湖の乙女.3
湖畔祭当日が来た。
どこまでも青く澄んだ空に、もくもくと大きな入道雲がそびえ立っている。まさに、夏の空という感じだった。
森の中から聞こえてくる蝉の声、湖畔祭の最終確認を進めている生徒や教師の声。
窓の外を飛ぶ赤とんぼが、右に左にとホバリングする姿がどこか逞しく見えた。
「緊張しているかい?」
そうアルトリアに問われて、私は自然と首を振る。
「いえ、あまり。指先は震えてますけど、いつもみたいに気が遠くなるような感覚はありません。先輩のおかげで、やらなければという気持ちのほうが強いです」
「というと、いつもは気が遠くなっているのかい?」
「え?ええ、まぁ」
アルトリアは私の返答に浅く頷くと、感慨深げに腕組みしてシニカルに笑った。
「神は人に、越えられる試練しか与えないというが…今回の壁は高く分厚そうだね」
「や、やめてください。もっと不安になってしまいます」
これは失礼、とアルトリアは肩を揺すった。
時刻は正午前。もうニ十分もすれば、私はあの湖畔に向かわなければならない。
深呼吸して、自分の全うする役目を思い出す。眠れないほどに頭の中で繰り返した内容だ、すらすらと出てきた。
一、聖剣広場から真っ直ぐ続く道を通り、湖畔の桟橋へと向かう。
二、桟橋の端に立ち、決められた台詞をそらんじる。
三、湖の乙女に扮した百日紅蘭香が、ベールを脱いで、浅瀬から歩いてくる。
四、いくらかのやり取りがあって、乙女の手から、聖剣を譲り受ける。
五、鞘から剣を抜き放ち、台詞をそらんじた後に元来た道を辿って学院へとはける。
よし、難しい内容ではない。台詞はバッチリだ。
…そう言い聞かせていないとやっていられないというのが本音だが。
不意に、アルトリアが言った。
「さて、そろそろお楽しみのお時間だ」
「お楽しみ?」とオウム返しすれば、彼女は嬉しそうに頷いた。
「ああ、そうだ。君も楽しみにしていた『衣装』へ着替える時間だよ」
あぁ、と嫌なことを思い出して苦い顔をする。
「もう、本当に意地悪な人なんですから。私があの衣装に辟易としていたことぐらい、覚えているでしょうに」
すまん、すまん、と悪びれた様子もないアルトリアは、去年、一昨年は自分も同じ衣装(ただし、サイズは違うが)に袖を通したことを説明してくれた。
「なかなかに悪くはない一品だよ。――さて、後ろを向いているから、着替えてごらん」
どうやら、部屋から出て行くつもりはないらしい。募る恥ずかしさはあったものの、もう時間もない。アルトリアが覗きをするような人間には見えないが、とりあえず、カーテンの内側に身を隠して着替えを済ませた。
最後のボタン留めを行いつつ、口を開く。
「あの、こっちを見ていませんよね」
「なんだい、疑うのかい?」
「…いえその、万が一と思うと、恥ずかしくて…」
「大丈夫だよ、見ていない。見るときは正々堂々見るのが私の流儀だ」
何だ、その流儀は…と思いつつ、カーテンを開けて、ベールを脱ぐ。宣言通りにアルトリアは反対側を向いていた。
アルトリアに声をかける前に、一度、自分の装いを確認してみる。
白の布地に金の装飾やラインが入れられたジャケットとズボン、その上から、現代ではまずお目にかかれないマントコートを羽織る。
夏の祭で使う衣装のくせして、外気温のことを一切無視した服装だ。エアコンの効いた空き教室だからいいものの、外に出て、演技を終えて戻ってくる頃には汗だくになっていることだろう。
「アルトリア先輩、用意ができました」
「うん。振り返ってもいいかい?」
「どうぞ」
私の返事と同時にくるりとアルトリアがこちらを振り向く。ポニーテールが可愛らしく揺れる。彼女は、ワンピースのときほどではないが、目を丸くして驚いていた。
「ほう、似合うだろうとは思っていたが、予想以上に玲の雰囲気とマッチしているね」
「…そうでしょうか?」
「そうだとも。君は僕ほどではないが背が高く、手足も長い。それに、中性的な顔立ちの僕とは違って、少女らしいあどけなさも残っているから、かなり美少年に見えるよ」
褒められているのだろうか、と首を傾ける。アルトリアは近くの机に身をもたれかけると、何度も頷いた。
「うん、うん。これは期待できるな」
「期待?」
「ああ」
さりげない仕草でアルトリアは私に手を差し伸べた。
自然と彼女の手のひらに自分の手を落としつつ、数ヶ月程度ですっかり毒されているなと我ながら不思議に思う。
「今も湖畔で、『王』の訪れを待っている少女たちが、目を丸くする様子が目蓋の裏に浮かぶよ。さぁ――行こうか。アーサー王殿?」
外の賑わいには目を見張るものがあった。この最果ての島に入学して以降、聖剣祭以来の盛況具合に私も浮足立ってしまう。
特に、一年生たちはほとんど例外なく気もそぞろな様子だった。無理もない、多くの生徒がこうした他では得られない非日常を求めてやって来ている者も多いのだから。
…ただ、こうして湖の畔に集まっている生徒の中には、ただ楽しみにしているというわけではないものも混じっている。
かくいう、私もそうだ。
気弱で、『人の視線が気になる』と話していた玲が売り言葉に買い言葉状態で無茶な役を引き受けてしまっているからだ。
今頃、冷静になって右往左往しているのではないだろうか?今からでもアルトリアのことを頼れていればいいのだが…。
「ねぇ、梢…。大丈夫かな、湖月さん」と隣で座り込む純風が独り言みたいに呟く。
「やめて、私も心配でお腹痛くなりそうだから…」
せめて、少しでも早く終わることを祈ろう。
やがて、湖畔祭の始まりを告げる鐘の音が鳴った。学院に隣接している図書館の鐘楼だ。
低く、くぐもった荘厳な音色が青い空へどこまでも広がっていく。まるで、海の彼方まで聞こえていそうな響きだ。
視線を湖のほうへとやれば、すでに蘭香がドレスとベールを身にまとい、準備をしている。噂には聞いていたが、布面積が心許ないドレスだ。
アーサー王物語において、湖の乙女ヴィヴィアンは、聖剣エクスカリバーをアーサーに授ける役として有名だ。もしかすると、乙女自身よりも聖剣の名前のほうが有名かもしれない。
その役目から、自然と聖なる水の精のような存在をイメージしがちだが、実際はそうではない。内容は割愛するが、清濁併せ持つような存在である。
百日紅蘭香自身も、円卓の会会長、模範生徒として知られているが、よくアルトリアの奔放さを厳しめの口調で叱りつけているところも目撃されている。そういう意味では、湖の乙女は相応しい役回りなのかもしれない。
そうして、なんとなく蘭香を見ていると、不意に肩を叩かれた。隣にいるのは杏だ。
「ちょっと、湖月が来たよ。一人だ」
「え、嘘、どこ」
結局、アルトリアに切り出せなかったのか。
不安でいっぱいだろう、玲の姿を探すため、私は杏の指先を目で追った。
最初に抱いたのは、『あれは、誰だろう』という感想だった。次に、『玲は結局、代役を立てたのか』というもの。そして、その姿が遥か遠く学院のほうから、湖畔の入り口に来たときには、『まさか』という気持ちに変わっていた。
金の装飾の付いた白いマントをたなびかせ、夏の熱気など忘れ去ったような顔で歩いて来たのは、湖月玲本人だった。
「すごい綺麗…」と夢見心地で呟いたのは、いつの間にか立ち上がっていた純風だ。
彼女の感想は最もだ。だが、それ以上に、なんと堂々たる振る舞いだろうか。
玲は、いつもは俯きがちで、はにかむ顔が可愛らしい少女だ。それが今やどうだろう?彼女は立派な『王』として、過不足ない凛とした顔つきで遠い空を見つめていた。
私たちの前を通るときだって、彼女はちらりとも視線を向けなかった。それが寂しくもあり、魅力的でもあった。
玲は今、一人で戦っている。その強さと勇気は、彼女のことを少しでも知るものなら理解できることだろう。
やがて、桟橋の端に立ち、手を広げて夏風を受けている玲が天にも届くような大きな声で言った。
『湖の乙女よ!その美しい剣は誰のものだろうか?』
普段の玲からは想像もできない、明朗な響き。その場にいる者が、ヒソヒソ声で玲の変わりようを口々に語り合っている。
『王様。この剣は私のものでございます』
蘭香もさすがだった。ベールを脱いで玲に歩み寄り、相手の堂々とした声に負けないくらい、透き通る声で返した。
『なるほど。ところで、私の剣は折れてしまったから、その美しい剣を譲って頂けるとありがたいのだが』
『ええ、構いません。ただ、然るべき時が来たときに、私の願いを叶えてくれると言う約束と引き換えになりますが、いかがでしょうか?』
『ああ、それで構わない。約束しよう』
乙女は、ゆっくりと歩いてくると玲の手に剣を手渡した。
小説の中での情景が、二人を通してありありと浮かび上がるようだった。
ゆっくりと後退していく蘭香。浅瀬とはいえ、水の中に後ろ向きで後退するのは勇気がいることだろう。
玲が扮するアーサーは、淀みのない動作で剣――エクスカリバーを鞘から抜いた。
太陽の光を弾き返す、美しい銀の刃。ただのオブジェとは思えないくらい、はっきりと『剣』としての輪郭を帯びていた。
『その剣は、決して刃こぼれを起こさず、そして、鋼すらも断ちます。さらに、その鞘を身に着けている間は決して一滴の血も流すことはありません』
剣の不思議な力を伝えた湖の乙女は、さらに遠ざかり、半身を水につけてアーサーを見送っている。
『ありがたく、頂こう』
玲は静かに呟くと、手元も見ずに聖剣を鞘に納めた。時代劇などでよく見る動作だが、これにもそれなりの修練が必要だと聞いたことがある。
そのまま、堂々とした足取りで彼女は学院のほうへと戻っていった。終始、ヴィヴィアン役の蘭香以外には目もくれず。
玲がここまでアーサーに没入できると、誰が考えただろう。彼女の姿は、一種の才能の片鱗すら感じられるものだった。
「…いや、誰…あれ」唖然としている杏の隣で、私も身じろぎ一つできないまま玲の後ろ姿を見送る。
「今さっきの、あれ、本当に湖月さん?まるで別人じゃん」
「――え?あ、いや、うん、湖月でしょ。うん、多分…」
「アルトリア先輩の生霊が憑いていた、って言われるほうが納得できるね…」
失礼だったが、口が勝手に動いていた。
「あはは…でも、これで色々と変わっちゃうかもね」
「え?純風、どういうこと?」
「だって、ほら…」
純風は苦笑いを浮かべると、同じ一年生が観覧している辺りを視線で示した。
白いセーラーワンピースの制服を身にまとった少女たちのほとんどが、一心に玲の背中を見つめている。
そこに込められた羨望、好奇、憧れ。それらを察するのは、あまりにも容易い。
薊すらも、玲の背中を熱い視線で見つめている。その隣で薊の腕にしがみついている明鈴など、もっと分かりやすい。顔が真っ赤だ。
そもそも、アーサー役を担うというのはそういうものだ。
このアヴァロン学院において、一目を置く存在になるのだ。
「――人気者になっちゃうかもね。どうするの?梢」
「うっさい、ばか」
訳知り顔で小首を傾げる純風が途端に憎々しく見えて、私は彼女の鼻先を指で弾こうとした。だが、純風は驚くほどに俊敏で、しかも、無駄のない動きでそれをかわすと空振った私の指先を優しく握って言う。
「早めに声かけないと、湖畔祭の出店、一緒にまわれないと思うよ?」




