アヴァロン学院.2
駆け寄ってきた梢は少し離れたところから歩き始めると、眉間に皺を寄せた。
「水宮寺さん、何をやってるの」
「…雨見さん」薊は梢のぴりついた顔を見やると、ふっと嘲笑するみたいに微笑み、「別に?ただ、挨拶をしていただけですわ」と言った。
「挨拶?」
私の手を掴んでいる腕から、頬を抑えている指先へと視線を移動させた梢は、ぎゅっと拳を握りながら薊を睨んだ。
「私には、とてもそうは見えないんだけど」
「ふぅん、そう」
「いいから、その手を離しなよ」
そのときの梢の顔は、とてもじゃないが、私に親切してくれていた少女とは別人のように鋭く、まるで、抜身の刀のようだった。
私だったら、そんな顔で睨まれたら慌てて逃げ出すだろう、というような顔つき。それにも関わらず、薊は冷ややかな微笑みを絶やさない。意気揚々と私をからかっていた明鈴は、怯えた様子で薊の後ろにまわっている。
梢がとうとうこらえきれなくなり、私を掴んでいる薊の腕に手をかけようとしたとき、ぱっと薊が私を解放した。
「まぁ、怖い。これで満足かしら?雨見さん」
薊の問いには何も答えなかった梢は、そのままそっと私の肩に手を添えると、軽く抱き寄せながら薊たちから距離を離した。
さながら、物語の騎士のようだった。言葉も出せないまま見つめた梢の横顔は、凛としていて、気丈な美しさが輝いている。
そんな梢を見て、薊が一つ笑った。
「もうナイト気取りですの?手がお早いこと」
明らかな挑発に、梢の指先がわずかに固くなる。
「そっちこそ、もう悪役を買って出るなんて、随分と殊勝だね」
「ふん、お安い挑発ですこと」
「…誰もが、水宮寺の――アンタのお父さんを怖がって、思い通りに動くとは思わないほうがいいよ」
それを聞いて、今度は薊が固く拳を握った。その様子は、手のひらの中にある何か忌々しいものを握り潰そうとしているみたいだった。
互いに一歩も譲らず、張り詰めた風船じみた空気がその場にいる者の間に流れる。
どちらも私からすれば、猛々しく美しい獣にも、互いを切り合う剣を携えた騎士にも見える。
何も褒めているわけではない。美しかろうと、恐ろしいものに変わりはない。
永劫に続くと思われた睨み合いは、ふとした拍子に均衡を崩し、中断された。
花月寮から傍観していた純風と杏が、私たちのそばにやって来て、無言で薊のほうを見やったのだ。
私を守ろうとしているみたいな――否、間違いなく、守ってくれている梢に、それを支持するようなルームメイト二人。
多勢に無勢と思ったのか、くいっ、と明鈴が薊の袖を引いた。
「薊、そろそろ…」
「分かっていますわ」
薊は明鈴の手を払うと、肩越しにこちらを強く睨みつけて鼻を鳴らし、堂々とした足取りで学院のほうへと戻っていった。
食堂では、先ほどの騒ぎを中から見ていたらしい生徒たちの視線が突き刺さってしまい、居心地が悪かった。
そのため、ただでさえ疲弊している私のことを気遣ってくれたルームメイトたちが、昼食は自室で過ごそうと提案し、四人は『私の部屋』――もとい、『私たちの部屋』にいた。
「大丈夫だった?」と改めて気遣いの言葉を口にしたのは純風だった。「あんなことになるなんて…ツイてないね」
「ツイてない?あの女王様気取りの水宮寺がこの子に突っかかるなんて、分かりきってたことでしょ」
私が言葉を挟む隙もなく、杏が吐き捨てる。その苦虫を噛み潰したような面持ちは、彼女の後ろに貼られているポスターに描き出された偶像とは、まるで別人のものだった。
それにしても…まさか、互いに名前しか知らないような関係なのに、あの状況で助けに来てくれるとは…。人が良いというか、なんというか。
とにかく、お礼ぐらいは口にしなければと、私は膝の上に手を置いた。
「あの…助けてくれて、ありがとうございます」
「え?」
なぜか、意外そうな顔を三人に向けられた。
「とても、怖かったので…。本当に助かりました」
俯きがちにそう言った私の顔を見つめ、それから互いに目配せをしたルームメイトたちは、私を元気づけるように穏やかに笑う。
「気にしなくていいよ、湖月さん。私たち、ルームメイトになるんだし」
「…はい」
先日のような緊張がだいぶ和らいだ様子の梢が、体を斜めにして告げる。その慈悲深い微笑みを見れば、自然とさっきの堂々とした姿を思い出す。
上の空で梢の顔を見つめていると、すぅっと視線を逸らされる。
(まただわ、無遠慮に見つめすぎよ…。何をやっているのかしら、もう)
私が自己嫌悪で小さくため息を吐いていると、それが聞こえたのか、無理やり場を明るくしようと純風が声を発した。
「そ、それにしても、怖いよね。水宮寺さん」
水宮寺――薊のことだ。彼女の名字なのだろう。
「ふっ、あれは『怖い』とか言うんじゃなくて、『たちが悪い』って言うべきよ。親の威光を我が力みたいに振りかざすんだから…あぁ、やだやだ。どうして、こんな僻地に来てまで…」
同調した杏が言うには、水宮寺薊は有名政治家の娘らしい。内閣にも携わるような家系ということ、女性の政治家の輩出を期待されていることもあって、薊自体も相当の期待を寄せられているらしい。
それを鼻にかけた彼女が、周囲にその傲慢さを遺憾なく発揮してしまっているということだが…。
「だいたいのクラスメイトは水宮寺を怖がって、関わろうとも反抗しようともしない。まぁ、普通そうだけどね。誰だって、長いものに巻かれるほうが楽に決まってる」
「杏ちゃん、言ってることとやったことが違うよ…」
「そりゃ私だって、面倒事はごめんよ?だけど、そこのザ・不器用がルームメイトになっちゃったんだから、しょうがな――」
杏は梢を顎で示してすぐに、ぴたっ、と硬直した。そして、純風のほうを睨みつけると、「だから、星欠さんだってば」と訂正した。
「あ、うん、ごめんね、星欠さん」
純風の謝罪と共に行われた修正に、何か意味があるのか…甚だ疑問ではあった。
「ザ・不器用って、もしかして私のこと?」
「梢以外、誰がいんの」
「うわっ、辛辣。酷いなぁ」
「酷いぃ?アンタが水宮寺に食ってかかってばかりいるうちに、私と北条さんまで目をつけられちゃったんでしょうが」
「…いやぁ、それは、そのぅ…」
どうやら図星らしい。梢は杏に一睨みされると、頭をかいてごまかすように笑った。
「まあまあ、どうせ私もあ――星欠さんも浮いてたし、時間の問題だったんじゃないかな?」
即座に純風がフォローしてみせるが、杏がますます不服そうな顔をしてみせたがために、しゅんとなって黙り込んでしまう。
「悪かったね、『元・アイドル』だから、浮いちゃって」
「そ、そんなつもりじゃ…」
「それだって、元は北条さんが初日目の教室で『シューティングスターの杏ちゃん!?』なんて叫んだからでしょ」
「…ごめんなさい」
なるほど、色々な経緯があって彼女らはすでにクラスから浮いていたということか。
一通りの事情を聞いた私は、改めて礼を言うことにした。
「そんな人を相手に…守ってくれて、ありがとうございます」
感謝の言葉に、また彼女らは顔を見合わせた。
何だというのだろう…。何か変なことを言っただろうか。
すると、私の疑問に答えるみたいにして梢が言いにくそうに言った。
「えっと、あのさぁ…その、敬語、やめない?ルームメイトだし、同い年だし、なんか、距離感遠くて寂しい――じゃなくて、違和感があってさぁ」
「あ…」
そうか。ようやく合点がいった。
私の他人行儀な口調が気になっていたのだ。
「その…ごめんなさい、急には変えられない、と思います。…私は、少し話したから、年齢が近いから、という理由で打ち解けられるほど器用ではなくて…」
私の説明に、三人はなんとも言えない表情になった。嫌な思いをさせただろうかと不安にも思うが、同時に私は大事なことに気づいてしまった。
(そうだわ、私、みんなに自己紹介してもらってから、すぐに眠ってしまっていたから…直接三人に名前を名乗っていないわ)
クラスでの挨拶は今朝済ませたが、ルームメイトとしては不十分だろう。
とても失礼なことをしてしまった、と募る後悔に背中を押され、私は今更だが、自己紹介をさせてもらえないかと頼んだ。
再び、三人が顔を見合わせた。今回はどことなく、彼女らが笑い出しそうなのが分かった。おかしいだろうか、と顔が熱くなるが、そうそう悪い気分ではない。
「いいよ。でも、普通にやるんじゃ面白くないし、ちゃんと私たちの名前を覚えてるかテストしよっか」
意地悪なことを言い出したのは杏だ。薄々勘づいていたが、彼女にはこういうからかい好きなきらいがある。
純風は困った顔をしてみせたが、梢が楽しそうに杏の意見に賛同してしまったため、そうせざるを得ない空気になってしまった。
難しいことはない。昨日の話を紐解くだけでいいのだから。ただ…万が一、間違えてしまったらどうしよう、という不安が強いことだけが問題だ。
とはいえ、自己紹介をしたいと言い出したのは私だ。ここは逃げ出すところではない。
空気を胸いっぱいに吸い込み、静かに吐いた。
深呼吸を繰り返せば、多少は波打った神経も静まる。
ゆっくりと、私は口を開いた。
「星欠杏さん」
パステルブルーの髪が揺れる。小さな声で、「正解」と愉快そうに杏が口元を吊り上げた。見た目の愛らしさに似合わぬ、シニカルな笑みだ。
「北条純風さん」
「はい」
杏とは打って変わって、純朴な笑みだった。善意が人の皮を被って歩いているなら、きっとこういう顔をしているはずだ。
最後に…梢と視線がぶつかる。火花が散るような、目に見えない衝撃が二人の間で爆ぜると、彼女は一瞬だけ視線を逸らしたが、すぐにまたこちらを真っ直ぐ見つめた。
強い人だ、と私は勝手に思った。付き合いと呼べるような時間は私と彼女の間に積もっていないが、自分の考えが間違っていないという確証がなぜか胸の中にあった。
「あ、雨見梢…さん」
「…うん」
返事を聞けば、胸のあたりが暖かくなった。ドキドキして、次の言葉が上手く出ない。だが、悪い気分ではなかった。
心地の良い緊張。
種が芽吹く前の、不安と希望に満ちた土の下。
私はもう一度三人の顔を見渡すと、言葉を発するより先に頭を下げてから言った。
「湖月玲、です…。あ、あの、敬語は、そのうち直りますから…気にせず、よろしくお願いします」
少なくともその瞬間は、『敵視してくるクラスメイト』のことも、『何を考えているか分からない上級生』ことも忘れることができていた。




