アヴァロン学院.1
数年間、死んだように生きてきた私の体が、今更息を吹き返せるのか…疑問だった。
端的に言えば、気分は最悪だった。
目が覚めても悪夢は覚めず。それどころか、就寝前の半端な時間に起きてしまったせいで、梢や純風といったルームメイトに迷惑をかけてしまった。
ささっとシャワーを浴びた私は、用意された寝巻きに着替えて再び床に入った。しかし、当然ながら安らかな眠りなどやってくるはずもなく。何十、何百という寝返りの果てにとうとう暁の光が窓の向こうから訪れた。
他人と一緒の部屋で快眠できる他の三人のことが、にわかに信じられなかった。
こうしていても、到底眠れる気がしない。そのうえ、自分が起きていることが、周りの三人を起こしてしまわないかと不安にもなった。
そう思った私は、寝巻きのまま外に出て、あてもなく道を歩いた。とはいえ、森の中に入るのは危険な気がした。迷いなどしたら大事である。
やがて私は、学院のそばに大きな湖を発見した。海みたいに広々としていて、顔を出した朝日を反射してキラキラと輝いていた。
(とても眩しいわ。痛いくらいに…)
美しい光ほど、目を背けたくなるのはどうしてだろう。
そんなことを考えながら、誰もいない桟橋まで歩く。
薄闇に宿る魔を祓うかの如く、周囲がゆっくりと、だが確実に明るくなっていく。
私は意味もなく桟橋の縁に座り込み、昇る太陽を見守っていた。
靴を脱いだ爪先には、ちゃぷちゃぷと気持ちの良い水が触れる。かなり澄んだ水だ。
そうして少しの間、私は一人で座っていた。
…いや、一人で座っているのは、もう随分と前からだ。
ずっと、部屋の片隅に一人で膝を抱えている。
あの日から、ずっと…。
俯いた瞳が、水面に映る自分の顔を捉えた。
(生気がないわ。まるで、亡霊のよう…)
理由はなぜだか分かっていた。
数年間、死んだように生きてきた私の体が、今更息を吹き返せるのか…疑問だった。
「玲…?」
不意に名前を呼ばれ、私の全身はびくん、と跳ね上がった。驚いて振り向けば、そこにはアルトリアと呼ばれた女性が制服姿で目を丸くして立っていた。
暁を吸い込んだ金糸が、湖面に負けないくらいにきらびやかな光をまとっている。
「はは、『湖の乙女』がいるのかと思った」
「お、おはようございます」
湖の乙女、という言葉に心をかき乱されて、ついつい口ごもってしまう。
「朝焼けと湖、そして、麗しい少女――朝の景観としては、十分すぎるシチュエーションだ」
「からかわないで下さい…」
自然な流れで隣に腰を下ろしたアルトリアから顔を背ける。自分の頬が熱くなっているのを感じた。
「からかってなどいない、本当に思ったんだ。…ふむ、湖畔祭の乙女役は、あいつより君にしてもらったほうがよっぽど合うかもね」
「あ、あいつ?」
「あー…こっちの話だ。でも、どうだい?湖の乙女、今の君を見たら誰でもそう言うよ」
「…あれはフィクションです。実在なんてしません」
「む、今のは聞き捨てならないな。フィクションだって、現実の一端から生まれたものなんだから、そのひと欠片くらいは、実在するかもしれないだろう?」
アルトリアは真面目な顔でそう言うと、湖を抱くように両手を正面に広げた。
芝居かかった動きだが、これがアルトリアにはよく似合う。長い手足や整った顔立ち、そして、欧米人であることが疑いようもない碧眼やブロンド。
「それに、ここは何と言っても『アヴァロン学院』のある島だ。アーサー王伝説をモチーフにしたオブジェクトやそれに似た景観、催しが数々ある。ほら、この湖だって、『湖の乙女』のいた場所にそっくりだ」
流暢に語るアルトリアの言葉に圧され、私は押し黙ってしまう。
昔から、どうにも多弁な相手は苦手だ。威圧的ではないにしても、この自分の言葉に自信を持っている雰囲気がなんとも理解し難いのだ。…まぁ、昨日の薊とかいう生徒に比べたら、何倍もマシだが。
「…それでは、剣でも渡しましょうか?」
「お、君もアーサー王は読んだことがあるんだね。昨日の感じから、てっきりそのへんは疎いのかと思ったよ」
「一冊ぐらいは読んだことがあるのですが…あれを現実で真似た習わしがあるなんて、思いもつきませんでした」
「ふぅん…変わっているね」
アルトリアの発言の意図が理解できず、私は彼女の顔を見やった。
紺碧の瞳が真っ直ぐに私を捉えている。そこに躊躇などはない。
それにしても、みんな、そんなに想像力豊かなものなのだろうか、と不思議に思っていると、こちらの困惑を察したらしいアルトリアが自身の発言に補足を加えた。
「この学院を訪れる多くの生徒たちが、学院の『伝統』と、自然に恵まれた離島という『環境』に魅力を感じてやって来る。少なくとも、パンフレットの一面に載る『聖剣祭』を知らずに来る生徒なんて、今まで見たこともないんだ」
「そういうことですか」
「玲は、どうしてここに?」
当たり前のように下の名前で呼ぶアルトリアに内心で驚きつつ、どうやって誤魔化そうかと頭を悩ませる。
「私は、ただ――」
「あ、待ってくれ。せっかくだから、当てて見せよう」
「いえ、その…」
「大丈夫だ。こう見えて、頭は良い。そうでなければ道化は演じられないからね」
あの芝居がかった様子は演じているものだったのか、と感心しているうちに、アルトリアが勝手に推理を始めてしまう。
「さっき言ったように、『伝統』に惹かれたわけではなさそうだ。だったら、自然あふれる『環境』か…?いや、でもな…君は日本人でもかなり色白の部類に入る。体つきも細く、筋肉質とは程遠いから、おそらくアウトドアを好む人間ではないだろう。となると…」
足を組み、顎に手を当てたアルトリアの横顔からは、きらめく知性が感じられた。サファイアの瞳の奥で瞬くそれが、私の視線を独り占めにする。
(…綺麗)
自分のことを詮索されているのに、私は、どうしてか嫌な気分にはならなかった。むしろ、もっと自分のことを知ってほしいとさえ望んだ。
だが、それも一瞬の泡沫の如く弾けてしまう。
「さては、教育熱心なご両親に無理やり送られて来たのかな?」
『無理やり』『教育熱心なご両親』…この二つの言葉を耳にした私は、はっとして拳を握った。
嫌な記憶が顔を覗かせている。月の裏側みたいに、絶対に見えないところに押しやりたい記憶だ。
アルトリアは自身の推理に熱中しており、私の異変などに気付かず言葉を続ける。
「アヴァロン学院は女学院だ。若い娘がどこぞの馬の骨のような男にかどわかされる心配もないし、携帯機器の使用が基本的に禁じられているから、濁った知識を得ることもない。大人になる直前まで、純な娘でいられる。—―そう考えて、ここに娘を送る親も多い」
ぴん、と立てられたアルトリアの人差し指。
真っ直ぐ、爪の先から手の甲が吊られているみたいだ。
「どうかな?当たっているんじゃないか?」
心拍数が上がる。心が、不規則に脈動する。
冷静になるため、違うことに意識を向けようとする。矛先は、にこにこと愉快そうな表情を浮かべている欧米人に向いた。
「――土足で、人の心に踏み入らないで」
発した言葉が自分のものだと分かるのに、たいして時間はかからなかった。
アルトリアは目を丸くして、「あ、いや」と言葉を滑り込ませようとしたが、何も聞きたくないと感じていた私に遮られ、再び沈黙を余儀なくされる。
「貴方に、私の何が分かるの…?」
興奮で肩が少しだけ上下していた。相手を否定するような言葉をぶつけるという経験に乏しい私の心拍数は、それだけでかつてないほど上がった。
これ以上、ここにいてはダメだ。
不安と後悔で、きっと息をするのもままならなくなる。
私は、「失礼します」とだけ発して立ち上がると、濡れたままの足で靴を履いて、その場を後にした。
背後から、アルトリアが悲しそうな、心配そうな声をぶつけてくるが、私は振り返らなかった。
堂々としている人間を見ていると、不意に胸をかきむしられるときがある。
私は――無知に甘えている人間が嫌いだった。
誰かに何かを求め続ける人間が忌々しかった。
努力している人間を傷付け、追い詰める人間が憎かった。
アヴァロン学院の教室は、私が思っている以上に現代的だった。
エアコンは付いているし、隙間風も入ってこない。机の天板にも傷はなく、黒板も美しい瑠璃色を宿している。
このような土地にある学院なのだから、てっきり、原始的な教室を想像していた。何もかも重厚な木でできた、そんな教室を。
震える瞳と声と、四肢をもって終えた自己紹介。地獄ではあったが、終わってしまえば一先ずの安寧は得られた。
そのせいで、まだ午前のうちだというのに強い眠気に襲われていた。緊張の糸が切れたのだろうが、一番は疑いようもなく寝不足だろう。
アルトリアのいる湖から離れた後、私は自分の部屋に戻った。
部屋では、七時前だったが純風だけが起きていた。彼女は集中した様子で、窓から入り込んでくる朝の光に向かって正座していた。
まだみんな眠っていると思っていたから、私は部屋に入るなり小さく悲鳴を上げてしまったのだが、純風はそれを聞いても微動だにせず、静かに、「おかえり。早起きなんだね」と呟いた。
何をしているのか気になったが、話し声を聞いて杏と梢が起きてきたため、それを問うことはできなかった。
それから、妙に気恥ずかしい空気の中、制服に着替え終わった私たちは、食堂で朝食を済ませてから登校したのだ。
(…よりによって、教室の一番前の席だなんて…)
人の視線が恐ろしい私にしてみれば、この席は地獄だ。常に誰かの視線にさらされ、見られているのではと不安にならなければならない。
昼休みになれば、早々に席を立った。一刻も早く、この場から離れたかった。
梢たちは、昼休みは寮の食堂で過ごすということだった。それが生徒たちにとっては一般的らしい。裏を返せば、食堂は人でいっぱいということだろう。
私は自室にでもこもろうと考えていた。緊張のためか、空腹もたいして感じておらず、一人の時間が必要と思ったのだ。
しかし…。
「ごきげんよう、湖月さん」
寮へと続く道の途中で、古めかしい挨拶と共に私に声をかけたのは、薊だった。
ウェーブのかかった茶色い髪、腕組みが似合う冷徹さが滲む面持ち、目元にある黒子。
その堂々とした振る舞いから、薊がスクールカーストの上位者あることは想像に難くない。
今日は、後ろに取り巻きらしい少女を一人連れている。そちらのほうはどこか不安そうにこちらを見ており、薊の後ろに隠れるようにして様子を窺っていた。
「ご、ごきげんよう…」
真似したほうがいいだろうかと、使い慣れない挨拶で返す。しかし、逆効果だったようで、薊は吊り上がった目元をさらに吊り上げた。
私は薊のことが恐ろしくなって、ぺこりと一礼するや否や、その横をすり抜けようとした。だが、そんな私の手を、薊はパッと何の躊躇もなく掴んだ。
「ひっ」
強く握られた手から、薊の形容し難い怒りが伝わってくる。
「貴方のせいで、色々と困ったことになっていますのよ」
真っ直ぐ向けられる、視線の矢。これは人を殺せる、とまで考えてしまう。
(あぁ…どうして、こうも…)
こちらが牙を持たないことを知ると、薊の後ろに隠れていた少女がずいっと前に出てきて言った。
「あ、薊の言う通りだよ、みんな、迷惑してるよ」
ぷすり、と針で突き刺すような一言。私の心は酷く落ち込んだ。
人に責められること自体、苦しいことなのに…二人がかりで指摘されると息ができなくなりそうだった。
私にとって、本当に迷惑かどうかなど二の次であって、誰かに攻撃の意思を向けられているということが大問題だ。
一歩、不安のせいで無意識のうちに後退する。それを許さない、と言わんばかりに少女がもう一歩近寄ってくる。
「だいたい、『剣の儀』を知らなかったなんて、嘘なんじゃないの?」
疑いの言葉に、ぎゅっ、と心臓が掴まれる。
そんなことはない、と弁明しようと思ったが、私にその勇気はない。
いよいよ反抗してこないことが明らかになると、獲物を追い詰める獣の如く、少女は小さな体を揺らして私ににじり寄って言った。
「アヴァロン学院に入ろうとする人間が、聖剣祭のことを知らないなんてありえないじゃん。どうせ、主役になりたくて、知らないふりして出てきたんでしょ」
――違う。
「それで、薊のオーサーが――」
「明鈴」ぴしゃり、と薊が少女に言った。明鈴とはどうやら名前らしい。「オースの話をこれ見よがしにするのはやめなさい。みっともないわ」
「ご、ごめん…」
しゅんと項垂れた明鈴は、とぼとぼとした足取りでまた薊の後ろに引き下がった。
知らない単語が混じっていたことで、話の流れが予測できなかったが、それは今に始まったことではない。
今はそんなことより、相変わらず私の手を強く掴んだままの薊のほうが大問題だった。
ぐいっ、と薊が私の腕を引く。それにより、眼前に彼女の高慢な顔が迫った。
気の強さを示す瞳が、瞬き一つせず私の瞳を覗き込んでいる。まるで、そこに宿る罪業を探しているようで、私は不安になった。
そのうち、『ほら、やっぱりお前は罪人だ』とでも言われそうで…。
不安と焦燥から、私は目を逸らそうとした。だが、空いているほうの手で無理やり薊のほうを向かせられて、逃げられなくなる。
「あ、あわわ…!」
なぜか、顔を真っ赤にさせて慌てている明鈴とは対照的に、薊の顔は真剣そのものだ。
「湖月玲…。貴方のように誇りの欠片もなさそうな人間が、アルトリア様の代役など務まるはずもありませんわ」
誇りの欠片もない、という言葉に心臓が痛くなる。
「わ、私…」
「人の顔もまともに見られない人間が新たな『王』だなんて――認めませんので」
氷の刃のように鋭く、冷徹な言葉に私は恐ろしくなって息を飲んだ。
薊が口にしていることの意味は、相変わらずほとんど分からない。ただ、彼女らが私に対して明確な敵意を持っていることだけは確かだった。
人の顔も、まともに見られない。
そうだ。私は人の顔もまともに見られない。
あの日から、視線が怖くて仕方がなかった。
(そんな私の居場所なんて…やっぱり、暗い部屋の中にしか…)
薄闇が足元に忍び寄っていた。
木漏れ日を縁取る影よりも、ずっと重い闇が。
それに飲まれて、呼吸もままならなくなっていた刹那、不意に花月寮のほうから大きな声が響いた。
「湖月さん!」
声に顔を上げる。
そこには、駆け足で寄ってくる梢と、それから、事態を寮の入り口から見守る純風と杏の姿があった。
今後も定期的にアップしますので、よろしくお願いします!