プロローグ
ソリ・デオ・グロリア・エト・ホノール
神にのみ栄光と栄誉あれ!
モルス・ミヒ・ルクルム
死は我の利益なり
我は天空より裸で生まれ落ち
今また、裸にてこの墓石の下に眠る
要するに、この地上に生きて、
我には得たものも失ったものもなし!
鼻にお香の匂いがつき、彼はまぶたを開けた。
ドーム状の聖堂の暗がりの中に、灰色ローブの男たちに囲まれていた。
彼は自分が全裸であるのに気付いたが、何て華奢な身体だと胴体を眺めた。ローブの男たちはどよめいていたが、彼らとは面識がないのだ。
ローブを着せられた彼は中年の男に肩をかりて立ち上がった。
「名前を覚えておるかな?」
「私は……」
彼は名前を思い出せず言葉に詰まった。
「まずはお部屋でゆっくりお休みください」
彼は男に個室へ連れられた。
質素なベッドとチェストとドレッサーがあった。彼はローブを脱ぎ捨てシャツと黄土色のズボンに着替えた。
シャンデリアの灯りの下でドレッサーの鏡を見つめた。
肩よりやや長い金髪、緑色の瞳、可憐な少女と見間違う美しい容姿。
「また、女のような顔なのか……。まるで20歳のころの私だ。瞳は青じゃないのだな」
彼はうなだれて、ため息をついた。
肌寒いため彼はチェストを漁ると、明るい緑色の竜騎兵のジャケットを見つけた。白い袖口、金ボタンと黄色の飾りが美しい軍服である。
「ああ、私はフランス竜騎兵連隊長だった。七年戦争後期を勇敢に戦ってきたのだ!」
彼は過去の栄光を思い出しても自分の名前がいっさい出てこないのを不思議がった。
ローブの年配者と若者たちが会議していた。
「ロランの奴、やっと意識が戻ったが、どこか違うような」
「魂の色が違うのですが」
「死人がロランの身体に入り込んだのか? 確かに名前をすぐに答えないのは妙だ」
年配者は別人を懐柔すれば同じことだと画策した。
「なんということだ! 剣がないだと?」
竜騎兵のジャケットを着た彼は帯剣がないことにがっかりした。肝心のサーベルがないと自慢の剣技が披露できないのだ。
部屋を出た彼は派手な祭壇がある教会の奥へ来た。
燭台のろうそくとドーム天井からの月明かりで、祭壇と周囲の天使や聖者たちの像は、金色に輝いている。
祭壇の上の階には鳥が翼を広げたような形のパイプオルガンがあった。金の装飾が華美であるパイプオルガン上部にガラス窓がある。
「なんてきれいな……」
彼はパイプオルガンに惹きつけられて、回廊を上がった。
オルガンを凝視していたら、脇に黒い鞘の剣があった。柄は金で、銀色鳥の翼を模した鍔だった。
鞘を取ると両刃の剣中央に、
TETRAGRAMMATON AGLA AMEN
これらの金文字が彫ってあった。
(テトラグラマトン、アグラ アーメン?)
「オー、ラ、ラ、ラ、やったぞー! 剣だー!」
騒いだ彼は嬉しそうに白い帯に剣を付けた。
ローブの人々が集まり出した。教会の4隅に焚かれている香が嫌になった彼は窓を開けて外ヘ出た。
教会裏側に紅葉した木を見つけた。
ちょうど良い高さで彼は飛び移った。枝を掴み損ない、石畳ヘ腕が激突した。
「うぅ……」
彼はうめき、次第に痛みが引いていった。
青緑ドームの教会から離れると巨大で奇妙な柱が、広い大通りの中央にあった。
上段は十字架を掲げた金の像や中段は白亜の武装した天使たち。
1番下には小さな天使に倒された老婆の像がいた。
柱の四方に金の紋章がある。蛇の尾のライオン、双頭のワシ、たくさんのワシの紋章、見かけない紋章。
それは上部は十字架のある王冠、左側は竜の頭、右側にはクマ。盾の下方が狼の頭だった。
「紋章はともかく、これがあるのはウィーンのグラーベン通りだ。私はいつの間にかウィーンまでたどり着いたのか?」
ランタンで飾り付けられた街道ヘ進むごとに人々がいないことに彼は怪しく感じた。
繁華街なのに娼婦や御仁たちが誰も通りにいないのだ。
「あの浮かれたグラーベンなのに、どうしたのだ。まさか疫病が流行っているのか?」
辻馬車のない街の静かさの中、路中に黒い狼が、地中から現れた。
「何で狼が?!」
彼はとっさに剣を抜いた。狼は跳びかかり、彼が剣を振り回すと狼の首が斬れた。
「こんなに簡単に斬れるのか……」
感嘆した彼は路地に入ると、灰色頭が雄シカで体が青い鳥。2本の脚がシカの生物が、紺色フロックコートの男を襲っていた。うずくまった銀色カツラの男は、背中を蹴られ続けている。
「はぁっ!」
彼は鳥の体を剣で叩き斬った。
「こんな夜に鳥がうろついているのか? いや、シカなのか?」
彼は剣を収めた。
「あぁ、ありがとうございます。お嬢様。私はタレイランと申します。お嬢様はどなたですか?」
胡散臭い壮年の男に彼は唖然とした。
「私は……シュヴァリエ・デオン。デオン・ド・ボーモン」
デオンは息を吐いた。
「私は男だ!」
「デオン殿、失礼しました。とりあえず私の宿ヘどうぞ」
「あぁ、そういえば腹が減った。あのシカ鳥料理してくれないか?」
デオンはシカの頭を眺め、鶏肉が食べたくなった。
「さすがにこれを食べるのは……」
「そうかなぁ。こんがり焼けばいけると思うのだが」
デオンはタレイランのカツラの粉でウィーン名物のカツレツを想起して、恨めしそうにシカ鳥を眺めた。
「宿に美味しいグラーシュがあるので、そちらをどうぞ」
デオンはタレイランに連れられて小規模な宿に入った。
タレイランは宿の1階の食堂でデオンにグラーシュをおごった。デオンは牛肉の塊入りのシチューを「うまい、うまい、うまい」と喜んで、おかわりを欲した。
付け合せのポテトもデオンは夢中になって食していた。
長くて美しいブロンドで、てっきり女性かと思ったものの、繊細な指と端正な顔立ちの、ナポレオン軍竜騎兵の者を、どうしても男には見えなかった。
声は男より高音で甘くて魅力的なのだ。
腹いっぱい食べてデオンは上機嫌になった。
「この料理は何だい?」
「それはグラーシュでエルトリア王国の伝統料理です」
タレイランの答えにデオンは耳を疑った。
「エルトリア? 何だいそれは?」
「何ってオーストリアの東隣の国ですよ」
「それはハンガリー王国じゃないのか?」
デオンは即答した。
「ハン? 何ですかそれは」
タレイランは困惑した顔つきだ。
「私こそエルトリアなんて知らないぞ。古代ローマ時代にあったエトルリアなら知っているが」
タレイランが地図を見せた。
「エルトリアだと……。うぅっ、もう眠る!」
デオンは考えるのを止め、2階のタレイランの部屋に入った。ジャケットと靴を脱ぎベッドに入った。
窓際から朝日が差し込み、デオンは尿意で起き、備え付けの瓶で小用をした。
狭い浴室でバスタブで湯が張ってあったのでデオンは入浴した。
昨晩は変な獣を狩ったり、妙な男たちに裸にされたみたいで、気分を害した。洗髪もしてさっぱりしたかった。
「本当に男でしたか。背中だけ見たら、うら若き乙女なのにねぇ。それに貴方は小柄ですし」
タレイランがのぞき込んだ。不意に覗かれると気分が悪い。
「グラーシュ、おごれよ」
「はい、もちろんです」
デオンは痩身の身体を眺めた。過去の自分は身を失っているのに今の自分は誰なのかと思案した。
軽くグラーシュとパンを食べてコーヒーを飲んだあとデオンは新聞を読み始めた。
ウィーン日報 1814年 9月28日
メッテルニヒ談話
我々はナポレオンによって乱されたヨーロッパの土地を以前の正統な君主に戻すべく、ウィーンにて平和会議を開催した。
しかし怪物によって邪魔されるという非常事態となった。
どうか獣に出逢ったら建物内で避難して決して応戦しないように!
「1814年だと! 私が死んだのは1810年の5月だ。じゃあ、私は85歳なのか」
デオンは叫んだ。
「あのう、何の冗談ですか?」
「いや、こっちの話だ」
ひょっとしたら平穏な暮らしが出来るかも知れない。男としての性をもう一度桜花できるのなら、いい機会なのかも知れない。
「実はグラーベンからやや南西の、王宮に向かいたいのですが、辻馬車が怪物騒ぎでつかまらないのですよ。外を散歩して見ませんか」
タレイランが遠まわしに怪物を倒すように頼んでいるみたいだが、デオンは散歩したいので了承した。
竜騎兵の軍服を着て帯剣を付け、通りに出た。
6階から4階建ての高層建築物が並ぶ中、人通りがない。シカ鳥の群れがデオンに集まった。
「やはりこいつらか」
デオンは自慢の剣技でシカ鳥を斬り続けた。
「かわいい顔して油断させようなんて効かないぞ」
デオンは首を落としたシカ鳥を宿屋の女将さんに見せた。
「こいつを料理してくれないか」
「これは立派な鳥だね。やってみるかね」
シカ鳥は大きなカツレツになり、デオンはポテトと一緒に平らげた。
鳥を一掃してから馬車が来るようになり、ホーフブルク王宮へたどり着いた。
王宮は白亜の華麗なたたずまいだ。広場に馬車が複数あるのに、人気がない。
デオンの元にシカ鳥が舞い降り、タレイランと御者は宿舎になっている、向かって左側のアマーリエン宮へ駆け込んだ。
デオンは剣を軽く振るってシカ鳥の首を落とした。寄って来たシカ鳥の胴体を叩き斬った。
近場のシカ鳥を駆除すると赤服のスイス人衛兵が駆け寄った。
「どうやってあんな怪鳥を退治できたのですか?」
「この剣で振るったら勝手に倒れてくれるぞ」
デオンは得意げに答えた。
「それは素晴らしい! あいつらには銃も我々のサーベルも効かないのですよ」
「マスケット銃もダメなのか? そんな莫迦な」
デオンは衛兵の銃を借りて、遠くで徘徊している怪鳥を撃った。
頭に当てたのに倒れてくれない。
シカ鳥はすぐに寄って、デオンはとっさに銃で怪鳥の蹴りを防いだ。
銃を捨てて鳥の下に避けて抜いた剣で刺し殺した。
次第に王宮広場にシカ鳥が集まり、デオンは怪鳥を退治するはめとなった。
鳥の行動は単純で、向かって来たのを斬り続けば済むのだが、数が多すぎて手がしびれてくる。
「私に怨みでもあるのか? こいつらは」
背後に怪鳥に回られデオンは背中を蹴られた。
蹴られ続けたデオンは鈍い痛みで足が硬直し、前方の鳥を突くので精いっぱいだった。
「危ない」
スイス人衛兵がデオンの背後の鳥を撃った。
シカ鳥たちは衛兵へ突っ込む。抜け出せたデオンは鳥を退治した。
(どうやら私は神の恩寵から外れたようだ。これを試練としてうけいれようか!)
遠くからの怪鳥群れも近づくので、デオンは剣を上へ掲げて、力をためるように足を前に構え、剣を真っ直ぐに突き出し突進した。
群れを殲滅すると疲労で倒れ込んだ。