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バレンタインデー・クライシス

作者: 新良広那奈

 天気予報は、晴れという時には晴れない癖に、雪という時には何故か違わず雪が降る。

 しかも、「記録的な豪雪になる」だなんていう、細かい修飾部分まで完璧に再現されてしまう。

 当たってほしい時は外れる癖に、外れてほしいと思う時は容赦なく当たるだなんて、この世の中で神と崇められている存在は絶対に名ばかりの存在だ。鬼畜生だ。

 そうでないというなら、今すぐこの一面の雪をなぎ払って証拠を見せてほしい。

 どうだ、無理だろう。


---


 ホワイトバレンタイン、だなんて言えば聞こえはいい。

 けれど、雪に不慣れなこの辺の者にとってはこの白銀の世界は見た目こそ美しいものの、その実態は地獄絵図そのものだった。


 朝は早くから叩き起こされてまず庭の雪かきを手伝わされた。

 ただでさえ眠い中起こされて機嫌が下降しているのに、雪をどかしてもどかしても地面が一向に見えてこず、ただ緩やかに虚しさが胸を埋め尽くす鬱々とした作業に身を投じるのは拷問極まりなかった。

 地獄の罪人に任される仕事のように、果てが見えず、やればやる程、絶望的な気分になる。

 実に無為かつ無駄な時間を過ごして、作業中の見立て通り、大して庭が綺麗になることもないままに切り上げ、さらっと朝食を摂り、登校時間になりそそくさと家を出た。


 登校では、まず積雪の量を考えて、ローファーを履くことは叶わず、ショッピングセンターでだいぶ前に買ったまま保管されていた、安っぽい光沢の目立つ長靴がお供となった。

 正直この歳にもなって長靴を履いて学校に行くなんて格好悪い。

 けれどローファーで進めば靴下なんてたった一歩分歩くだけでずぶ濡れのびしょびしょになるのは分かりきっているので、仕方なく、見た目よりも実用性を選ぶしかなかった。

 履いた長靴で街へ繰り出せば、案の定、雪ですねの辺りまでがすっぽり覆いつくされた。ぎりぎり長靴でカバー出来る辺りで、少しだけほっとする。


 こんな大雪、私がこの街で暮らすようになってから、というか生まれてから、初めて見た。

 地元の私立校に通っているので、普段は自転車で登校している。徒歩でも行けない距離ではないので、今日は安全を考えての徒歩通学だ。

 歩く道の先々で、普段はあまり見かけないくらい、大勢の人たちを見かけた。

 恐らく車通勤が叶わなかったのだろう、徒歩で駅の方向へと向かう社会人の集団に、家の雪を何とかしようと今朝の私みたいに絶望的な作業に取り組む主婦やご高齢の方々。通学がまだの子も、ちらほらと手伝っている。

 野良犬と小さな子どもだけがやけに興奮した雰囲気で雪の上を走り回っていて、大人は軒並み億劫な顔を隠しもせずに銀世界の上で忙しそうにしていた。


 普段の何倍も時間をかけての登校途中、つるつると雪道で滑って変な風にずっこけることもしばしばだった。

 恥ずかしさに何度通学路を引き返そうと思ったか知れない。

 せめてもの救いは、こけた時に足を捻ったりどこか怪我をしたりすることがなかったことだろうか。

 それでも、車道を通る車が撥ね飛ばす雪が、お気に入りのマフラーにべちょべちょ容赦なくくっついて、盛大に気が滅入ってしまった。


 やっとの思いで学校に辿り着いてみたら、クラスの仲の良い友達皆がインフルエンザにかかって休みらしい。

 ちなみに今年はB型が流行しているらしく、友達も軒並みB型に感染した様子だ。

 せっかく持ってきた友チョコが、行き場をなくしてしまった。

 私の手の中で、友チョコの包みが入った紙袋が、くったりと萎れる。

 ただのチョコならインフルエンザ明けでも渡せなくはない。

 けれどこれはチョコマフィンで、そこまで日持ちする物ではない。

 昨日の私が皆のためにかけた時間は、全て水の泡と成り果ててしまったのだ。

 一体、私が何のために、色々な面倒ごとや困難に挫けそうになりながらもわざわざ登校をしたというのだろう。

 それはひとえに、友達にチョコを渡すため、ただそれだけだったのに。

 ……そんなことを言ったら担任や親に呆れられそうな気もするけれど、きょうびこの歳にもなって勉強が大好きで大好きで堪らなくて、豪雪の中頑張って登校する高校生というのは稀だろう。そういう子の方がよっぽど不健全だ。

 私みたいなちょっぴり不純な気持ちを持て余すくらいが、標準的で健康的な高校生といえるはず。


「はぁ」


 がっくりとうなだれる。

 ホームルームの健康観察の時点で、もう今日の私の絶望感はMAXを突き抜けてしまった。

 今はもう、ただただ早く家に帰ってこたつで丸くなりたい。

 でも私の家にこたつはないのでそれも叶わない。

 何もかもちっとも思うようにはいかない。

 悔しいから、帰りに買い物でミニこたつでも買って帰ってしまおうか。

 ……ああ、でもチョコマフィンを作る材料に小遣いを充てたから、手持ちが今は少なめだった。

 ああ、もう!


---


「はは、どうした唐澤、この世の終わりみたいな不景気な面して」


 にゅっと突き出すように視界一杯に現れた顔は、不景気な顔らしい私とは正反対に、にっこにこと実に景気の良さそうな面構えをしていた。


「あんたは今日も実に景気のよさそうなお顔なことで」


 沢渡健人。

 いっつも何処から出てくるんだか謎なくらいに自信に満ち溢れていて、すごく斜に構えている感じで、人を喰ったような性格で、騒がしい系男子の相原とよくつるんでいる男子だ。

 整った外見の癖に性格に難ありのこの級友は、とても女子受けが悪いようだった。

 普通、野球強豪校の名キャッチャーというネームバリューがあれば、女の子からモテてモテて、チョコを紙袋に大量に受け取ってもおかしくないと思うのだけれど、彼にはそういう気配がない。

 相原やその他の私の知る野球部の面々もそう頻繁にはチョコを受け取る機会がないみたいだから、野球部内でチョコレート受け取り禁止令でも発令されているのかと疑ったこともあるけれど、そういう訳でもなさそうだった。

 となると、「野球部の面々はよっぽど個性的で、女子受けが悪いのだろう」というのが私の見立てだ。

 少なくとも沢渡は結構な“食わせ者”という印象があるので、もしかしたら女子勢も、興味があっても攻めるに攻められない、といったところなのかもしれない。

 戦で、篭城戦にもつれ込んだ時はただでさえ攻めるのが難しいのに、それに加えて有名な軍師がいる城なら攻めるのにはかなり機会を窺わないといけないみたいに、沢渡を陥落させるには、きっと並大抵の策では敵わないんじゃないだろうか。

 私だったらいかにいい顔の男だとしても、そんなしち面倒くさい奴に好意を寄せるくらいなら、ルックスは凡人でも気立てのいい人を好きになる。

 野球のキャッチャーは全体の策を張るかなりの頭脳派だろうから、そんな人相手に素人が戦をするのなんて無謀にも程がある。


 そう、恋は戦争なのだ。

 初めから負け戦になると分かりきっている戦に手を出すような人間は、よっぽどの苦境に追い込まれた者位だろう。

 勝算ありと見て、大抵の人は、初めて戦の旗印を掲げるのだ。


---


「まぁ、世の中笑っておけば大抵のことは何とかなるだろ」


 沢渡はにかっと白い歯をむき出しにして笑う。

 わぁ素敵。白々しいくらいに眩しい笑みだこと。

 純真無垢な人間の笑みならまだしも、沢渡の笑みはどうにもあざとすぎる気がする。

 苦手ではないが、もう少しなんとかならないものかと思う。


「でもね、笑っていられない程、立て続けに嫌なことがある日だってあるんだから」


 そう、今日の私みたいに。

 言葉にせず内心そう零す。


「河田たちが休みだからか?」


 つるんでいる友達の名が挙がる。


「まぁ、それもあるけど」


 確かにそれも、嫌なことの一つだ。

 素直に頷く。

 今この流れで学校に辿り着くまでの私の憂鬱倦怠ライフを一部始終語ってやってもよかったが、ホームルームももう終わりを告げ、そのまま担任の授業が始まろうとしている。

 語れば長い退屈な話を口にして、担任に私語だなんだと言われるのもこれまた面倒な話だ。

 だったら沈黙は金。黙るに限る。

 私は隣の席の沢渡との会話を打ち切って、化学の教科書とノート、資料集を机の左端に寄せた。

 それを見た沢渡も、特に追究する気配はなく、同じように授業の準備に取りかかった。


---


 今日は親しい友達がここにいないから、授業中も気を抜けない。

 友達がいればノートを見せて貰うことも容易いけれど、そうではないから、もし眠ってしまったら級友の誰かから借りないといけない。それはなるべく避けたかった。


 そう思ってはいたものの、登校時のあの極寒の世界からここに辿り着いた身としては、ストーブで暖められたこの部屋は完全に睡眠部屋に他ならなかった。

 眠い。ただひたすらに、眠い。

 眠ったら死だ、なんて半分冗談じみた強迫観念で必死に眠気を飛ばそうとするけれど、そんなもので抑えられるほど、やわな眠気ではなかった。

 とろとろと訪れる心地よい時間に、何の策ももたない私はあっさりと陥落した。

 降参、降参。白旗だ。


---


「おい、唐澤。一限終わったぞ」


 ゆさゆさ、ゆさゆさ。

 電車の中で急ブレーキのかかった時のように、体が揺すぶられる。

 だらしなく開きかけていた口に気づいて、慌てて手で隠す。

 よだれ、出ていなかったならいいのだけれど。

 隠した手の下、親指でそっと唇をなぞる。湿った感触はない。セーフだ。

 ほっとして目を開けたら、お綺麗な顔がホームルームに続いて、またしてもすぐ近くにあった。


「あー……沢渡?」


「おう、おそよう」


 ばしん、と遠慮なく肩を叩かれる。

 痛い。

 もう少し自分が名キャッチャーだということを自覚して力加減をして欲しい。一応私も女子の端くれなのに。


「……おそよう」


「よっぽど疲れてたんだな。

 担任、何回か名前呼んでたのに、ちっとも起きねぇの」


 にしし、と悪巧みが成功した子どもみたいな顔をしている。

 実際、彼の企みは成功したんだろう。


「今更起こすなんていい性格してるね、本当に」


 担任に後で怒られるんだろうな、と益々げんなりする。

 もう今日はどこまでげんなりすれば一日が終わるんだろう。

 いっそ底辺まで落ちてみようか、なんて思ってしまいたくもなる。


「ははっ、褒め言葉として受け取っておこうかな」


 やっぱり沢渡は、“食わせ者”だ。

 他人の不幸を未然に防ぐくらいの親切、働いてくれたって何も罰は当たらないのに。


「ちなみに今日の授業の範囲、テストに出すらしいぞ」


 これまた、さらりとえげつないことを言う。


「え」


 弱り目にたたり目といえばいいのか、本当についてない。

 今日は、さっちゃんも、えっちゃんもいない。

 いつも困った時に助け合っている友達がこの教室の何処を探してもいないのだ。

 援軍の来ない中、一人大勢の敵を相手にしている時みたいな、とても心細い気分だった。

 ……いや、戦なんてしたことはないのだけれど、例えて言うならそんな感じ。


 参った。

 本当なら寧ろ、私がノートを綺麗にとって、後で復帰した時のさっちゃん達を助けないといけない位なのに。

 肩にかかる重みが増したような気がする。自然と頭も下へと下がる。


「はぁ」


 更に肩が下がる。今度は、確かな重みがあった。

 沢渡の手だ。


「ほらよ、ノート」


 すっと、眼前に差し出された大学ノートには、硬質だけれど整った字で「沢渡健人」と持ち主の名前が書き込まれている。

 ノートと沢渡とを何度も見比べた私は、思わず首を傾げた。

 野球部随一の策士様が、何の見返りもなしに他人に手を貸すようなことをするんだろうか。


「要らないなら別に、見せないけど」


 ふい、と彼の手のノートが天へと上っていく。

 考える間など与えないと言わんばかりの言動に、私は即座にその手を追いかけ、ノートに両手を伸ばしていた。


「要る、要ります。貸してください」


「貸してください、“沢渡様”は?」


 にやにやと笑った沢渡が、私を覗き込んだ。

 あまり接点が多くない他の級友にノートを借りるよりは、“食わせ者”でも隣の席で恩を互いに売りあっている沢渡の方が、まだ気分的に借りやすい。


「……貸してください、沢渡サマー」


 夏を表す“Summer”の発音で呼ぶのが、せめてもの抵抗であり、私の中での彼の要求への妥協点だった。


---


 次の授業もこの教室でやるので、授業の用意を机上に寄せて、早速、沢渡のノートを写す作業に入る。

 ぱらりと開いた分厚いノートが、ぱっと今日の日付の所で開いた。

 何でだろうと思ったら、しおりが挟まっていた。

 しおりというより、これはブックマーカーというやつだろうか。

 意外と几帳面なのだなぁと感心する。


 隣同士の席だったが、思えば今までに沢渡とノートの貸し借りをしたことは一度としてなかった。

 教科書の見せ合いまではあったけれど、何となく、彼との間ではノートの貸し借りはしないような線引きが自分の中にあったような気がする。


 別に沢渡が嫌いとか、そういうことではない。

 明確な理由はなくても、人というのは本能的というか、直感的にそうした細かな線引きを他人との間にしているものだと思う。

 同じ物を分け合って食べられる相手だとか、手を握って一緒に歩ける相手だとか、体調が悪い時にそれを素直に打ち明けられる相手だとか。


 初めてきちんと見た沢渡のノートは、とても細やかで丁寧なものだった。

 先生の書いていた公式や、生徒の答えた解答に、自分の意見を矢印や吹き出しの付箋を使って書き加えている。

 ただの板書の丸写しではない、とても知的なノートだった。

 沢渡が何を学び、何を疑問に思い、学んだことをどう今後に生かしていこうと考えているのか、それが透けて見える。掛け値なしにすごくいいノートだった。


 私もノートは丁寧にとるタイプで、公式や問題文、解答や解説など様々な場面でカラーペンを色分けするのが好きだ。

 さっちゃんたちからも、見やすいノートだね、と褒められたことがあるので、ちょっとだけ自信をもっている。

 でも、ノートをとる時に、沢渡ほど深い考えはもっていなかった。

 私の目的は、テスト前の振り返りで使う時に読みやすく振り返りやすいノートを作ることで、自分の意見や疑問などはあまりもたず、教わることをそのまま丸覚えして満足してしまう性質だった。


 お手本にしたいノートだ。

 こんなノートを私もとってみたい。

 写し終えた後、まだ休み時間が終わっていないのを確認して、今日の範囲より前に沢渡が学んだこと、感じたことをそっと辿り始めた。


---


「ありがとう、沢渡」


 本当なら、ノートを写し終えた時にすぐ返すべきだったんだろうけれど、ついつい読みふけってしまって返すのが遅れて昼休みになってしまった。


 今日は普段食べている友達もいないから、自分の席での昼食だ。

 沢渡は相原がどこかにいってしまったのか、隣の席で昼食を摂っている。

 お互い隣り合っていて無言というのも変な話だし、ノートを介して話しながら昼食を一緒に摂ることになった。


「どういたしまして」


 にっと笑った沢渡に、いつもなら小憎らしさを感じるところだけれど、今はその表情も素直に受け取ることができそうだ。

 ノートを手渡してきた時はどんな計算が働いてこんなことをしてきたんだろうと身構える気持ちもあったけれど、多分そこまで深い考えはなかったんだろう。

 いくら“食わせ者”といっても、四六時中智略謀略を巡らしているという訳ではないはずだ。


「沢渡のノート、すごく勉強になった」


 普段ふざけてみたり、皮肉っぽい言い方をしてみたりとすることばかりなので、ここまで素直に話したのはもしかしたら初めてに近いかもしれない。

 本音で接すると、沢渡は普段の軽い笑みではなくて、何だかふわっとした笑みで、「そっか」と一言だけ返した。


「私もノートとりは結構凝る方なんだけど、沢渡には負けるかも」


「でも俺は唐澤ほど色ペンを使ってなかっただろ? 

 ああいうカラフルなノートは俺には無理だな」


 確かに、彼のノートはあまり色ペンは登場していなかった。ノートの中でも重要な部分に色がついていた。

 公式やまとめなど、ここぞという所だけ。私のノートよりは色合いが比較的控えめだ。


 ん?

 違和感が胸を掠めた。


「あれ、私が色ペンいっぱい使ってること、知ってたんだ?」


「そりゃ、隣の席なら自然と分かるからなぁ」


 からからと笑われる。

 でも私は、沢渡があんなに丁寧にノートをとっていることも、付箋などに自分の考えや疑問をメモしていることもちっとも気づいていなかった。

 要は、意識の問題なのかもしれない。


 昼食を食べ終えて、弁当箱を片付ける。

 そういえば、と机の横のフックに目を向けた。

 そこにかかっている紙袋には、行き場をなくして途方にくれた友チョコ達が隠れている。

 マフィンだからあまり長くとっておけないしなぁ。今、食後のおやつにでもしてしまおうか。


 私の視線を追うように、沢渡も視線を滑らせた。

 あっと思う間も、とっさに隠す間もなく、沢渡が声をあげた。


「お、もしかしてそれってバレンタインのチョコ?」


 見えてしまったものは今更隠しようがない。

 素直に頷く。


「何作ったんだ?」


「チョコマフィンだよ」


「へぇー。毒入り?」


「そんな訳あるか」


 ぺいっと沢渡の額にデコピンを一発。ぴたん、と小さな音。

 あれ、と今更ながらに自分を客観的に見つめ直す。

 何だか普段よりも今日は結構、沢渡に関わり合っているような気がする。

 えっちゃんたちでもないのに、何だかそれくらいに近い立ち位置に沢渡がいるような。


 いけない、と気持ちを引き締める。

 沢渡は“食わせ者”。沢渡は“食わせ者”。

 呪文のように、心の中で何度も唱える。


 ぜんたい、悪い奴でもないのだということはよく分かっている。

 けれど、さっちゃんやえっちゃんほど、彼のことを知っている訳ではない。彼に彼女たちと同じ距離を許すのは、まだ自分の中では少々早すぎる。


「なぁ、それ誰宛? 何人分もあるみたいだけど」


「……それ、沢渡が気にすること?」


 私達の距離感で、それを沢渡が気にするのって変じゃない?

 そういう、距離を開ける意味も込めての質問だ。

 けれど、意図を知ってか知らずか、沢渡は「いいだろ、別に」と私の問いを突っぱねた。

 開こうとした距離を、認めないとでも言うかのように。

 いや、別にそんな意図はないか。

 大方、女子受けの悪い彼の目に、チョコレートが眩しく映った程度のことなのだろう。


 ははぁ。

 何となくぴんときて、尋ねてみる。


「今年もチョコないの?」


 沢渡とは昨年も同じクラスで、バレンタインの戦果の侘しさも当然のように知っていた。


「はは、何の話かな? チョコ? 何それ美味しいの?」


 いっそ清清しいくらいの話のそらし方だ。見え見えすぎて、可哀想だとさえ思える。


「でもまぁ、投手からモテモテだしいいんじゃない?」


 相原や級友の話から、沢渡が学年を問わずに投手たちから引っ張りだこでいつも忙しくしていると聞いたことがある。

 女子からの受けが悪くても、仲間に慕われているならそれはそれで十分充実していて良いのではないのだろうか。

 野球少年としては、その方が本望というやつだろう。


「いい訳あるか」


 ところが私の考えとは裏腹に、彼は現状に満足していないらしい。


「そうなの?」


「俺にだって男の矜持ってやつがあってだな……」


 男の矜持。

 たかだかチョコレート一個に、男のプライドや沽券が関わってくるというのだろうか。

 つくづく男子の世界は不思議だ。


 女子同士では友チョコを贈りあうなんて自然なことでもあるけれど、別に贈りあうのが当然という訳でもない。

 貰えなかったからといって、自分のプライドが傷つくということもない。

 ただ、その子から好かれていないのかな、と不安になったり寂しくなったりすることはあるかもしれないけれど。


 ぶちぶちと零す目の前の男子を見ていて、何だか少しだけ彼が不憫に思えてくる。

 ちょっと策略家で、底知れない所のある“食わせ者”だけれど、四六時中そのままな訳ではない。

 たかがチョコ一個にムキになる子どもっぽい所もあるし、今日ノートを貸してくれたみたいに、いい所だってちゃんとある。

 それなのにチョコが全然貰えないなんて、変な話だ。

 そこまで我が高校の女子の目は曇っていないと思うのだけれど。


 そこで私は、心の中で天秤にかけた。

 沢渡に受けたノートの恩と、彼と自分との今までの関係性。果たしてどちらを重視するべきか。

 現状の沢渡の境遇も、それについての自分の心情も考慮の条件に加えてみると、自然と天秤の傾きは大きくなった。

 うん、まぁいいか。


「はい、同情チョコ」


 紙袋から、一つ分の袋を取り出して、沢渡の掌にお釣りを載せる店員みたいにそっと載せる。

 受けた恩をそのままにしておくのも何だか嫌だし、その日の内に返してしまえば、後々忘れてしまう心配もないし。


「おい、同情チョコって何だよ」


 沢渡の突っ込みがすかさず入る。


「え、誰からもチョコが貰えない沢渡に同情したから」


「同情なら要らねーよ」


 少し不満そうな顔に、若干怯みかける。

 男の矜持というのは、どうやらとてもデリケートで複雑にできているらしい。

 同情では受け取らないというなら、一体何ならこの目の前の男子は満足するというのだろう。


 さっきの天秤に載せた感情は、本当に同情そのものだった。

 でもその要因を取り除いてみて、それぞれの天秤に載ったものをじっくりと見つめ直す。

 受けた恩に同情を重ねるのは失礼だったかもしれない。

 そのまま、恩返しとするなら、彼も受け取るかもしれない。


「それなら、ノートの恩返しってことで、どう?」


「……」


 沢渡がふっと黙り込む。


「え、これも駄目だった?」


「……及第点、ってところだな」


 たっぷりと間を置いた彼が、やっと屈託なく笑った。


 手の中のチョコレートマフィンはもう、突き返されることはなさそうだ。

 不思議だ。さっきまで私の方が優位にいたはずなのに、何故か今は沢渡の様子を窺ってしまっている。

 私はどうやら、割とこいつの事は嫌いじゃないみたい。

 さっちゃんたち程ではないけれど、ただの級友に比べれば、それなりに情も湧いていた。


「で、その残りのチョコマフィンは誰宛なんだ?」


 にこにこ笑いながら、またさっきと同じことを聞いてくる。


「まだその質問引っ張るの?」


「大事なことだからな」


 どの辺が大事なことなのかはいまいちよく分からないけれど、彼にとっては何か意味のあることらしい。

 別に隠すようなことでもないので、正直に話す。


「本当はさっちゃんたちにあげるために作ってきたものだから、あげる相手は特にいないよ」


 ふっと、このチョコマフィンの処遇についてある考えが過ぎった。それをそのまま口にする。


「そうだ。今日担任の授業で寝ちゃったし、担任にでも渡してこようかなぁ」


 口にしてみると、何だか名案のように思えてきた。

 “袖の下”という程でもないけれど、少しは担任の怒りや呆れを緩和するクッションになってくれるかもしれないという邪な期待があったことは否定できない。


「だったらそれ、全部俺に頂戴」


「え、人の話聞いてた?」


「担任は奥さんいるんだし、生徒からチョコ貰って帰ったら要らない夫婦喧嘩が生まれるかもしれないだろ」


 確かに担任は結婚して数年の奥さんがいる。

 噂では元・自分の教え子だった人だとか何とか。

 しかもバツイチで今の奥さんと再婚したとも聞いたことがあるので、もしかして以前の結婚生活の内に教え子との不倫をしていたのでは、と生徒達の間でちょっとしたゴシップネタとして暇な時の会話繋ぎに使われていた。


 もしそういう寝取り系の経歴を奥さんが噂通りに持っている人ならば、確かに若干夫婦の間に溝が生まれそうな気もしなくはない。

 だけど、噂はあくまで噂で、誰もそれが真実かどうか先生に確かめたことなんてない。

 生徒達の間だけで飛び交う憶測の話なんて、どこまでが真実なのかすら疑わしい。

 それよりは一般的な順風満帆な新婚夫婦として考えた方が、よほど現実味がある。


「いや、寧ろ夫が生徒からの人望があって嬉しくなるところじゃないの?」


「余計な火種は作らぬが吉だろ」


 それは確かに、そうかもしれないけれども。

 何だかちょっと、沢渡の主張に釈然としないものを感じる。

 私が奥歯に物が挟まったような返しばかりをしているからか、沢渡は攻め方を変えてきた。


「じゃあ、こう言えばいいか?

 貸した俺のノート、今日の授業範囲以外も結構じっくり見ていたよな」


「うぐ」


 気づいていないかと思っていたのだけれど、やはり知っていたのか。目敏い奴だ。


「その分っていうのも何か変だけど、まぁ、俺のノートがちょっとでも役に立ったと思うなら、そっちの分も俺にくれよ」


 そう言われたら、あげない訳にはいかない。

 何だかうまい言い回しだ。ちょっとずるい。


「そんなに欲しいの?」


 そんなずるい手を使ってまで欲しがる必要も、価値も、このチョコマフィンにあるとはどうにも思えない。

 巡らした策と、その成果とでつりあいがちっとも取れていないではないか。


「ああ。部活の後って腹が減るから、それも貰えるとすっごい助かるんだ」

 そう言われてしまうと、そういうものなのか、と納得するしかない。

 スポーツ部の男子はとかく食べる。詰め込むと言っても過言じゃないくらいに、食べる。

 まぁ、どうせ目ぼしい相手もはっきりとは見つけられていなかったし、自分で処理しようと思っていたからいいか。

 それに、自分では、家で試作品を嫌と言うほど食べてきている。

 別に今更改めて食べなくても平気だった。


「はい」


 紙袋ごと手渡した。


「ありがとな」


 殊更嬉しそうに微笑まれると、何だかもういいや、という気分になった。


「沢渡には負けたよ」


「ははっ、何、俺、勝ったんだ?」


 いきいきとした顔で紙袋を掲げる沢渡に、「いいから、さっさとしまって」と声をかける。

 腐っても人目を惹く顔立ちをしている沢渡なのだ。悪目立ちするのは避けたかった。

 沢渡も素直に頷いて、紙袋を机横のフックにかける。


 結果的に、これでよかったのかもしれない。

 自分で処理をしていたら、誰かの喜ぶ顔も見られなかった訳だし。

 あげたかった友達ではないけれど、今日結果的にお世話になった人がこうして喜んでくれているなら、まぁそれだけでも作ってきたことが無駄ではなかったのだと思える。

 やっと、今日一日を通して、それなりに意味のあることが出来たような気がした。

 そういう意味では、沢渡に感謝してもいいのかもしれない。……いや、別にしないけど。


「とりあえず、家で何度も味見して作ったから、不味くはないと思う」


「元々、河田たちにあげるつもりだったんだから、結構旨い物を作ったんだろ?」


 すっかり見抜かれている。


「うん、まあね」


 その通りだった。友達に下手な物を渡す訳にはいかないから、結構真剣に、全力をかけて作ったのだ。


「それは期待できそうだ」


 ぺろりと小さく舌なめずりをする沢渡に、ちょっとどきっとして思わず目を逸らした。

 何というか、見てはいけないものを見てしまったような、そんな気まずい気分だった。

 別に、彼は何も悪いことをしていないのだけれど、勝手に私がばつが悪くなったのだ。


「じゃあ、私も沢渡のお返しに期待しようかな」


 恩返しの名目で渡すチョコにお返しは来るはずがないか、と思いながらも冗談混じりで口にする。


「ああ、任しとけ」


 にかっと喜色満面で笑った沢渡のその返事は色んな意味で意外すぎて、思わず言葉を止めてしまった。

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