聖杯祭.1
九月の半ば、夏季休暇が終わって日も浅いうちは残暑で気だるい感じがした。
だが、ようやく慣れ始めた環境が、半年も経たないうちにまた少し変わっていくことに刺激を受けて、私は浮足立つような、不安にうなじを撫でられるような気持ちになっていた。
美術の講座を終えて教室に戻っている私たちの後ろで、クラスメイトが囁く声が聞こえる。
――…さんが、ルームメイトとオースを交わしたそうよ…。
きゃっきゃっと騒ぐ級友たちに対し、穏やかで何よりと思う一方、ルームメイト、というリアルな存在に神経を手繰り寄せられ、静かに吐息を漏らしてしまう。
私は夏も終わりというときになって、ようやくオースが少女たちにもたらす意義を理解できるようになった。いや、分からざるを得なくなったのだ。
実のところ私は、すでに九月に入って数回、クラスメイトや上級生からオースを申し込まれる経験をしていた。
もちろん、そういうことはアーサー役を終えてからではないと考えられないと丁重に断った。正直、『話を聞いてくれただけで満足だ』という少女たちの言葉に不合理的なものを感じつつ、ほっと胸を撫で下ろしている状態だ。
「最近、また増えたね」と頭の後ろに手をやって周囲を見回すのは、杏だ。「本当、メルヘンチックなシステムですこと…」
「えぇ、私は素敵だと思うけどなぁ」毒づく杏に純風が笑う。
「そりゃあ、あんたは好きでしょうよ。聞くまでもないわ」
可愛いもの好きの純風のことだ、乙女チックでロマンスあふれるものを好むほうが自然ではある。
そうして、杏が皮肉っぽく口元を曲げていると、次は梢が後ろから揶揄するように彼女の肩に手を置いた。
「何?周りが急に仲良くなっていって寂しいの?杏」
「あ?」
直前までは若干上機嫌に見えた杏だが、急転直下、不機嫌そのものといった表情になる。
しかし、あまり人の顔色を気にしない梢は畳み掛けるように続けた。
「しょうがないなぁ、私が寂しんぼの杏ちゃんのオーサーになってあげよっか?」
「ちっ」
つまらない梢の冗談に、杏は顔を背けた。梢も、語る価値もない、と言わんばかりの杏の対応に肩を竦めようとしていた。
ところが…。
「だ、駄目っ!」
廊下に響く声を出したのは、純風だ。ほぼ反射的だったのだろう、大声を出してしまってから、しまった、と言わんばかりに顔を赤くし、指先をいじった。
「び、びっくりしたぁ。ちょっと、声が大きいよ、純風」
「うぅ…」純風は、やや反省した面持ちで首を前に傾けたのだが、途中で意を決したように顔を上げ、梢のことをじろり、と睨みつけた。
言葉もなく、ただ睨みつけるだけの行為ではあったものの、普段は温厚そのものの純風がやると自然と罪悪感に駆られる仕草だった。
「あ、あはは…」
梢がごまかすように笑った。しかし、空気は以前、ぎこちないままだ。
すぐにフォローを入れてあげたかったが、なまじ、杏と純風のアンバランスな絆を知っている身としては、不用意に口を挟めなかった。
二人のことが分かっているのに、深く考えずに行動してしまうのは梢の悪いところだ。まあ、その率直さが杏たちをつなぎ留めているような気もしないでもないが…。
「ご、ごめん、へ、変だよね…私が口を挟むなんて、あはは…」
ずぅんと沈んだ表情になった純風を誰もが哀れんだような顔で見つめていた。彼女の純朴さを傷つけて平気な人間は、そうそういないだろう。杏はどこか不器用過ぎるが。
「…ちょっと、何、この空気」
「ま、まあまあ、二人とも、変に気張らずに、ね?」
「あんたのせいでしょうが…――ったく、しょうがないわね」
辟易した面持ちでそう告げた杏は、何を思ったのか階段の踊り場辺りで立ち止まると、少しだけ早足で三人の前に出た。
それから、くるり、と上品に、だが爛漫な様子でスカートを翻してターンしてみせると、両手を後ろにやって満面の笑みを浮かべた。
「『はぁい!そんなに俯いてないで、ちゃんとみんな、杏のこと見ててよね?』」
刹那、悪寒が走った。
いや、可愛い、可愛らしい仕草と声なのだ。私が彼女のことを何も知らなければ、感心というか、感嘆というか…とにかく、ポジティブな感情しか持ち得なかっただろう輝きだ。
――だが、私は星欠杏を知ってしまっている。そして、彼女の飄々とした、ニヒリストなキャラクター像を植え付けられてしまっている。とてもではないが、正面から受け取れるものじゃなかった。
梢も私と同じ感想だったのだろう。苦虫でも噛み潰したみたいな顔で絶句している。
杏としても、そうした振る舞いで私たちが感心することはないと分かっているはずだ。彼女はそもそも、自分の客観視が得意なタイプなのだ。おどけてみせて、場の空気を変えようとしているわけだ。
「あ?笑いなよ、ほら。なんなの、その顔は。玲、梢ぇ…」
じろり、と下から睨みつけてくる杏。
「…巻き込まれたじゃない、梢。なんとかして」
「うぅん…」
しかし、梢が言葉を失い、私が耐えきれず目を逸らす中、ただ一人、純風だけが感動で身を震わせていた。
「あぁっ…!あ、あ、杏ちゃん!可愛い!きゃあ、こっち向いて!」
純風のどこから出しているか分からない高い声と、我を失うような態度にぎょっとして飛び退いてしまう。梢も、「ぬおっ」と頓狂な声を出した。
死んでいると思っていたセミが突然絶叫し、動き出したときのあの驚きに似ている…。とても心臓に悪い。
杏は、自分で発端を作っておきながら、純風の挙動を見て苦い顔をした。確かに、自分と比べて10センチ近く身長の高い相手が今にも飛びかかってきそうなのだから、そういう顔にもなるかもしれない。
「もう一回、ねぇ、杏ちゃん、もう一回!」
「い、嫌よ。ってか、あんた元気になりすぎ、怖い…」
「えぇ?いいでしょぉ?また俯いてみせたら、やってくれる?ねえねえ」
珍しくしつこく食い下がる純風に、「うぜぇ…」と顔を歪める杏。そのうち激昂するのではないかと心配になったが、ほんのりと染まった頬を見て、そうではないのだと直感した。
私が口にするようなことではないか、と直感から生まれた言葉は飲み込んだ。
だが、杏が、「そんなマッチポンプみたいな真似はやめて。体張った私が馬鹿みたいでしょ」とつんとした口調で告げたことで、ついつい、喉の奥から言葉が戻ってしまった。
「やっぱり、純風のためにやったのね、今の」
再び、時がぴたりと止まった。自分が何かまずいことを言ったとは、気づかなかった。
「杏のなんだかんだ言って優しいところ、私、とても素晴らしいと思うわ」
「は、はぁ?意味の分からないこと、言わないで。玲、あんた、頭おかしくなったんじゃないの?」
そこで私は、ようやくハッとした。杏の顔が熱中症になったかと思うほど耳まで真っ赤だったからだ。
「私が、北条さんのために?なんで?私は、別に、あんたらが変な空気出すから、だから…だから…」
「あ、杏ちゃん、大丈夫?」
心配して寄ってきた純風と杏の視線が交差する。目に見えないスパークでも起こったのか、純風も杏も一瞬で動きを止めた。
しかし、ややあって杏は動き出すと、握りしめた両手を虚空に振り下ろしながら叫んだ。
「ほ・し・か・け、さんっ!」
杏は、くるりと勢いよく反転すると、そのままの勢いで階段を下りていった。寸秒、純風は彼女の後を追うことを躊躇したが、我慢ならなかったようで純風も駆け出した。
「あ、ちょ、杏、純風…」
梢が伸ばした指先は、何者をも止めることは叶わず、宙に浮いた。
杏も怒っているわけではなさそうだったが、ただ照れているだけ、というわけでもなさそうだった。青い焦燥に駆られている、という感覚が最も近いか。
大儀そうに首の後ろへと右手を回した梢は、ちらり、と物言いたげな目線を横目で私にくれると、ふぅ、とため息を吐いた。
それが、どこか責められているようで私は肩を落とした。
「ご、ごめんなさい。私、何か的外れなことを言ったのかしら」
「謝らなくていいよ。的外れなことじゃないんだから。むしろ、『ど真ん中・ストライク』すぎた感じかな」
「ということはやっぱり、杏は純風のことを気遣ったのよね?それを言葉にして、何がまずかったの?」
「言葉で説明するには、足りないかなぁ」
「足りない?」
「うん。――私のボキャブラリーが」
梢はそう言ってはにかんだが、どこかごまかされているような気がして、私は笑えなかった。
何か、私だけ蚊帳の外にされているみたいだった。
「あの…」と顎を引いて、少し上目遣いになって尋ねる。「教えては、もらえないのかしら?」
「うぅん…。ま、二人の距離の問題だからね。センシティブというか、ナイーブというか…とにかく、外野の私が憶測で語っていいことじゃないと思うんだ。だから、ごめんね、玲」
いや、確かに梢の言う通りだ。少なくとも、本人たちがいないところで荒らし回っていい領域ではないことは確かだろう。
私が、「いいえ、梢の言う通りね」と微笑むと、梢も不思議と嬉しそうに私の頭に手を伸ばした。
くしゃり、と重苦しい黒髪に梢の温もりが灯り、優しく撫でられる。
花火以降、増えてきた梢とのスキンシップ。未だに照れくさいが、恥ずかしがって避けると彼女がいじけてしまうから、覚悟を決めて受け止めている。
「人の心に土足で上がり込むのは、善くないことだものね」
「そうそう。だから――私にできることは、ゆっくり待つことだと思ってるよ」
十月にもなると、涼やかな秋の気配が方々で感じられるようになる。気温は20℃前半で落ち着き、冬の制服である黒のセーラーワンピースが散見された。
森の奥に立っている花月寮は元より、島全体が鮮やかな彩に浮足立つ。森を散歩する生徒たちの姿も、森を染め上げる赤が濃くなるほど増えていくことだろう。
古めかしいこの学院の中、唯一、現代テクノロジーの浸食を受けているコンピューター室の窓からも、幻想的とさえ言える森の姿はよく見えた。
外界から隔離された環境がウリとも言えるアヴァロン学院だが、こうした基本スキルの体得には余念がない。
今はよくても、もう数年もすれば本土に戻り、多くの者が働くのだ。そうなったら、コンピュータースキルも多少は持っていないと不安になるというもの。
アヴァロン学院は五年制の学校だ。しかし、この島で全員が過ごすのは、三年生までだ。残りの二年は、希望する学科によって本土に戻ることもある。福祉や看護、農林、水産、調理などはこの学院だが、テクノロジー関連になればここでは無理だ。本土や外国にある姉妹校への転入を余儀なくされる。
ここは、ある種のモラトリアムを過ごす場所なのだ。きっと、普通の高校や大学に比べれば、ずっと良質なモラトリアムになるだろう。
学院独特の雰囲気、自然あふれる環境、そして、気の置けない仲間たち。
その仲間の一人が、私の隣の席で小気味良い音を立ててキーボートのエンターキーを押した。
「はい、終わり」
「え、梢、もう?」
椅子の背もたれに大きく体を預けた梢は、目を丸くして驚いてみせた純風と私に向かって、つまらなさそうに欠伸をした。
「ふわぁ…うん。これくらい、ちょっとパソコン使ってた人なら、あっという間でしょ」
「すごぉ」
「本当に普通だよ。ほら、向こうにも終わってる人がそこそこいるし」
「へぇ、みんなすごいんだね」
「違う、違う」と梢は手を左右に振る。「純風たちが機械に弱すぎるだけだよ。――ってか、本当に現代人?」
確かに、梢が苦笑するほどに私たち三人は機械に関してからっきしだった。
物心ついてからは、古武術の鍛錬ばかりだった純風。アイドル業で何かと忙しい日々を絶え間なく送っていた杏。それから、小さい頃から本ばかり読んでいた私。携帯ならばまだしも、パソコンは触れる機会がほとんどなかった。
両親は本好きの私にタブレット型の電子書籍リーダーを購入してくれていたが、紙媒体を好む祖母と――姉の影響で、私も例に漏れず実体のある本のほうが好きになっていた。
「うっさい」と片眉を上げた杏に続き、純風、私と必要なだけの作業を終える。そして、梢に教えてもらいながら作った表をプリントアウトすると、また元の席に戻った。
梢の負担を大きくして始められた作業だが、まだ彼女は余裕がありそうだ。
自分で作成したA4の表を手に取り、しげしげと眺める。画面の中の表が現実にアウトプットされる仕組みがどうにも不思議だった。
そんな私の行動をどう解釈したのか、杏が面倒そうに表情を歪めて言う。
「喫茶店、だなんて…芸が無いよね。文化祭のド定番メニューじゃん」
「ま、そうだね。でも、憧れを持ってる子も結構多いんじゃない?ほら、うちに通う女の子って、メルヘンな子が多いし」
杏と梢が話しているのは、文化祭――もとい、聖杯祭で各学年が行う出し物についてである。講義で作っていた表も、それに使う書類であった。
聖剣祭や湖畔祭、そして、冬に行われる鎮魂祭のようなデモンストレーションがない代わりに、学生らしい喫茶店などの催し物が開かれる。
湖畔祭と違うのは、有志による店舗展開ではなくクラスごとになっているところだ。そのため、ほとんどの生徒が強制参加になる点が挙げられる。
「…むぅ、メルヘンで悪かったね。もう」
純風が可愛らしく唇を尖らせるものだから、「大丈夫、私も楽しみよ」と精一杯微笑む。純風が安堵したような、嬉しそうな顔で笑ってくれるのがとても幸せだった。こんな私でも誰かの役に立てることに、充足を感じた。
もちろん、聖杯祭でも私の役目はある。『アーサー王』役として、各店舗を巡るのだ。
至るところで注目を浴びることが容易に想像できて、少々早いが肩が重くなる。とはいえ、薊に言った言葉のとおり、もう、これは自分で選んだ役なのだから、逃げるわけにはいかない。
それに実を言うと、このアーサー王役を引き受けることで、アルトリアの役にも立てているのではないかという誇りもあった。
望むと望まざるとに関わらず、王の役目を背負わされ続けたアルトリア。
彼女が少しでも気楽に聖杯祭を楽しめるのであれば、私が代わりに道化を演じることとなっても、十分なお釣りがくる気がする。
頑張っている人間は、報われなくてはならない。
そうでなければ…過ぎゆく日々はあまりに虚しい。




