夏の思い出.3
八月の終わりというのは、どうしてこうも郷愁を誘うのか。
太陽と月が入れ替わる度に斜線が刻まれていくカレンダーの日付は、二十九日のところまで進んでいる。
青い天空からは想像もつかないような寂しさが、この数日間にはあるのだ。
とはいえ、残り数日経って学校が再開されたとしても、私の生活はたいして変わらない。夏季休暇中も図書館には顔を出しているし、少しでも引きこもりの癖が再発しないよう、花火の日以降、ルームメイトの誰かを伴って外に散歩へ出るようにしている。
彼女らは誰も一切嫌がることなく、同伴してくれている。杏だけは最初渋ったが、私が理由を話すと途端に真剣な顔になり、「そういうことは、さっさと言え、ばか」と叱られてしまった。その後は、むしろ彼女のほうから夕方、散歩に誘ってくるようになった。
そういえば…彼女らに引きこもっていた話はしていなかった。その点は別に恥ずかしいこととも思っていないので、もっと早く教えればよかった気がした。
私が本から視線を外し、窓の外を眺めていると、音を立てて扉が開いた。
「玲、コーヒー入れるらしいけど、いる?」
顔を出したのは梢だ。
「え?ええ。でも、らしいって誰が…?」
「ん、ああ、明鈴のやつ」
「神田さんが?」
予想しない名前が梢の口から出てきて、驚きのあまり聞き返してしまう。
「うん。なんか、水宮寺に煎れた残りカスでいいならだってさ。余計な一言が多いんだよ、あいつ。ああいうところは杏とそっくり」
「それなら、私も食堂に下りるわ。給仕のように扱うのは失礼だものね」
「そう?ま、それなら一緒に行こう?」
梢の後を追って、階下へと向かう。
それにしても、梢も本当にすごい人間だ。あれだけ毛嫌いしていた明鈴と、あっという間に仲良くなってしまうとは。
もちろん、その理由としては、明鈴や薊の態度が変わったことが大きい。だが、だからといって、すぐに切り替えるのは難しいことだ。
「ねぇ、杏と純風は?朝からいないけれど」
純風はともかく、杏が早朝から行動しているのは珍しい。
すると、梢は私の問いにいたずらっぽい笑顔を浮かべて答えた。
「二人なら、島の反対側にある向日葵畑までデート」
「で、デート…!?」
「そうそう、デート。杏が温室の当番をすっぽかしてたことが先生にばれてね、罰として向日葵畑の様子をレポートにして提出だって。ふふ、ばかだよね、杏のやつ」
夏休みも終わりが近いというのに、哀れなことである…。いや、最後の思い出づくりに向日葵畑と考えれば、粋な罰かもしれない。
「それで、どうして純風まで?」
「そりゃあ、純風だもん。『杏ちゃん』の行くところならどこにでもついて行くでしょ」
本人は杏が熱中症で倒れないか心配だから、というふうに言っていたらしい。梢の言い方には含みがあったものの、純風の並々ならない『杏ちゃん』への想いを知る者としては笑えなかった。
「もう、梢。人が悪いわよ」
「あはは、ごめん、ごめん。とにかく、夕方までは帰ってこないと思うよ」
そう、と返事をしながら、たしか杏は終わっていない課題がまだいくつかあったと思うが、果たして終わるのだろうかと心配になった。しかし、自分が悩んでも仕方がないことだと、杏の飄々とした物腰を頭に浮かべて思い直す。
食堂に到着すると、コーヒーの芳醇な匂いが漂ってきた。どうやら、明鈴はキッチンのほうにいるようだ。
スイングドアを開けて奥へと向かう。明鈴の姿は、すぐに見つかった。
彼女はこちらに気がつくと、小さく手を振って口を開いた。
「あ、湖月さん、ごきげんよう。コーヒーいるの?」
「ごきげんよう、神田さん。ええ、迷惑じゃないなら頂きたいわ」
「迷惑なわけがないじゃん。薊の煎れ残りでよければ、だけど」
はにかんで見せる明鈴。湖畔祭以降、少しずつ見せてくれるようになった顔だ。
「もちろん、構わないわ。ありがとう」
台の上には、煎れ終わったらしい豆の粉末が残っている。後で聞いたところによると、乾かして、芳香剤として部屋に置いているらしい。雅なことである。
梢の、「なんか、私と玲とじゃ態度が違うくない?」という小言を適当にあしらった明鈴は、手際よくカップにコーヒーを注いだ。
「それにしても知らなかったわ。神田さん、豆から挽いて煎れるほどコーヒーがお好きなのね」
今までも、食堂にコーヒーの良い匂いが充満していることは度々あった。誰か、コーヒー好きの洒落た人間がいることは知っていたが、その正体が今分かったというわけだ。
「まあ、好きっていうほどじゃないけど。ほら、薊もコーヒー好きだから」
「へへぇ、メイドさんは熱心なことで」と嫌味を言う梢を、「こら」と注意すれば、意外なことに明鈴は愉快そうに笑った。
「ふふ、梢は相変わらず勘違いしてるみたいだけど、そもそも、私がこういうことするようになったのは、薊が私に紅茶を入れてくれるからだからね」
「え、あの水宮寺が?そんな給仕の真似事みたいなことを?」
失礼だとは分かっていても、私も目を丸くせずにはいられなかった。
明鈴と薊はルームメイトである。そのため、部屋ではてっきり明鈴が薊の世話を甲斐甲斐しく行っているとばかり思っていたのだ。
明鈴は二人の態度を受けて眉間に皺を寄せた。
「ちょっと、言い方」
「いや、え、でも…逆じゃなくて?」
「だからぁ、逆とかじゃないの。みんな誤解するけど、薊は人を顎で使うような人間じゃないよ。むしろ、誰かが疲れていそうだったら、率先して紅茶を入れて話を聞いてあげたり、掃除とか温室管理の当番を代わってくれたりするんだよ?」
「せ、聖人じゃん。嘘でしょ」
「本当だよ。薊は自分の良いところを表に見せびらかさないだけで、優しくて、気遣いができる人なの。ちょっと、言い方とか顔つきが怖く見えるから誤解されやすいけど、言ってることはほとんど正論だよ」
確かに、薊の言うことは論理的なものが多い。そうではないときは、きっと心が乱されているときだ。
依然として、梢は明鈴の話を信じていないようだが、私は明鈴の話は嘘ではないのだろうと考えていた。私の中では、湖畔祭の後に明鈴のことでお礼を言った薊の印象が強くなっている。
最近は、彼女のほうから話しかけてくることもあるが、口調が冷淡であること以外、問題はない。むしろ、怜悧で見識深い薊の人間性のおかげで、実りのある会話になることのほうが多い。
「ちょっと信じられないなぁ」
「あっそ。いいよ、信じてくれなくて。薊の良いところは知ってる人だけが知ってればいいし」
さすがに気分を害したのだろう、明鈴はガチャンとカップを台に置いて梢のほうにやった。茶色の湖面が、彼女の心を模したように揺れている。
「わわ、ごめんってば、明鈴。怒らないで」
ぶすっとした表情で無視する明鈴に、梢も「あちゃー」と反省しているのか、していないのか分からない声を洩らす。
「梢、さすがに失礼よ。梢だって、私を侮辱されたら怒るでしょう?」
「う、うん、まぁ…」
「それと同じよ。それに水宮寺さんが優しい人だというのは、私、嘘ではないと思うの」
私は、湖畔祭での出来事を語ろうとしていたのだが、不意に入ってきた人影に制止されて言葉を飲み込んでしまった。
影は、コツコツ、と足音を響かせてスイングドアを抜けて来ると、眉間に皺を寄せたまま腕を組み、三人を睨みつけた。
「みなさん、声が大きくてよ。外にまで聞こえていますわ、はしたない」
立っていたのは薊だ。優しさとは程遠い表情をしている。
「げ、水宮寺」と明らかに嫌そうな声を出せば、ますます薊の表情は険しくなった。
「雨見さん。貴方が私をどう思おうと別に興味はありませんが、不平不満は自室に留めておいたほうがいいですわよ?貴方の品格が疑われますわ」
「うへぇ、品格だって。余計なお世話」
「ちょっと、梢」売り言葉に買い言葉状態の梢の脇を小突く。今回、どう考えても悪いのは梢だ。「言い過ぎよ」
梢は私の態度に物言いたげに頬を膨らませたが、厳しい目つきに次第に大人しくなっていった。
しかし…薊はそれだけでは気が済まなかったらしく、私のほうにまで火の粉を飛ばしてきた。
「貴方もです、湖月さん。私の評価をするならば、せめて公共の場は避けなさい」
「あ、う…ごめんなさい」
「全く…仮にも貴方は、『王』の役目を課された生徒なのですから、品位を損なわないようになさい」
「…はい」
多少は仲良くなったと思っていた薊から厳しい叱責を受けて、私は肩を落とした。特に、正論を突き付けられているのだから、なおさらだ。
「やめなよ、水宮寺。玲は望んでアーサー役になったわけじゃないんだからさ」
それを聞いて、薊は顔色を変えた。これについては今さら議論の余地はないと自分でも思っていたので、火花が散る前に素早く口を挟む。
「いいえ、梢。逃れることもできたのに、役目を全うすることを選んだのは私よ。私には、もうその責任があると思うわ」
「れ、玲…」
「だからね、大丈夫。水宮寺さんの言うことは正しいわ。私だって、自分のことをこういう場所で評価されているのを聞いたら、嫌な気分になるもの」
虚勢ではなかった。薊の言うことは正しく、清らかな責任意識に満ちたものだと判断した。だから、私も堂々と自分の非を詫びることができた。
「ごめんなさい、水宮寺さん」
薊はしばし私の瞳を見つめると、ため息混じりに肩を落とした。
「…はぁ、分かっているのでしたらよろしいです。――明鈴、外に出てきます。暇を潰していなさい」
「あ、薊、私も一緒に行こうか?」
「いいえ。いりませんわ」
梢が、あまりに単刀直入に拒絶の言葉を吐いた薊に対し、しかめ面をしてみせる。
「でも…」
「いいと言っているでしょう。…静かに弔いたいのです。許してくれますわね?」
薊の口から妙に重々しくこぼれ落ちた言葉に、明鈴はややあって神妙に頷いた。すると、薊は彼女らしくもない苦笑を浮かべてから、スカートの裾を指でつまんで持ち上げ一礼すると、厳かな足音と共に去っていった。
「弔う、とは?」と明鈴に尋ねる。彼女はすっと視線を逸らすと、後片付けを始めながら口を開いた。
「…察してあげて。色々あったの、薊」
私は直感的に燕の雛のことを思い出した。そして、濁ったコーヒーの水面を見つめると、去り際の薊の苦笑を頭に描き、静かに震える息を吐いた。
喪失の痛みを胸に抱いたまま、すぐに青天井の下に向かえる薊を、本当に強い女性だと私は思うのだった。




