誓い.2
気づけば、この学院に来て、一ヶ月以上が経過していた。学校も一度も休まずにいる。
家に引きこもっていた頃を考えれば、卒倒するような快挙かもしれない。だけどそれは、私の強靭な意思だとか、前に進む力だとか、小綺麗なものが成したことではなかった。
ひとえに、このアヴァロン学院の閉鎖的な環境によって成されたことである。
ルームメイトが三人もいるうえに、食事をする場所やお手洗いが共有スペースにある以上、引きこもりようがないのだ。
とはいえ、決して順風満帆な学院生活ではない。そこは数週間前と変わりはなかった。
とにかく、私はこの学院のことを知らなすぎた。
そのせいで、聖剣祭ではとんでもないミスをしてしまったし、水宮寺薊には目をつけられた。オースについて知っていれば、彼女をさらに刺激してしまうこともなかっただろう。
だから、せめて今からでも知識を蓄え、身を守ろうと思ったのだが…。
「…あの、雨見さん、聞いていますか?」
「え、あ、な、何!?」
駄目だ。完全に聞いていなかったようである。
パッ、と顔を上げた梢に向かって、私は改めて説明する。
「だからですね、オースについて、詳しくお伺いしたいのですが…」
「お、オース!?」
梢の声が、跳ねる水音、少女たちのあどけなく、楽しそうな声にかき消されたのは幸いだった。
薊の姿を探す。彼女はテントの下でひと休憩している様子で、こちらの会話に気づいていないようだ。
「あまり、大声を出さないでください」
人差し指を自分の唇に押し当ててみせれば、梢は顔を赤らめて、「ごめん、ごめん、つい…」と何度も頷いて応えた。
「んん…。それで、オースについて知りたいって、ど、どういうこと?」
私はその問いに答えるにあたって、先日のアルトリアとの一件を説明せざるを得なかった。
梢はその話を聞くと、微妙に表情を曇らせて考え込んだ。もちろん、私の事情についてのエピソードは一切語っていないが、薊に絡まれたことは説明した。それを気に病んだのかもしれない。
「まぁ、一通りはアルトリア先輩が説明してくれた感じで良いと思うよ。ってか、私も一年生だから、そんなに詳しくないし」
「そうですか」
「んー…でも、そうだなぁ、一年生では水宮寺以外、オースを交わしてる人間はいないんじゃないかなぁ?」
「そうなのですか?」
「うん。だって、『特別な相手』だからね。出会ったばかりの相手と、そう簡単にはオースは交わせないのが普通じゃないかな」
それは確かにそうだ。だが、だとしたら、どうして薊はアルトリアとオースを交わしているのだろうか。
その疑問には、いつの間にかそばに寄ってきていた杏が答えてくれた。
「水宮寺のお家はね、アヴァロン学院のパトロンなの。それで学院長の家とも結びつきが深いから、水宮寺が変な奴をオーサーにしないよう、アルトリア先輩が選ばれてるらしいよ」
「星欠さん」
さすがは元アイドルというだけあって、水で濡れた杏の顔立ちも可愛らしかった。本当に、黙っていれば可憐な花である。中身がそうではないことは、この一ヶ月で十分分かっていた。
「お、杏。純風は?」
「あ?なんで私に聞くの」
「いや、だって、ねぇ…?」と言って私を振り向く梢。巻き込まないでほしかったが、苦笑するぐらいの反応はしてみせた。
「知らないわ。どうせ、本格的に泳ぐコースにいるんじゃない?あいつ、運動ならやたらと何でもできるし」
アヴァロン学院では、体育講座のときはある程度のカリキュラムには従っての自由行動となる。
身体能力に差があってしかるべき少女たちを、それぞれの得意でのびのびと活動させたいという学院長の思し召しだ。
実は運動は得意なほうだが、誰かと争わなくてもいいのなら、そっちのほうが良かった。
ややあって、杏は梢を睨みつけながら言った。
「あのさ、次に北条さんと私をセットにしたら、あんたのその小さい乳、握りつぶすから」
「なっ…!」
あまりに下品な発言が飛び出て、私は目を丸くする。指をさされた梢にいたっては、目が飛び出るのではというほどだ。
「ば、ば、ばかっ!小さくないし!っていうか、杏だってたいして大きくないじゃん!」
「私は良いの、童顔と合ってるから」
「ぐっ…」
星欠杏はこういう人間だ。愛らしい容姿以上に、歯に衣着せぬ物言いが目立つ。
元々、杏は『アイドル』という肩書を嫌ってこの最果ての地に来たらしい。しかし、哀れなことにその業からは逃れられなかったらしく、『ただの少女に戻りたい自分』と『元アイドルという他人が押し付ける残像』、両者のアンバランスさに苦悩している様子だ。
そのため、元アイドルとそのファンといった関係性の純風とは確執があるらしかった。
皮肉屋だが世話好きな一面もある杏には、何かと助けられている。だから、私もできることなら彼女に恩返しがしたいのだが…。
「それから、湖月。あんたも」
「え?」
じっと杏の顔を見ていると、突然、彼女が私のほうを指さした。
「大人しくて、同調圧力に屈しやすぅいあんたも例外じゃないから。今度また私と北条さんをセットにしたら、そのでかい乳を握りつぶすから。覚えときなさいよ」
「で…」
まさか、さっきの火の粉が似た形で自分に飛び火してくるとは思ってもおらず、私は声を詰まらせた。
そして、よくよく見たら、杏の指先は私の顔ではなく、胸に向けられている。私はあまりの恥ずかしさに紅潮し、慌てて肩まで水に浸かった。
「わ、わ、私は、そんなつもりじゃ…」
顔から火が出ているみたいに頬が熱くなってくる。
水の中で良かった、吹き出る変な汗をすぐに洗い流すことができるから。
すぐに、まともな反論もできない私の代わりに梢が声を荒らげて杏へと詰め寄る。
「最低っ!私はともかく、湖月さんにセクハラ紛いのことをしたら、許さないからね!」
また、守ってもらってしまった、と嬉しいような、情けのないような心地でいると、杏がいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「へへぇ?」
「な、何よ。その顔」
「いやぁ、自分のことを棚に上げるとは、恐れ入ったと思ってね?」
「棚に上げる?」
梢は何のことから分からない様子で、眉をひそめる。
「私、後ろから二人のこと見てたけど――梢、あんたさ、じろじろと湖月のこと見すぎ。視線が低俗」
これには、梢も私も絶句して硬直してしまった。
それこそ、教師が授業終了の笛を鳴らすまでそうしていたのだが、水から上がりながら、どうにか冷静になった私は、梢がそんなことをするはずがないと思い直した。
梢は、どんな状況でも自分を助けてくれる良き隣人だ。そんな梢のことも信頼できないようでは、私は人間として失格だろう。
プールサイドに上がった私は、すぐに二人を振り返ると、できるだけ冷静に、誰も傷つかないような言葉を選んで言った。
「星欠さんの位置からはそう見えたかもしれないけれど、きっと、何かの勘違いだと思います。雨見さんは誠実な人柄をお持ちの方ですから」
これに対し、二人の反応は真逆のものだった。
梢は感動したように、「湖月さん…」と私のことを見つめたが、杏は、「ぷっ」と笑って肩を揺らしていた。
さすがに失礼ではないか、と杏を遠慮がちに見つめると、彼女は軽く謝りながら私のそばに寄ってきた。
「いやぁ、でもさ、途中で梢、返事しないときなかった?」
「え?」
そういえば、何度かあった気がする。違う、何度かどころではなく、梢にいたってはしょっちゅうだ。
いや、まさか…。
「あ、ちょっと…!」梢が杏を止めようと手を伸ばすが、ひょい、と私の陰に隠れたせいでままならなくなる。
「だいたいそういうとき梢って、鎖骨とか、太ももとか見てるから、気をつけたほうがいいよ。こいつのフェチズムだからさ」
「ふぇ、フェチズム…」
日常では聞き慣れない言葉に驚き、思わず繰り返してしまう。そうしてしまってから、とんでもなく恥ずかしい言葉をオウム返ししたのだと、私は羞恥で体が熱くなった。
隣では、梢が杏に向かって怒鳴り声を発していた。
やれ、『言わない約束だったのに!』とか、『変なことを湖月さんに吹き込まないでよ』とか、色々だ。ただ、色々な苦言があるのに、自分の潔白を証明するようなことは一言も言っていない。
つまり、杏の言い分は正しかったということなのだろう。
そういう趣味嗜好があることを否定するつもりはない。だが、これでは、誠実な人柄だなどと言ってフォローした私が馬鹿みたいではないか。
そう思うと、ついつい納得ならない感情が胸に湧き上がってしまい、私は梢をじっとりとした視線で睨みつけた。
「ち、違うんだよ?その、杏の言うことは話半分で聞いたほうがいいっていうか…」
「…では、雨見さんは潔白なんですね」
「え」
「どうなんですか?誓えますか」
「いや、それは…」
やがて梢は、長い沈黙に入った。
嘘を吐きたくはないのだろう。そういうところは誠実に思えるのだが…。
すると、ちらり、と梢の視線が私の体に落ちた。
「…雨見さん」
「あ、いやっ、そのぅ…」
私はため息を吐いて唇を尖らせると、両手で体を隠しながら独り言みたいにして言った。
「…雨見さんも、星欠さんも、人が悪いわ。もぅ…ばか」
梅雨明けも近いとはいえ、まだこうして、五月雨式に雨が降る日々が続いている。
花月寮の一室、私たちにあてがわれた部屋から見える深い森。その森が、雨に打たれてざわめきを発するのを、私は窓を開けて聞いていた。
自然と声が小さくなってしまう、厳かな夜だ。
本土では得られなかった価値ある静謐を前に、やっぱり、この学院に来て良かったとしみじみ思う。
「ちょっと梢、そろそろ機嫌直してよ」
「やだ」私は間髪入れずに返事をする。
杏が人をからかうのが好きなのは重々承知だが、今回のことばかりはそう簡単に許すつもりはない。
プールの一件で、玲に嫌われたとは思わない。彼女がそういう単細胞ではないことぐらい、少し一緒にいればすぐ分かる。とはいえ、失われた私の尊厳は戻らないのだ。
「はぁ…やりすぎたって、反省してる。――でも、おかげで良いもん見られたでしょ?」
「良いもん?」
そう反応したのは純風だ。彼女は、私たちのやり取りをその場で聞けなかったことを惜しんでいた。
「何?それ」
「湖月、へそを曲げて去ってく前にこう言ったの。『もぅ、ばか』って」
「へぇ、あの湖月さんが…」
純風が驚いた顔をするのも無理はない。この二ヶ月近くの間、終始他人行儀な話し方だった玲が、初めて年相応の反応を見せたのだ。
大人びていて、何を考えているか分からない湖月玲。
突如、私たちの前に現れた、新しい『王』…。
本人は望んでなどいないと分かっているが、彼女が務めたアーサーの姿は、まさに見る者の視線を釘付けにする何かがあった。
すらりと伸びた四肢、憂いを帯びた瞳、黒の静謐に満ちた長髪…。
(まぁ、あの感じは『アーサー王』っていうより、むしろ――)
私がそうして、聖剣祭での玲の姿を思い出していると、ぽん、と純風に肩を叩かれた。
「梢、聞いてる?」
「あ、ごめん。何?」
「少しずつでも、打ち解けてくれてるみたいで嬉しいねって言ったの」
「あぁ…うん、そうだね」
すっと三人の視線が寝室のほうへと向けられる。
玲は明日朝早くから、アルトリアと学院の外で用事があるらしい。島を案内すると彼女から申し出があったようだが、そんなことは自分たちに任せてくれればいいものを、と面白くない気持ちもあった。
しかし、そんな子どもみたいな気持ちを抱いても玲が迷惑なだけだ。
私は心を切り替えて、穏やかに笑ってみせる。
「この調子で、敬語、なくなるといいんだけど」




