凍えるような寒さのなかで.3
「本当にいいの?」
物音一つしない暗がりの中、向かい側のベッドから声が聞こえた。
聞き慣れた声、お節介者の百日紅蘭香の声だ。もう三年も一緒だから、声だけで誰か分かるようになっていた。
僕はというと、寝台に乗っていながら横になることはせず、ただ二枚の毛布にくるまって漆のような闇を見つめていた。
眠っているふりでもしようかと思ったが、狸寝入りなど蘭香には通じない。彼女は、僕の本性を知る数少ない人間なのだ。
「…いいも悪いもないよ。玲がああ言ったんだから」
上で眠る帷を起こさないよう小さな声で答える。もっとも、すでに起きているかもしれないが。
「それにしても、無責任ね、全く」
「…おい、玲のことを悪く言うな。彼女は悪くない」
玲のことを無責任とは思わなかった。彼女の怒りは無理もないし、先に失望させたのは僕のほうなのだから文句を言える身ではないのだ。
「分かっているわ。無責任と言ったのは貴方のことよ、アルトリア」
厳しい口調で返され、頭が重くなる。余計な勘違いをしてしまった。
「湖月さんの事情に首を突っ込んで、偉そうなことを言って…。出来た人間のフリをしてしまうから、こういうときに困るのでしょうに」
「…正論だ。あぁ、嫌味なくらいに正論だよ」
「それで、どうするの?」
「どうするって、何が」
「決まっているじゃない、鎮魂祭よ。湖月さんがアーサー役を引き受けてくれないのなら、代役がいるわ」
ため息が出そうだった。蘭香の心配ももっともだが、結局は逃れ得ない運命だったのだと感じられて辟易とした。
「そんなの、僕しかやれないだろ」
「ほぅら、またそれ」
「うるさいな、なんだ、その言い方。事実だろ、今さら、アーサー役を引き受けられる人を探すなんて、絶対にできない」
「それで?どうして貴方がしなくてはならないの?」
「だから、やれるのは僕だけなんだって。それともなんだ?君がやるのか、アーサー」
「あら、絶対にごめんよ」
「だったら、偉そうな口を叩くなよ」
「あのねぇ、私は貴方に、『私は断れるから問題ないわ』って言いたいのよ」
意地の悪い蘭香の言い方に、ムッとしてベッドから身を乗り出す。暗闇に慣れ親しんだ目が、壁にもたれかかる彼女の輪郭を捉えた。
ぎらぎらと、普段は慈愛に満ちている蘭香の瞳が輝いていた。怒っている、と直感した。
「あんなふうに言ってくれる後輩、そうそう出来ないわよ」
「…」
「私だってね、本当は湖月さんの言うことに賛成して、貴方の本音を引きずり出してやりたいと思うのよ?そうしないのは、自分が貴方の弱さをさらけ出せる数少ない人間だと自覚しているからよ」
耳を塞ぎたくなる言葉だった。分かってはいたが、蘭香だって、僕の背中を突き飛ばしたいのだ。
黙ったまま、見えもしない互いの顔を見つめ合っていると、そのうち、帷が耐えかねた様子で、「うっせえぞ。いい加減、寝ろ、お前ら」と言った。それにより、僕らは口を閉ざして床に就いた。
考えなければならないことは、沢山ある。
そう、鎮魂祭の劇だってその一つだ。
蘭香はああ言うが、玲がやってくれないなら、アーサーは自分がやるしかない。
各学年から何人か選出して配役が決まる、鎮魂祭の劇。
アーサー王、最後の戦である『カムランの戦い』とその前景が描かれた劇となり、すでに配役も決まっていた。その中には、僕や玲が親交深い人間もいる。
アーサーと共倒れになるモルドレッド役に、ルームメイトの小嵐帷。
アーサーの死後、剣を湖に還すベディヴィア役に、僕のオーサーでもある水宮寺薊。
剣を受け取る湖の乙女役には、引き続き百日紅蘭香。
前景となる戦いで刃を交えるボールス役に、玲のルームメイトである北条純風。
そして、アーサー役には…僕が納まるわけだ。
選出の基準としては、ある程度の運動能力が備わっていることが挙げられる。これは、円卓の騎士役には劇中で殺陣をこなしてもらう必要があるからである。
なんだかんだ迫力のある打ち合いにはなるので、玲が役から降りたことはその点だけは安心できるかもしれない。玲の普段の書痴ぶりからして、とても運動神経が高いふうには見えない。
(…やっぱり、最後の最後まで僕には『アーサー』がつきまとうか。まぁ、いいさ。求められた役柄を演じるのは得意だからね…。最後まで、踊り切ってみせるさ)
アヴァロン学院で過ごす最後の師走は瞬く間に駆けた。クリスマスや大晦日では、再びアーサー役を演じる準備としても、多くの生徒たちの前に顔を出して過ごした。
浴びせられる衆目と、王、あるいは王子と称える言葉を受けて、僕は心が冷え切っていくのを感じた。
ここに『私』の居場所はない。あるのは、理想の男性像を押し付けられた僕の影だけ。マリオネットさながら、自分以外の『みんな』に操られる、愚かな道化人形。
そうして、あっという間に鎮魂祭の日がやってきた。
アーサーのきらびやかな衣装に身を包んでいると、『おかえり』と誰かが言っている気がした。苦笑混じりで、『ただいま』とぼやけば、祖母には、「何を一人で言っているの?」と笑われた。
劇は講堂で行われる。そして、劇が終わると、アーサー役の僕は蘭香に連れられて小舟で湖を渡り、林檎の木がある小さな島へと流されるのだ。
手が込みすぎている劇だ。それなのに、島へ渡る際は乙女役とベディヴィア役以外はそれを見ることすら叶わない。アーサーはその場所で死ぬのだ。
島につけば、僕は制服に着替えて小舟に戻り、学院へと引き返す。そして、次の聖剣祭までアーサーはいなくなる。
ある種のループだ。季節の流転に従い、僕は何度もこの役目を全うしてきた。三年目だけは少し違ったが、結局、辿り着く場所は同じだった。
アーサーの役目自体からは、もう逃れられるだろう。転院するし、そもそも、四年生、五年生はこのループする催し物には参加できないからだ。
しかし、与えられた役目からは逃れることはできない。それは僕の二十年足らずの人生で十分に思い知らされたことだった。
僕は由緒正しきアヴァロン学院と、その姉妹校のために青春を捧げる。人柱になるつもりでいるが、誰にこの苦悩が分かるだろう?数少ない理解者たち以外、僕の人生は羨まれて然るべきだと考えている人間のほうが多い。
パッ、と舞台の照明が点灯した。
幕が上がる。僕は、それを止める術を持たない。
人の生が、常に自分の意志とは無関係な幕開けと共にあることと同じように。
(…閉ざすことだけが、自由と共にある。湖月早霧も、そう考えたのかな…)
僕は祖母である学院長に頷くと、アーサーの側近でるガウェイン役の二年生を伴って舞台に上がった。
眩しいスポットライトが当たるこの場所こそ、僕の居場所だと心の底から思う。きらびやかだが、決して自分の意志など表には出せない。あるのは台本だけだ。
全校生徒が見守る中で、僕とガウェイン役の生徒は台詞を読み上げる。日々の練習と天賦の才によって、瞬く間にアーサーは血肉を帯びて僕の中に蘇った。
人々の視線がこの器に注がれているのを感じつつ、僕は誰にも気づかれないよう、講堂の一年生の列の中に玲の顔を探した。しかしながら、どこにも見当たらない。ずっと後ろのほうなのか、それとも、こんな情けのない僕の姿などもう見たくはないのか…。
僕が、ふっと、自嘲気味の微笑を浮かべているそばで、ガウェイン役の生徒が舞台袖に戻っていく。
これから、僕とボールス役の生徒――北条純風による殺陣が行われる。
アーサーが『ある騎士』との一騎討ちを望むも断られ、代わりに現れたボールスと刃を交えることになるシーンだ。
純風とは何度かリハーサルで手合わせをしたが、演技とはいえど、鬼気迫る立ち居振る舞いで、本当に斬られるのではと不安になるほど鋭く、切れのある動きをする生徒だった。
結果として、アーサーはここで一度敗れることになるのだが、情けをかけられ、殺されることはない。
僕は、他にどうしようもないのだ、という気持ちを込めて、ある騎士の名前を呼ぶ。実際に、アーサーはその騎士に絶大な信頼をおいていたとされるから、そこまで間違った解釈ではないだろう。
「『出てこい、ラーンスロット!僕とお前とで、決着をつけようじゃないかっ!』」
決して、誰も答えるはずのない問いが、静寂を生んだ。
数秒おいて、この後、純風が現れる。そして、ある騎士の代わりに一騎討ちを受けると申し出る…――。
「それが、貴方の望みですか」
ドクン、と心臓が一つ大きな鼓動を打った。え、という声を抑え込んだ自分が信じられないくらいに驚いていた。
驚いたのは、返事が返ってきたからというのもあるが、それが一番ではなかった。
(こ、この声は…まさか)
漆黒に彩られた反対側の舞台袖で、一つの影が一歩前に出てくる。
顔は見えないが、足元は黒い軍靴を履いている。
「私と刃を交え、そして、私の命を断つこと…それが、貴方の本当の望みですか」
一瞬の静寂の後、影が、「いいでしょう」と答えた。すでに何人かの人間が予定外のことが起きていることに気づいたらしく、囁き合っていた。
だが、誰も舞台を止める様子はない。当たり前だ。伝統あるこの舞台を止めるなんて、そんな度胸、誰にもないのだ。
もしも、それができるとしたら。
その人物は、『その強さ』を持つ人間だということになる。
自分を偽らず、ごまかさず。本当に大事なもののために、自らの恐怖や不安、決められた台本すらも撃破してしまう強さを持つ人間ということに。
コツ、コツ、と影が舞台上に現れた。
アーサーの衣装を黒と紫で染めたような彼女の姿を見たとき、『私』は心の底から思った。
「その呼び声に応じることで、貴方の本当の望みに触れることができるなら。私は逃げも隠れもせず、貴方の前に現れ、剣を交えましょう。愛すべき我が王、アーサー」
彼女こそが、本当の『王』に相応しいのだと。
…そもそも、すでに完成している物語に独自の解釈やストーリー展開を加えることは、唾棄される行為だろう。
(でも…ラーンスロットを活かさない手はないわ。アーサーを主軸にして回る学院では、意図して存在を薄められている、この裏切りと高潔を身にまとう騎士を…)
一月、年始の忙しさとは無縁の私は、今日もいつも通り図書館四階の窓際の席で思考を巡らしていた。
思いついた計画をノートに書き込み、練り続ければ練り続けるほど、その荒唐無稽さにため息が出そうだった。
とても実現可能とは思えない。その理由はいくつかあったが、そもそも台本を作成した経験などないため、割り込んだところで滑稽なお遊戯になりそうな気がした。
頬杖をつき、深いため息を吐く。勇み足でアーサー役を降りると宣言したものの、思っていた以上に現実は難航していたが…。
救世主は、思わぬところから現れた。
「お前、今日も難しい顔してるな」
「え?」
お前とはまさか、自分のことかと振り向けば、そこにはアルトリアのルームメイトである小嵐帷が立っていた。
分厚い本を何冊か抱えた彼女は、許可も取らずに私の隣に座ると、本も開かずにこちらを観察してきた。
「…あの、どうかされましたか?」視線に耐えかねて、横目で帷を見やる。
「何をしているんだ?それ」
帷が指さしたのは、このままでは妄想帳にしかならないノートだ。
すっと腕で隠しながら、「何でもありません」と返せば、帷は皮肉な笑みで、「ふぅん」と呟いた。
一体、何のつもりだろうか。帷が時折図書館にいるのは知っていたが、どうして今になって私に絡んでくるのか…。
帷は隣で重厚な本を開くと、しばらくの間、無言で文字をなぞっていたのだが、不意に思い出したように口を開いて言った。
「それで?一体、何を考えている?」
「な、何のことですか」
「とぼけるな。お前、ここ最近ずっと、そうやってノートと睨み合いしているだろう」
「…別に、試験勉強をしているだけです」
「嘘だな。その証拠に、お前はレジュメも教科書も出さずにノートへの書き込みを行っている」
「あ…」
「すぐにバレる嘘を吐くな。時間の無駄だ」
それはそうかもしれないが…随分な物言いだ。杏の口調をより過激にしたような印象を受ける話し方である。
「…つまり、そのノートにはお前の頭の中のことを記入しているはずだ。――で、何を考えているんだ?」
頭の回転が速い人間ではあるようだが、間違いなく変人だ。人のことを『お前』呼ばわりするし、この学院において、あまりに悪目立ちする男言葉だ。
「ぷ、プライベートなことですから、先輩には関係ありません」
「関係があるかどうかは、内容を聞いて私が判断する」
ぶすっとした顔をされて一瞬怯んでしまうも、滅茶苦茶な言い分をしているのは私ではなく、帷のほうだと思い直す。
私はノートをぱたん、と閉じると、非難の気持ちを込めて相手を睨んだ。しかし、帷は怯むどころか、むしろ楽しそうに口元を歪めた。
「ふん…。まぁ、アルトリアに拒絶されて自暴自棄で役を降りるような女だ。呪詛の言葉でも書き込んでいるのかもしれないな」
「じ、自暴自棄なんかじゃありません!」
しんと静まり返ったフロアに私の声が響く、カッとなってしまったと後悔していると、帷がわざとらしく唇の前に人差し指を立てた。
「図書館では静かに、だろ?」
「…誰のせいだと思っているのですか」
「ふ…。で、自暴自棄じゃないとしたら、なぜ、アーサー役を降りた?もちろん、あてつけでもないんだろ」
「それは…」
言い淀む私に向かって、帷は怪訝な顔をしてみせる。まるで私の心の内側を覗こうとしているみたいだった。
「もう一度言う。お前は何を考えている?頭の中のことを話してみろ――内容によっては、何か力になってやれるかもしれない」
帷の言葉に、私は目を丸くする。
まさか、すでにノートの中身を見たのだろうか?そうでなければ、全くの無関係でしかない帷が私に協力など申し出るはずがない。いや、知っていたとしてもおかしな話だが…。
「アルトリアに説教垂れるような奴の考えることだ。何か、あいつに関係のあることなんだろ?」
「…っ」
「図星だな。話せ。悪いが、私はしつこいぞ」
帷の言う通り、彼女は一度噛みついたら離れそうにもないタイプの人間だった。数分の間、建設さの欠片もない話をしているうちに、私はもうどうにでもなれという気持ちになっていった。
そうして、私は周囲に絶対に聞こえないよう注意したうえで、ノートの中の妄想的な計画を語った。
帷はその話の間、表情一つ変えなかった。だが、やがて私が説明を終えると、口元を抑え含み笑いを漏らした。
馬鹿にされている、やはり、話さなければ良かったと後悔したのも束の間、彼女は一瞬で能面みたいな顔になると、窓の外をじっと見つめた。
深い思考の海に飛び込んでいるのが、なんとなく分かる。邪魔をすれば、噛みつかれるのも。
「…大人しそうな顔に似合わず、とんでもないことを考えるな、お前」
「お前ではなく、湖月です」
ずっと言いたかったことを指摘すると、帷は、「名前などどうでもいい」と手を振ってから続けた。
「荒唐無稽な話に聞こえるが…実現すれば、確かにあの馬鹿の目ぐらいは覚まさせてやれるかもな」
意外な返答に目を見開く。すると、帷が私のノートを指さした。
「そいつを寄越せ。どうやら、面白くなりそうだ」




