誓い.4
「はぁ…」大きなため息と共に扉をくぐる。「すみません、アルトリア先輩、私…」
「いいよ、気にしなくて。さぁ、こっちにおいで」
アルトリアはそう言うと、入り口で突っ立っている私に向かって手招きした。
とはいえ、素直に従おうとは思えなかった。
それは、アルトリアの部屋に入ることに臆したわけでも、謙虚さを見せたかったわけでもない。
もう一度、自分の制服の裾を掴み、そのすっかり濡れてしまった布の感触を確かめる。
分かってはいたことだが、多少日にさらした程度ではろくに乾かないようだ。
「まさか足を滑らせて波打ち際に尻もちをつくなんてね。災難だったというか、なんというか。…いいから、こっちにおいで、玲。少しくらいは乾かそう」
アルトリアの言ったとおりで、イルカの群れではしゃいでいた私は、自分の足につまずいて波間に倒れ込んでしまった。
濡れてしまった制服の気持ち悪さもさることながら、べったりと付いた砂もなかなかに不愉快だ。
『デート』は早々に切り上げ、寮に戻って風呂にでも入ろうとしていたところ、アルトリアに半ば無理やり彼女らの寮である『星雲寮』に連れ込まれた。
私に向けられる好奇の視線をスマートに払ったアルトリアに腕を引かれ、私は彼女の部屋に足を踏み入れていた。
「でも、私、濡れていますし、それに砂が…」
「そんなものは後で掃除すればいい。蘭香の奴も――あぁ、僕のルームメイトのことだけどね、あいつも文句は言わないと思うから」
そうか、アルトリアにもルームメイトがいて当然なのだ。そうなれば、なおのこと居心地が悪い。見たところ、リビングには机が三つしかないので、その蘭香ともう一人いるようだ。
私はしばらく、そうして抵抗を試みていたのだが、痺れを切らしたアルトリアに強引に連れ込まれた。
室内は甘い匂いが充満していた。
自分のことを『僕』なんて呼び方するが、やはり、どう転んでもアルトリアは女だ。
そんな彼女は、バツの悪そうにしている私を思案げな顔で見つめていたかと思うと、「服も着替えたほうがいいだろうね。それじゃあ、いつまで経っても気持ちが悪いだろう」と告げた。
「そうは言われましても…着替えもありませんから。あの、やっぱり、帰ったほうが…」
「いーや、駄目だ。僕としてはデートが失敗になるのは絶対に避けたい。それに、着替えなんてこの部屋にいくらでもある」
アルトリアはさらに、「私のお古だけどね」と付け足すと、寝室のほうへと消えていった。そして、五分もしないうちに戻ってきたときには、その両手にたくさんの服を抱えていた。
「あの、それは?」
「もちろん、君へのプレゼントさ。成長期に差し掛かった頃の服だから、ほとんど着ていないんだ。安心していいよ」
何に対して安心すればいいのか、私には分からなかった。
「そんな、結構です。服なんてお金も払わずに受け取れません。しかも、そんな高そうな服」
「あはは、玲。デート中に歳上からプレゼントを提案されたら、まぁ、貰っておけばいいものさ。相手は渡してハッピーになるんだから、迷惑じゃないなら受け取るのがマナーさ」
「…今、歳上かどうかなんて関係ありません」
受け取れ、受け取れないの問答をしばし繰り返した後、アルトリアがどこか楽しそうに肩を竦めた。
「強情だなぁ、玲は」
「貴方こそ…」
「んー…君を濡れ鼠の状態で寮に帰すと、僕の評判が落ちる。アルトリア先輩は、デート中にエスコートもできない人間だ、とね。それは迷惑なんだ、分かるね?」
「う…」
分かっている。こんなものは私に服を受け取らせるための詭弁だ。アルトリアがこんな小悪党みたいな言い分をするわけがない。
とはいえ、アルトリアの言葉には見逃せないものがある。
万が一にでも、花月寮に濡れて帰ることでアルトリアの評価を傷つけるようなことがあれば、薊は絶対に黙っていないだろう。芋づる式に、アルトリアと出かけたことも咎められるかもしれない。
そのため、最終的に私はアルトリアの申し出に頷かざるを得なくなってしまった。
「じゃあ、とりあえずその濡れた服を脱ごうか!」
「え…?」
あまりにさらりと言われて、思わず絶句する。
「え、って…脱がなければ着替えられないだろう?」
皮肉っぽく口元を歪めたアルトリアに、ついムッとして私は眼尻を吊り上げる。
「そういう問題じゃありません」
「というと?」
「『脱げ』なんて、平然と言わないで下さい。ハラスメントですよ、それ」
「ふふ」
「だから、何を笑っているのですか」
いやぁ、と口元を手で押さえたアルトリアは、「目くじらを立てていてもかわいいなぁ、と思って。ごめんね」とはにかんだ。
その少女然とした振る舞いと口調に、くらりとするような感覚を覚える。
「他の生徒に聞いた君の印象と、僕から見た君の印象は大きく違うね。もしかして、今のほうが素に近い?だとしたら、嬉しいんだが…」
その問いには故意に答えなかった。答えが自分で分かっていたからだ。
(それを言ったら、今の貴方だって…)
日頃の凛とした佇まいが、仮面をつけた彼女だとする。それなら、今の少女らしいアルトリアの姿こそが、偽りなき彼女なのだろうか?
着替えている間くらいは、外に出てよう。そう言って、アルトリアが退室した後に残ったのは、数着の衣類。
少し触っただけで分かる、上質な肌触り。間違いなく高級品だ。
一先ず、濡れた服を脱いだ。アルトリアが出してくれたタオルで体を拭いて、気持ち悪さを取り払う。砂がパラパラと落ちるのが気になって仕方がなかったものの、どうしようもないのでそっとしておく。
数着広げてみて思ったことだが、どれもボーイッシュで大人びたものが多い。引きこもってからは私服なんて久しく買っていないが、かつての自分を考えても、着慣れないものばかりだ。
唯一、着慣れたものと言えば…。
私は黒の生地に触れると、十数秒悩んだ後、広げてその服に袖を通した。
肩と袖、首周りにレースが付いている、黒が基調となって仕立てられたワンピース。ところどころ濃紫のラインが入っており、とてもゴシックな印象を受ける一着だ。
若干、大きめではあるが、問題はない。
窓を鏡にして自分の姿を見る。
(大丈夫、おかしなところはないわ)
深呼吸をしてから、外のアルトリアを呼ぶ。彼女の返事を聞いて、不自然に心拍数が上がった。
「さて、どうだい?気に入ったものは――」
抑揚に富んだ声を上げて入ってきたアルトリアだったが、私のそわそわとした姿を見て、言葉を失ってしまった。
目を丸くしたアルトリアの視線が、下から上へと移動していく。かと思えば、また上から下へと移った。
(へ、変だったかしら…?)
ますます居心地が悪くなった私は、片腕をもう片方の腕で抱くようにして立ち、視線をそっぽへと向けた。
このまま相手が黙っているようなら、こちらから何か言おうか。
そう思っていると、ようやくアルトリアの中の時が動き出した。
「…いいね、似合っている。女の子らしい見た目の玲に、ワンピースはぴったりだ」
「あ、ありがとうございます」
「うん。ゴシック調なのも、普段の制服とは真逆で良い。――やっぱり、可愛い服は可愛い子が着ないとね」
また気障なことを…と私は顔が熱くなるのを感じながら、本当に貰っていいのかと確認した。
「もちろん。どうせ、僕にそれは似合わない」
そんなことはないだろう、と顔を上げた瞬間、アルトリアの背後にあった扉が音を立てて開いた。
「…え、っと…」
どうしてこんなことに、と口ごもるアルトリアの隣に正座しながら、私は頭を悩ませていた。
もう十分以上もこうしているため、足が痺れてきている。しかしながら、崩そうと思える空気感でもない。
「ら、蘭香、もう何度も説明したと思うんだが、もう一度説明するよ?僕は、上級生として、そして、人として水に濡れた玲を介抱する義務があったんだ。濡れ鼠のまま花月寮に帰すなんて惨いこと、できないだろう?それに、この砂はちゃんと後で片付けようと――」
「後で、ちゃんと?」
ビリっ、とするような鋭さのある声だ。ちょっと、怖い。
編み込みのある茶色がかったロングヘア、細身ながらもピンと伸びて威圧感のある背筋と姿勢。そして、知性にあふれた瞳。
百日紅蘭香。アルトリアと同じ三年生で、彼女のルームメイトだ。
蘭香は自分の部屋に戻ってくるや否や、一度は私の顔を見て柔らかな笑みを浮かべたのだが、砂が散らばった床を見て、一瞬で険しい形相に変わった。
『床っ!どうしてまた汚れているの!?貴方ね、アルトリア!』
そう怒鳴った蘭香の声が頭の中でまだリフレインしている。美人ほど怒ったときは怖いというが、彼女を見ているとつい頷きたくなる気がした。
その後、へらへらした顔で言い訳を始めたアルトリアに巻き込まれ、私までが床に正座させられた。
自己紹介もしていない相手を正座させることのできる精神力は、私では一生真似できないだろう。
アルトリアは繰り返し自ら(と私)の潔白を証明しようとしていたのだが、かえってそれは蘭香を苛立たせたようで、とうとう、彼女は再噴火した。
「貴方がそう言って、一度でも片付けをしたことがある!?ないわよね!?」
「あ、いや…」
「片付けるのはいつも私!貴方の言う『後で』は、一体何光年先の話になるの!?」
「ら、蘭香、それは距離の単位で――」
「おだまり!」
薊とはまた違う有無を言わせぬ威圧感に、アルトリアも抵抗を諦めて黙り込んでしまった。そうなれば、当然ながら私も蘭香の憤りが収まるまで粛々と俯くことを余儀なくされた。
五分ほど説教を受ければ、そのときが来た。
落ち着きを取り戻しつつあるらしい蘭香は、ようやく私の存在を思い出すと一転してにこやかな顔つきに戻った。
「あら、ごめんなさい、大きな声を出してしまって。えっと…聖剣祭で剣を抜いてしまった子よね?」
嫌なことを思い出しながら、軽く頷く。発言が許されているのかが分からなかったため、黙って相手の様子を窺った。
「初めまして、三年の百日紅蘭香よ。貴方は?」
発言の許可が出た、と顔を上げる。
「一年の湖月玲です。その、すみませんでした、部屋を汚してしまって…」
「湖月さんね。いいのよ、どうせそこのずぼらな王子様が無理やり貴方を引き入れたのでしょう?」
ちらり、とずぼらな王子様を見やる。
アルトリアは不服そうに唇を尖らせると、「初対面の玲ごと説教する君に、とやかく言われたくはないがね」と不平を漏らした。だが、瞬時にして氷の刃の如き視線に戻った蘭香に押され、目を逸らした。
「本当、アルトリアってば、見た目だけで中身は酷いものなんだから。掃除はしない、洗濯もしない。できることと言ったら、他の生徒をたぶらかすか、部屋を汚すことだけ」
「おい、それはあんまりな言い分じゃないか?」
「貴方の代わりにその役目を全うしているのは私よ。それくらいの不平不満は許されるでしょう」
「…はぁ」とため息を吐いたアルトリアは、困惑した私を見て、「いつもこうなんだ。この歳から姑の才能を発揮するものでね。困ってるよ」と囁いた。
「おだまり、残念王子」
当然、ぴしゃりと蘭香に叱責される。怒られると分かっていての発言としか思えなかった。
蘭香は私だけを立たせて軽く床の掃除をすると、素早く私が脱いだ制服を整えた。軽く窓の外に砂を落とした後は、わざわざ袋に入れてくれた。
なるほど。言うだけあってとても家庭的で、気配りのできる人のようだ。
それから蘭香は、学校は慣れたか、アルトリアに迷惑はしてないか、といくつか当たり障りのない質問を私にした後、ふっと優しい目つきになって言った。
「…うぅん、やっぱり湖月さん、アルトリア好みの女の子ね。御伽噺の中から出てきたみたいに儚げで、綺麗で…少し、変なところとか」
褒められているのかいないのか…どう反応したらいいか分からなかった。だが、分からないなりに、恥ずかしいという気持ちはあった。アルトリア好み、という言葉のせいだ。
「変は確かにそうかもしれませんが…私なんか、物語のお姫様とは、似ても似つきません」
「まぁ、そんなこと言わないの」
「そ、それに…私はアルトリア先輩のオーサーと比べたら、全然違うタイプだと思いますよ」
「…オーサーね」
不意に、蘭香の声が低くなった。彼女の後ろで座り込んでいるアルトリアの顔が、ほんの少しだけ憂いを帯びた色に変わる。
「オースなんて、隔離された少女たちのお遊びよ。一年生の頃は無理もないけれど、あまり、変な期待をオースに寄せないようにね?湖月さん」




