嘘つきと薔薇
薔薇の香りが匂った。
初夏、縁が薄く縮れた花びらのピンクが可憐だ。
薫は子爵家の令嬢であるので、手づから花の世話はしない。ただ咲き綻ぶのを愛でるのみである。そしてそんな自分の在り様になんら疑問も感じていなかった。
戦禍が小さな島国を覆っていた。
一国の内側でも、陸軍と海軍では良好な仲とは決して言えないらしいことが、薫の耳にまで入っていた。薫の父は海軍将校だった。
薫の婚約者である榊原勇人も海軍に属している。今は戦地に赴き、薫はひたすら待つ身である。
気晴らしに家の庭の薔薇園をそぞろ歩く。
時折、姿を現す蜂にひやりとしながら、薔薇の花びらに触れたりする。
薔薇の花びらは薄い絹のような手触りだ。
初夏の、陽射しの強い日だった。
薫は白い日傘を差してゆっくり、庭を散策していた。その途中、青いビー玉が落ちているのを拾った。なぜこんなところにと疑問に感じながら、掌の上で転がす。その涼し気な青は、日傘の生地を通しても薫に届く熱波を和らげるようだ。
勇人は生きて戻ると言った。
「嘘つき」
薫の、薔薇の花びらにも似た唇が動く。
事実として彼女は勇人の生還を信じていなかった。父も、覚悟しておくようにと言ったのだ。
勇人の、やや浅黒い、端整な顔が脳裏に浮かぶ。
はにかむように笑う表情が好きだった。
ころころ、ころころ、とビー玉を弄ぶ。
「勇人さん」
来て。
今すぐ戻って来て。
あらん限りの力で抱き締めて。
薫は気づけばビー玉を握り締めていた。
ふと、小さな男の子が数歩先に立っていることに気づく。
身なりの良い、五歳くらいの子供だ。どこから迷い込んだのだろう。
「そのビー玉」
「え?」
なぜだか喋るまいと思っていた男の子が不意に口を開いたので、薫は驚いた。
「そのビー玉、僕のいっとう、お気に入りだったんだ」
「まあ、そうなの。お返しするわね」
薫が慌てて言うと、男の子は首を振る。
「ううん。貴女が持っていて」
「でも」
「そんな物を大事にしているだなんて、子供じみていると笑われると思った」
彼は透き通るような眼差しで、そう語る。薫はどこかでその子に会ったことがあるような気がした。そしてその口調は、ひどく大人びていた。
「お守り代わりに持って行ったけど、貴女が持っていて」
「……」
「嘘つきにならないように、頑張るから」
薫が、次に口を開こうとした時、男の子の姿は忽然と消えていた。
目を瞠り、あたりを見回すがどこにもいない。
同じ頃、勇人は潜水艦の中でじっと敵艦の通り過ぎるのを待っていた。
極度の緊張状態にあったせいだろうか、彼はごく短い白昼夢を見た。そして、敵艦が無事に過ぎ去り、九死に一生を得た時、拳の中にあった筈のビー玉が消えていることに気づいた。
「どうかされましたか、榊原中尉」
部下が怪訝そうに訊くのにかぶりを振る。
「嘘つきにならないようにしなければと思ってね」
「は?」
あのビー玉。
時の不思議で確かに薫の手に渡ったのだとしたら。
形見にならないように生きて帰らなければ。
汗と鉄とオイルの臭いの中、仄かに薔薇の香りが勇人の鼻をくすぐり、消えた。