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笑わないおばあちゃん

作者: 一人 千幸
掲載日:2023/01/14

僕の祖母はよく笑う人だった。


祖母の家に行くといつもお菓子やジュースがあって、「食べていい?」と尋ねてみると、祖母は口角をにんまりと上げて頷いた。

ご飯を食べているときなんかはいつも僕の隣に座ってきて、ご飯を頬張る僕の横顔を嬉しそうにずっと見つめていた。


ある夏の日、近くの公園まで虫を捕りに行ったときのことだった。

まだ幼かった僕は飛んでいく蝉を追いかけて道路に出てしまった。突然大きなクラクションが鳴って、目の前を車が横切った。


僕は危うく轢かれるところだった。

いつもは優しい祖母も、このときばかりは人が変わったように僕のことを怒鳴った。

僕はそれが怖くて、なんで叱られているのかも分からないままただただ泣いていたのを覚えている。


そのあと、僕は無事に蝉を捕まえることができた。

祖母は「良かったね」と、僕の頭を撫でてくれた。

それが嬉しかった。


僕は祖母に褒められるのが好きだった。



ある年の運動会、祖母がわざわざ遠くから見に来てくれたことがあった。

その年は変なダンスの出し物を学年でしないといけなかったので、僕はあまり乗り気じゃなかった。

ダンスを踊っているとき、チラチラと見える保護者席のカメラが僕の羞恥心を強く搔き立てた。


お昼休み、ご飯を家族みんなで食べていると、祖母は僕の踊りを褒めてくれた。

僕は恥ずかしくて素っ気ない返事をした。でも、少し嬉しかった。


最後の種目の徒競走、僕はあまり走るのが速い方ではなかったけど、その年の運動会では1位を取ることができた。

ゴールした僕は、遠くの席の祖母にピースした。


そのときの写真が今でも祖母の家に飾ってある。

眩しいくらいに写真の中の僕は笑っていた。



中学生になった。

中学校に入ると勉強も難しくなると聞いたけど、僕は初めての中間試験でたまたま良い点数を取ることができた。


両親は「頑張ったね」と褒めてくれた。

祖母も褒めてくれた。


僕は夜な夜な答案用紙を眺めては、なにか誇らしい気分になった。


次の試験でも僕は良い点数を取った。

今度はたまたまじゃない。たいへんだったけど、ちゃんと勉強したんだ。


両親が褒めてくれた。

祖母も褒めてくれた。


次の試験は上手くいかなかった。

張っていた山が外れてしまったんだ。


両親は残念そうな顔をしていた。

祖母は「そんなこともあるさね」と励ましてくれた。


でも、良い点数が取れなかったのは僕の努力が足りなかったからだ。


次の試験、僕はクラスで1番の点数を取った。

たくさん勉強したんだ。


両親は僕のことをこれでもかと褒めちぎった。

祖母は「頑張ったね」と、一言そう言って、なぜだか浮かない顔をしていた。


祖母もうんと褒めてくれていると思っていた僕は、なんだか肩透かしを食らったような気分だった。



次の試験も、その次の試験も、僕はクラスで1番の成績だった。

良い点数を取れるように必死で勉強したんだ。


その度に両親は僕のことを褒めてくれたけど、次第に祖母は僕を心配するようにもなっていった。



中学2年の初冬、僕は学校で1番の点数を取った。

祖母は笑ってくれなかった。ただ一言、「無理はしなさんなね」と。


意味が分からなかった。

僕は無理なんてしていないのに。



そして、雪解けと新芽が春の到来を告げる頃、祖母は静かに息を引き取った。


急いで駆け付けた祖母の家では見知った親戚が一同に集まっていて、その中心に祖母はいた。

一瞬誰か分からなかったのは顔に白い布が掛かっていたからで、その様子を呆然と見つめる父の姿を見て、僕は少しずつ何が起きたのかを理解していった。



中3になった。

「進路はどうするの?」なんて周りの人はよく尋ねてきたけど、よく分からなかった。頭が上手く回らなかった。


試験の点数も少しずつ落ちていった。

最初は成績が落ちないように必死で勉強していたけど、なんだかボーッとしてしまう時間が増えていって、開かれたノートをなんとなく眺めていると「なんで勉強してるんだっけ」って思うようになった。



夏休み。僕の進路はまだ決まってなかった。

でも、両親や学校の先生の中では、僕は良いところの進学校に行くことになってるらしい。


こういうのを『敷かれたレールの上』なんて言うのかな。

試しに反抗してみようかとも思ったけど、なんかもうどうでもよかった。

むしろ誰かに決めてもらった方が楽だった。


でも、そう、それは8月の中頃だった。

留守番を任されたある日の昼下がり、一人で黙々と勉強をしていると急に涙が流れ出た。


自分でもよく分からないまま涙を拭ったけど、涙は溢れて止まなかった。

嗚咽が凄くて、身体の震えが止まらなくて、僕は衝動的に自分の身体を抱きしめた。

なぜか、とても寂しかった。


「おばあちゃん……」


漏れるようにその言葉は口から出た。



青々と茂るソメイヨシノ、蝉がうるさいくらいに鳴いている。

その頃、僕はようやく祖母の死を実感した。


なんで勉強してるんだっけ。

おばあちゃんに褒められるのが好きだったんだ。

おばあちゃんの笑顔が好きだったんだ。


でも、祖母はいつしか笑わなくなっていた。

僕を心配そうに見つめていた。


あのとき、祖母はどんなことを考えていたのだろう。



「松井ぃ、模試の点見たが、これじゃ粗茶の水附属は厳しいかもなぁ……」

 担任の先生が眉を難しげに寄せて言った。


「最近調子悪いよなぁ。体調とかは大丈夫なのか?」

「はぁ、まあ」

「そうか。ま、分からないことがあったらなんでも先生に聞いてくれ」


応援してるぞ、その言葉で面談は終わった。



進路調査票の最終提出は11月末らしい。それをもとに三者面談をして最終的な志望校を決めるとか言ってた。


夏休みが終わってからの数か月、テストや模試がいくつかあった。

でもまだ第一志望には今少し点数が届いていないらしく、僕は点数を上げるために必死で勉強した。


そのせいだろう。

朝がだるくなった。目のクマも心なしか濃くなった気がする。

ボーッとしてる時間が増えた。食事中はたまに箸が止まっているらしい。


それと、急に涙が出てくる日が増えた。


なんとなく限界が来てるんだろうなってのは自分でも分かった。

分かったからといって、じゃあどうしたらいいのか聞かれたらそれも分からなかったけど。



そして11月もそろそろ終わる頃、僕は高熱を出して倒れた。

急性胃腸炎と診断された。僕のはどうやらストレス性のものらしく、お医者さんには休んだ方が良いと言われた。


学校を休んだ。でも勉強は休まなかった。

入試まであと2か月もない。進路調査票の最終期限も間近だというのに、ここで休めるわけがなかった。


頭痛、吐き気、悪寒。

関係ない。頑張らないと。


なんで?


あれ?


なんで僕は勉強してるんだっけ?


あ、おばあちゃんのためだ。

ホントは勉強とかどうでもよくて、僕はただおばあちゃんに笑っていて欲しかったんだ。


でも、なんでおばあちゃんは笑わなくなっちゃったんだろう。


 朦朧とする意識のなか、水を取りに壁伝いに台所へ向かっていると、何かが手にぶつかって床に落ちた。

 それは祖母の家から引き取ったある写真だった。


 僕は写真を拾い上げた。写真の中には小学生の僕が写っていて、眩いばかりの笑顔をしていた。

 後世、祖母はこの写真をずっと大事そうに家に飾っていた。


そういえば、いつからだろう。

こんなふうに笑えなくなったのは。


そうだ、勉強をたくさんするようになってからだ。

そういえばおばあちゃんが笑わなくなったのもその時期だったな。



ああ。

そっか。


勉強とかどうでもよくて、おばあちゃんは僕に笑っていて欲しかったんだ。



 ツーっと、涙が頬を流れていった。

 張り詰めた糸がプツンと音を立てて切れた。

 そして僕は号泣した。


泣いた。

鳴いた。

哭いた。


 切れた糸が元に戻ることはないけれど、泣き止む頃にはこの絡まりも解けてる気がした。

 今はただ、涙に身をゆだねた。



 休み明け、僕は進路調査票を先生に渡した。


「その、ホントにこれでいいのか?」

 先生は面白いくらいに目を丸めていた。


第一志望に書かれていたのはなんてことない普通の高校だった。


「理由を聞いてもいいか……?」

「近いからですね」


先生は今にも卒倒しそうな勢いだった。その反応がおかしくて、ニッと上がる口角を僕は必死で堪えた。


「あと……」

 言おうかどうか迷ったけど、なんかもう全部おかしくなって僕は言った。


「前から気になってた子も、そこに行くらしくって」


 勉強で手一杯だったけど、本当はもっと色んなことがしてみたかったんだ。

 友達と遊んでバカ騒ぎしたり、色んな所に行ってみたり、恋愛だってそう、せっかくの人生なんだ。いっぱい笑って生きたい。


 先生は難しそうに眉を寄せた。

「……生徒の……いやでも……」

 なにやらブツブツと言っているが、多分色んなことを考えているんだろう。

 やがて考えがまとまったのか、先生はうんと大きく頷いた。


「後悔もまた人生のスパイスだ、やりたいことをやってみろ!」

「でも何かあったらちゃんと周りを頼るんだぞ!」

 先生は笑って僕の背中を叩いた。少し痛かったけど、でも晴れやかな気分だった。


ああ。僕は良い先生に恵まれたんだな。


 家に帰って、僕はそのことを親に伝えた。

 親は「良かったね」と、どこか安堵した様子でそう言ってくれた。


 両親には志望校のことを前もって伝えていた。

 最初は渋い顔をしていたけど、気になる子の話をしたら母はすぐに手のひらを返した。母はいわゆるミーハーみたいな人だった。

 父は最後まで渋い顔をしていたけど、それは僕の進路を変えた理由よりも、その後僕自身がその選択を後悔してしまわないかという心配からだった。


 後悔するかどうかなんてのは分からない。

 でも、僕は僕を想ってくれている人たちに顔向けできる生き方をしたい。

 そのために選んだ選択なら、僕はきっと生き方を間違えない。



 リビングから自室に向かった。道中の廊下には笑っている僕の写真が飾ってあった。


「ありがとう。おばあちゃん」


 ふっと笑って、僕は受験勉強を始めた。

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― 新着の感想 ―
[一言] おばあちゃんはずっと主人公のことをよく見ていたのですね。まるで心で繋がっているかのような、おばあちゃんと主人公の深い愛情に胸を打たれました。 主人公のことを見守ってくれていたおばあちゃんは旅…
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