鎮魂祭.2
アルトリアの困惑が手に取るように分かる。まぁ、混乱して当然だろう。台本をなぞるだけだった彼女は今、突然、それの通じぬ舞台に押し上げられたのだ。
心苦しいが、だからといって待っていてはあげられない。私に与えられた時間は刻一刻と迫っているのだ。
「さあ、抜いて下さい、アーサー。貴方の美しい剣と気高い心をもって私を貫かんとするのであれば!」
しばし、アルトリアの動きは硬直していた。時間にして数秒のことだが、舞台の上では十分に目立つ。
(大丈夫…アルトリア先輩が、このままじっとしているわけがない。そんなことをしたら、役目の放棄になるもの。望まれた自分を、演じきろうとするはず…!)
これもある種の賭けだったが、勝算は高いと考えていた。実際、アルトリアもこちらの予測に従った動きを見せた。
「『ラーンスロット、臆病者のお前が、僕の前にこうして現れるとは思ってもみなかったぞ』」
台詞と同時にするりと剣を抜く。偽物とはいえ、鞘滑りの音は本物そっくりだ。
…それにしても、臆病者とは。視線に怯える私を皮肉った言葉なのだとすぐに分かった。
少しばかりムッとしたが、それ以上に、私は小嵐帷の予測に感心せざるを得なかった。
「その言葉、そのままそっくりお返ししましょう」
私はアルトリアに応えて剣を抜いた。
今度は、アルトリアがムッとした顔をした。
今のは私のアドリブではない。元々、帷に渡された台本に書き込まれていたものだ。
始めるまでは、あらかじめアルトリアの反応を計算に入れて台本を作るのは危険なのではと思っていたが、杞憂だった。
「ぼ、僕に向かってその口の利き方…随分と偉くなったものだね、ラーンスロット」
ゆっくりとアルトリアが構える。発せられた言葉は、きっと本心からのものだ。
「貴方が融通の利かない頑固者だから、こうなったんです」
私も、彼女の動きに合わせて剣を構える。
右手を柄の下に、左手を柄の上部に。
ぐいっと剣を目の真横辺りに持ち上げれば、わあっと歓声が鳴った。
幸運なことに、オーディエンスのほとんどが舞台に集中しているようだ。この物語が予定調和のものかなど、彼女らにとってはどうでもいいらしかった。
「…おいおい、本気か…?」
アルトリアが誰にも聞こえないくらいの声で言った。
台本にはない。彼女自身の言葉が引き出せたことに、胸が高鳴る。
「私は本気です。躊躇などいりません」すうっと、息を大きく吸う。「さあっ!行きますよ、アーサーっ!」
こんな大声を出したのは、いつ以来だろう。
そんな些細なことを考えながら、私は加速した。
アルトリアの顔が驚愕に歪む。これほどの勢いで突っ込んで来られるとは思ってもいなかったのだろう。
もちろん、私には剣道の嗜みはない。運動神経は悪くない自負はあるものの、やはり素人だ。
だが、これはあくまで舞台であり殺陣。台本に沿った動きをすればいい。そして、それが喜劇じみて見えないための血の滲むような努力なら、十分、重ねてきた。
純風が殺陣の練習を始める前に、苦笑しながら言った言葉を思い出す。
――私、覚えるのは得意だけど、教えるのは苦手なんだよね…。だから、ごめん、体で覚えてね?
純風の宣言は決して謙遜ではなかった。相次ぐ感覚的な表現と、本気で打ちのめすつもりなのかと錯覚するほどの打ち込み…。
正直、二度と純風からあの手の教えは請いたくない。
だが、青痣の残る苦労の甲斐はあった。
一拍遅れてではあるが、アルトリアがボールスとするはずだった台本に沿って剣を振り下ろしてくる。
斜めにした両刃の剣で受け止める。
当てるだけの軽い斬撃に甲高い音が講堂に響く。
弾き返し、懐に飛び込む。左から思い切り薙ぎ払えば、アルトリアは反射的に受け止めた。
「ちょっ…」
動揺している。当然だ。普通、こんな強さで打ち込まない。
怪我をしてはならないから、あくまで台本には沿う。だが、たとえ台本通りにやったって、上手くいかないこともあるのが現実だ。それをアルトリアに伝えなければならない。
「お、お、おい、殺す気か、玲」ぼそぼそとアルトリアが呟く。「こうでもしないと、私たちがどれだけ本気なのか分からないでしょう、頑固者で格好つけの貴方には」
こちらも静かに返し、鍔迫り合いの状態から、強く弾いて距離を離す。
「くっ…」
ぐらり、とよろめくアーサーの姿に会場がどよめく。迫力満点の殺陣に興奮しているようだ。
「いいだろう、君がその気なら…!」
私の行動に苛立ったのか、眉間に皺を寄せてアルトリアが間合いを詰めてくる。
「僕だって!」
ぶんっ、と力強く剣が振り下ろされる。予想通り、アルトリアもムキになって応戦してきた。
これも帷の予想の範疇。
私は、これに対する準備だって万全にしてきた。
元の台本通り、振り下ろされる剣撃を素早く横に受け流す。ぞっとする勢いではあったが、純風ほど殺気立っていないし、キレもない。
舞台の左から右へと、互いの位置を変える。そして、どちらからともなく肉薄し、鍔迫り合いの形になった。
会場が沸き立つ。一部の人間以外は、劇の改定はサプライズだと考えていることだろう。それほどまでにスムーズに事が運んでいる。
もう、私に残された時間は少ない。台本では、私の出番はそろそろ終わりなのだ。
間近に迫った、アルトリアの端正な顔を見て焦る。
すると、彼女が表情を歪めて口を開いた。
「この分からず屋め、こんな真似までして…!僕が答えを変えれば満足なのか、君は?僕にどうしろと言うんだ。しょうがないことだろ、そういう運命なんだからね…!」
確かに、どうしてほしいのかと問われると明確な答えはない。
ただ、私はアルトリアが、役目を全うすることを最優先にして自分を殺して生きることが、どうしても許せないのだ。
それに…。
「――どうして、そんな顔をなさるのですか?」
「何?」
「苦しそうです。貴方は、いつだって」
「ぼ、僕は」
「いつも飄々としていて、抜け目ない。柳が雪折れを知らないかのように振る舞い、完璧な微笑みを作ってのける貴方は――いつだって、苦しそうです!」
もう、最後の場面に入る。許された言葉は少ない。
「貴方だって、本当はこんなことしたくないのでしょう!?役目?運命?それがなんですか、貴方はっ…!」
言葉を処理するので忙しいのか、アルトリアの手から力が抜ける。それは、幕を下ろすのに好都合ではあった。
一瞬の隙を見て、身を離す。ハッと我に返ったらしいアルトリアは、台本に沿って練習した唐竹の動きにほぼ反射的に移行していた。
振り下ろされる一閃。
大丈夫、見えている。最後まで目で追えと、純風が叩き込んだ通りに。
「王である前に、一人の人間でしょう!?」
刃を滑らせ、下からすくい上げるように相手の剣を弾く。
カンッ、という高い音が響いた後、アルトリアの握っていた剣が宙を舞った。
ゆっくりと舞台に落下した剣を見届けた後、戦う武器を失って佇む『アーサー』の首筋に剣を水平に当てた。
「私、だって…こんなこと、したくありません」
「れ…ラーンスロット…」
「貴方は恩人で、尊敬すべき人間で…」
大好きだったお姉ちゃんにそっくりで、と心の中で付け足しながら、残された時間の最後の一滴を絞り出す。
「私にとって、とても、大事な人です」
すぅっと、剣を引く。言葉を飲み込むようにして、鞘に剣を納める。
カチン、と音がしたときにようやく、会場中が静まり返っていることに気づいた。
一歩、二歩と後退する。
背を向ける前に、ぼそっと告げる。
「…私は、貴方の選択を尊重します。もう口出ししません。ですが、願わくば…少しでも後悔のない選択を」
もう、時間だ。
外は、美しい夜の光に覆われていた。
桟橋の先に見える島には一つ、二つと蝋燭の光が揺らめいていて、僕が迷わずに済むようになっている。
「さ、ついたわよ。アルトリア」明るい声音でそう告げたのは蘭香だ。久しぶりに柔和な表情を見た気がする。
「…見れば分かるさ」
僕が不機嫌そうにそう返せば、蘭香はくすくすと童女のように笑った。
「なぁに?みんなにいっぱい食わされてご機嫌斜めなの?」
「ふん。薄々勘づいていたが、君もこの件に一枚噛んでいるんだな?」
「当然。そうじゃないなら、途中で私が止めているわ」
それもそうだ、と鼻を鳴らす。
僕をはめたのは、玲や蘭香だけではない。玲のルームメイトである北条純風はもちろんのこと、その後に出番のあるベディヴィア役の薊、それから、僕のルームメイトでもあり、モルドレッド役でもある小嵐帷もそうだ。
揃いも揃ってだいそれたことをしでかしたものだ。当然、蘭香や薊を除いた三人は、劇が終わり次第、学院長に呼び出されている。帷は黙っていればバレないはずだったが、その精神性の気高さというか、怖いもの知らずなところもあってか、自ら共犯を名乗り出て連行された。
学院長らに連れられて舞台袖から消える帷が、最後にこちらを見て口の動きだけで伝えた言葉を思い出す。
――ざまぁみろ。
(…全く、帷の奴は本当に…)
最後の最後まで、私の予想を尽く裏切ってきたルームメイトの顔を思い浮かべる。彼女との思い出は、驚きや呆れと常に共にあった。
「さぁ、アルトリア様。こちらを」
オールを手渡そうという薊のことを、じっとりとした目で見つめる。義理堅い彼女なら、一言謝罪くらいあるかもと思っていたのだ。
しかし、薊は私のそんな気持ちを知ってか知らずか、軽くため息を吐いた。
「そのように恨みがましい目つきはおやめ下さいな。綺麗な顔が台無しですわよ」
「いつぞやの意趣返しのつもりかい?全く、君までこんな馬鹿げたことに参加するとは、思ってもみなかったよ」
「馬鹿げたこと?」と急に薊の眼差しが鋭くなった。「たった一人の人間を勇気づけるために、多くの者たちが慣例を破って行動した。日本人が、日和見主義的で、変化を嫌う傾向にあることを思えば、私は下らないこととは思いません」
「…すまない。言い方が悪かった」
僕は素直に謝罪した。薊の魂を非難したと直感したからだ。
「だが、それでも意外だという気持ちは変わらないよ。そうだね…そう、君が玲に協力したことが一番の驚きかな。君は玲のことを嫌っていたんじゃないのかい?」
ぴくっ、と薊の眉が跳ねる。
図星かな、と思えたのは一瞬のことで、僕は初めて見る薊の表情に言葉を失うこととなった。
不服そうな、それでいて照れているような…。何か言葉を探しているようだが、僕にはそれがどんなものか想像できないでいた。
「…どうして、みなさん揃ってそういうふうに言いますのかしら。私は湖月玲のこと、きちんと尊敬していますのに…」
それは君の日頃の態度と発言だ、と頭の中では言葉が浮かぶのに、口から出ていかない。薊が僕に見せることのなかった少女然とした表情に、まさか、と思ったのだ。
「な、なんだい。その顔は?」
「え?」
「いや、だから、その…」
恋する乙女みたいな顔は…と口にするのは避けた。
ここでの言及は、あまりに無粋だ。
こほん、と咳払いしてみせた薊は、僕にオールを手渡して小舟に乗せると、「いってらっしゃいませ、アーサー様」とスカートの裾を持ち上げて挨拶した。
「アルトリア、貴方の最後のお役目よ。生まれ変わっていらっしゃい」
「…ああ。最後の、だね」
蘭香に薊と同じ挨拶で見送られ、僕はゆっくりとオールを漕ぎ始めた。
「いいこと、アルトリア!私たちがどれだけ本気で貴方のことを心配したのか…あの島でよぉく考えてらっしゃい」
返事代わりに大きく手を振る。あっという間に、彼女らの姿は小さくなった。
静かで冷え切った湖面を、オールを漕いで切るように進んでいく。
深く息をすれば、清冽な空気が僕の脳をクリアにした。
玲や蘭香たちが、どれだけ本気で心配してくれたかだって?
「――そんなこと、言われずとも分かっているさ」
玲が振り下ろした、率直な魂の激動。
この胸に届かずに、どこへ届くというのか。
僕は、小舟が島に着くまでの永劫に近い時間、これからの自分がどうあるべきかということばかりを考えていた。




