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湖の乙女.2

 杏はすぐに私の取った行動を見て目を丸くした。それから少しずつ事態を飲み込むと、こちらの正気を疑うような眼差しで睨みつけてきた。


「ちょっと、何をやってんの、湖月。まさか、そいつを庇うの?」


 庇う――明鈴がこれ以上、情け容赦のない言葉の刃で刻まれぬよう、間に立つことをそう表現するなら、そうなのだろう。


「…もう、いいんじゃないでしょうか。神田さんも十分傷ついているようですし」

「は?勘弁してよ、私はいつも湖月が嫌がらせを受けてるから、やり返してるんでしょ?」

「そんなこと頼んでいません」


 口にしてから、しまったと思った。今の言い回しは攻撃的すぎる表現だった。


 案の定、杏はみるみるうちに怒りに顔を歪ませ、私を睨みつけた。


「…何、どうしたの、今日」

「星欠さんこそ、どうされたんですか?今日は、いつにも増して、その…」


「はっ、口が悪い?」杏は一瞬だけシニカルな笑みを浮かべたが、すぐに不愉快そうな顔つきに戻った。「余計なお世話」


 やっぱりそうだ。何かがあって、杏は酷く機嫌が悪いのだ。それで、その鬱憤を晴らすために都合の良い明鈴に絡んだ。下手をすると、今度は私がその対象になるかもしれない。


 杏のことは好きだ。口は悪いし、皮肉屋だが、リアリストで忌憚のない意見を口にしてくれる。それに、なんだかんだ私のことも気にかけてくれている。


 ただ…『ああいう』発言をするなら話は別だ。聞き捨てならない。いくら仲が良くても、いくら恐ろしくても、ここは譲れない最後のラインだ。


 そろりと顔を出した明鈴を杏が一睨みする。それで彼女はまた私の後ろに隠れてしまった。


 杏はそれを見ると、ますます苛立った感じで眉をひそめた。そして、鼻を鳴らしながら矛先を私へと変える。


「何、同じ臆病者同士、シンパシーでも感じちゃったの?」

「…星欠さん、どうしてそんなことを…」

「苛つくんだって、あんたらみたいなのを見てると…!」

「その苛立ちをぶつけるべき相手は、本当は私たちじゃないのではないですか?」


 確信と共に告げれば、杏の動きが止まった。


 ゆっくりと、ゆっくりと杏の顔が青くなっていく。口をパクパクさせた彼女は、ぎゅっと両手の拳を握りしめると、精一杯の虚勢を張り直した。


「随分と分かった口利くじゃん、湖月。ビビリのくせに、いい度胸だよ」

「…臆病で、何が悪いの?」


 こうも臆病だ、ビビリだと蔑まれれば、さすがの私も苛立ちが強くなる。


「とにかく、神田さんに謝って。先ほどの言葉は明らかに言いすぎだわ」

「嫌だね。臆病者の言葉は聞きたくない」

「貴方は…!」


 退くに退けないところまで来ている、きっと、お互いにそう思っているに違いない。実際、杏のほうだって苦虫を噛み潰したような面持ちに変わっている。怒りに突き動かされてというよりかは、また違う感情に呑まれているふうだった。


「あ、あの、湖月さん…もういいって」と明鈴が後ろから声をかけてくる。

「いえ、そういうわけにもいかないわ」


 さっきも思ったように、これは譲ってはいけない問題だった。それに、ここでうやむやにしては、私はもう二度と杏と本音で話せなくなる。そんな予感がしていた。


 花月寮の廊下に、ぴりっと張り詰めた空気が流れていた。帰ってきた生徒が何事かと廊下の端からこちらを見ているが、分泌されたアドレナリンのおかげか、視線もまるで気にならない。


 きっと、このままでは互いに譲り合えず、睨み合いが続くばかりだろう。そんなもの、とても建設的ではない。


 私は考え抜いた結果、これしかない、と一つの提案を口にする。


「…私が、臆病者でなければ話を聞いてくれるのね?」

「何が言いたいの」

「それを証明できれば、私の意見を聞いてくれるのかと尋ねているの」

「…ああ、いいよ。それが証明できるならね」

「分かったわ」


 半ば挑発的な提案。気が強く、激情家な一面を持つ杏がこれを飲まないはずがない。


 私は一つ深呼吸してから、宣誓する。


「明日の湖畔祭、アルトリア先輩に頼らず、一人でやってのけるわ。――それで、納得できるかしら?」




「…そうか、そんなことが」


 事の仔細を告げられたアルトリアは、自分の机に寄りかかって腕組みしながら外を眺めていた。


 窓の外では一片の欠けもない、美しい満月が輝いていた。


 星は歌い、夜のしじまは祭の気配に揺れている。そんな特別な夜だ。


 月輪の放つ光を顔に受けたアルトリアは、酷く芸術的で、この世ならざるもののようにすら感じられた。端的に言うと、とても綺麗というわけだ。


 私はアルトリアに見惚れるのをやめて、改めて頭を下げる。


「勝手な真似をして、本当にすみません。アルトリア先輩」

「おいおい、頭を上げてくれ。歳下の女の子に頭を下げさせて悦に入る趣味は、私にはないよ」


 いつもの気障っぽい言い回しで、軽く笑う彼女にどこか救われた気持ちになる。


「それに、可能そうであれば君一人でアーサーを演じられるのが望ましい――という話だったろう?土壇場で勇気を出した、それでいいじゃないか」

「そんな綺麗な話では、ないですが…」

「何を言うんだ。綺麗な話だろう?」


 ちらり、と顔を上げれば、ネグリジェ姿のアルトリアと目が合う。


 真っ白い肌が月明を浴びてぼんやりと浮かび上がる。その中で爛々と輝く青の瞳が、とても理知的で、魅力的だ。スタイルの良さも、この格好ではかなり目立った。


 やはり、自分のことを『僕』なんて呼んでも、アルトリアは女だ。それこそ、狂おしいまでに。


「立場の弱い者のため、立ち上がったんだ。これを美談と呼ばずして、何と言おうか」

「そう言ってもらえるのは光栄ですが、私にそんなつもりはないんです。そんな高尚なものじゃなくて、ただ…」


 言い淀む私に、アルトリアが苦笑いを浮かべる。


「…分かっているよ。玲が、どうしてそこまで決心したのか」


 ぽん、と私の頭の上にアルトリアの白い手が落ちる。


 全く嫌な気持ちはしなかった。きっと、私を見つめるサファイアの瞳に幾筋もの慈愛の光を感じ取ったからだろう。


 こちらの意図を察していたらしい彼女を少し低い位置から上目遣いで見つめ、ぼそりとアルトリアの名前を呼ぶ。


「アルトリア先輩…」

「だけどね、だからこそ、やっぱり美しいと思う」


 じっと、相手の言葉を待つ。


 たおやかな唇は程なくして動き出す。


「玲は、玲の譲れないもののために困難へ立ち向かおうと決めた。それは、誰にでもできることじゃない。――美しく、気高く生きるために、自分をごまかさないことは大事なんだと思う」


 大げさな、と笑い飛ばすことはできなかった。それほどまでにアルトリアの顔は真剣で、そして、どこか自嘲的であったのだ。


「大人になっていく過程で、誰もが自然と『大事なもの』を手にする。でも同時に、その過程の中で『大事なもの』を軽んじられるようになる。そうするほうが、楽に、無難に生きられることを学ぶから」


 アルトリアは最後に、「とても悲しいことだ」と付け足すと、遠い目をして窓の外を見た。


 月光を吸い込む、金色の髪と蒼海の瞳。


 彼女の意識が、夜闇と星月に向けられているわけではないことぐらい、その横顔からすぐに分かった。おそらく、過去という窓の向こうに光は当てられている。


 アルトリアは改めて私のほうを向き直ると、とても真剣な顔つきで言った。


「だから、玲。君の取った行動は正しい。それを守るために戦えるなら、人はそうするべきだと僕は思う」


 そうして、私の下した勝手な判断にも、アルトリアは優しく、力強く頷いてくれた。彼女の対応がどれだけの勇気をこの胸に与えたのか、言葉にするまでもないだろう。


 不思議なことに、アルトリアの姿にはどこか懐かしいものを感じていた。既視感じみているが…確かに、私はどこかで似たような存在に甘えていた。


(『大事なもの』…。これが、そうなのかは分からないけれど…。少なくとも、私にとってそれだけ大きな問題だということは、星欠さんにも分かってもらわなくちゃ)


 これからも、あの逃げ場のない空間で私が息をしていくために。


 今は、戦う必要がある。


「ありがとう、ございます」


 真っ直ぐアルトリアを見つめ直し、礼を言う。


「アルトリア先輩がこうして勇気をくれるなら、私、きっと頑張れると思います」

「玲…」


 自分の思いの丈を口にできた、と私がどこか満足げな心持ちになっていると、何やら目を丸くしていたアルトリアの手が、すうっと、頭から頬へと伸びてきた。


 髪と一緒に撫でられる頬に、ぞわりとした電流が走る。


 壊れ物を扱うような動作だった。指先に込められた感情の名前も分からないことに奇妙な焦燥を覚える。


 肌が粟立つ感覚と、言葉にできない感情に、私は慌てて声を発する。


「あ、あの…」

「僕が思っている以上に、玲はしっかりしているね」

「そんなことは…」

「あるさ。それは強さだ。ある種の選ばれた人間しか持たない、高潔な強さだ」


 そうして、白魚の如き指先が耳に当たる。くすぐったいような、腹の底から何かが疼くような感覚に、妙な吐息が漏れる。


「…っ、あ、アルトリア先輩…」


 切ない気持ちで胸がいっぱいになる。やめてもらわないと何かが困るのに、やめないでほしいと思っている自分がいて、頭がおかしくなりそうだった。


 理屈も分からないままに、アルトリアも同じような気持ちなら嬉しいと、私は彼女の顔を見上げた。

 だが…そこにあったのは、むしろ窒息しそうな彼女の顔だった。


「その強さを持ち得ない僕を、『私』は嫌いだ…」

「え?」一瞬で、アルトリアのことが分からなくなった。「今、なんと?」


 ちゃんと聞かなくてはと思っていた矢先、アルトリアははっと我に返ってしまった。


「何でもない」

「でも…」

「何でもないんだ」


 そうして、会話は打ち切られた。


 二人の間に流れる砂を噛んだような沈黙に、まるで夢から覚めていくような感覚を私は覚えるのだった。




 杏と玲の間に起きた出来事を耳にした私は、部屋に戻るや否や杏に問いただしたのだが、杏がそっぽを向きながら話してくれた内容は、まさにため息の出るようなものだった。


「はぁ、どうしてそんなことになるかな…。杏と湖月さんで」


 怒りを通り越して呆れしか湧かない私を、杏は窓枠に肘をついたままちらりと一瞥してきた。そして、私の隣で沈鬱な表情で俯いている純風に気づくと、珍しく、悲しそうな顔をしてみせた。


 間違いない。また二人の間で何かあったのだ。


 どうしても、杏は自分の元ファンだという純風と馬が合わない。まぁ、アイドルの肩書から逃げ出すためにここに来た彼女からすれば、純風は目の上のたんこぶなのかもしれない。


(でも、それで湖月さんや神田に八つ当たりするのはなぁ…)


 とはいえ、それを指摘したところで素直に受け止める杏ではない。そんなふうに真っ直ぐ生きていたら、今回のようなことは起きないはずだ。


「…うるさいなぁ、梢まで」

「うるさいって、同室でケンカされたら私や純風はたまらないってば。それに、今回の件、どう考えたって杏が悪いでしょ」


 ついイラッとして言い返せば、杏はじろり、とこちらを一睨みしてきた。私のほうも負けずと睨み返せば、彼女にしては早いうちに白旗を振り、肩を落とした。


「分かってるよ、そんなこと。でも私だって、まさか湖月があんなふうに食い下がってくるとは思わなかったんだよ。少し脅したら、途中で丸くなって逃げ出すかなって…」

「脅すな、友だちを…」

「…ごめん」

「その言葉、私に言っても仕方がないよ」

「…熱く、なりすぎてた。分かってる、うん、分かってる…神田の奴に言いすぎたのだって、分かってるって…」


 私は杏の言葉を聞きながら肩を竦めると、自分の席に移動して、未だに主の戻らない机を見つめた。


「もぅ、帰ってこないじゃん…。どーすんの、いくらアルトリア先輩のところだって分かってても、こんな遅くに出歩いてるのが知れたら、後で先生に叱られるよ」


 すでに時刻は二十三時。門限の二十一時は過ぎている。きっと、アルトリアのいる星雲寮に泊まってくるのではないだろうか。


 申請さえあれば、他寮に泊まることは可能だ。娯楽の無いこういう場所だからこそ、他人とのコミュニケーションがより素晴らしいものになることも学院は把握している。よほどの素行不良がない限り、行動に制限はかけられない。


 それにしても…と、私は気まずそうな純風と杏のことを忘れて、思い耽る。


 玲はアルトリアと随分仲良くなったようだ。


 この間など、着ていった制服を洗濯して持って帰ってきたうえ、アルトリアに貰った服を着ていた。


 服を脱ぐようなことがあったのか、とか、身を包む黒のワンピースがあまりに似合っているな、とか考えることはたくさんあった。しかし、いずれにしても良い気はしなかった。


 友人が奪われるような寂しさか、それとも、青い嫉妬か…。


(湖月さんも湖月さんだよ。水宮寺のオーサーなんかと仲良くしたら、また目を付けられるのに…)


 自分が気にしているのは、根本のところはそこじゃないと理解しつつ、私はもう一度ごまかすようにため息を吐いた。


「はぁ、とにかく、ちゃんと謝りなよ」


 じゃあ、私はもう寝るから、と付け足し、寝室へのドアノブに触れる。


 背後から感じる重々しい二人の気配に、やるせなさと同時に不満を覚えた私は、ゆっくりと振り返ると、厳しめの口調を意識して告げた。


「…それと、二人は仲直りするまでこっちに来たら駄目だから」

「…梢」心底困ったような声で純風が私の名前を呼ぶ。


 純風はこういうとき、いちいち大型犬を彷彿とさせる顔をする。唇を尖らせて不満を露わにしている杏とは大違いだ。


「二人とも、そんな顔したって駄目だからね。今回のケース、一番の被害者は私なんだから、これくらい言う権利はあるんだから」

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