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「大野君、おはよ!」
ホームルームの開始時間ギリギリに、教室に駆け込み着席した僕に、席が隣の彼女が笑みを浮かべて挨拶してくる。高校1年の僕にとって、毎朝恒例の光景だった。
彼女の名前は小川和美、同じ中学校出身で、人懐っこい性格の彼女は、当時の僕にとって気が置ける唯一の女性だった。
「もうちょっと余裕もって家を出たらいいのに。」
「俺は毎朝、8時丁度にテレビでやるスポーツニュースを観てから家を出るって決めてんの。」
「まあ、女には分かんないだろうけどね。」
「‥ばかじゃないの。」
取り留めのない、そんな朝の和美との会話が僕は結構楽しみだった。
きっとその時点で、僕は既に和美の事が好きだったんだろう。
そんな自分の和美に対する感情を、ようやく自覚するようになったのは、高校2年の冬になった頃だった。
幸運な事に和美は2年生でも僕のクラスメートだった。
ただ1年生の頃とは、少し状況は変わっていた。
「おい、浩、小川、先週駅前に新しいパンケーキ専門店が出来たの知ってるか?今日帰りに覗いて見ようぜ。」
声を掛けてきたのは、秋元信也というクラスメートだ。こいつとは2年になってから知り合ったのだが、口が達者な奴で、僕と和美の会話に頻繁に割り込んでくるうちに、僕等は3人でいる事が多くなっていた。
もっとも、実際、信也は僕らにとって親友と言って差し支えない人物だった。彼のバイタリティーに溢れたトークと行動力は、僕と和美に楽しい時間を何度も提供してくれた。お互いが良き相談相手にもなっていた。
ただ、僕は焦っていた‥。
来年は3年生だ。大学進学を希望している僕等は、受験生としてある意味ストイックな生活を余儀なくされるだろう。そうなったら、和美に告白なんか出来る状況ではない。ましてや、3年で和美とまた同じクラスになれる保証など何処にもないのだ。
僕は和美に告白する事を決心した。
実は、正直上手くいくのではないかという期待もしていた。普段の和美とのやりとりの中での、彼女の表情・態度から、少なくとも多少は僕に気があるのではないかという心証を受けていたのだった。
僕は今でも後悔している。
この時、信也に相談なんかした事を‥。
「俺、和美に告白しようと思うんだ。」
ある日の帰り道、和美と別れた後、僕は信也に打ち明けた。
「えっ、小川にか?マジかよ?」
信也は驚いた表情を見せた。
「そうか‥‥浩はやっぱり小川が好きだったんだな‥。」
そう呟きながら、彼は一瞬考え込んでいた‥が直後に言った。
「よしっ解った。だったら俺、力になるわ。」
「そうか。信也にそう言って貰えると心強いな。」
彼に心を許していた僕は、その申し出を受けてしまった。
「なあに、心配するな。俺の心証では小川もお前に気がある。」
「ただ‥‥。」
「ただ何だよ。」
「万が一、告白が上手くいかった場合、それで2人が気まずくなってしまうのだけは避けたいんだ。」
「そんな事言ったって‥‥フラれたら当然気まずい感じにはなるだろう。」
「だから、浩が告白する前に、俺がそれとなく小川の気持ちを探ってみようと思うんだ。」
成る程もっともな‥それでいて僕にも都合のいい申し出だった。
「解った。‥じゃあ、信也頼んだぞ!」
「ああ、任せとけ!」
僕は、自分にとっての一世一代の大勝負を、結果的に他人に委ねてしまったのだった‥。
それから3日が過ぎた。
僕は信也に経過報告を求めた。
「どう?和美に聞いてみてくれたか?」
平静を装ってはいたが、恐る恐る尋ねたというのが本当のところだった。
しかし、信也の答えは対照的に冷静なものだった。
「慌てるなよ。この数日間、俺なりに作戦を考えてみたんだ。」
「作戦って‥‥。それで、いい方法は浮かんだのかよ?」
少々テンションを上げて、詰問した僕に対して彼は悪びれる様子もなく、落ち着いた口調で答えた。
「ああ、いい方法を思いついた。」
「浩、お前、麗子に告白された事にしろよ。」
「何だって?」
麗子はクラスでも3本に入る美形の女子だった。ただ、性格的に引っ込み思案で、よく言えば『おしとやか』、悪く言えば『暗い』感じがした。正直、僕にとっては苦手なタイプだった。
信也の作戦は、僕が麗子から交際を申し込まれたという嘘の情報を和美に伝えて、それに対する彼女の反応を見ようというものだった‥。万が一、麗子本人に嘘がばれても、彼女の性格なら自分から否定して回るようなマネもしないだろうという訳で、麗子に白羽の矢を立てたらしい。
「そんなんで、和美の気持ちが分かるのかよ?」
僕が当然の疑問を投げかけたが、
「俺の洞察力と感性を舐めるなよ。」
と言う信也に押し切られしまった。
結局、僕は信也の作戦に乗っかってしまった。
それから1週間後の事だった。僕等3人は馴染みの喫茶店でお茶をしていた。
やがて、信也がトイレに立ち、一時的に2人きりになったその時、不意に和美に訊かれた。
「浩君、麗子ちゃんに交際申し込まれたって本当?」
「ま‥、まあな。」
「そうなんだ。‥‥それで、何て答えたの?」
「‥‥まだ、答えていないよ。」
「ふ~ん‥。」
そう言った彼女の表情は悲しげで、且つ冷ややかな目をしていた。何とも言えない不安感が‥僕を襲った‥。
いま振り返ると、或いはこの時までなら間に合ったのかもしれない。
僕等3人は、部活には参加していないいわゆる帰宅部だった。授業が終わると一緒に帰る事が多く、お互いのプライバシーにも踏み込んだ明け透けな会話を際限なくしていた。
しかし、この日以降、和美が色恋系の話題の話をする事はなかった。僕と麗子との話題に触れる事も2度と無かった。
それから1週間経った辺りから、和美は私用があるとの理由で一緒に帰らない事が増えていった。和美との関係が明らかに悪い方向に向かっていると危惧した僕は、信也に訊いた。
「結局、信也から見て、和美は僕の事をどう思ってるんだ?」
一瞬信也が黙った。
そして、やがて絞り出すような声で信也は言った。
「‥浩、力になれなくて御免。」
「‥結論を言うと、小川にとって浩は単なる男友達らしい‥。」
予感はあった。
少なくとも最近の和美から僕に対する好意は感じられなかった‥。ある意味、最終判決を突きつけられたという格好だった。
「そうか、‥‥解った。」
僕には、そう返事するのが精一杯だった。
上手く言えない感情が湧き上がってきていた。
信也への攻撃的敵対心、自虐的行動を取る事への突発的な欲求、和美に対する失望感、世の中に対する不信感‥様々な気持ちが僕の中で整理出来ず渦巻いていた。
そんな状況に持ちこたえるだけで精一杯だった‥。
それっきり、信也とは言葉を交わさず帰宅した僕は、布団にくるまって泣いた。不様に号泣した。
それから2カ月が過ぎた。
僕は文芸部に入部した。和美や信也のいない場所で、新しい人間関係を築き上げる事で自分の傷を癒そうと思っていた。立ち直るきっかけにしたいと思った。文芸部を選んだのは、ついでに文章力を磨く事ができれば翌年に控えた大学受験にも役立つと考えたからだった‥。
実際、今の僕の話術におけるボキャブラリーの多くは、この頃に習得されたものかもしれない。
そんなある日の事だった。その日私用があり、部活を休んだ僕は、いつもより早い時間に自宅への帰路についていた。ちようど以前の帰宅部だった頃の時間帯だった。そして、その途中で、僕は信じられない光景を目にした‥‥。
まず最初に、前方に一組の男女が歩いているのに気づいた。遠目でその2人が誰かまでは確認できなかったが、彼等は会話をしながら歩いていた為、僕との距離はどんどん縮まっていった。
次に、その2人が自分の知っている人物‥‥信也と和美である事に気づいた。僕と2人との距離は更に近くなっていた。
最後に、2人が手をつないで歩いている事に気づいた。更に微かではあるが2人の声が聞こえてきた。
「もうっ、信也ったら‥‥」「冗談だってば、和美ちゃん‥‥」
直後、僕は慌てて脇道に入った。息を殺して、2人が彼方へ去って行くのを待った。
そして、自分が見た事、聞いた事を思い返していた‥。
信也と和美は確かに手をつないでいた。ごく自然に‥。
そして、これまで和美の事を『小川』と呼んでいた信也が、確かに『和美ちゃん』と呼んでいた。聞き間違いなどではない‥。
更に、これまで信也の事を『秋元君』と呼んでいた和美が、奴を名前で呼んでいた‥。
何がどうなったんだ?これは、どういう事なんだ?
僕の中に、疑問・疑惑‥そして激しい怒りがこみ上げてきた。
翌朝になっても怒りの収まらなかった僕は、その日の昼休みに信也を呼び出した。
「何だよ、用って?浩。」
悪びれた様子もなく、ポケットに両手を突っ込んでやって来た信也に、僕は感情を抑える事は出来なかった。
「お前、ふざけんなよ!」
感情を露わにした僕の姿に、一瞬奴はたじろいだ。
「何で、お前と和美が手をつないで一緒に帰ってんだよ!」
「何でお前が、彼女を『和美ちゃん』なんて呼んでんだよ!」
しかし、信也がたじろいだのは、あくまで一瞬だけだった。
落ち着いた口調で奴は言った。
「何だ、見つかっちまったのか‥。」
「だったら解っただろう。俺と和美は付き合ってんだよ。」
信也はあっさりと事実を認めた。
「何で‥‥」
言いかけた僕の言葉を制して、信也は言った。
「俺も和美が好きだったからに決まってんだろ。自分が好きな女を他人に譲る馬鹿がいるかよ。」
「和美に、お前が麗子に言い寄られてまんざらでもない感じで喜んでたって言ったら、最初、凄い悲しい顔してたよ。」
「でも、女の気持ってのは男が思ってる以上に冷めやすいもんなんだよ。自分以外の女に気が行ってる男にいつまでも好意を持ち続けられる訳もないだろ。」
「俺は、そんな和美を励ましながら彼女の心に取り入ったって訳さ。お前が麗子に告白された事を肯定してくれたのは、いいアシストになったよ。」
「言っとくけど、俺を恨むのは筋違いだぜ。嘘をついて何が悪い?お前は闘いに敗れたんだよ。」
信也の勝利宣言に、僕は切れた。
生まれて初めて、他人に殴りかかった。
「やめて!」
その時、和美が現れた。信也が僕に呼び出されたのに気づいて後を追って来ていたのだ。
「何で私と信也が付き合う事について、大野君にどうこう言われないといけないの?」
彼女の僕を見る目は敵意に満ちていた。
「だって‥‥こいつは、僕と君を騙したんだぞ。」
僕は必死に訴えた。‥‥しかし、彼女の心には届かなかった。
「だったら何?大体、自分で告白も出来なかったくせにそんな事言わないでよ。」
「一時は私も大野君の事が好きだったんだから‥これ以上、がっかりさせないでよ。」
僕は反論するのを辞めた。
2人の間に、確固たる絆が存在しているのを悟ったからだった。恐らくは、2人の間には既に何らかの既成事実があったに違いないと直感したのだった。
「行こう。信也!」
「ああ。じゃあな、浩。」
2人は去って行った。
残された僕は、思い知らされていた‥。
自分の命運を他人に委ねてしまった愚かさを。
女性の気持ちが、いかに冷めやすいものであるかを。
女性の立ち直りが、想像以上に早い事を。
自分の目的達成の為なら、嘘をついてもいいんだという事を。
あれから10年以上が経っても、どうやら僕の心の傷は完全には癒えてないらしい。
今の僕は、便利に嘘をついている。
しかし、そんな僕ではあるが、舞子さんに対しては嘘をついてはいけないと本能的に感じていた‥。




