湖の乙女.4
張り詰めていた緊張の糸が切れれば、私の体からは力という力が抜けて、立ち上がれなくなった。
私は、デモンストレーションの労いを担任教師である涼香、学院長であるマルキオから受けた後、アルトリアに連れられて空き教室にいた。
マルキオはとても喜んでいた。学院長として伝統を守れたことにも安心を覚えていたようだが、彼女が同級生だったという私の祖母の若かりし頃を思い出して懐かしい気持ちになれた、ということらしい。
祖母の幻影を求められているようで、嬉しいような、そうではないような、なんとも言えない気分だ。
誰もいない空き教室に入れば、すぐにアルトリアが椅子を三つ、横に並べて私に座るよう言った。保健室は嫌だ、と言った私への最大限の配慮だろう。
「改めて、お疲れ様、玲。さぁ、どうぞ、横になってくれ」
そう言ってアルトリアは、自分も並べられた椅子の一つに座った。
「あの…」
横になれと言われても、椅子二つ分だけではなりようがない。
アルトリアは目線からこちらの言いたいところを察したのか、やたらといたずらっぽい笑みを浮かべた。
「なれるだろう?ほら、私の太ももを枕にすれば」
「え?いや、それは…」
「何か不満かい?アーサー役として三年間推薦され続けた、僕の膝枕に?」
なんと強引な人なのだろう。押せば私が跳ね除けられないことを分かったうえで、こう言っている。
私は早々に諦めて、椅子に横たわった。それに、正直なところアルトリアには多少甘えても構わないかもしれない、という気持ちもあった。
彼女は、私のことを知っている。悪い意味でも、良い意味でも。
質の良い制服の感触もさることながら、思っていたより柔らかい膝枕に驚かされた。
とても落ち着く。それに何かに似ている。どこかで味わった感触なのだが…と頭を悩ませていると、頭上から意外そうにアルトリアが言葉を紡いだ。
「お、おぉ…意外と素直に従うのだね。てっきり、拒絶されると思ったが…」
「じょ、冗談だったのですか?」慌てて身を起こすと、やんわり、アルトリアに元の位置に戻された。「いやいや、そうではない。粘らなければこうしてくれないだろう、と覚悟していたから、驚いただけだ」
「そうですか」と降り注ぐ蒼の輝きから目を逸らす。
教室はとても厳かな静謐で満ちていた。
風が囁く度、カーテンが穏やかに揺れる。真夏だが、この島は本土ほどの灼熱はなく、風がある日なら、窓さえ開けていればそれなりの涼しさは感じられた。
とはいえ、この湖畔祭の衣装は夏の気候にそぐわない。芝居の途中だって、くらくらするような気分になったものだ。
額の汗を静かに拭えば、アルトリアが優しく言った。
「ジャケット、脱いだほうがいいんじゃないかな?」
「…ええ、はい」
そう返事はするものの、気だるくて手先を動かす気になれなかった。元々、軽い熱中症ということだったから、無理もないのかもしれない。
「あー…失礼じゃなければ、僕が脱がせるが?」
「え?」
そんな恥ずかしいことお願いできるはずもない。
子どもみたいだと思われたくないし、それに…。
(いくらジャケットとは言っても、『脱がされる』こと自体、とても恥ずかしいことだわ)
大丈夫です、と断ってから、身を起こし、ジャケットを脱ぐ。そうすれば、ワイシャツと肌着だけになれる。
脱ぎ終われば、ばちりとアルトリアと至近距離で目が合った。
妙な気恥ずかしさがそこにはある。アルトリアもそれを感じているのか、ほんのりと顔が赤い。
互いの間に、沈黙が流れた。部屋を満たす静寂とは違う、そわそわするような、照れるような沈黙だ。
それを破るようにして、アルトリアが言う。
「…本当に、よく頑張ったね。玲」
ぽん、と頭の上に手が置かれる。
どこか、懐かしい感じがした…。
「学院長が言っていたように、十分な仕上がりだったよ。見たかい?オーディエンスの顔を。誰も彼もが君に見惚れていた」
「見惚れていたって…大げさです。先輩じゃないんですから…」
「大げさじゃないよ。君が自分を低く見積もることで見えなくなっていた『湖月玲』の本当の姿に、周囲の評価が少しずつ追いついてきているんだ」
真面目な顔をしてそう言いつつ、私の頭を撫でるアルトリア。気恥ずかしいが、誰も見ていないからいいか、とされるがままになる。
「先輩がいたから、頑張れたんです。貴方が勇気づけてくれたから…」
「…あまり褒められると、調子に乗ってしまうよ」
「ふふ、いつも調子が良いと思いますけど?」
おかしくなって笑えば、つられたふうにアルトリアも笑った。だが、ややあってシニカルな表情を浮かべると、おもむろに私の髪を手繰り寄せた。
黒い髪を愛おしそうに自分の鼻先に当てるアルトリアの姿に、一瞬、呆気に取られる。数秒経って、その気恥ずかしい行為に気づいた私は、早口で彼女をたしなめた。
「あ、アルトリア先輩…!汚いです、私、汗かいてるから…」
「そんなことはない…。学院指定の柑橘系のシャンプー、それに、女性らしい甘い匂いがするよ。とてもいい匂いだ」
「あぁもう、恥ずかしいです…!」
とはいえ、振りほどく気にはなれない。そうすると自分も痛いからではない。単純に、アルトリアを引き離すということができなかったのだ。
そのうち、そっとアルトリアが桜色の唇で私の髪に口づけを落とした。気障な仕草だ。だが、それが驚くほどよく似合った。
ぞっとするほどに美しい時間だった。自分の中で、こんなにも鮮やかな時が流れたことは、今まで一度もないだろうという確信があった。
このまま何時間でも過ごしていたい。
そんな不可思議な感覚と共にアルトリアを見つめていた私だったが、その時間はすぐに終わりを迎えてしまった。
「アルトリア?ここなの?」
教室の外から蘭香の声が聞こえてきたとほぼ同時に、扉が開いた。
「あら…」
至近距離でアルトリアと見つめ合っていたところを見られてしまった。しかも、彼女の唇は依然として私の髪にくっついたままだ。
「あ、アルトリア先輩、百日紅先輩がいらっしゃっています。ほら」
「ん?ああ…」
アルトリアは恥ずかしいことをしていたという自覚がないのか、普通の顔で立ち上がり、入り口で佇む蘭香の元へと移動した。
「何だい?蘭香」
「『何だい?』じゃないわ、アルトリア。学院長がお呼びよ、ずっと探してる」
「…そうか」
「例の話ね。約束してたんじゃないの?」
「まあ、ね」
短いやり取りを終えたアルトリアは、くるりとこちらを振り返った。その顔には、どこか寂しげな様子が描かれている。
「すまない、玲。私はそろそろ行くよ」
「あ…はい」名残惜しい、とは口が裂けても言えなかった。
「せっかくの湖畔祭だ。ゆっくりと休めたら、外で友だちと出店でも見ておいて。夜までやっているから、きっと、いつ行っても楽しめるはずだ」
それじゃあ、と告げて去っていくアルトリアの背中に、自然と指先が伸びそうになるも、蘭香がこちらを見ていることに気がついて、慌ててそれを抑える。
蘭香は私のそんな様子に複雑そうな顔をしてから、曖昧に微笑んだ。
「…あまり、入れ込みすぎないようにね?湖月さん」
気遣っているような、予防線を引いているような言葉に、私は自分の神経が波立つのを感じるのだった。
湖畔祭の出店周りは、げっそりするほど人でいっぱいだった。
白い制服を身にまとう少女たちがところ狭しとひしめきあっているのを見て、『こんな中に入るのは、土砂降りの雨の下に傘も差さずに行くようなものよ』と私は辟易とした気分を味わっていた。
ところどころに見知った顔がいるが、決して親しいわけではない。少なくとも、わざわざ声をかけて、湖畔祭を共にまわろうなど言える相手ではない。
アルトリアはああ言ったが、やっぱり、端のほうを通って花月寮に帰ろう。そのほうがよほど健康的だ。
日陰者は日陰者らしく、壁沿いにできた影の中でも歩こう。
そう思い、一歩学院の中から外へと出たとき、思わぬことが起こった。
「あ、湖月さん!」
不意に、一人の生徒に呼び止められた。見知った顔だ。名前も薄ぼんやりとだが覚えている。
一体、何の用だろうか。
「さっきのすごかったわ!アーサー役、とっても似合っててびっくりした!」
「え、あ…どうも」
その話か、と胸を撫で下ろしていると、どんどん人の視線が集まり始めた。しかも、見ているだけではなく、少しずつ私の周りに人垣ができてきた。
「ねぇ、結局、湖月さんがアルトリア様の代わりにアーサー役を続けるのね?」
「昔、演劇か何かやっていたの?全く別人みたいだったから、もぅ、みんな感動しちゃったわ!」
矢継ぎ早に質問や感想を口にされ、思わず後退してしまった私は、「あ、えっと…」と狼狽えながら、どうしてこんなことになるのかを想像した。そして、アルトリアだったかが、アーサー役は羨望の的になるのだと話していたことを思い出した。
頑張って質問一つ、一つに答えようとはするものの、勢いがすごすぎて間に合わない。というか、答えさせる気がないのではと思う間隔で質問が飛んでくる。
「あ、あの、私、寮に戻りたいのですが…」
「え?せっかくの湖畔祭なのに?色々まわったほうがいいよ!」もはや、名前も思い出せないような人物がそう言う。「そうだ!湖月さん、私たちと一緒にまわりましょうよ?」
それを耳にした私は、炎天下にさらされていたときよりも、ずっと気が遠くなる思いがした。
(…冗談でしょ?こんな状況で出店なんかまわったら、悪目立ちしてしまうし、それこそ倒れてしまうわ)
とはいえ、この怒涛の勢いを断つことなどできない。
私は流されるままに名前もおぼろげな生徒たちと、湖畔祭で賑わう人混みの海へと飛び込もうとした。
そのときだった。
ぱしっ、と誰かが私の手を掴んだ。
瞬間、脳裏をよぎったのは、アルトリアの飄々とした顔だ。それから、梢の凛とした気迫に満ちた顔。
顔は見えないが、誰かが自分を助けようとしてくれている。私はそう直感した。
ところが、振り返って見た顔はそのどちらでもなかった。
吊り目から放たれる、冷ややかで鋭い眼差し。その目元にある黒子がどこかセクシーな印象を受ける顔立ち。
――水宮寺薊だ。




