(事実、あの中に入っていくようなこと、私にはできないもの)
私にはこうして、少しでもベターな選択を取るしかできないのだ。
天井がやたらと高い廊下を進めば、大広間に出る。そのまま真っ直ぐ歩けば、アーサー王物語の一幕が描かれた絵画が展示されている場所に着く。
大きな絵画に込められた、何か大きな運命のようなものを感じ取り、私はまたそこで立ち止まってしまう。
今日は学祭でもなんでもないため、廊下を通る生徒や教師がまばらにいる。私と同じ黒のタイを付けた少女たちは、相変わらず様子を窺うようにこちらを盗み見ては、頭を下げて通りすぎていく。
まだ、遠巻きにされているようだった。故意ではないとはいえ、やってしまったことを考えれば、当然なのかもしれない。
(『運命』……人の命を運ぶ、激流。私もそれに飲まれているのね、きっと)
やけにセンチメンタルな気分になってしまうのは、描き出された物語の結末を知っているからか、それとも…。
私はそこまで考えると、思考を切り替えるように瞳を閉じた。
考えてもどうしようもないことが、世の中には無数にある。きっと、今の私が抱えている問いもその一つだ。
再び足を動かし、学院長室の前へと移動すると、遠慮がちにノックする。三度鳴らされるのを待っていたかのようなタイミングで、中からマルキオ学院長の返事が返ってくる。
「どうぞ」
「失礼します」
扉を開けると、思わぬ先客がいた。
月輪を戴くような長い金糸に、サファイアの瞳…アルトリアである。
「やぁ、そんなところに立ってなくて、入って来るといい」
片手を挙げてそう言ったアルトリアに、マルキオが目を細める。
「全く、何様ですか。アルトリア」
少し厳しめの口調に、私は思わず目を丸くする。学院長が、こんな言い方を生徒にするタイプには見えなかったためだ。
「そう怒らないでくれよ、お祖母様」
(お祖母様…?)
事情を知らずにぽかんとしている私にアルトリアが、「あぁ、僕と学院長は血の繋がった祖母と孫なんだ。お祖母様も同じ、金髪碧眼だろう?」と説明してくれた。
「そ、そうだったんですね」
普段は公私混同をしないよう、気をつけているそうだが、やはり、自らの牙城では気も緩んでしまうらしい。マルキオは少しだけ照れたふうに微笑みながら、改めて謝罪した。
「ところで、学院生活には慣れましたか?本土で暮らす人からすれば、とんでもない環境の変化でしょう?」
「…そうですね、色々と驚かされることばかりですが…な、なんとかやっているとは思います」
嘘だ。なんともやれていない点のほうが多い。
例えば、自分を目の敵にしてくるクラスメイトたちとか。
他人の息遣いが気になって、まるで眠れない夜とか。
少し踏み込まれたぐらいで、過剰に反応してしまう心の問題とか。
無防備すぎて目のやり場に困る、ルームメイトたちとの時間の過ごし方とか。
マルキオはそんな私の虚飾を見抜いているのか、慈悲深い顔つきで口元を綻ばせた。かなりの高齢のはずだが、やはり、壮健な印象を受ける。
しかし、それは決して私にとって良いことばかりではない。健康そうなマルキオを見ていると、彼女とは対照的に腰が曲がってしまった祖母を思い出すのだ。
私がアルトリアのように『できた孫』であったならば…まだ、祖母は若々しくいられただろうか。
こんなことを考えても仕方がないと、私は気持ちを切り替えるべく本題に入った。
「それで、何のご用でしょうか?」
私の言葉を受けて、マルキオはすぐに真面目で聡明な顔つきに戻った。申し訳ないが、アルトリアとはあまり似ていない。
「今回、湖月さんをここに呼んだのは、先日の聖剣祭のことで話があったからです」
聖剣祭、という言葉を聞いて、無意識に顔を歪めてしまう。忘れてしまえるなら、忘れたほうがいい記憶だ。
ちらり、とアルトリアのほうを見やれば、彼女はどこか余裕のある表情でこちらを見つめていた。
この人に手を取られ、剣のオブジェを操ったときのことを思い出す。
あのとき、密着した彼女の体から感じた、金木犀みたいに甘い、女の匂い。それから、生々しすぎるほどに柔らかな感触。耳朶を打つ、脳髄を痺れさせる声音。
記憶の糸を辿るだけで、私の心臓が早鐘を打った。体温も急激に上昇し、変な汗が額に浮いた。
あの圧倒的な造形美が、こんな見知らぬ感情を呼び起こしたのか。それとも、非日常がかけた魔法が、未だにこの体に残っているのか。
よそ見を続ける私のことも気にせず、マルキオは続ける。
「聖剣祭では、本来、円卓の会に選ばれた生徒が聖剣を抜く、『アーサー』の役目を演じます」
「円卓の会…生徒会、みたいなものですよね」
これについては、すでに梢がから説明を受けていた。とことんアーサー王物語をなぞった学院なのだと、驚きを禁じ得なかったから、よく覚えている。
「そうです。そして、そのアーサーが――」
「僕だった、というわけさ」
マルキオの言葉を遮ったのは、当然、アルトリアだ。
役目を奪われた役者にしては、随分と清々しい顔をしている。
「僕より先に剣を抜く人が現れたものだから、本当に驚いたよ。見たかい?あのときのみんなの顔。はは、傑作だった!」
不謹慎に笑うアルトリアに、学院長がじろりと厳しい視線を向けた。彼女もそれでさすがに黙らざるを得なくなり、肩を竦める。
「問題はここからです」と脱線しかけた話題をマルキオが戻す。「アヴァロン学院には、春夏秋冬に応じて、『聖剣祭』、『湖畔祭』『聖杯祭』『鎮魂祭』と呼ばれる催事が開かれます。そして、それらの祭の中で主役を務める『アーサー』は、一貫して同じ生徒が務めることになっているのです」
「そ、それって…」
私は話の主訴がどこにあるかを理解すると、驚きと不安から腰を浮かせた。
「そうだ。君が『アーサー』になるんだ」
片目をつむってウィンクして見せたアルトリア。普通なら、板についたその仕草に心がざわめくところなのだろうが、今はそれどころではない。
「そんなの、無理です!」
「無理?どうしてだい?」
「わ、私は、人前に立つことなんてできません。に、苦手なんです、そういうの…」
「とは言うものの、この間は随分と上手くやったじゃないか。大丈夫、慣れればなんとでもなるさ」
「…無理です。本当に…」
頑なな拒絶を受けて、アルトリアは頬をかいてマルキオを見やった。マルキオは軽くうなずくと、どうしても難しいか、と私に尋ねた。
「…はい」
彼女らは、すっかり俯き、防御態勢に入ってしまった私をよそに話を続ける。
「お祖母様、さすがに玲がかわいそうだ」
「それはそうだけれど…半世紀以上続く伝統行事なのよ。そう簡単に慣例を曲げていいものではないの」
「おいおい、そんなに伝統が大事か?」
アルトリアの重い声につられて、顔を上げる。
彼女はいつもの飄々とした面持ちを脱ぎ捨てると、何かに辟易とした顔つきで窓の外を睨んでいた。
「嫌がる生徒に無理強いする…そんなことを正当化できてしまう伝統など、意味があるのか?」
「アルトリア、言葉を慎みなさい」
マルキオがぴしゃりと叱りつければ、アルトリアは小さくため息を吐いてみせ、「申し訳ありませんでした。学院長」と嫌味を込めて答える。
ギスギスした雰囲気が、一瞬で学院長室を覆った。この息苦しい空気が自分のせいだと思うと、今すぐにでも逃げ出したい気持ちに駆られる。
「…しょうがありませんね、二人とも」
マルキオはそんな二人の姿を見て、どうにか折衷案を出してくれた。
「分かりました。それでは、湖月さんの緊張が抜けないうちは、二人で『アーサー』の役を全うする、というのはどうでしょう?」
「二人で?」と反応したのはアルトリアだ。「いや、それこそ前代未聞じゃないのか?」
「アーサーの役が変わってしまうより、遥かにマシでしょう。それに貴方と出れば、自然と視線も分散するでしょうから」
それはそうかもしれないが、問題の根本は解決していない。
「でもなぁ…」
「トライしてみて、本当に無理そうだったら、アルトリア一人に任せます。でも…できるだけ、頑張ってみませんか?」
話の途中から、マルキオは私のほうを向いて言っていた。
アルトリアではないが、そんなにも伝統が大事なのか、とほぞを噛む思いで俯いている私に、学院長は驚くようなことを教えてくれた。
「貴方のお祖母様も、『アーサー』役だったのよ?ふふ、なんだか、運命のようではなくて?」
運命、という言葉を聞いて、私はこれ以上抵抗する気を失うのだった。




