シュヴァリエ・デオン伝 サンクトペテルブルク、7年戦争、パリ条約締結
ロシアとの同盟はなかなか進展せず、ヴェルサイユ当局は大使ロピタルを補助する形でデオンの3度目のロシア派遣を、1757年9月21日に決めた。
ロシアで暗躍していたべストゥージェフはデオンの入国を許さなかった。
「デオンはツァーリの帝国に混乱をもたらす危険人物だ」
大使ロピタルに明言した。
デオンの馬車が地平線の大地へ進むごとに怪しい男たちが立ちはだかった。
「我らに寄付してくれたら安全に国に帰してやるぞ」
黒いスカーフで口元を隠した輩が馬車を止めた。
「あいにくこちらは忙しいのでね」
竜騎兵中尉のデオンはサーベルを抜いた。
得意のフェンシングで刺客の武器を弾いたり、彼らを屈服させた。
デオンがサンクトペテルブルクに着くと、落ち目のべストゥージェフが逮捕された。
デオンは大使館秘書として来たが、ルイ15世と腹心テルシエと秘密文書を交わしていた。
フランス国内ではポンパドール侯爵夫人の信任厚いショワズールが外務大臣となっていた。
デオンは国王の影武者であったから、政府当局からの指示などは常に後回しされ、ときには無視された。
サンクトペテルブルクでデオンは楽しく遊び暮らした。
国王が苦情を漏らすほどの贅沢三昧だった。
「ヒョウ、黒ヒョウ、黒狐、エゾイタチ、モモンガ、リス、アストラカンの子羊、大山猫、シベリア黒猫などの毛皮をじゃんじゃん買いまくれ!」
デオンは全組織を挙げて買わせた毛皮を、フランスの上流夫人たちに転売した。フランスの権力者夫人への賄賂としても送った。
外務大臣ショワズール公爵夫人には、エゾイタチの皮60枚を詰め込んだ小荷物と黒ヒョウ100が送られた。ブロリー元帥夫人、ブロリー伯爵夫人、テルシエ夫人などなど。その折には中国茶の包を必ず入れていた。
フランス大使館での公式レセプションでデオンは金を惜しまず使った。
目的は外交均衡や裏取引であった。
小貴族のデオンが所有するブドウ園産のトンネール銘酒も活用されていたのだ。
宰相ヴォロンツォークには、1950本の白ワインと、134リットルの赤ワイン、ヴィシンホフ男爵にはトンネールの白ワイン300本と、シャンパン120本が送られた。
費用はすべて王の機密局から支払われた。
サンクトペテルブルクのデオンは金銀の飾り紐のついた衣装や高価な刀剣、豪華本も収集していた。
1758年10月に30歳になったデオンは、「エジプト人、バビロニア人、ペルシャ人、ギリシャ人、ローマ人の税制面における歴史的・政治的考察と、フランク人のゴール定着から今日にいたる財務に関するフランスと諸相」という論文を書いて評判になりサロンの人気者になった。
大使ロピタルは女帝の意向を伝えて来た。
「エリザヴェータ様はぜひデオン殿を宮中に迎えたいということです」
「私はフランス国王以外のいかなる君主にも仕える気はない」
デオンは断った。
それよりもデオンは年々ロシアの厳しい冬で健康を害し、医師から故郷の帰還を勧められていた。
「医師たちのあらゆる推理以上に激しい身体の衰えを感じ、ロシアでの5回目の冬を過ごせない」
デオンはロピタルに訴えた。
1760年8月にデオンはロシアの首都を去る前に宰相ヴォロンツォフに挨拶をした。
「あなたのお発ちはとても残念です。ダグラス騎士との当地への最初の旅には、我が女帝に、20万人以上の人間と1500万ルーブルを使わせましたけれど……」
宰相は女帝からの贈り物としてダイヤモンドで飾られた小箱を渡した。
デオンはリヴォニア、ラトビア、ポーランド、ハンガリーを経てウィーンを発つと疲労が極限に達した。
それでもパリに一気に進んて到着すると生死の堺をさまよう瀕死の病人になっていた。
天然痘に侵されたが頑健な体力の持ち主のデオンは、死を逃れた。
国王代理官オン・ブレイ伯爵の豪邸で回復に努めた。
彼の美しい顔貌に痘跡が残らなかったのが幸いし、健康体になったデオンは、年末にルイ15世に謁見を求めた。
国王はデオンに長年の労をねぎらい、国庫から2000リーヴルの終身年金が保証された。
32歳のデオンは念願だった竜騎兵連隊隊長に任命されたのだ。
七年戦争末期はフリードリッヒ2世の反撃で各地の戦闘が激しいものとなった。
デオンは最初はオーストリアに出陣し、配置転換を伝えて、アンティシャン竜騎兵連隊に入ってから数々の武勲をあげた。
ドイツのヘクスターでデオンは同じブルゴーニュ出身のゲルシィ伯爵と会った。
ブロリー元帥からヴェーザー河畔の40万発の弾薬筒確保の任務を受けた。
勇敢なデオンと卑怯なゲルシィとの対立が勃発した。
1761年11月7日のウルトロプの戦闘では、シャンパーニュ擲弾兵とスイス人傭兵部隊をデオンは指揮した。
アインベック峡谷でフランス軍を苦しめたスコットランドの高地連隊兵が上に陣取っていた。
「遮蔽場所を活用してなるべく敵の死角へまわり込もう。最悪は正面で戦うしかない」
部隊を最良な場所へ誘導して一気に攻撃命令を出して敵部隊を駆逐した。だがデオンは頭と右手を負傷した。
オステルヴァイクでは、ウォルフェンビュッテルの町を包囲中サックス公と共闘して、6,700名のプロイセン兵を遁走させた。
デオンはウォルフェンビュッテル占領に貢献した。
ドイツのカッセルの包囲作戦の途中で、デオンは国王の命でパリに呼び戻された。
1762年1月5日。エリザヴェータが死亡し、ロシアの皇帝にプロイセンかぶれのピョートル3世がなった。
皇帝はすぐにフリードリッヒ2世と和解して講和条約を締結した。
ルイ15世としてはフランスとの友好関係が壊れる事態もあるためデオンの再登場を考えていた。
7月6日はエカチェリーナのクーデターから1週間あと、城塞で幽閉したピョートル3世が暗殺され、エカチェリーナ2世が帝位を継いだ。
公式には「ピョートル3世は持病の痔を悪化させて死亡した」と発表された。
エカチェリーナ2世は機密局との秘密外交を継続する気がないという。さらにエリザヴェータとの信任が厚く寵愛を受けたデオンを嫌悪していた。
デオンのロシア派遣は中止になり、ルイ15世はパリで待機していたデオンに3000リーヴルを償いとして付与した。
デオンはまず、戦場から引き離されたことと、ロシア派遣中止で失念し、ひどく落胆した。
1761年初頭には大使ロピタルからデオン宛の手紙が届いた。
親愛なるデオン、私は死ぬほど辛い不安から解放されました。今はあなたの命についても安心しております。
天然痘の体液が、あなたを悩ませた一切のものを一掃し、3本目の足が愛の喜びと過ちを、あなたにより以上に味わわせることを願ってやみません。
たとえそれが夫婦の愛になったとしても!
天然痘の回復には多くの手当てが必要です。
ご自愛のほどを。私が帰国するときには、すっかり元気になっていて下さい。
さようなら、和が親愛なるデオン、いつまでもあなたを愛しましょう。
1761年の年末には再会を期待して届いた。
あなたにまたお会いできるのを、とても嬉しく思っています。過去のことや、つまらない気苦労は捨てさりましょう。
そして2人の中の敬意と友情には他ならない相も変らぬ地点から出発しましょう。さようなら、わが親愛なるデオン、あなたの日焼けした顔色と擲弾兵の勇姿が見られるものと期待しています。
しかし、だからといって3本目の足は、より役たちはしないでしょう!
七年戦争はフランスを窮地に追い込んだ。
フリードリッヒ2世に追従したエカチェリーナ2世が君臨するロシアは、もう同盟国ではない。
英国との植民地争奪戦で1759年にカナダを失い、1761年にインドのポンディシェリーも陥落し、セネガルとマルテニック島に小アンチル諸島も占領され散々なのだ。
戦争続投を止めて英国との和平工作を思案したルイ15世は調停役としてニヴェルネ公爵、秘書としてデオンを英国に派遣した。
1762年9月11日に2人はカレーを出港し、ロンドンに着くと交渉が始まった。
デオンはひたすら裏方に徹し、軍事機密とあらゆる情報を収集した。
夜間は英国女王メアリー=シャロットと謁見して秘密情報をかき集めていた。
ニヴェルネは交渉中、英国国王の閣外相補佐官ロバート・ウッドが機密書類入りのカバンを常に持ち続けているのに、目をやった。
(なるほど)
作業中のデオンはニヴェルネの合図を察知した。ウッドはコピーを渡そうとしないからデオンは策を思案した。
(これは直接攻めるしかないな)
デオンはウッドと宰相ビュートなど数人の交渉役と別々に会食し、トンネールの銘酒をしこたま飲ませて現金をちらつかせた。
「さぁ、これもどうぞ」
「君、なかなかわかっているじゃないか」
デオンが彼らを買収した後、ニヴェルネの交渉がまとまり、1763年2月10日にパリ条約が締結された。
この条約はカナダとアメリカの領土を英国に割譲。
ハノーヴァ、ブランシュヴァイク、ヘッセン、プロイセン占領地からの撤退。
セネガルとインド植民地の喪失とフランスには不利なものだ。
デオンはジョージ3世に託された批准書を持って1763年2月23日にロンドンを経ち、26日にパリに着いて、ヴェルサイユへ向かった。
「彼は幸運をもたらせた!」
デオンはルイ15世に抱擁された。
数日後には、聖ルイ王室騎士団騎士の勅許状と6000リーヴルの報奨金が与えられた。
ルイ15世は、パリ条約が屈辱的なものでも、やむを得ないものとして、テルシエに書簡を送った。
我々か終結したばかりの和平は、好ましいものでも、輝かしいものでもない。朕以上にそう感ずる者は誰もおるまい。しかし、今の不幸な情況においては、今回の和平以上に当を得たものはあり得なかった。朕は汝にはっきりと答えよう、もし我々が戦争を続けていれば、来年、戦局は一層悪いものになるだろう。
陰の実力者ポンパドール侯爵夫人は結核の末期状態の中で、デオンの報告を知り、友人のベルニスに訴えた。
「このたびの和平は喜ばしいものではなく、良いものでもありません。でも和平を終結しなければならなかったのです。私たちははっきりと確信しております。
英国国王はアメリカを長く領有するできますまい。
それが私たちの報復となりましょう。
ただ、今は我々には海を支配する力がないために、今回の措置がとられたのです」