聖杯祭.4
十一月目前、私たちは、聖杯祭を間近に控えた得も言われぬ昂揚感の中、花月寮の周辺の森で紅葉狩り――もとい、写生の講座を受けていた。
絵心のない私は、ある程度で切り上げてからは、もっぱら葉や木を眺めてばかりだったのだが、他の三人は思いのほか黙々と筆を動かし続けていた。こういうところで差があると、少し肩身が狭くなった気がする。
色鮮やかな木々を前にしても、私の心は晴れない日が続いていた。アルトリアの浮かない様子が網膜に焼きついて離れなかったからだ。
気になって寮へ会いに行くこともあったが、いつ顔を会わせても飄々とした態度を取られるだけだ。私だけが心配しているだけならいいのだが、どうにも仮面の下では青い顔をしているように思えてならなかった。
蘭香に聞いても、話を逸らされる。彼女はどこか私すらも遠ざけているようだった。
「…はぁ」と大きなケヤキの下でため息を吐く。聖杯祭で各教室をまわることよりも、気が滅入ることができるとは思ってもみなかった。
もう一度、きちんとアルトリアと話をしたいものだが…。
「大きなため息ですこと」
不意に、背後から声をかけられて飛び上がった。
「きゃっ」
振り返れば、そこには薊が腰に手を当てて立っていた。
なんだ、と胸を撫で下ろして口を開く。
「あぁ、水宮寺さん。急に後ろから声をかけられて、びっくりしました」
「…そう。それは失礼しましたわ」
薊は私の周りに人がいないことを確認すると、ゆっくりと歩み寄ってきた。相変わらず、梢との折り合いは悪いらしい。
「ケヤキは葉が大きく、落葉自体も多いせいで嫌う者もいるそうですが…私はこの強い意志を示すような太い幹を好ましく思いますわ」
薊が自分の趣味嗜好の話をするのなんて、とても珍しいことだ。いつもは高尚な話題を好み、品格とは、といった教養を私に説いてくれる。
不思議なこともあるものだ、と薊を見つめていると、彼女は少しだけ険しい顔つきになった。
「何か、言いたいことがおありのようですね」
「え?あ、いえ…私もケヤキは堂々としていて好きだなぁ、と思っただけです」
「…そうですの。妙なところで気が合いますのね」
私が、「はい」とはにかんでも、薊は表情一つ変えない。もう慣れたことだ。彼女の中心には、彼女がいるというだけのこと。
「それで?どうしてそんなに深いため息を吐いていらっしゃるの?」
「聞かれてしまいましたか。いえ、たいしたことじゃないんです」
「へぇ、言いたくない、ということかしら?」
察しが良いのに踏み込んでくるのは、実に薊らしい。そうした彼女の毅然としたブレない姿勢には、純粋に憧れを覚える。
「その、ですね…?」
曖昧に笑ってごまかそうと試みるも、やはり、そう容易く逃してはくれない。少しだけ低い角度から、薊がじっとりと睨みつけてきた。
「その理由はもしや、私のオーサーの部屋を何度も尋ねていることに関係がありますの?」
「あっ…えっと…」
痛いところを突かれた。オーサーの薊からしたら、面白くない話に違いない。
ぐいっ、と薊に肩を押された。久しぶりの強引さと鋭い目つきに心臓がきゅっとなる。
「図星ですわね。全く、貴方という人は」
体を軽くケヤキに押しつけられる。手加減はしているのだろう、痛みはない。上から降ってくる赤い葉っぱが、ひらひらと薊の色素の薄い髪に落ちる。
キャンバスの上に描かれるのは、赤い絨毯と落涙、そして、薊の冷たい美人顔。ある種の芸術性をもって私を貫く数々の光。
「どうしてこうも、手癖が悪いのかしら?ねぇ?湖月玲さん」
「ご、誤解です。その――」弁解しようとしたところ、私の顎に薊の細い指が添えられ、ガッチリと固定される。
「へぇ、どういう誤解なのでしょう?ここのところ毎日、貴方は自室からいなくなっているようですけれど」
それについては、言い訳のしようもない事実だった。
「まさか、私のオーサーと逢引しているわけではありませんわよね…?」
「い、いえ、そんなこと…」
その後も、薊は私に釈明を求めてきた。以前だったら、弁解の機会など与えられなかったので、そういう意味では薊も優しく接してくれるようになったのかもしれない。しかしながら、これはこれで心臓に悪いものがある。
アルトリアや梢、純風もそうだが、この学院にいる生徒たちは距離感が狂っているように感じられるときが多々ある。多感なこの時期にこれだけの密接的なコミュニケーションを図るのは、色々と穏やかではない気がする。
そのうち、私が右往左往して言い訳するのをやめて、いたたまれなくなって瞳を閉じると、薊はようやく両手を離してくれた。
目を開ければ、ほんのりと薊の顔が赤らんでいる。
「冗談に決まっているでしょう。真面目に相手しないでくださいまし」
(…こんなにも分かりづらい冗談があるのね)
物言いたげな私に気づいたのか、薊は少しだけ体を離し、人差し指を顎に添えながら付け足した。
「一応言っておきますが、私とアルトリア様は恋仲ではございません。そういう馬鹿馬鹿しい噂を流す者もいますが、とんだ勘違いですの」
甚だ心外である、とでも言いたげに鼻を鳴らした薊だったが、すぐに表情を曇らせると、「…別に、そうした性的指向を蔑んだわけではありませんので、あしからず。同性を好きになるか、異性を好きになるか――それは、束縛できない魂の自由ですわ」と断言した。
「…そういうポリシーを毅然と言えるところ、本当に尊敬します」
感嘆の気持ちが強くて、上の空で称賛したところ、珍しく薊が疲れた口調で返した。
「ご存知の通り、私も政治家の娘ですから…継げるかどうかは分かりませんが、それでも、考えなければならないことが山程ありますの」
「はい。水宮寺さんの見識深いところ、いつも参考にさせてもらっています」
「…それも打算ではないのでしょうね…はぁ、好きになさいな」
薊は、話は終わりだ、と言わんばかりに背を向けると、単身、森の奥へと入ろうとしていた。その孤独に親しんだような背中を見て、私は彼女になら相談できるかもしれない、と一歩勇気を出して声をかけた。
「あ、あの、水宮寺さん!」
声が大きすぎてか、鳥が羽ばたいてしまった。悪いことをした、と思いつつも、怪訝な顔で振り返った薊に向けて言葉を紡ぐ。
「私と水宮寺さんは、お友だち、なのでしょうか?」
どんな解答が返ってくるか、なんとなく予想はあったし、それもまた裏切られることはなかった。
「言ったはずですわ。私たちは、友としてはあまりに遠すぎると」
「では、友だちになりたいと思うなら、私はどうすればいいですか?」
分かっていたからこそ、間髪入れずに返すことができた。
薊は目を丸くすると、何度か口を開けたり、閉じたりした。考えがまとまっていない様子である。だが、ややあって、普段の冷たい顔つきからは想像もできないほどの困り顔になると、小さめの声でこう答えた。
「今度もきちんと、アーサー役をこなしてみなさいな。――そうしたら…考えてあげないことも、あ、ありませんわ」
スカートの裾を指でつまんでする、上品なお辞儀。アルトリアでさえ似合わないこの仕草が、薊は本当に板についた。
「玲って、本当に変わったよね」
聖杯祭当日、自分たちの担当催事である喫茶店営業のために陶器の食器を並べていると、純風が何気ない口調でそう言った。
「そ、そうかしら?」
振り返って苦笑してみせれば、エプロンを着た純風が目に入る。
普段はシンプルな服装ばかりの純風も、今日ばかりは特別だ。肩にレースの刺繍が入った可愛らしい装いに、ついつい暖かな笑みが漏れる。
「確かに最初は緊張していたけれど、変わった実感はないわ」
嘘だ。本当はちょっぴり、自分が変わったことを自覚している。
自分の気持ちを正直に伝えること、人前で堂々としているふうに見えるコツ、踏み込まれても嫌な気持ちにならない人間関係…数えだすと、きっとキリがない。
「変わったよぅ。ねぇ、あ――ほ、星欠さん」
「あ?」不機嫌そうに顔を歪めたのは、ダンボールを持ってふらふらしている杏だ。すかさず、純風が支えに行くも、「いらない」と冷たく跳ね除ける。
どうやら、ご機嫌斜めらしい。可愛らしい服装とは反比例する、『話しかけるなオーラ』が純風にもすぐ分かったようで、素早く離脱してきた。
少しばかり落ち込んだ様子の純風に、片目を閉じてウィンクしてみせる。『大丈夫、いつものことだから、純風は悪くないわ』という思いを込めて。
すると、純風は安心した様子で頷きながら、泣き笑いのような顔で言った。
「やっぱり、変わったよ。ウィンクなんてしなかったでしょ。ふふ」
「…言われてみれば、そうね。アルトリア先輩の気障なところがうつったのかもしれないわ」
「あー…。私たちの次くらいに一緒にいるもんね。今日は一緒にまわらないの?」
「ええ。アーサー役はもう一人でやることにしているわ」
「いや、そっちじゃなくて、お店巡りとか、後夜祭とか」
「その予定はないけれど…どうして?」
「あ、んぅ、別に」途端に歯切れが悪くなった純風は私の後ろに視線をやってから、さっと目を逸らすと、「深い意味はないよ?うん」と不自然に話を切り上げた。
一体、どうしたのだろう。そう考えて純風の視線を追えば、私の背後にはじっとりとした目つきの梢が立っていた。
「梢、お疲れ様。どうだった?看板の準備は?」
「ん、ぼちぼち」いつから近くに立っていたのだろう、と不思議に思っているうちに、梢が近寄ってきて純風の代わりに質問を引き継いだ。「それはそうと、アルトリア先輩とはまわらないんだね、今日」
「ええ」
「じゃあさ、色々と一緒にまわろうよ、玲」
梢の真っ直ぐな誠実さを象るような誘い方に、思わず頬が緩む。気障でもなんでもなく、遠回しでもない。とても落ち着く。
「もちろん。湖畔祭では、疲れて眠ってしまったものね」
そうだ。私たち四人は初めての湖畔祭だというのに、花月寮の代わり映えしない部屋で、泣きつかれた純風を慰めるうちに四人固まって眠りに落ちてしまっていた。
私は催し物にあまり興味はないが、彼女らが思い出を作るのにそうしたいと言うのであれば、反対する理由などない。
「ほ、ほんと?」私の返事に、ぱあっ、と梢の顔が明るくなる。
「もう、梢ったら、私が断るとでも思ったの?」
「いやぁ、その…玲ってば、アーサー役で引っ張りだこになりそうだから、存外簡単に予約が取れてびっくりしただけ」
「予約だなんて。私はレンタル商品じゃないのよ、ふふ」
「あ、あはは…ごめん、ごめん」
静かに微笑みながら、喫茶店の準備をする。私の担当箇所は受付だ。アーサー役として、私がすぐに抜けられるようにとのはからいで配置された役職だが、杏曰く、アーサーの看板を立てたかった生徒たちの思惑だということだった。
順番待ちのときに記載する名簿が、十分な枚数あるかどうか確認する。
(よし、問題なさそうだわ)
満足げに頷きつつ、素晴らしい提案をしてくれた梢へと、自分も楽しみにしているという旨を込めて言葉を紡ぐ。
「杏には私から声をかけておくわ。――あ、純風も、もちろん一緒よね?」
「えっ!?」聞くまでもないと思っていた問いに、純風が頓狂な声を上げる。「え、いや、えっとぉ…」
これには私も驚いて、怪訝な表情をしてしまった。
基本的には、私たち四人はいつも一緒だから、当たり前のように純風も一緒だと思っていた。もしかすると、迷惑だっただろうかと問えば、純風はより困った顔で視線を逸らした。
「そのぅ…め、迷惑とかじゃないよ?玲。ただ、そのぅ…ほらぁ…」
「どうしてそんなに歯切れが悪いの?言いづらいことでもあるの?」
つい、ムキになって純風の瞳を凝視してしまう。自分がされたら嫌なことなのに、純風が何かを内緒にしていることが受け入れがたかったのだ。
やがて、純風は杏に助けを求めた。
「杏ちゃぁん…」
「ほ・し・か・けさん!後、気持ち悪い声出さないでよっ!」
「うぅ…」
ダンボールを全て運び終えた杏が怒鳴る。ますます機嫌が悪くなった。
何か知っているかと梢に視線を送るが、あろうことか彼女も視線を逸らして他人のフリをしてきた。
「どうしたの、二人とも。ねぇ、杏。私たち、一緒にまわるのよね?おかしなこと言ってないはずよね?」
杏はその質問には答えず、純風と梢を交互に睨んだ。それからシニカルに口角を上げて言った。
「えぇ、もちろん。素敵な友人四人で、楽しく聖杯祭をまわろうねぇ?玲、北条さん、こ・ず・え」
急に猫撫で声を出すものだから、背筋がぞっとした。こういうとき、だいたい杏はろくなことを考えていない。
祭りの前の喧騒にかき消されたのは、梢の唸るような声と、杏の含み笑い。そして、勇気をもって一歩、二歩と前に進み出た純風の足音だ。
「ごめん、わ、私はまわれない」
何を言い出すのかとぎょっとしたが、純風の決然とした顔つきに口を挟めなかった。
さらに、彼女は体を少しだけ斜めに向けて杏を見やると、言葉を詰まらせながらも言った。
「あ、あ、杏ちゃん!」
「え、な、何、急に大声出して」呼び方の訂正もできないまま、純風は続ける。
「聖杯祭、一緒にまわってくれませんか!?」




