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鎮魂祭.3

 三月の、少しだけ肌寒いものの、穏やかな春を予感させる風が春休み直前の花月寮を包み込む。


 鋭くもあまりに美しい冬を越えた森は、新たな命の訪れに歓喜し、静かに揺れるばかりだ。


 とても贅沢な時間だ、と私は目的の場所を目指して歩みを進めていた。


 学院のそばまで出れば、中からは生徒たちの声がする。今日は安息日だが、クラブ活動に勤しむ生徒たちには関係ない。彼女らは瞬くような青春を貪るので一生懸命なのだ。


 私もどこかに所属しようか、などと考えてはみるものの、色々と悪目立ちした自分がすっと溶け込める場所などありそうにもなかった。


 鎮魂祭が終わった後、私や純風、帷は学院長室に引きずり込まれて叱られた。想像していたよりも静かに叱られたわけだが、理由を尋ねられ、私が一言、二言述べたところ、一気に話の雰囲気は変わった。


『貴方のお祖母様も、物静かなのに無茶をする人だった』。


 唖然として言葉を失っていたマルキオ学院長が、やっとの思いで発したのがその言葉だった。


 また祖母の話かと辟易とする気持ちもあったものの、悲しくも美しい思い出を、壊れ物でも扱うかのようになぞる姿に、私自身胸を締めつけられるような気がした。


 それからすぐに、薊や蘭香が自首するような形で学院長室に入ってきたため、今後、こうしたことは『相談抜きでは』二度と起こさないよう、という厳重注意で事なきを得た。


 生徒たちは変更をかけられた劇をどういうわけか前向きに解釈しすぎたらしく、『湖月玲がアーサー役を返上したのも、この劇のためだったのだ』と噂した。


 おかげで妙に攻撃的な態度をされることはなくなったが、みんなを騙しているようで気が気ではなかった。


 興奮が冷めて以後、一年生組――つまり、私と純風は派手にやりすぎたのでは、と不安になっていたが、一方の三年生組は心晴れやかといった様子だった。


 自分が綴った台本で好評を得られた小嵐帷は大変満足そうだったし、いつも振り回されていたアルトリアを最後の最後に振り回してやったことで、百日紅蘭香は幸せそうだった。


 私たち二人が杏や梢のおかげで言及を免れ、息を潜めて暮らしている影であれだけ爽快にされると、感心するような、呆れるような気持ちになる。


 正門から伸びる長い坂を下り、商店街に入る。


 手を振ってくれる住民たちに、精一杯の愛想を込めて反応すれば、彼らは酷く穏やかに笑ってくれた。以前、ここをアルトリアと共に訪れた際に、彼女が言っていた言葉の意味が今なら分かる気がした。


 商店街の古びた時計に目をやる。時刻は正午過ぎ、もう三十分もすれば日に数本しかない本土行きの船が出る。


 錆びた天蓋を抜ければ、アスファルトを温める日差しが頭上から降り注いだ。


 港が目の前にまで差し迫る。紺碧の海が穏やかに空の青を透過して輝いている。


 少しだけ離れた場所に白亜の鉄の塊が浮かんでいた。そして、そのそばには金色の髪を長く垂らすアルトリアの姿が見える。


 今日、アルトリアは学院から去る。


 彼女は、学院の経営を担うため、イギリスにある姉妹校への転院を自らの意志で選んで決めていた。


 もう、口出しはしない。


 約束したことだから。




「君は、約束の時間より、いつだって少し早くに到着する」


 小さな船をつなぐ杭の上に座って海を眺めているアルトリアが、こちらを振り返りもせずに言った。


「それがとても君らしい」


 普段のポニーテールではない。服装だって、今日はレースのフリルがついたブラウスだ。少なくとも男装には見えない。


「迷惑、でしたか?」

「迷惑?」そこでようやくアルトリアは振り向いた。いつもより女性的で心が高鳴る。「自分で出発の日を伝えておきながらかい?」


 アルトリアの手招きに応じて、私も彼女に近づく。昔なら、気障に杭のベンチ譲ってきそうなものだが、そうはならなかった。


 私は彼女の隣で真っ直ぐと立つと、白波立つ海を見つめた。


 あまりに大きい全生命の揺りかごを前にすれば、自然と背筋が伸びた。


「もう三月とはいえ、海のそばは冷えますね」

「ああ…。君も風をひかないように気をつけるんだよ」アルトリアが両手を広げて続ける。「君を温める両腕は、もう遠く離れていくのだからね」


 この芝居がかったコミュニケーションの取り方は、きっと一生変わらないのだろうと苦笑する。すると、彼女のほうも鏡映ししたみたいに同じ顔をした。


「別れの時間を悲劇にしてしまうのは、どうにも抵抗があってね。悪いとは思っているよ」

「いえ…それが自分らしいと思うのなら、貴方はそれでいいんです」


 首を傾けながら、「きっと」と付け足せば、アルトリアは一瞬だけ硬直した後、穏やかに微笑んだ。


「あぁそうだ、どうだい?この格好」と着ているものを見せびらかすようにくるくる彼女が回るから、私はろくにそれを見もせずに言う。


「ええ、とても可愛らしいです」

「む、ちゃんと見たかい?今。変な気遣いなら、結構だぞ。似合わない自覚はあるんだからな」

「本音をさらせと言った私が、貴方に嘘を吐くと思いますか?」


 そうだ。レースやフリルだって、アルトリアにはよく似合う。ギャップがあるというだけで。


「遠くからでも、ちゃんと見えましたから。――とても、可愛いです」

「そ、そうか」とアルトリアが恥ずかしそうに腕を組んだ。「そう真っ直ぐ褒められると、その…落ち着かないね」


「ふふ、そのうち慣れますよ。アルトリア先輩が可愛い服が好きだということを押し隠さなければ」

「それは善処しなくてはならないね」


 そうして私たちは、取り留めもないことを語り合った。


 アルトリアからは、蘭香が相変わらずうるさいということ、帷とは最後まで馬が合わなかったということを。


 私からは、ルームメイトと睦まじくやっているということ。薊の口調が少しだけ優しくなったことを。


 品のある笑い声を上げるアルトリアにならって、私も心の底から笑う。別れの前に神様が用意してくれた、優しい時間だ。


 そのうち、船の持ち主らしき年配の夫婦がアルトリアを呼びに来た。たしか、私も彼らに連れられてこの島まで来た気がする。


 そろそろ出発するよ、と純朴な笑みと共に告げられた言葉にアルトリアが爽やかに手を挙げて答える。


「ええ、分かりました。もう少しだけ、待っていて下さい」


 くるり、とこちらを振り返ったアルトリアは、じっと私の目を見つめた後、何かに耐えかねたみたいに一度視線を逸らした。しかし、ややあってまた顔を上げると、少しだけ潤んだ瞳で言った。


「…玲、もう、行かなくちゃ」

「はい」

「あのさ」アルトリアが一歩、距離を詰めて私の両肩に手を置きながら尋ねる。「抱きしめても、いいかな?」

「…ええ」


 アルトリアの動きを待たずして、私のほうから彼女の背中に手を回す。


 しなやかで、すらりと伸びた背中。それは、姉のことを私に強く思い出させた。


 彼女の香りを胸いっぱいに吸う。


 甘い。どうしようもないくらい、女である匂い。


「…向こうでは、当初の予定通り、経営の勉強をするよ」

「はい」


 結果的に、数ヶ月前の選択と何も変わっていないのかもしれない。だけど、それでも良かった。


 人が通る道には、三種類の道がある。


 一つは、意図せずしてたまたま通る道。


 二つめは、誰かに選ばされて通る道。


 そして、三つめは…。


「でも、一緒に服飾の勉強もする。お祖母様にかけあったんだ。そういう講師を探すことと、時間の確保をね」


 ――三つめは、自分の魂が選んで通る道だ。


「そう、ですか」


 つい嬉しくなって顔を上げると、酷く美しい彼女の顔が目の前にあった。


「相手もワガママを言うんだから、こっちも少しくらいはいいか、ってね。…本当に、玲のおかげだ」

「いいえ、違います。貴方が頑張ったんです、アルトリア先輩」


 ぎゅっ、と私を抱く両手に力が入る。


 互いに互いの瞳を覗き込んでいると、ややあって、アルトリアが自分の額を私の額にこつん、と当てた。


「いつかみたいに、アルトリアって呼んでほしい」


 数センチにも満たない二人の隙間。そこを流れる不可思議な、誰にも抗えないような力に背を押されて、私は小さく頷いた。


「アルトリア…」

「そうだ、その声だ。その声を思い出せるうちは、たとえそこが舞台の上であったって、僕は『私』を見失わない。なぜだか、そんな気がするよ」

「そんなふうに言ってもらえるなんて…嬉しい」


 はにかんで見せれば、アルトリアは苦しそうに吐息を漏らす。


「そろそろ行かなくちゃ…。でも、せめて、その前に、君の黒を――星々が慟哭する夜すらも凌駕するその美しい黒を、この震える心に刻み込んでおきたい」


 後ろに広がる蒼海よりも美しいサファイアが、すうっと閉じられる。


 近づく唇に、彼女が何を求めているのかを理解する。


 嫌ではなかった。むしろ、誇らしく、心臓が飛び出るほど嬉しかった。


 私は、静かにそれを受け止めた。


 柔らかく温かい、唇の感触…。


 数秒してから、アルトリアの瞳がゆっくりと開かれる。


 私は、互いの唇の間に割り込ませていた人差し指を少しずつ、アルトリアの唇に押し付けるようにして返すと言った。


「…駄目よ、アルトリア。――きっと、火傷と同じで、ぴったりと寄り添い合って生まれる熱よりも、引き剥がされてしまう痛みと傷跡のほうがずっと残ってしまうもの」


 悲しそうな、でも、それでいて満足そうなアルトリアの手を素早く取り、それから、拙い仕草で彼女の手の甲に口づけを落とす。


「何か辛いことがあったら、絶対にお手紙を頂戴、アルトリア。そのときは、一人の友として貴方と共に悩み、戦うから」


 目を丸くしてそれを聞いていたアルトリアは、ややあって、高らかに笑うと、私の手の甲にも口づけを落とした。


「ああ、お互いにね。約束だ」


 そうして、アルトリアは船に乗った。


 陽光を受けてきらきらと輝く水面より、ずっと美しい金色が水平線の彼方に消えるまで、私は彼女が座っていた杭の上に腰を下ろし、動かずにいるのだった。

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