夏の思い出.4
あまりに静かに、夜の帳が降りた。騒々しいのは、課題が終わらないと唸る杏と、それを笑っている梢くらいのものだ。
厳粛な虫の音を聞きながら、ストレッチする純風に関心を寄せる。
開脚した状態から平気で胸が床についているし、持ち上げた足はぴたりと頬の横につくほどだ。
武術の基本は股割りだと耳にしたことがある。やはり、そういう鍛錬の結果、純風はこれほどまでに柔軟でしなやかな筋肉を手にしたのだろうか。同じ生き物として、プリミリティブな尊敬を覚えずにはいられない。
「…あんた、相変わらず体柔らかいわね」と現実逃避気味にシャーペンを手のひらで回している杏が言う。
「まあ、そうだね。久しぶりにたくさん歩いたから、念入りにストレッチしておこうと思って。星欠さんも後でどう?変に痛みが出てもよくないし、せっかくなら手伝うよ?」
「…変なところ触りそうだから、嫌」
「し、しないよっ!もうっ!」
純風が珍しく大きな声を上げるのを聞いて、思わず、私は口元を綻ばせた。それに目ざとく気づいた杏が、不服そうに指さして小言を言ってくる。
「おい、玲。何を笑ってんの。あ?」
「はいはい、ごめんなさい」
「私、前に言ったよね。北条さんと私をセットにしたら、そのでかい乳を握りつぶすって」
「ちょっと、その話はやめて!誰も二人をセットになんてしてないわ」
「ふんっ、どうだか」
ムッとしたが、純風と梢になだめられたことで私は矛を収めた。そもそも、こうなった杏の相手をしても仕方がないのだ。諦めなくては…。
気分を変えようと思って、窓際に寄る。夜も更け始めたので、エアコンもいらない。窓を開けていればそれだけで十分に涼しかった。さすがは森の中である。
窓辺には、今日の昼、杏たちが貰ってきた向日葵が水差しに一輪だけささっている。
課題に追われている杏を見守りながら、私たち三人は薊の話をしていた。彼女が弔うといったものの正体を私が告げたところ、薊嫌いの梢も憐れむように目を伏せた。
「…ちょっと、かわいそうだね」と純風がぼやく。
「だね。それにしても、水宮寺のやつ、意外と情け深いというか…」
昼間の明鈴の話を聞いていなかったのかと疑いたくなる梢の物言いに苦笑していると、不意に、窓の下で何かが動いた。
野良猫か何かだろうか、と何気なく覗き込めば、そこにはネグリジェ姿の薊が歩いていた。
「…こんな時間に、どうしたのかしら」
気になった私は、ルームメイトたちには夜風に当たってくると言って部屋を後にした。それならばと梢がついてこようとしたが、やんわりと申し出を断る。それから、薊が向かっただろう方向へと足を進めた。
花月寮の周囲には、おまけ程度のランプが並べられている。暗闇に反応して電源が入るタイプのもので、寮の敷地を幻想的に彩っている。
星も見えない夜だ。月も叢雲の陰に身を潜めている。
探していた背中は思ったよりもすぐに見つかった。寮の玄関の裏手、花壇のそばのベンチに薊は座り込んでいた。
薊は私が近づいてくる気配を察すると、弾かれるように振り向いた。不審者とでも思ったのだろう。しかし、暗闇に浮かぶ影の正体が私だと分かった後でも、彼女は眉間の皺を消そうとはしなかった。
「湖月さん…?こんな時間に、何をしているのかしら。あまり夜遅くに一人で出歩いては駄目ですわよ」
「そういう水宮寺さんこそ…」と問い返せば、薊はきょとんとした、少女らしい顔つきになった後、肩を竦めて花壇のほうを向いた。
「それも、そうですわね」
いつもはしゃんと伸びている背中が、今宵は少し曲がって見えた。
聞いてもいいのかどうか迷いつつ、「どうされたのですか?」と問いかける。薊はこちらに視線をやることもなく、前を向いたままで答える。
「たいした理由などありません。夜風に当たりたかっただけですわ」
「…そうですか」
それは嘘だと、私の第六感が告げていた。いや、正確には違うかもしれない。なぜなら、薊の正面の花壇の土の一部が、不自然に盛り上がっているのを目にしていたから。
そのまま、何も語らずに時が過ぎた。
虫の音と、夜を撫でる風が空気を裂く音だけが二人の鼓膜を震わせる。
偉大な夜だと思った。これが小さな命の鎮魂のために用意されたものであるなら、この世界は美しいと信じることができるだろう。
やがて、薊が何かを諦めたように淡々と言った。
「いつまでそうして突っ立っていらっしゃるの。…用があるなら、かけなさいな」
私は、てっきり追い払われるとばかり思っていたから、その言葉が意外だった。
何かを薊と話しておきたいと考えていたことは事実なので、その提案に甘えることにした。ただ、何を話し合いたいかは自分でもよく分かっていない。
「はい」と短く返事をして、薊の隣に移動すると、ゆっくりとベンチに腰を下ろす。隣からは、形容し難い良い匂いが漂ってきている。
それからも、すぐには互いに口を開かなかった。
ただ、黙って星も見えない空を眺めた。雲の隙間から、一条の月光が覗きはしないだろうかと一生懸命に探すも、見つかることはない。
上の空で夜に溶け込んでいるうちに、「雛鳥のことですか?」と誰かが言った。その声が自分のものだと気づいたとき、私は自分の迂闊さに仰天した。
「湖月さん、貴方、どこでそれを…」薊は目を丸くして私を見つめていたが、そのうち問の答えが自分で見つかったらしく、「はぁ、明鈴ね。あの子ときたら、おしゃべりなのですから」とぼやいた。
明鈴の名誉のためにも、私は偶然、雛鳥の世話をしているところを目撃したのだと説明した。明鈴自身には何の非もないと。すると彼女は、「そんなことは分かっていますわ」とどうとでもないふうに言った。
「あの、それではやはり、それは…」
視線だけで、盛り上がった花壇の一角を示す。何も植えられていない場所だったはずだ。
「ええ、そうですわ。私が拾った雛鳥のお墓ですわ」冷えた氷のように無機質な声音で、薊は続ける。「――そして、私が死なせた命のお墓でもあります」
「死なせたって…水宮寺さんはお世話していたのだと聞いています」
「ええ、世話をしていました」
すぅっと、薊の瞳が細められる。弦月のように光を放つ瞳を、場違いにも綺麗だと思った。
「…ですが、餌を上手く食べてくれなかったのです。何をやっても、まるで駄目で、飢えて衰弱死しましたわ」
「そう、でしたか…」
確かに、自然で生まれた動物は人から餌を受け取らないことが往々にしてあると聞いたこともある。雛鳥が薊の手から餌を受け取らなかったとしても、不思議なことではないのだろう。
そしてそれは、薊の責任でもない。
「…水宮寺さん、それは、自然の摂理なのではないでしょうか?私には、貴方の責任とは思えません」
「正論ですわね。でも、正しければそれで人が納得するものではありませんわ」
いつもは正論を振りかざす薊が言うと、些かおかしな感じがするが、今は茶化している場合ではない。
肯定を示すように、視線を下げる。自然と、盛り上がった花壇に目がいった。
「…なぜ、人は墓を建てるのでしょう」
薊の問いかけが沈黙を切り裂き、夜の虚空を打った。
どうして、人が墓を設け、魂を供養するのか。
哲学的な内容に一瞬、言葉を詰まらせる。答えとも言えない答えを口にしていいのかと躊躇した。しかし、先刻、薊のほうが『正しさ』が全てではないと語ったことを思い出し、発言に踏み切る。
「それは、亡くなった命を尊び、慰めるためだと思います」
「尊ばなくても墓は建ちます」素早い切り返しに、面食らう。「形骸化した弔いが、私たちの周囲にあふれかえっているではありませんか」
「…始まりは、きっとそうではなかった。心から、亡くなった人たちの鎮魂を願った」
目を閉じて、目蓋の裏側に宿る薄闇を見つめる。そこに蘇る無機質な石の塊の姿に、私は吐き気すら催しながら付け足した。
「そう、信じています」
一度もお参りに行っていないのに、私は何を偉そうに言っているのだろう。
何が鎮魂だ。私は、ただ…。
「私は、そうは思いませんわ」
暗く深い思考の海から私を引き揚げたのは、薊の呟きだった。
「墓は、残された者のために建てられるのですわ」
黙って、薊の横顔を見つめる。彼女は暗闇を一点に見つめて続ける。
「残された者の安寧のため、そして――」
私はその続きが分かる気がした。
「――許しを請うため」
ゆっくりと、ゆっくりと薊の目が大きく見開かれる。スローモーションで振り向く彼女の顔は、撹拌された感情で一言では言い表せない表情に変わっていた。
「それか、責められるため…ですわ」
薊と視線が交差した刹那、私は彼女と自分が似ていることを直感した。
許されたいのか、責められたいのか。
そこに大きな違いはない。
ただ、一つだけ同じ点があるとすれば、それは、物言わぬ墓には叶えてもらうことができない望みだということだろう。
結局は、自分が幻影を生み出すか、折り合いをつけるしかない。
気付いたら、ぽつり、ぽつりと手の甲に涙が落ちていた。慌てて拭うこともせず、薊のことを見つめていると、彼女は優しく指先で涙の珠をすくってくれた。
「…深くは聞きませんわ。私と貴方は、秘密を共有する友としてはあまりに遠すぎますもの」




