美術室
開け放した窓から、グラウンドの喧騒が耳に入る。その音すらも気にならないほど、目の前のキャンバスに情熱を注ぐ視線がある。
高木研二はG高校の美術部員。二年生。文化祭への出展に向けて、今目の前のキャンバスに彩りを加えている最中である。題名まで決めており、このペースであれば、早くて来月までには完成するだろうと頭の中で思い描いていた。
この美術室の窓から見える、グラウンドの周りを囲むように咲いている桜を主役にし、絵を描き進める予定だ。もう桜は描き終わったので、あとは周りの風景をどう描くかで作品の良し悪しが変わる。桜だけを描いても、周りが乱雑であれば、その魅力は半減されてしまう。
前年の文化祭で痛いほど思い知った失態が、今年のキャンバスには残らないように研二の手を動かす。技術的な進歩も少しずつ周りから評価されている中での、文化祭での出展である。気持ちが入り込むのも無理はない。
夕日が傾き、室内へオレンジ色の光を招き入れる頃、予備の絵の具がほとんど少なくなっていることに気付いた。美術室の隣へと通じるドアへと向かう。鍵を差し込み、ノブを回して中へと入った。
美術室の隣は道具置き場を兼ねた、第二美術室となっており、研二が先ほどまでいた場所は第一美術室であった。第二美術室には、まだ未完成の絵画、彫像等も置いてある。卒業生の作品も中には置かれている。
疲れた時に、時々第二美術室に入り、作りかけの作品を眺めて、これからどのような絵や形になるのかと妄想を膨らませていくこともあった。今は、道具を取りに来ただけなので眼も向けないが。
「あった。あった」
研二は目当ての絵の具を見つけると、右手に取り、第一美術室に引き返そうとした。次の瞬間、振り返ったと同時に足がもつれ、仰向けに倒れこんでしまった。打ち付けた背中がじわじわと痛みを放つ。
「いててて……ん?」
痛みでうずく背中を気にしながら、何気に天井のほうをみると、右隣の棚の上にキャンバスの角が見えた。灰色の布で包まれている様子だ。
気になり、痛む背中をこらえ、椅子を使い棚の上に両手を伸ばす。キャンバスを近くにあった机に立てかける。包まれていた布をゆっくりとめくった。
キャンバスは、まるで新品であるかのように真っ白な輝きを放っていた。
「何だ。何も描かれてない」
研二はじっくりとキャンバスを見つめるも、下書きの跡すら見つけられなかった。
「何でこんな物が布に包まれてたんだ?」
不思議に思いながらも、キャンバスを灰色の布で包み直した。そして、机に立てかけたまま絵の具を手に掴み、第一美術室に戻った。キャンバスを元の場所に戻すことが億劫だと感じたからだ。
自分のキャンバスに向き直ると、表情を引き締め雑念を振り払い、絵に没頭した。
一ヶ月後
開けた窓から上半身だけを乗り出し、グラウンドの部活動を行う部員を眺める影があった。研二だ。彼は今スランプに陥っていた。桜の周りの風景がなかなか決まらないのだ。
「どうするかな。他の皆帰ったしな」
美術部員は三年生も含めて、総勢八人。幽霊部員をカウントしないとなると、実際に活動を行っているのは、研二を含めて四人しかいない。他の三人は早々に帰宅していた。
「はあ……」
もう一度、キャンバスと向き合い、風景を頭の中で練り上げて、下書きを描く。しかし、胸の中にわだかまりがあり、納得がいかず下書きを消す。何度も同じことを繰り返してきた。
精神的にも疲労が続いている。しかし、目標となる文化祭はもう来月と迫っている。焦りと絶望が同時に研二の心を支配してきた。
「そうだ。隣見てこよう」
息抜きにと思い、第二美術室へと向かう。突然、
ガタン!
何かが倒れる音がした。美術室には研二以外は誰もいない。物音がするのならば、誰かがいるはずだが、今まで第二美術室に誰かが入った気配も感じなかった。
生唾を飲み込み、ノブに手をかける。手はうっすらと汗ばんでいた。ノブを回し、そっと中を伺う。人影一つ見当たらない。ほっと息を撫でおろした。
「これの音か」
研二の視線の先には、一ヶ月前に棚の上から取り出したキャンバスがあった。机に立てかけていたはずだが、何かの拍子で床に倒れていた。
第二美術室の窓は開いておらず、風も吹きこまない。妙だと思いながらも、キャンバスに右手をかける。ぬるりとした感触が指先に伝わった。
驚いてキャンバスから手を放す。右手の指に赤い塗料のような物がべったりと付いていた。
「うえええ。最悪。何だよこれ」
ポケットにいれていたハンカチで手の汚れを拭き取る。拭き取った後も、うっすらと赤い塗料は指に残っていた。恐々と、キャンバスを包まれていた布ごと机に立てかけてみる。
キャンバスから滴り落ちるかのように、赤い絵の具が一面を埋め尽くしていた。
まだ乾ききっていない為か、夕日の光を受けて光沢を放っている。あまりの不気味さに思わず足が震えだした。本能が告げる。早くここから抜け出さないといけないと。
「ひっ……」
声にならない悲鳴を噛み殺し、駆け足で第一美術室へと戻り、共用廊下に繋がるスライド式のドアに手をかけるも、開かない。両手でドアの窪みを掴み、力の限り引っ張るも開かない。
ここは四階に位置する為、窓から飛び降りることは不可能だ。ドアを引っ張り続けていると研二の耳に不穏な音が入り込む。
バン……バン……バン……
眼を背けようとした。聞こえてはいけない方角から音が聞こえるからだ。
そう、グラウンドの見える窓からだ。初めは小さく、次第に大きな音量で第一美術室内に響き渡る。
まるで、誰かが窓を叩き付けているかのように。
「ああああ。あああああ!」
研二は窓のほうを見ないように、ドアを引っ張り続ける。音はどんどん大きくなる。もう両耳を塞がないといけない音量だ。
音が大きすぎる為、眩暈まで伴ってきた。疲れと恐れと体力の限界からか、研二は意識を失い、ドアのすぐ側に倒れこんだ。
肩を揺さぶられる感覚が脳に伝わり、うっすらと目を開けた。目の前に、クラス内で見慣れた担任の顔があった。顔色が真っ青である。
「おい!大丈夫か!しっかりしろ!」
肩を何度も揺さぶられ、意識が徐々に鮮明になる。からからに乾いた喉から、声を絞り出す。
「大丈夫です……急に閉じ込められて」
「閉じ込められた?それより、立てるか?どこか痛まないか?」
「痛みはないです」
研二の返事を聞いても、担任の顔色は悪いままだ。不思議に思い、尋ねる。
「どうしたんですか?」
「……鏡を見てこい」
言われるがままに、担任に肩を貸してもらい、近くのトイレで鏡を見た。
研二の首をしめようとするかのように、真っ赤な手形がべったりとついていた。