表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

嘘つきと薔薇

作者: 九藤 朋

 薔薇の香りが匂った。

 初夏、縁が薄く縮れた花びらのピンクが可憐だ。

 (かおる)は子爵家の令嬢であるので、手づから花の世話はしない。ただ咲き綻ぶのを愛でるのみである。そしてそんな自分の在り様になんら疑問も感じていなかった。


 戦禍が小さな島国を覆っていた。

 一国の内側でも、陸軍と海軍では良好な仲とは決して言えないらしいことが、薫の耳にまで入っていた。薫の父は海軍将校だった。

 薫の婚約者である榊原(さかきばら)勇人(はやと)も海軍に属している。今は戦地に赴き、薫はひたすら待つ身である。


 気晴らしに家の庭の薔薇園をそぞろ歩く。

 時折、姿を現す蜂にひやりとしながら、薔薇の花びらに触れたりする。

 薔薇の花びらは薄い絹のような手触りだ。


 初夏の、陽射しの強い日だった。

 薫は白い日傘を差してゆっくり、庭を散策していた。その途中、青いビー玉が落ちているのを拾った。なぜこんなところにと疑問に感じながら、掌の上で転がす。その涼し気な青は、日傘の生地を通しても薫に届く熱波を和らげるようだ。


 勇人は生きて戻ると言った。


「嘘つき」


 薫の、薔薇の花びらにも似た唇が動く。

 事実として彼女は勇人の生還を信じていなかった。父も、覚悟しておくようにと言ったのだ。

 勇人の、やや浅黒い、端整な顔が脳裏に浮かぶ。

 はにかむように笑う表情が好きだった。


 ころころ、ころころ、とビー玉を弄ぶ。


「勇人さん」


 来て。

 今すぐ戻って来て。

 あらん限りの力で抱き締めて。


 薫は気づけばビー玉を握り締めていた。


 ふと、小さな男の子が数歩先に立っていることに気づく。

 身なりの良い、五歳くらいの子供だ。どこから迷い込んだのだろう。


「そのビー玉」

「え?」


 なぜだか喋るまいと思っていた男の子が不意に口を開いたので、薫は驚いた。


「そのビー玉、僕のいっとう、お気に入りだったんだ」

「まあ、そうなの。お返しするわね」


 薫が慌てて言うと、男の子は首を振る。


「ううん。貴女が持っていて」

「でも」

「そんな物を大事にしているだなんて、子供じみていると笑われると思った」


 彼は透き通るような眼差しで、そう語る。薫はどこかでその子に会ったことがあるような気がした。そしてその口調は、ひどく大人びていた。


「お守り代わりに持って行ったけど、貴女が持っていて」

「……」

「嘘つきにならないように、頑張るから」


 薫が、次に口を開こうとした時、男の子の姿は忽然と消えていた。

 目を瞠り、あたりを見回すがどこにもいない。



 同じ頃、勇人は潜水艦の中でじっと敵艦の通り過ぎるのを待っていた。

 極度の緊張状態にあったせいだろうか、彼はごく短い白昼夢を見た。そして、敵艦が無事に過ぎ去り、九死に一生を得た時、拳の中にあった筈のビー玉が消えていることに気づいた。


「どうかされましたか、榊原中尉」


 部下が怪訝そうに訊くのにかぶりを振る。


「嘘つきにならないようにしなければと思ってね」

「は?」


 あのビー玉。

 時の不思議で確かに薫の手に渡ったのだとしたら。

 形見にならないように生きて帰らなければ。


 汗と鉄とオイルの臭いの中、仄かに薔薇の香りが勇人の鼻をくすぐり、消えた。



挿絵(By みてみん)





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 映画のワンシーンのようです。 生きて帰るためにあらゆる努力をするのだろう、とこのあとが気になりますが、ここで終わるのも綺麗でいいですね。
[良い点] 面白かったです。 終わり方も綺麗でした。 今、薔薇が綺麗に咲いているでしょうね。 全体に文章がほどよく整っていて、香り立つようです。 美しい物語をありがとうございます。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ