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湖の乙女.5

「ごめんなさい、みなさん。湖月さんは学院長に呼ばれておいでです」

「あ…そ、そうなんですか」

「ええ。だから、湖月さんと湖畔祭をまわるのは諦めてくださいまし」


 どうして薊が、と驚きと共に様子を見ていると、一人の生徒が前に一歩出て言った。


「あの、いつ頃終わるのでしょう…?」

「用事は学院長のものです。私が分かるとお思いですか?」


 すぱんっ、と一刀両断された生徒はしゅん、と肩をすぼめたが、薊はそこで言の刃を収めることはなかった。


「少し考えたら分かるようなことを、聞かないで下さります?――質問とは、その人の質を問うものだと、私が敬愛する作家様がおっしゃっていました。これを機に、『質問』の意義をお考えになられては?」


 なんと淀みなく叱責の言葉が浮かぶものだと感心する。しかも、薊の言うところは往々にして正論だから、たちが悪い。


 正論は相手の逃げ場を奪ってしまう。


 そして、逃げ場を奪われた者に残された選択は二つ。


 一つは、縮こまって震える。そして、もう一つは、反撃することである。


 目の前の生徒は前者だったようだ。誰も彼女をフォローするものはいない。


「それでは」


 薊は品良く片手でスカートの裾を広げると、余った片手で掴んでいる私の手を引いた。


「あっ…」


 軽く抵抗して見せると、瞳だけで『来なさい』と命じられる。抵抗できるはずもなく、私は薊に連れられて出店とは反対のほうに進んでいく。


 段々と人気がなくなっていく廊下。学院長室とは真逆の方向だった。


「水宮寺さん、あの…!」


 薊は私の言葉など無視してぐんぐんと進み続け、最終的には私たちの教室にまで移動していた。


 ぱっ、と何の前触れもなく薊が私の手を離す。そして、即座に振り返った彼女の顔はどこか怪訝そうであった。


「…あの、学院長の用事とは?」

「そんなものありませんわ」

「え?嘘、だったんですか?」

「嘘?方便とおっしゃいなさいな」

「す、すみません」


 反射的に謝る私を、次はじろりと威圧的な眼差しで薊が見てくる。


 それにしても、どうしてそんな嘘を吐いたのだろう…。


(まさか、私をあの人混みから救い出すため?いや、そんなまさか…)


 やがて薊は、「はぁ」とこれみよがしにため息を吐くと、一歩、二歩とこちらに近づき、静かに手を伸ばしてきた。


 また何かされるのか、と肩を竦めたものの、驚いたことに薊は私の歪んだタイを直しただけだった。


「…本当、先程とはまるで別人ですわね。湖月さん」


 先程、とは湖畔祭のデモンストレーションでの出来事だろう。


 薊の意図が分からないまま、じっと直立していると薊は興味なさげに顔を反対側に背け、教室から出ていこうとした。


「誇りもない人間、と言ったことは訂正しますわ」


 その一言にドキリとする。しかし、すぐにこれが薊なりの謝罪であることに気づくと、私は信じられない思いがして、思わず彼女の背中をじっと凝視してしまった。


「す、水宮寺さん」

「勘違いしないで下さいまし。貴方を認めたのではなく、貴方という人間の再検討を図らなければならない、と考えたにすぎませんの」

「再検討…」小難しい伝え方だが、誤解していた、と言っているようだ。

「ですから、毅然と振る舞っていなさい」


 毅然と振る舞う、とはどういうものだろう。私は内心で小首を傾げる。


 こうなる前の私だって、毅然と振る舞ったことなどない。むしろ、そういうものに強く憧れを抱いて生きていたのだ。


 そう、例えば目の前の薊のように。一人でも自分の意志を貫く力を持ちたいと思っていた。


 あるいは、私が憧れた『彼女』のように…。


 そうして、薊は教室から出た。そして、扉を閉める最後の瞬間、数秒だけ立ち止まると、顔の半分だけをドアの隙間からこちらに向けて、珍しく小さな声で言った。


「――…それと、明鈴のことはありがとう…」


 扉が完全に閉まれば、教室にはこの学院を包む厳かな静寂が戻ってきた。


 水宮寺薊。本当に何を考えているか分からない生徒である。


 ただ…と、昨日、薊が雛鳥に優しい顔で餌を与えていたこと、そして、明鈴が口にした薊の美点を思い出す。


 再検討が必要なのは…私も同じなのかもしれない。




「ほら、言ったでしょ?湖月はなんだかんだ寮に戻るって」


 誰もいないと思っていた花月寮の自室の扉を開けたとき、急に声をかけられて私は飛び上がってしまった。


「きゃっ!」

「あ、ごめんね、湖月さん」


 そう謝罪したのは純風だ。


 部屋には、梢、純風、杏、そして私の全員が集まっていた。湖畔祭の真っ最中とはとても思えない状況だ。実際、寮には他に誰もいないよう感じられた。


「…みなさん、戻っていたのですね」

「うん。湖月さんを探してたんだけど、全然見つからなくて…そしたら、杏が寮で待っていれば来るって言うから、こうしてた」


 まさか、本当に来るとはね、と梢は少しおどけて見せた。


 なるほど、そういうことか。自分の性格をよく分かっている。


 ふと、杏と視線がぶつかった。珍しく、彼女のほうから素早く逸らされた。


 嫌われただろうか、と不安に思っていると、梢に背中を叩かれた杏がやおら口を開いた。


「神田の奴には、ちゃんと謝ったから」

「え?」

「え、じゃないでしょ。湖月が言ったじゃん、『神田さんに謝って』って」

「あぁ…」


 確かにそういう約束だったが、こんなにも早く行動に出ているとは思わなかった。


「水宮寺に死ぬほど睨まれたけどね、神田の奴が『湖月さんに免じて、許してあげる』とかほざいたから、一応、丸く収まったよ」

「そうですか、神田さんがそんなことを…」


 だから、薊もあんなことを口にしたのかもしれない。


 もしも、明鈴や薊が少しでも私のことを認めてくれたのであれば、それはとても嬉しいことの気がした。


 嫌がらせが止むかも、と想像したのではない。単純に閉じていた扉が開かれたことへの喜びだ。


 私がほっと胸を撫で下ろしていると、杏がモジモジとした様子で体の重心を右に左にと移し替え始める。落ち着かない表情を見て、私は合点がいった。


 次は、私の番だ。


 小さく息を吸い、一歩、二歩と杏に近づく。


 湖畔祭で燃やした勇気の残り火が、今、私に力をくれた。


「星欠さん、私のほうも、貴方に謝らなくてはいけません」

「ちょ、え――」

「あんなふうに突っかかってしまって、申し訳ありませんでした」


 そうだ、たとえ明鈴の名誉、そして、私自身の譲れぬもののためとはいえ、杏に対して強く出たのも事実だ。


 日頃からお世話になっている相手に対し、恩を仇で返す形になったのは言うまでもあるまい。


 そうして深々と頭を下げた私を見て、最初に声を上げたのは梢だ。


「い、いやいや、湖月さん、頭を上げてよ!そういう話じゃないでしょ、これ」

「で、ですが…」


 顔を上げれば、酷く狼狽した杏の顔が正面にあった。


 いつものシニカルで、飄々とした雰囲気ではない。そこにいたのは年相応の慌て方をしている少女であった。


 その後、謝るべきか否か、という点について梢と押し問答が始まってしまったが、苦笑を絶えず浮かべていた純風に諭されて、謝罪は互いにこれまで、ということになった。


「それにしてもさぁ…湖月、あんたには色々と驚かされたよ。本当」


 小さな折りたたみ机の上に純風が入れてくれた紅茶を並べて囲んだ杏が、ぼそり、と少し疲れたふうに言った。


「湖畔祭のことですか?」

「あー、それもある。湖月、これからしばらく引っ張りだこになると思うから、覚悟しときなよ」

「…ゆ、憂鬱です」


「でも、とっても綺麗だったよ」と称える純風に続いて、梢までもが、「衣装も普通に似合ってた」と小さな声で言うものだから、落ち着かなくなる。

「照れてんの、梢」と梢の脇腹を小突く杏は、「うっさい」と一睨みしてくる相手を一笑しながら、再び話題を戻した。


「一番びっくりしたのは、神田の話のときに、あんな勢いで噛み付いてきたことだよ」

「すみません…」

「いや、いいんだけど。あのときは敬語もなくなってたし、ズバズバ言ってくるし、本当びっくり。さては、そっちが素だな?湖月玲」

「あ、あのときはただ――」


 どうしても、『死んだほうがマシ』という言葉が許せなくて…。


 そんなふうに言いかけて、私はぴたっ、と言葉を飲み込む。


 下手をすると詮索を受けるかもしれない。アルトリアのように、気になった誰かが学院長に尋ねないとも限らない。いや、この場で深掘りしてくる可能性だってあるだろう。


 …とはいえ、ここで嘘を吐くのは避けたい。彼女ら相手に、それはしたくなかった。


 私は小首を傾げる三人を上目遣いで確認しつつ、どうしたものかと一考した。そのうち梢が、「ただ?」と繰り返したことで、半ば諦め混じりで言葉を紡いだ。


「…嫌なことを、思い出してしまったの…」


 それはほとんど、独り言に近かった。いや、むしろ、懺悔に等しい。


「嫌な、こと?」と梢が問う。


 誰と話しているのかもおぼろげになり、私はそのまま少しだけ薄闇に踏み込む。


「ええ、嫌なことよ…。忘却の指先も避けるような、嫌なこと…。忘れてしまいたいと思えば思うほど、目蓋の裏にこびりついている暗い記憶――」


 はっ、とそこで私は我に返った。


 扉を開けてしまった。


 その深淵を垣間見たルームメイトたちは、困惑したような、苦しむような顔でこちらを遠慮がちに見ていた。


「な、何でもありません。忘れて下さい」すっと俯く。「つまらないことです」


 すると、出し抜けに杏が言った。


「ごめん、湖月。辛い思いさせたんだね」


 いつの間にか、杏たちは距離を詰めてきていた。


 手を伸ばせば触れられる距離だ、と考えていると、実際に杏が自分の手のひらを私の手の甲に重ねた。そして、「顔上げて、私の顔を見て」と優しく彼女が呟いたため、それにつられて面を上げる。


「湖月を傷つけた私が言うのも変だけどさ、自分が苦しんでいることを『つまらないこと』なんて言う必要はないと思う。大事なことなんでしょ?」

「大事な、こと…」


 アルトリアに言われた言葉を思い出す。


「世の中って星の数ほど人間がいて、その一人ひとりに悩みがあるわけじゃん?周りから見たらたいしたことがなさそうでも、抱えているのは自分なんだから、その重さは自分で決めていいんだよね、きっと」


 驚くほどに可憐な表情。そして、杏の声の透明感の高さ。


 間違いない。これはいつも飄々として、憎まれ口を叩いている星欠杏の仮面の底だ。ポスターに描き出されている彼女こそが、本当の姿だったのだ。


「肝心なのは、それでも、人は色んなものに希望を見出しながら前を向いてるってこと。何度も、何度も、俯いては顔を上げてを繰り返して、ね」

「…希望を見出すことすら怖いときは…?」気づいたら、そう問いかけていた。

「楽しいことをやる、それに限る」

「楽しいこと…」

「それがないなら探す。探しても見つからないなら、漠然としててもいいから、不安や悩みを誰かに話す。――大丈夫、人に力を与える元プロの私がいるんだから」


 杏が言うことは少し抽象的ではあったものの、直感的に彼女の言いたいところは理解できる。じんわりと熱くなる目頭が、杏の熱意を齟齬なく受け取った証拠のような気がした。


 ぎゅっ、と目をつむり、涙がこぼれないよう抑える。


「そのうち、前に進めるようになるよ」


 そのうち、顔を上げて前に進める。


 本当だろうか?


 すでに一年以上、私はあの部屋の中で立ち止まっていたのに?


 だが…今、ここにいることが、慣れない役回りなどを演じてでも己を貫いたことが、顔を上げることにつながるのなら。


 私はすでに、歩き出しているのだろうか?


 もう一度…何かに希望を見出すことができるというのなら…。


 ふと、すすり泣く声が聞こえてきた。


 初めは、抑え込めなかった自分の感情が知らず知らずのうちに声を発しているのだと思ったが、どうやらそうではないらしかった。


 声を殺して泣いているのは、北条純風だった。


「純風…」と梢が彼女の肩に手を置く。不安がるような、慈しむような横顔にドキリとする。


 なんでもない、とでも言うように首をゆっくり左右に振る純風を見て、私はとても心を締めつけられるような心地になった。


 杏も何かを感じたのか、「なんで、あんたが泣くの」と呟いた。


「杏ってば、分かってるくせに」


 梢が泣き笑いの顔で言う。


 そして、肩を抱かれた形になった純風が涙を拭い続けながら口を開いた。


「ごめんね、杏ちゃん」


 普段なら絶対に看過しない呼称にも関わらず、杏は黙ってそれを受け止めた。それから、抑え込んだ言葉の代わりとでも言わんばかりに、私の手に触れている手とは反対の手を純風のほうに手を伸ばした。


 触れるか、触れないかの距離。


 そこで、杏の指先は止まる。


 杏が躊躇しているのが、その不安げに揺れる表情から手に取るように分かった。


 私はこのままではいけないと根拠もなく思い、半ば無意識的に余った手で杏の手を掴み、後押しするみたいに純風の肩に持っていった。


 杏の驚愕がはっきりと指先から伝わってきた。同時に、触れられた純風が顔を上げる。


 彼女は私を一瞥すると、すぐに杏を見つめた。


 どれだけの時が流れたのか分からない。数秒だったか、数時間だったか。


 純風が泣き止むまで、私たちはそうして身を寄せ合った。


「生意気ね…――玲」


 純風のすすり泣き以外は何も聞こえない、聖なる静寂の中、ぽつり、と杏が上の空みたいにして言ったことで、一つ私たちの関係は変わったのだった。

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