シュヴァリエ・デオン伝 華麗なる任務
1728年10月5日。ブルゴーニュのトンネール生まれのデオン・ド・ボーモンは、20歳になっても可憐な少女と見間違う美青年であった。
デオンはベルティエ家の秘書となり、デオンが通っていた科学アカデミーの総裁と裕福な公爵夫人、外交官ニヴェルネ公爵やルイ15世の従兄コンチ公がデオンのパトロンとなった。
社交界入りしたデオンは美貌と才気で大勢の女性を魅了した。
また文学とフェンシングに励み、パリの剣豪テーラゴリの弟子となる。
デオンは人々から恐れられる剣士となったのだ。
1752年24歳のデオンは以下の経済論文を発表した。
「ルイ14世並びにドルレアン公摂政治下におけるフランスの経済状態諸相」
財政改革が難航したフランスにおいてデオンの論文は政府高官たちから絶賛された。
デオンはサロンで歓迎される著名人となる。
やがてルイ15世寵姫ポンパドール侯爵夫人に気に入られ、侯爵夫人を介してルイ15世の関心を買われた。
公的外交に不信をもったルイ15世は、腹心たちに命じて、個人的な秘密外交機関「王の機密局」を密かに設立した。
ここに参加できたのは国王の分身、影武者と考えられる者だけだ。
1754年にエリザヴェータに接触しょうとしたフランスの計画は失敗していた。
コンチ公は青年騎士に密命を授けて派遣したが、計画が発覚して哀れな密命は捕らえられ、城塞に監禁されているのだった。
ポーランド国王に選出されるためにヨーロッパの勢力地図を塗り替えたいコンチ公の野望とルイ15世の、英国に接したロシア関係の不和という国際情勢の不安が2人を結託した。
女帝エリザヴェータ懐柔のために、美貌の青年デオンをサンクトペテルブルクに派遣することに決定した。
機密局に入った26歳のデオンは危険な指令なのに関わらず、自らの野心のために了承した。
とたんにドレス一式が渡された。
「付添人の毛皮商ダグラス・マッケンジーと共に、貴公はダグラスの姪として、叔父と共に転地保養に出かけるマドモアゼル・リア・ド・ボーモンとして出発してくれ」
コンチ公の指令にデオンは唖然として口を開けてしまった。
1755年7月、デオンはまずルイ15世から2重に製本されたモンテスキュー「法の精神」が渡された。
本の中にはフランス・ロシア同盟を画策した国王からエリザヴェータへの親書が隠されており、宰相べストゥージェフに気付かれないように女帝に届けるのが、リア・ド・ボーモンの第1の任務だ。
大柄でふくよかで突き刺すような黒目に鷲鼻のハンサムな王にデオンは魅入られた。
ポンパドール侯爵夫人と不仲だったコンチ公に代わって機密局の長官になったテルシエが、デオンに忠告した。
「マドモアゼル・ド・ボーモン、このことをしっかりと胸に刻み込んで欲しい。もしあなたがべストゥージェフの官憲の手中に陥ったとしても、我々はあなたと何の関係もないだろう。フランスも国王も、あなたが何者であるかも知らない!」
7月にパリを出発したダグラスとリア嬢は10月にはサンクトペテルブルクに到着した。
馬車中ではロシアに近づくと地平線が広がる光景が現れるにつれ、リアははしゃいでいた。
水の都であるサンクトペテルブルクは湾港都市で、街中に多くの運河と水路があった。
「わぁーキレイな街! 叔父様、あの大聖堂もステキね」
女装がすっかり板についたリアはダグラスに微笑んだ。
「私は英国大使館へ行くから、リア嬢はくれぐれも慎重に頼んだぞ」
敵に尻尾を掴まれそうになったのはダグラスであった。
べストゥージェフに偽の毛皮商人と知られたダグラスは急いで国境まで逃げ帰った。
(べストゥージェフがフランスの敵なら、奴の対抗馬を探せばいいじゃないか)
リアは宰相の政敵副宰相のヴォロンツォークを探り当て、街中で聞きまわって館にたどり着いた。
ヴォロンツォークは微笑んだリアをすんなりと招き入れた。
豪華な居間に通された。
「リア・ド・ボーモンと申します。私、エリザヴェータ陛下に会いたくてフランスから叔父に連れて行ってもらったのです」
「わざわざフランスからお嬢さんは陛下にお会いしたいなんて、どうしてかな?」
「だってロシアって広大過ぎるでしょう。そこを治めている陛下に興味がわいて、話してみたいの」
「確かにロシアは広すぎて昔はヨーロッパより文化が遅れていたのだよ。それをピョートル大帝がここを開拓して発展の基礎を築いたのさ」
副宰相はピョートルについて語り続けた。
ヴォロンツォークに気に入られたリアはエリザヴェータの部屋に出入りできる特典が与えられた。
冬宮殿が建設中なため、噴水と周辺の庭が映える夏宮殿の女帝の部屋にリアは訪れた。
女帝と2人っきりで他愛のない会話を交わしていった。
何日か経てエリザヴェータの信頼を得てから、リアはさり気なく政治の話題をした。
「フランスでは国王の寵姫が政をするのですよ。私たちにとって敬愛するルイ15世は大いなる父君のような存在です」
リアはフランスとその君主の話をした。
リアは「法の精神」を渡した。
「あなたとの楽しい語り合いの中で、国王の心持ちがとても理解できました。これは返答です」
女帝はリアに魅了されてルイ15世宛の自筆の書簡を託したのだ。
1755年の年末に27歳のデオンは「法の精神」の細工をされたカバーの中に隠されたエリザヴェータの親書を携えて誇らしげにヴェルサイユに戻った。
威厳と美貌を誇るルイ15世はその成果に満足して、女帝の要望通りにダグラスを全権大使に任命して、ロシア宮廷に派遣された。
デオンは大使館書記になり、ダグラスの補佐として次の任務にあたることになったのだ。
1756年4月20日に全権大使のダグラスはサンクトペテルブルクに着いた。
リアの兄という設定でデオンは6月20日に2度目のロシアへ向かい、ダグラスとの共同任務となった。
6月には7年戦争が勃発した。
発端はポーランド南西部シュレージエン地方を廻るプロイセンとオーストリアの争奪戦で、裏には17世紀以来の英国とフランスとの植民地戦争があったのだ。
フランスのロシア接近は英国への対抗政策であるのだ。
デオンらの仕事は親英反仏の宰相べストゥージェフと英国大使ウィリアムズの妨害を払いのけてエリザヴェータに英国ロシアの同盟を破棄させることであった。
幸いエリザヴェータは親フランスで、副宰相ヴォロンツフの助力で、女帝に英国ロシア同盟条約の破棄を同意させることができた。
しかし、コンチ公のポーランド国王即位は、達成できなかった。
エリザヴェータはコンチ公にラトビア公爵の肩書を与え、ロシア軍総司令官の就任を認めたものの、公爵をポーランド国王とすることを、はっきりと拒否した。
ポンパドール公爵夫人に嫌われていたコンチ公はルイ15世に見棄てられ、機密局のリーダーには外務省の主席秘書官テルシエがなった。
コンスタンティノープル支配とオスマントルコ隷属からのクリミア半島の解放はロシア積年の野望だったが、トルコ帝国の保護国フランスは、この問題を黙認できなかった。
「トルコ人への私の憎悪を満足させてくださらない限り、いかなる条約にも署名いたしません」
エリザヴェータは譲歩しなかった。
「よろしい。私が一切の責任を引き受けましょう。フランス国王陛下は、必ずあなたの要求を受諾するものと確認いたしますから、ただ、本条項はあくまでも内密にしていただければ結構です」
ダグラスはルイ15世の意向に反し、オスマントルコとの同盟を揺るがすほどの約束をエリザヴェータにした。
後にダグラスは罷免された。
そこで大貴族ロピタル侯爵が新たな大使となった。
デオンは新任大使が着く前にエリザヴェータの恋人、寵臣イヴァンを懐柔した。
女帝より19歳年下の美貌のイヴァンは女帝を操ってもいた。
女帝は宰相べストゥージェフを嫌っていた。
デオンはイヴァンを活用して宰相の政敵、副宰相ヴォロンツォークを誘ってべストゥージェフと派手にやり合った。
エリザヴェータは真っ赤な顔で怒鳴り散らす宰相を笑い飛ばした。
「先の条約は無かったことにします。ロシアはフランスとの友好を大事にしていきます。デオン・ド・ボーモン、1日も早くヴェルサイユへ戻って報告してちょうだい。べストゥージェフはデオンに旅費300デュカを自ら渡してちょうだい」
宰相は苦虫を潰すように渡した。
エリザヴェータはヴェルサイユ条約(1756年5月)に無条件で加盟するとデオンに伝えた。べストゥージェフは失脚した。
プロイセン王のフリードリッヒ2世はフランス・オーストリア・ロシアが同盟を結んだことをサンスーシ宮殿で知った。
「エリザヴェータ、マリア・テレジア、ポンパドール。こいつは3人の女どもによる同盟だ! 3枚のペチコートの共謀だ!」
1757年4月26日28歳のデオンはサンクトペテルブルクを発った。
ビアレストックでロピタルに会い、少しの休憩のあと、6頭の馬を急がせ日夜走り続けてヴェルサイユを目指した。
馬車は、轍の中に転覆してデオンは足を骨折した。
事故の中、ルイ15世はうめき苦しむデオンへ駆けつけた。
「このたびは良く条約締結まで働いてくれた! デオン殿には特別手当と煙草入れを進呈しよう」
国王の肖像入りで真珠を散りばめた黄金の煙草入れを与え、外科医を呼んでデオンの傷を治療させた。