酒と狐と人のおはなし
書きかけです。完結するといいね。
生暖かい夜風に舐められて祥一郎は目を覚ました。硝子テーブル越しに枝垂れる艶髪を見ていると、彼の脳裏にはっきりと焼き付いた黒い瞳を思い出す。どこか狐のようにも見えるその顔を見ながら、彼は曖昧な記憶の糸を辿る。なぜ自分は女を寮部屋に上げているのか。四時間前のことだった。
「直子さん。一体どうされたんです」
飲み屋から出て闇夜に浮かぶ街明かりを前に微動だにしない彼女の背中目掛けて彼は言う。
「何か忘れ物でもされたんですか?」
慄きつつ声をかけた彼に突然直子は振り返り、
「水」
「えっ?」
「水よ。」
夜より暗い瞳に吸い込まれそうになりながらも、彼は鸚鵡返しをする。
「また水…...ですか?」
「そうよ。酔い覚ましの水。飲ませてもらえない?」
少々鋭い口調を返された彼は戸惑ってから、
「自動販売機ならそこに」
「だめ。あなたが淹れる水が、飲みたいの。」
「そうでしょうか」
「そう。」
橙色に煌く電灯の中すいすいと酒を吸い込んでいた時でさえ白かった顔に、仄かに紅い色がのった気がした。
桜残る時期に祥一郎がその門扉に頭をくぐらせたのは一年半前のことだった。地域の期待を一身に背負って机にかじりつき高校生を終えた彼にとって、K大学は希望と青春そのものであった。その扉をくぐって、彼は想像通りのカンバスライフと、想像通りではない奇怪なサークルの面々を一通り見た。中でも、「怪文書サークル」。参考書だけを信じ続けてきた彼が、なぜかその時心惹かれたサークルだった。
「どうだね、君。なかなか面妖な集まりだろう。」
手渡されたチラシをにらめつけていた祥一郎に、茶髪を丸眼鏡にまでかけた青年が声をかけた。
「あっ…...ええ。とても」
「おや、そこまで真っ直ぐ言われると面食らってしまうねえ。」
あ、その、と口を吃らせる祥一郎をよそにカラカラと笑うその先輩は、のちに森と名乗る。当時大学の四回生だった彼は、直子の兄であった。
「む、その菓子、祥君は食べんのかね。」
「なにぶん昨日飲まされすぎたものでして」
「おやそうかい。では私がいただいてしまおう。」
自ら「難解な文書をあさる我々へのご褒美だ」と言ってわざわざ何軒も先の和菓子屋へ出向き持ってきた生八橋の最後の一つが載る盆に先輩はするりと手を伸ばし、一口に平らげてしまった。昨日の飲みぶりからのこの食べぶりを、虚な眼で祥一郎は眺めていた。たった六畳に所狭しと積まれた本の間をペトリコール香る湿った風が通り抜ける中、ぎこちなく仰向けに横たわる。部屋に篭る紙の匂いと、木目のついた天井は、祥一郎にかつての彼の勉強部屋を思い出させた。
「妹さん、今日はいらっしゃらないんですか」
「直子のことかい?あいつは今頃一条の通りを散歩でもしているだろうな。」
「実際のところは知らないんですか」
「君はそんなに気になるのかね?」
「一応サークルの部員ですから」
「そうか。あいつにも気にしてくれる人ができたか。ふふ、なんだか嬉しい気分だね。」
「そのお兄さんも心配ではあります」
「怪文書サークル」などと看板を挙げてはいても、その中身は部員十数名の読書サークルである。それも各々来室する日程はまちまちである。しかしなぜか毎日部屋は開け放たれており、必ず一人は本の林の奥で佇んでいる。誰かしらが「超絶怒涛の難解書」などを持ってこよう日には、その解読や考察、憶測を交わすためか示し合わせたように大人数がやってくる。その上、それら難解書はいつでも奇怪極まりなく、時にはあまりの訳の分からなさに解読を中断することもままあった。サークルとしては成り立っている気もする、と祥一郎は考えていた。
「おおっ」
部屋に太い声が飛び込む。
「森、今日もいたのか。それと祥一郎君、無事で何よりだ」
「これはこれは天城さん。昨日の酒は面白いこしらえ方でしたね。」
「そうとも。20年も京都で酒を飲んでいれば、いずれは辿り着く味さ」
サークルの創設者、と部員からは敬い慕われ部外者からは和服で構内に颯爽と現れる不可解な白髪まじりの男、と煙たがられ敬遠される「天城さん」の登場であった。祥一郎がその背後を窺うと、お付きを従えているようだった。
「それでは諸君、奇怪面々揃ったところで始めようじゃないか。」
先輩によるピシリとした号令であった。大人数集まった時、始まりにこの決まり文句を言う。これも天城さんが取り決めたことと祥一郎は聞いていた。朗らかに透き通る先輩の声を聞きながら、祥一郎の隣に座った天城さんの顔は綻びつつもこれから来たる怪文書に備えているのか、どこか緊張も残っていた。彼自身も例外ではなかった。
その日扱われた「怪文書」は「夜尽」と言う紙束であった。よづくし、と読んだ。その奇怪な文書——とは言っても彼らで言葉を砕いたものだが——それはヒトとケモノの物語であった。
昔、まだ大和の都の天上に天狗が舞っていた頃、地上にはヒトとケモノが地を分け合って住っていた。ヒトはケモノから許された分のみで生活を営み、ケモノは発展しゆくヒトの様子を眺めながら、自適に生を送っていた。また、ヒトとケモノの間をその中間種族であるキツネが取り持っていたことなどは言うまでもない。ヒトにとっての「夜」、それはヒトとケモノの交わる時間であった。ケモノは皆ヒトの場に降り立ち、ヒトはキツネに呼び起こされ、二つの種族は踊り謳って夜を明かす。キツネが長い間をかけ作る「酒」はその祝宴の流れを円滑にした。ヒトにとってその夜は時を尽くすような永遠に感じられたのか、それとも魂尽き果てるまで遊ぶからか、二種族の交わる夜を「夜尽」と呼んだ。
だが、だんだんとヒトの発展が進む中で、彼らはその地を大きな物へと変えてゆき、相反してケモノは狭き領域で暮らさざるを得なくされた。次第にヒトとケモノは衝突することが増え、夜尽もヒトの世代が二桁を数え始めたあたりで、その慣習は事切れてしまった。
ヒトの発展は止まることなく、ついには「狩人」と呼ばれ武器を持ち出しケモノを迫害するものも出現した。彼らには似通った性質はあまり持っていなかったが、一つだけ奇妙な共通点を持っていた。
その全てが、狐の仮面をかぶっていた。
ヒトが都の地に根を張り大発展を遂げた時、ケモノは森の奥深くへ追いやられていた。ヒトとケモノの織りなす祝宴のことなど、酒に酔い痴れた年長者の言伝にて語られるのみであった。ケモノはすでにヒトの食糧や家畜になっており、彼らの戯言などは信じる由もなかった。
だが、その戯言から湧き出た、まことしやかに信じられた噺があった。
「狐の面を被った男が毎晩狐と飲み交わしているらしい」
「なんでもその酒は狐の作った二十年来の酒らしい」
京都に住まうもの達の噂によれば、狐の面をかぶった男は真夜中に現れ、一見すれば毛色から毛玉と見紛う茶色い狐を従えて自らの屋敷に入って行くそうだ。だが夜明けには、その狐面の男は姿を現すことはない。一方、美しい銀狐が何かに腹を膨らまして裏口からひっそりと出て行くのを見たものがいるとも言う。その男の屋敷には大きな蔵があり、樽のようなものを運び込む様子が頻繁に見られたことから、狐の腹には酒が収まっているのではないかと人の間では推測されていた。いや違う、あれは狐の持ってきた獣酒だ、などと言い出すものもいた。
いつしか、その男の本性を見極めてやろう、などと息巻いて彼の屋敷まで憤然と行進した男がいた。その後も同じようなものが幾度も現れたが、屋敷に渦巻く魔に呑まれかけたか、その物々しさに身が疎んだか、すぐに身を翻した。幾人か入っていった恐れ知らずもいると言うが、人々の口上に噂されるのみであり、真偽は定かではなかった。
取り留めもない噂や言伝が夜風とともに都を吹き抜けるたび、狐面の男に関する突飛な憶測や、その男を騙り濫造粗製の酒などを売り込む輩が飛び出たりした。そうしていつしか男は人々の妄想や伝説の渦の只中で揉まれるうち、次第に忘れ去られていった——。
「祥君はまた何も飲まないのだね。」
夕陽に照らされながら散々紙束と睨めっこをしていた祥一郎は、その日銭湯へと出向き、喉にコーヒー牛乳を通す先輩を眺めていた。「風呂上りはこれだねえ」と満悦そうに語った。その日の怪文書サークルの活動は結局難解を極めた「夜尽」の解読にとどまってしまった。
先輩は外出を好まず、外で済ませる用事といえば学校や買い出しくらいのものであったが、彼の銭湯好きは祥一郎も重々承知しており、湯行に付き合わされることも少なくなかった。夕方四時頃、近所の銭湯が皆揃って暖簾をかける頃、先輩は自前の「銭湯セット」を持って下宿の鍵を閉め、コンクリートを下駄でカランコロンと言わせながら嬉々として銭湯へ足を向けた。祥一郎は入浴道具をビニール袋に持ってその後をついていった。
湯に浸かるとますます先輩は上機嫌になり、その声をことさらに明るくして祥一郎に話しかけた。他の客のいない時には、取り留めもない歌もよく歌っていた。
先輩の湯行にはたまに女性が同行した。彼はその時風呂をあがる際には必ず板塀の向こう側に「おうい、もう上がるぞ。あがるからな。」と声を投げかけた。女性からの返事がない時は返事があるまで呼び掛けた。「はい、はい。」と半分あきれたような返事が返ると先輩は満足したように湯を出た。
「あれはもうやめてくれないかしら。」
「どうだろうなあ。湯上りを合わせなければどちらかが待ちぼうけして湯冷めしてしまうからなあ。」
瓶を飲み干した先輩はカラカラと乾いた声で答えた。
祥一郎は見え隠れする幾分か血色の良くなった彼女のうなじを眺めていた。その女性の名を直子と言った。彼女に初めて出会ったのはやはりあの部屋だったと祥一郎は思い返した。
その日めづらしく先輩は本の林の只中で物書きをしていた。こうなるとどんな会話も空返事になってしまうことは祥一郎も半年のサークル活動でわかっていた。しかしその日はさらにめづらしいことに部屋の隅に女性が座っていた。あまりの顔の白さにまるで狐の面でもかぶっているのかと思われた彼女は、祥一郎に気がつくと洋書を睨み付けていた顔の緊張を解いて、ふわりと微笑み、挨拶をした。
「こんにちは。」
薄暗かった部屋に暖かい光が刺したかのように思われたが、彼女の飛び切りな寡黙さに部屋はその陰鬱さを取り戻さんとしていた。彼女が、物書きを中断しパイプに紫煙を燻らせている先輩の妹だと祥一郎が知った時、部屋は元の薄暗さを取り戻した。
直子の背は祥一郎よりも少し高いが、先輩には及ばなかった。また白い顔に理知的な眉を乗せ、その黒い瞳で本を読む彼女の姿はとても兄と似ているとはいえなかった。二回生の理学部だった彼女は、論文提出が課される度、「ここが一番読みやすいの」と言ってサークルの部屋の隅に座り、参考文献を読んでいた。そんな直子と、祥一郎は二人で酒を呑みに出たことがあった。
九月に入ると、暑さこそ失われないが都を跋扈した蚊はその姿をパタリと消すようになった。斜陽が水面に跳ね返る時、二人は風のない川沿いを蹌踉と歩いていた。怪文書サークルの帰りであった。「今日は少し呑んで帰ろうか」と提案した直子は、まだ明るいですよ、と切り返した祥一郎など物ともせず帰りの支度を済ませた。そもそも部屋へ来て広げるものなどなかった直子と比べて数多の本を部屋に積み、積まれた本から新たなものを抜き差ししていた祥一郎は支度に時間を要した。彼女はその黒い目で祥一郎を見つめていた。
「祥一郎君、ついでにお冷や、ついでくれない?」
注ぎ込まれた水にグラスの氷が踊って硬い音を立てた。
「直子さん、そんなに水ばかり飲んでいたようでは居酒屋に来た意味がありませんよ」
「どうでしょう。初めに一杯口に含むだけでも、十分お酒を呑んだ気分にはなると思うけれど。」
一頻り氷の欠片を口で弄んだ後彼女はそう言いった。クスリと口の端を持ち上げ目を細めた彼女を祥一郎は女狐のように思ったが、否小さな女の子だろう、と思い直した。
直子は、兄と相反して酒に疎かった。人伝によれば弱いわけではないらしいが、それを判別するに足る量の酒を飲む直子を祥一郎は見たことがなかった。
代わりに彼女は、これでもかと言うほど水をよく飲んだ。本人は酔い覚ましよ、とも喉が乾いているの、とも言っていた。そのどちらも祥一郎にはそれらしく思えた。一方の兄が酒と呑むか呑まれるかを競っている隣にいてさえ、同じくらいの水を飲んでいた。いったい彼女はなぜそうも水分を取らなければならないのかこっそり観察したこともあったが、彼女が水分量の少ない料理を食べていることも、手洗いに席を外すこともなかった。無論酒の酔いを覚ますために飲んでいるとも思われなかった。ただ、兄の飲む酒と同じくらいの量の水を飲む、ということしか彼にはわからなかった。
「ねえ祥一郎君、どうしてヒトはお酒を呑むのだと思う?」
居酒屋の橙色の電灯の光を浴びる彼女の口からこぼれた言葉に、祥一郎は少し考えてから言葉を返す。
「酒を呑んで酔い痴れると、まるで自分がケモノに戻ったように感じて、理性を忘れられるから、とかでしょうか」
その答えに彼女はその黒い瞳を一層大きく見開いて、祥一郎を見た。彼はその瞳に吸い込まれそうになりながらも、彼女に問いかけた。
「あの」
「僕、何かおかしなこと言いましたか?」
「…いえ、私の答えと似ていたから少し驚いてしまっただけ。」
「答え、と言うと」
祥一郎は直子との顔の距離が少し近づいた気がした。
「聞きたい?」
外の斜陽はその鋭さを失いかけ、二人のいた居酒屋にも働き詰めた会社員やら、大学生やらが席に着き始める頃合いであった。それでも、祥一郎にはその空間が直子と二人だけに思えた。
「叶うなら、聞かせてもらいたいものです」
「そうね、教えてあげるわ。私はね、お酒に酔うときと、酔いから覚めるとき。この二つの時間がお酒を美味しいと思う時間だと思っているの。」
また直子は微笑んで、水の残ったコップを呷った。しばらくの沈黙のあと、「覚めてみたいわ」と暖簾の隙間にちらつく街明かりを見て彼女は言った。
似ても似つかぬその答えを前に、祥一郎は同じように酒の残るグラスを呷るしかなかった。
その夜道、二人は暮合に横切った川を見ながらつらつらと歩いていた。送りましょうか、と祥一郎が呼びかけると、
「私は大丈夫。夜道は慣れているから。」
と言ってまた川に視線を戻してしまった。
じゃあ私はここで、と言われ祥一郎は直子と別れた。別れ際に、直子は彼の目を覗き込んで、
「気をつけてね。」
「直子さんもどうかお気をつけて」
「夜遅くに香るお酒の匂いは、化かす狐が大好きよ。」
と言って身を翻し、闇の中に消えた。
心なしか、彼女の行く先にある道が獣道のように見えた。