30歳。尾道へ ~銀輪。短編集~
10月。
夏が通り過ぎ、秋が深まっていく。
あれほど熱かった日差しには、わずかな熱が残っているだけになった。
肌をなでる風は肌寒く、首や顔から熱をさらっていく。
長い階段を上る今、程よい気温だった。
久しぶりにやってきた尾道は、随所に紅葉を見せ、以前と違った表情をしている。
高く上らなくなった日は建物に遮られ、尾道の細い路地を薄暗くしている。
天気は晴れ。しかし快晴ではない。
今日は30歳の誕生日だった。
ここへ来たのは、ただの気まぐれだった。
せっかくの誕生日だから、どこかへ行こうと思ったのがきっかけだった。
それが尾道になったのは、たまたまテレビでその景色を見たからだった。
尾道は初めてではない。
学生時代には、よく自転車で遊びに来たものだ。
住んでいた岡山から約70キロ。往復140キロの道のりだ。
当時の自分はサイクリングにはまっていて、愛車と共に走り回っていた。
140キロ程度なら、気軽に行ける距離だった。
自転車があれば、どこへだって行けると思っていた。
30歳の今日、この尾道の階段を踏みしめる足は重い。
体力が落ちたのか、体重が増えたのか。
両方なのかもしれない。
社会人になり8年。最近は昔ほど自転車に乗っていない。
体の一部だとまで思っていた自転車は、今では家の玄関で埃をかぶっている。
今日も車で来ていた。
体重も量ってはいない。
最近スーツのウェストがきつくなっている。太ってきているのは間違いない。
スーツを買いなおさないといけなくなるのも、時間の問題だろう。
学生時代に完成していた身体も、威光が消えかかっていた。
涼やかな風に吹かれ、息を整える。
商店街から千光寺へまっすぐ伸びる階段、その中腹まで来ていた。
尾道特有の階段路地。
急な斜面に、所狭しと並ぶ家。
そしてその間を縫うように繋がる、階段の細道。
階段と階段がいろんな場所で交差して、繋がっている。
そんな数ある階段の一つを、歩いていく。
今日は一人だ。
いや、今日も、一人だ。
大学時代、付き合っていた彼女とは、社会人になて2年目で別れた。
それ以降、仕事に埋没して、新たな出会いなど一度もなかった。
大手企業に就職し、そこそこの成果を出し、一時は社内でも評価されたりした。
最近は仕事にも慣れ、忙しくも落ち着いた日々を過ごしている。
会社に行き、仕事をして飯を食い、家に帰って寝て起きる。
そんな毎日の連続だ。
大人になるって、こういう事だったのだろうか?
ふと、そんな疑問が頭をよぎった。
しかし、それ以上を考えることもなく、続きを歩き始める。
尾道の階段は、どこから登ってもだいたい千光寺に行ける。
学生時代に歩き回った経験から知っていた。
今日は、まっすぐ千光寺へと続くルートを選んでいた。
ずうっと延びる階段を、ただ歩いていた。
「あ、こんにちはっ」
横道から人が出てきた。
若い女性だった。
二十歳前後だろうか。
学生のようだ。
美人、というほどではないが、笑顔の可愛らしい人だった。
「こんにちは」
その笑顔につられるように、こちらも笑顔で挨拶を返した。
彼女は僕の横を通り抜け、別の小道に入っていく。
カメラを首から下げていたし、観光だろう。
この街は観光客がいつもいる。
また階段を上り始めようとして、女性が出てきた小道を見た。
この道は、どこへ出るのだったか。
少し思案するも、思い出せなかった。
まあ良いかと、階段を上り始め、足を止める。
振り返ると、先ほどの小道はまだすぐそこにあった。
3段も進んでいなかった。
なぜ、足を止めたのか。
なぜ、振り返ったのか。
なぜか、その小道が魅力的なものに見えたのだ。
狭い通路はうねっていて、覗き込んでも先は見えない。
そんな小道が。
気が付くと、引き込まれるように小道に入っていた。
千光寺に行くつもりだったが、まあ、どのみち着くことができるだろう。
建物と建物の間の小道は、日が差さず薄暗い。
右へ左へと曲がりながら、道を進んでいく。
どう進んだかは覚えていない。
少し開けたところへ出た。
開けたと言っても広場ではない。
建物が一部取り壊され、道のわきが開いているのだ。
そこは、階段の四つ角だった。
踊り場の正方形に、それぞれ上や下から4つの階段が繋がっている。
初めてここを見つけた時は、意味もなく興奮したのを覚えている。
今、冷静にそれを見ている自分がいた。
あれが、若さだったのか。
今の自分には、気持ちの盛り上がりはない。
若くないということかもしれない。
長い人生から考えれば、まだ前半もそうだろう。
しかし、30歳という歳は中途半端だと思った。
若くもなく、老いてももいない。
30歳か。
階段の四つ角を見ながらそんなことを考えていた。
「あっ、また…。こんにちはっ」
階段の下から女性が出てきた。
先ほどの女性だった。
「あ、こんにちは」
ここの道は複雑なので、適当に歩いていると戻ってしまうことがある。
それも大学時代に経験済みだ。
「ここ、迷路みたいで迷っちゃいますね」
女性は少し恥ずかしそうにはにかみながらそう言った。
確かに、さっきすれ違った人の前に出てしまうと、行ったり来たり、何をしているのかと思われそうだ。
その心情も経験済みだ。
「そうですね。僕も前来た時に何度も同じ道に出たりしました」
「そうなんですね」
「でも、何度通っても楽しめるのがこの町の路地裏ですよ」
「あ、確かに。素敵ですよねっ」
素敵、か。
最近なにかでそう思ったことがあっただろうか。
では。と言ってまたすれ違い、それぞれの道を進んでいく。
一人になり、先ほどの自分の言葉を反芻していた。
何度通っても楽しめる。自分が口にしたのだ。
学生時代に来たときは、間違いなくそう思っていた。
今日は楽しんでいただろうか。
ふと見上げると、はるか向こうに千光寺の赤い影が見えた。
気が付くとかなり回り道していたようだ。
「はあ……」
そろそろ目的地へ向かうか。
足を踏み出そうとして、気付いた。
なぜここまで回り道したんだろうか。
何が自分をここへ連れてきたのだろうか。
あの小道の入り口だ。
笑顔の女性が出てきたあの小道。
あれに引き寄せられるように回り道をしたのだ。
そう思っていた。
しかし、引き寄せたのは小道ではなかった。
それは自分の中にある好奇心だったのではないか。
ここへ来る途中、元へ戻る道はいくつもあった。
しかしそれを選ばなかったのは自分自身だ。
合理性を捨て、目的を忘れ、人を動かすもの。
それは楽しみに他ならないのではないか。
なくしたと思っていたそれは、確かにあった。
それが素敵だと思ったから小道に入ったのだし、楽しかったからここまで来たのだ。
自分が楽しんでいることに気付いていなかったのは、自分だけだった。
そう気づくと、周りの景色が少し変わって見えた。
薄暗い路地裏でさえ、明るく見える。
周りを見渡して、今度こそ足を踏み出した。
千光寺とは違う方向の小道へ入っていく。
その足取りは軽かった。
30歳。
まだ先は長い。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
意味は、一応あります。
階段・道 = 人生
+++++++++++++++++++++++
毛色が違いますが、「銀輪。」の他の作品もお読み頂けると嬉しいです。
ぜひご覧下さい。
「銀輪」さんは別の方です。
「銀輪。」で、検索ください。