パイアケス島の誘惑
1814年9月30日。アマーリエン宮のアレクサンドル皇帝に招かれたタレイランは皇帝に説得された。
「何とかしてポーランドのロシア領有を賛同し、ザクセン公国をプロイセンに与える案を皆に認めてくれないか?」
「占領地を自国の領土にするならナポレオンと同じではないか」
「何だと! 占領しているところを放棄するくらいなら、戦争も辞さないぞ!」
ロシア皇帝は大声をあげた。
10月1日。デオンは小用の後でバスルームで湯加減をみていると、橙色の太ったトカゲが入り込んだ。
「よお〜、これならマシロと一緒に入れるぜぃ」
手足と尾が異様に短く、体が寸胴の様なやたら太った、垂れた糸目のトカゲが、話しかけたのだ。
「マシロの頭上にいた小さいのと同じ仲間かい?」
「サラマンダーマシロだぜぃ。早く脱げぃ」
長い牛の尾が本物だったり、左腕と右脚が炎の形だったり、訳のわからない部分がマシロにあった。
でぶトカゲに変身するくらいはたいした事ではないのだ。
なんとなく理解したデオンはズボンを下ろしてシャツを脱いだ。湯が温かくマシロはのんきに浮いていた。
デオンは皇帝家族との朝食の後、庭園で人型に戻ったマシロと剣の勝負をした。
マシロの炎の刀をデオンは軽やかな脚さばきでかわし、マシロの胴体目差して剣を突き出しても、彼に避けられた。
「あれ?」
上空から黄色の馬らしき生物に乗った人物が、馬なのか鹿なのか不明な飛行する動物2体を連れていた。
マシロの刀がデオンの喉元を突いて稽古が終わった。
「あ、リーくん」
黒い長髪を後ろに束ねた青年が騎獣から降りた。青年は紺の裾長い民族服で中肉中背な若者だった。
「友なのかい?」
「リーくんは神仙だよ。ずっと古くからの友なんだ」
糸目がつり気味のリーは東洋式の挨拶をした。
「リー・チェンです。マシロくんはいい加減、麒麟を乗用に使ってはどうですか? 守護聖獣では万一のとき守りきれないでしょう」
リーは白狼に向いた。
「マシロは狼でいい。デオンにあげてよ」
「あなたがマシロくんの新しい友人ですか。なるほど、なかなかの傑物だ」
デオンと似た背丈のすまし顔のリーはデオンを見つめた。
「ところで女の人ですか? それとも……」
「それともだね」
デオンの元に淡い黄色の仔鹿もどきが寄って来た。一本の角が額に生えていて、鹿の体だが馬のようなたてがみがあった。
「この子ならいい相棒になりそうですね」
「くれるの? 小さいから部屋で飼えそうだ」
「では麒麟を帰しに戻りますね」
「もう帰るの? じゃあ、さよなら」
リーは麒麟に乗って飛び上がって行った。麒麟は角から光線を出して光の輪を出し、くぐったリーたちは姿を消した。
マシロはリーを見送った。
「マシロ、神仙って人間なのかい?」
「マシロたちと同じ不老不死だよ」
「なるほど。そうじゃないとマシロもマリア・テレジアの頃からここにいられないか。生前の私がロシアでエリザヴェータに会っていた頃が君のいうテレーゼの治世か……」
デオンは庭園で麒麟と追いかけっこして遊んだ。部屋に戻り読書をして、麒麟に本を読み聞かせをしていた。
デオンは弟ができた感じで麒麟をかわいがった。麒麟は白狼とも遊び部屋中を駆け回った。
宵の頃になると赤の車体に黄金の派手な装飾を施した馬車で、軍服姿のデオンとマシロは出掛けて行った。
馬車はウィーン王宮のスペイン調馬宮へ着いた。
宮殿の複合建合造物の一部をなす調はマリア・テレジアの父親カール6世時代の屋内乗馬訓練場だ。
56メートルもの奥行をもつ長方形の建物の内部は、46本のイオニア式の列柱を配した回廊と豪華な装飾の格天井とで、古典的なシンメトリーとなっていた。
正面一番奥には、リピッツア種の白馬にまたがったカール6世の肖像画で飾られた帝室用観覧席があった。
この日は舞踏ホールで大シャンデリアの下で舞踏会が催しされた。
「マリア・ルドヴィッカ・フォン・エスターライヒ=エステ様。デオン・ド・ボーモン様のご登場〜」
デオンは皇妃ルドヴィッカと共にかしこまって登場した。
明日に行われる大夜会の前夜祭で会場は数千人ほど集まった。ポロネーズの調べでデオンたちは優雅に滑りゆくように踊った。
ダンスを観覧している者たちはデオンたちの水鳥の舞踊様をうっとりとして眺めていた。
そんな中、彼らを遠巻きに眺めている一団がいた。
「タレイランたちを怪物倒しながら先導したのは、あの者か?」
「奴の剣のみで怪物を倒したというのも怪しい」
「我々が無事に動けるのも彼のおかげだが、マークしておくか」
男たちはナポレオン軍竜騎兵軍服の者を注視していた。
舞踊のあとデオンと疲れた様子の28歳のルドヴィッカはテーブル席に座ってオリオ・スープを飲んだ。
とてもチャーミングなルドヴィッカは身体がか細く病弱ぎみだという。
「これは、うまい!」
ローズ褐色の澄んだスープはとても美味であった。
「でしょう。たくさんの食材を贅沢に使った栄養スープなんだって」
「随一な味で舞踊にいくらでも出たくなる!」
「まぁ、大げさね。あら、前夜祭なのにロシア皇帝があんなにはしゃいで」
「何か、めちゃくちゃな舞踊だなぁ」
「デンマーク王妃と挨拶に行くわ」
皇妃は他国の王族と懇談するから余計に忙しいそうであった。
「どうぞ」
貴人が会場のビュッフェからのレモネードをデオンに渡した。ほてった身体にはいいと飲み干した。
「……エルトリアの旧主のご友人だとお聞きしましたが、はるばるウィーンまでお疲れでしょう」
貴族風の素振りがデオンは勘付いた。
「私は教会から来た者です。1810年5月になくなった後の記憶がないのでよくわからないのです」
デオンは男と別れ、マシロが近寄って「知り合い?」と尋ねた。
「あれは諜報員だね。私は外交官で諜報員だったから、ああいう手合いには慣れていたのだ」
「へえー、何か凄い!」
マシロは無邪気に褒めた。
「このウィーン会議は相手よりも有利に領土をかすめ取ろうとする君主や裏方の諜報員たちのせめぎ合いなんだろうね。各国も様々なスパイどもを放っているのだろうさ」
デオンは貴顕たちに話しかけられたので歓談に応じた。
フランツ帝は王宮の執務室で積み上げられた書類をすべて読んで著名するのが日課となっていた。
秘密警察関係の報告書も多く、ほとんどの書類は余白に書き込まれたファイルせよの指示に従って、文書保管所行きとなった。
フランツ帝と皇太子フェルディナントを莫迦呼ばわりする貴人の話とメッテルニヒへの文句という巷の声まで執務室へ運ばれた。
Dは盲言を吐いた。虚言癖の疑い有り
10月2日。グラーベン通りは馬車の往来が盛んになり、ペスト記念柱近くで時折、接触と衝突事故が起きていた。
その近くのペーター教会内。ヒゲが長い灰色ローブの長は「アイツは一体何者なんだ!」と弟子たちの前で罵倒した。
「しかも目覚めた当日に脱走だなんて、ヤツはどうかしている! 居場所は何か分かったか?」
「ウィーン会議で大勢の人に紛れて魂がたどれません」
「おのれ、忌々しい! 身体だけは何とかして回収しなければ」
「それと上の階を調べたら退魔の剣がありません」
「そんなのはどうでもよいわ! 術者には無用の脳筋武器だ」
朝の9時から練兵所とショテン門とブルク門の間のグラシーで、オーストリア軍のパレードが行われた。
プロイセン流の騒々しい軍事パレードが市民たちにも人気だった。
夜の11時にはホーフブルク王宮の大小2つの舞踏場で大夜会が開催された。
ロシア皇帝アレクサンドルとオーストリア皇妃ルドヴィッカ、フランツ帝とロシア皇妃、デンマーク王とバイエルン王妃、プロイセン王にはヴァイマル公太子妃などヨーロッパ最高の貴顕らがしずしずと登場した。
後にバイエルンやヴュルテンベルクの王が続き、さらに大勢の王子らの列が従った。
デオンは可愛さはルドヴィッカに劣るが健やかさが勝るバイエルン王女と踊った。
参加者だけで1万数千人であった。
デオンはいつものように締めとしてオリオ・スープを飲んだが、仔犬大のサラマンダーマシロもちゃっかりとテーブル上でスープを長い舌ですくっていた。
「でぶトカゲは踊っていないじゃないか」
「マシロはルドヴィッカにしがみついたぞ」
「そんなのありかよ」
デオンは右腕にマシロを乗せて、声をかけて来る会場の貴顕たちと談話した。いつしか、広場を金の衣装でうろつく中年の紳士が目についた。
10月6日。夜、ドナウ中州に広がるアウガルテン公園は色とりどりのイルミネーションで輝いていた。
広場はひな壇状の貴賓席、周囲の草原では舞踏会が行われ、馬車が公園入口にびっしりと並んでいた。
連日連夜の宴会と舞踏会でデオンはマシロの部屋に帰るたび、疲れ果てて、上着と靴を脱いで眠り込んだ。
マシロはデオンの腹に乗って大口からよだれを垂らして眠った。
朝は湯船でサラマンダーマシロが泳ぐ中、ゆったりと湯に浸かった。
「あぁこのまま風呂の中で暮らしたい」
デオンは恍惚としていた。
「夜のごちそうが食えないぜぃ」
「だって、宴会舞踏会宴会舞踏会宴会舞踏会……何事もほどほどがいいのだよ。マシロくん」
デオンはマシロに昔話をした。