凍えるような寒さのなかで.1
夕刻前、私は、秋化粧を施された中庭を梢と共に歩いていた。
辺りは祭りの朗らかな喧騒でいっぱいだ。生徒たちはめいめいに笑い、飛び跳ね、夏が終わらぬよう一生懸命駆ける子どもたちのように祭りの暮れを過ごしている。
石畳に足音を染み込ませるように進んでいると、「見て、アーサー役の子」と上級生から指をさされた。さっきから、もう何度もそうして声をかけられたり、遠巻きにされたりしているが、私は一切、何の反応も返さなかった。
それはきっと、少女たちのニーズを満たさない行為だったのだろう。中には小さな声で私の態度を非難する者もいた。
だが、今の私にとってそんなものはどうでもよかった。
『そいつは、イギリスにあるアヴァロン学院の姉妹校に転院するんだよ。将来、そこの学院長になる土台作りのためにもな』
帷の言葉が、頭から離れなかった。
アルトリアは私に、四年生に上がったら、『服飾科』に行きたいと語っていた。美しい服を作り、絢爛で可憐なものの中で生きていきたいと。
アーサーの役など忘れて、私がそれを確かめると、アルトリアは酷く顔を紅潮させて気まずそうに目を逸らした。そして、代わりに帷が答えた言葉が…。
『冗談だろ、アルトリアが服飾?ガラじゃないね。――…よしんばそれが本当だったとしても、こいつにそんな道はない。こいつはな、生まれたときからそういう運命なんだよ。学院長のばあさんも、母親も、そうして学院の伝統を守っているんだからな』
…普段は気になる語気の強さすら、私の心を揺さぶらなかった。
アルトリアが、転院する。
それはまだいい。部外者が口出しするところではない。だが、それは彼女の望みなのか?
語った言葉は、偽り?
…いや、そんなはずはない。気恥ずかしそうに顔を逸らしたあの仕草は、いつもは本心を押し隠している人が、真実を語ったからこそ見られるものに違いない。
頭の中を色んなことがぐるぐると回っていた。
仮面のこと、転院のこと、伝統を守るということ、本心を押し隠したこと、彼女の夢が否定されたこと、そして、自分が私の姉に似ていると語ったこと。
子どもが結ぶ靴紐のように絡まり合った思考の中、ただ、このままでは納得がいかないという気持ちだけが高まっていく。
悶々と石畳の隙間を見つめて歩いていると、出し抜けに、前方の梢が後ろを振り返って言った。
「何か、食べたいものはないの?玲、今日もとっても頑張ってたから、私おごっちゃうよ」
普段なら眩しいと感じる笑顔なのに、今はその光すら曇って見えた。曇っているのは自分の心のほうだと、嫌でも分かる。
そのせいで、私は梢の笑顔に何も返すことができなかった。さっきから、こういったやり取りが何度も続いている。
せっかく誘ってもらったのに、こんな態度は失礼だ。だが、とてもではないが、今は祭りを楽しめる気分でもない。
西へと沈んでいく太陽が、橙色の残光を学院の壁に刻む。ノスタルジックな輝きだけが、今の私の胸に共鳴し、悲壮感を募らせた。
早霧が追い詰められていく日々が脳裏に蘇っていく。苦しい時間だった。一番苦しいのは、窮地に立たされているのが自分ではないというところだ。
他者の苦しみのほうが、私にとっては辛いものだ…。
思考の海に没しているうちに、また梢が口を開いた。ただ、今回は振り向くことはなかった。
「…さっき言ってたアルトリア先輩のこと、そんなに気になるの?」
沈鬱な口調だ。梢にも気を遣わせて、自分はなんと情けがないのだろうか。
気付けば、人の少ない通路を歩いていた。梢に導かれるまま移動していたから、気にも留めていなかったが、もう、ここより先に屋台や店はない。
「…ええ。ごめんなさい、せっかく誘ってもらったのに」
今度は、梢のほうが反応を示さなかった。呆れられたかもしれないと、俯いて歩いていくうちに湖の畔に辿り着いていた。
私たち以外、誰もいなかった。まぁ、祭りの真っ最中だから、こんなところに来る人も少ないのだろう。
静かだった。物音一つしなくなった、早霧の部屋に流れる静寂とよく似ていた。
宵を待つ秋の日暮れ。高い音色を奏でる風が耳元で囁き、そして、梢の感情の読めない横顔を撫でている。
風で煽られぬよう、私は髪を押さえた。だが、梢はどれだけ強い風が吹こうと、身動ぎ一つ取ろうとはしなかった。
息が詰まりそうな感覚が、私を襲う。久しぶりに誰かと共にいることが怖くなった。
梢の考えていることが、一ミリも分からない。
言葉もなく俯いていると、やがて、梢が無機質なトーンで呟いた。
「それってさ、本当に玲が気にしなくちゃいけないこと?」
「それは…」
「こんな言い方されるのは嫌かもしれないけど、今回の件、完全に先輩のお家の事情だよ。多分、部外者が口を挟んでいいことじゃないと思う」
梢に珍しく厳しい物言いをされて、つい唇を噛む。
確かに梢の言っていることは、疑う余地もないほど正論だ。だが…。
無意識のうちに拳に力が入った。
脳裏に浮かぶのは、アルトリアの窮屈そうな笑みと、早霧の話を聞いたときの怯えたような表情。
(――私たちは、すでに互いに踏み込み合ってしまっているわ)
早霧を通じて、私たちは本来人には語るべくもない、心の裏側を覗き合っている。
そんな月の裏側みたいな場所で時を共にした私とアルトリアに、もはや、他所様の事情だなどという逃げ道は適用されない。
「…それはそうかもしれない。けれど、私はこのままにしていたくない」
「なんで、そこまで…」
「私は、気高く生きるために、自分をごまかしたくはないわ。…それができるなら、そうしろと…先輩も言っていたもの」
梢の顔が歪む。わからず屋、と言っているようだった。
「アルトリア先輩が自分をごまかして生きていくつもりだとしても、私はそれをただ黙って受け入れるつもりはないわ」
「だから、人様の事情なんだよ?首を突っ込むなんて、気高いとかなんとかとは、真逆じゃんか」
「あの人だって、私の事情に踏み込んだ」
反射的に答えてから、梢には分からないことだとも思ったが、構わず、自分に言い聞かせるという意味で続ける。
「それに、気高いと感じるものは人それぞれよ。生き方の問題なら、私が決めるべきだわ」
少し拒絶的な解答になったことは後悔しながらも、私は自分の選択を、それを選べるという自分を誇りに思った。久しぶりに、自分のことを好きになれそうだと思った。
だが、直後、渋面を作った梢が決然と放った言葉にフリーズしてしまうこととなる。
「――事情って、玲のお姉さんのこと?」
放たれた言葉の意味を理解するのに、十秒ほどの時間がかかった。
「こ、梢…今、なんて…」
「…ごめん。玲のお姉さんの話、少しだけ聞いちゃった」
「聞いたって…一体、誰から…!?」
「誰から聞いたかなんて、今はそんなことどうでもいいよ」
良いはずがないだろう、と目くじらを立てる寸前、突如、私の手のひらを覆った暖かな感触に驚いた。
梢が、とても強く私の手を握っていたのだ。
「玲、聞いて。アルトリア先輩は、玲のお姉さんじゃないよ」
ドクン、と心臓が収縮する。息ができなかった。
「我が身を惜しまずに努力するところ、お姉さんとそっくりなのかもしれない。だけど、先輩は先輩。お姉さんはお姉さんだ。誰か一人の人間を、他の誰かと重ねて考えるなんて、失礼なことだと私は思う。とても誠実とは思えないし、その人のためになるとも思わない」
一体、どこまで知っているのだ、という感想はそのときはとても浮かばなかった。それどころではないほどに、梢の瞳に宿る熱量は激しかった。
「だから玲は、自分のために生きるべきだ。他人に引きずられて生きるんじゃなくて、今を生きることに集中しなくちゃ」
たぎる焔を彷彿とさせる彼女の勢いに押されているうちに、私は、手のひらに何か硬い感触を覚えた。
つながれている二人の手に視線が落ちる。それに気づいた梢が、頷きながら私の代わりにその手のひらを開いた。
私の手の中で夕焼けを吸い込んで光る、銀のブローチ。
象られた、剣と百合の花があまりにきらびやかに、心を透かすように輝くせいで、私は一時息をするのを忘れて魅入ってしまっていた。
剣と百合がモチーフになったブローチ――アヴァロン学院の校章だ。そして、それは、オースに関わる大事な宝物でもある。
「こ、これ…」
こくり、と目の前で梢が頷いた。頬が真っ赤に色づいているが、それが夕日のせいじゃないことぐらい、鈍い私にも分かった。
「玲」
澄んだ声音に神経が高ぶる。鼓動が激しく鳴っていることに、今になって気がついた。
梢と目が合えば、普段は堂々としている彼女が酷く緊張したように視線を右往左往させる。
きゅっ、自分の胸の前で片手を握る梢は、やがて決然と瞳を見開くと、さらに一歩私に近づいて告げた。
「私の、オーサーになってほしい」
触れようと思えば、触れられる距離――ですらない。もはや、触れないことのほうが難しい。半歩でも踏み込めば、梢の顔が私の首筋に埋まりそうだ。
「親友としてのオーサーじゃない。恋人として、私の『特別』になってほしい」
「こ、ずえ」急に喉がカラカラに乾いて、言葉が上手く紡げない。
…恋人として?
私と、梢が?
不意に、頭の中を仲睦まじく寄り添い合っている私と彼女が浮かぶ。それを想像した刹那、体がこそばゆい熱に蝕まれた。
決して、不快ではなかった。
同性だから、とか、こんなときにだとか…そういうことは関係なかった。
魂の自由だと言った薊のことを思い出す。彼女の高潔さにさえ、背中を後押しされているような気がした。
「急にそんなこと、って思うかもしれない。だけど、私にとっては急じゃないんだよ?」
ほんの数センチ下から見上げてくる梢のことを、とても可愛らしいと思った。
「玲と初めて会ったあの日から、すごく、その、惹かれてた。同年代なのに、私たちとは全然違う玲の雰囲気に、釘付けになってた。花火のとき、私のこと嫌いだからスキンシップを避けてるんじゃないって知って、ほっとしたし、『私だけ』が特別なんだとも思って嬉しかった」
真っ赤になった彼女が、顔を首元に寄せてくる。
「顔、見ないで…絶対、赤いから」
柔らかな感触と衝撃に、思わず、梢を抱きとめる形になってしまう。
「…す、好きなの、玲。私の百合の花、受け取ってほしい」
梢の甘い匂いが、いつものあどけない子どもみたいな声とは違う、熱を帯びた女の声音が、私の全神経を刺激する。
このたおやかで、瞬く星々のように美しい祈りを跳ね除けることができる人間など、果たしてこの世界に存在するのだろうか。
このまま、梢の提案に従うのもいいかもしれない…。
従って、ただ静かに、アヴァロン学院での日々を最後まで続けるのだ…。
そんなことを考え始めたとき、不意に梢が告げた。
「アルトリア先輩のことはもういい。悲しい過去を思い出すだけなんだから。だから、辛いことは忘れられるように、私と一緒に明日のことを考えよう。ね?玲。それがきっと幸せなんだよ」
早霧がだらりと垂れ下がっている、悲しい過去。
忘れることが幸せ?
辛かったことは、忘れるべき?
生きていくことは…過去を突き放すこと?
過去の自分を救うために生きることは、間違ったことなの?
刹那、フラッシュバックしたのは、空っぽになった早霧の顔ではなく、私に数学の勉強を教えてくれていたときの顔だ。
慈愛と自信に満ちた、早霧。
大好きだった、私の自慢のお姉ちゃん。
これからお姉ちゃんのことを思い出す度に、優しい忘却を求め、のたうちまわるのか。
それが、『幸福』と呼べるのか。
「…違う」
私は無意識のうちにそう呟くと、やんわり、梢の体を押し返していた。
「違うわ、梢。それは絶対に違う」
今度は確かに強い意志をもって放った。霧中にあった思考が、鮮明な輪郭を取り戻していく。
「梢、貴方の申し出は心の底から嬉しい。本当よ。でも――」
手のひらのブローチをゆっくりと握りしめ、それから、梢の手元に戻す。
「これは、受け取れない」
「れ、玲…やっぱり、アルトリア先輩のほうが…」
ショックで見開かれる梢の瞳。胸が引き裂かれるように痛んだが、どうにか言葉を紡ぎ続ける。
「違うわ。私はね、梢。特別な人って、パートナーって、幸せを共有する以上に悲しいことを共有することのほうが大事だって、今思ったの」
――運命は、人の魂を最も相応しい場所へと導く。
どうして今、その言葉を思い出すのか。
「そして、その悲しみは忘れるのではなく、対峙し、乗り越えることのほうがよっぽど大事なんだわ」
――ここに、一つの悲しみの川があるとする。
とても深く、大きい。海溝を思わせるほどのもので、泳ぎ切るのは至難の業だとすぐに分かる。
ずっと、私は川の畔で蹲っていた。
それが今、渡りきらなければならないと考えるようになっていた。
きっと、仲間ができたから。
私を再び立ち上がらせたのは、目の前の梢や、杏、純風、そして、アルトリアだ。
「…だから、今、『悲しみは忘れるものだ』と言う貴方から、それを受け取るわけにはいかない。何ができるか分からないけれど、私はあの人が自分をごまかさずに道を選べるよう、最善を尽くしたいの」




