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いいBGMだ‥‥。
会話を盛り上げる効果音でありながら、過剰な自己主張をしない生演奏のピアノの音色が心地良い。窓越しにスカイツリー、東京タワーが一望出来る地中海レストラン、僕が今日、舞子さんとの食事に選んだのはそんなお店だった。
彼女に外の夜景は見えない。しかし、僕は自らのテンションを上げる為に、このロケーションを選んだ。
土曜日の夕刻という事もあって、周囲には恋人同士や夫婦と思われる来客者達が多かった。
普段ならそんな真似はしないのだが、今日僕は自分の右手前のテーブル上にスマホを置いていた。彼女に対して失礼な事だとは思ったが、そうしておく必要があったからだった。
「舞子ちゃん、飲み物は何にする。」
「じゃあ、赤ワインをお願いします。」
「いいですね。」
「じゃあ、赤ワインをグラスで2つお願いします。」
「かしこまりました。」
飲み物の注文が済んだところで、僕はスマホを手に取り、予め用意してあったメールを和美に送信した。
『御免なさい。私15分位遅れそうなので、先にお店に入っていて下さい。お店の名前はBuono!という地中海料理の店です。私の名前で予約してあります。』
「どうしました。」
「えっ。」
「浩さんが黙ってるなんて、珍しいから‥。」
「ああ、ちょっと周りの客を見てたんですよ。カップルが多いな~と思って。」
「ふふっ、駄目ですよ。あまりキョロキョロしてると、あらぬ疑いをかけられちゃいますよ。」
「そうですね。気をつけます。」
多少の罪悪感を伴って、僕は彼女の問いかけに応答した。
やがて、僕達が前菜のスモークサーモンを食べていた時に、和美が入店してきた。彼女は案内役の店員に声を掛け、僕が予約しといた席へエスコートを受けた。和美に用意した席は、僕達のテーブルから20メートル程離れており、こちらに背を向けて座っている彼女の視界には僕達は入っていない。
そして僕は再びスマホを手に取って、用意してあったもう一つのメールを送った。その送信先は彩が用意してくれた例のコンパニオンだった。
『そろそろ入店して下さい。秋元の名前で予約を入れてあります。入店してからテーブルまで、できるだけ親密なカップルに見えるように振る舞って下さい!』
「ちょっと、浩さん!」
しまった‥。事もあろうに、また舞子さんをほったらかしてしまった。
「ああっ、御免、御免。」
「仕事でお疲れなんじゃないですか?」
「そんな事ないですよ。ちょっと考え事を‥‥。でも、もう大丈夫。」
そう言って、僕はスマホをジャケットの内ポケットにしまった。
あとは、見ているだけでよかったから‥。
それから約10分後、メインデイッシュのシーフードパスタを取り分けていた僕は一組のカップルが入店してきたのを確認した。間違いない。それは信也と例のコンパニオンだった。
なる程、彩のチョイスは絶妙だった。ちょっと小悪魔的な笑顔を浮かべているその女性は、信也に寄り添って腕を組み、自らの身体を軽く信也の方に預けていた。身長がやや低めの事もあって、信也を上目遣いに見つめる形となっており、信也の奴は満面の笑みを浮かべていやがる。他人から見たら、10人中10人が2人を親密な仲だと思うだろう。
そして、案内係のエスコートによって、2人は僕が信也の名前で予約しておいたテーブル席に向かって歩を進めていった。
その席は、和美のいるテーブルの隣のテーブルだった。
一歩一歩、その距離が縮まっていく‥‥。
僕は息をのんで、それを見守っていた。
そして間もなく、その瞬間は訪れた。
「‥信也!」
「!?」
「あなた、何してんの!」
「和美、何でここに?」
「その女は誰よ!」
「た‥ただの知り合いだよ。」
「ふざけないでよ!」
‥‥バシィッ!!
離れている僕の場所からでも、それらは聞き取る事が出来た。
声を荒げて、信也を口撃する和美。
慌てふためく信也。
そして、和美が信也にビンタを放った際に生じた鈍い衝突音‥。
そのまま和美は早足で店を出て行った。
一瞬遅れて、信也が走ってそれを追いかけて行った。
‥‥それっきり2人は店には戻って来なかった。
「何があったの?」
舞子さんが聞いてきた。
「ただの男女の痴話喧嘩だよ。」
「ふ~ん。でも、なんか浩さん笑ってない?」
彼女に指摘されて、正直ドキッとした。
彼女の言うとおり、恐らく僕は笑っていたのだろう。
「あまりに滑稽だったから、つい‥‥ね。」
「つい‥ですか。」
「ええ、人の不幸を笑ったりしちゃいけないんですがね‥。‥‥ごめんね。」
僕は舞子さんに謝った。今日、彼女の目の前で僕は沢山の嘘をついた。その全てについての謝罪の気持を込めて謝った‥。
程なく、僕達は食事を済ませお店を後にした。
彼女の自宅へ向かう車中、僕は決意を固めていた。
(今後、信也と和美がどうなるかは判らない。今日の事がきっかけで互いの気持ちが離れて行くかもしれないし、何の影響もないのかもしれない。でも、僕の中の過去に対するわだかまりは、これで消えた。いや、消さなければいけない。
そして、これからは舞子さんに相応しい人間になるんだ。他人を騙したりしない、偽りではなく本当に思いやりに溢れた人物になるんだ。)
やがて、車は彼女の自宅に到着した。
「ありがとうございました。じゃあ、お休みなさい。」
「あっ、舞子ちゃん。ちょっと待って!」
車を降りようとした彼女を、僕は呼び止めた。
そして、彼女に言った。
「舞子ちゃん、僕は君の事が好きだ。僕と正式に交際して貰えないか?」
数秒間の沈黙、僕には堪らなく長く感じられた沈黙の後、彼女が口を開いた。
「ごめんなさい。」
「浩さんのお気持ちは、凄く嬉しいです。本当です。」
「でも、お断りします。」
そう言った後、彼女は俯いてしまった‥。
僕にとっては、実は予想外の答えだった。
てっきりオッケーして貰えるとばかり思っていたのだ。
「何で?」
思わず、訊いてしまった。
彼女は俯いていた顔をゆっくり上げて答えた。
「浩さんの事が信用できないからです。」
彼女の言っている意味が判らなかった
「僕が何をしたんですか?」
「舞子さんを騙した事なんか、ないですよ。」
「本当ですか?」
「本当です。」
僕は必死になって誤解を解こうとした。
しかし、彼女の次の言葉は、僕の正当性の一切を消し去るものだった。
「じゃあ、私の目が本当は見えていると言っても、同じ台詞を言えますか?」
「えっ。」
僕は絶句した。
その目の光は、僕の顔にしっかりと向けられていた。
「今日、浩さんはあのスマホで何をしていたんですか?」
「何であの男女が揉める前から、2人の事を注視していたんですか?あの2人に何をしたんですか。」
全く予想だにしなかった彼女からの追求に、僕は返す言葉を失っていた。いや、彼女に全てが見えていたのなら、僕に言い訳の余地などある訳が無かった。
「じゃあ、お休みなさい。」
そう言って、車を降りて彼女は去って行った‥。
しばらくの間、僕は車を発進出来なかった‥。
散々嘘をついてきた自分が、彼女がついていたたった一つの嘘に気付く事が出来なかった。
後悔しても始まらない。しょせん、嘘つきの自分に純真な彼女と交際する資格など無かったのかもしれない。
どの位、時間が経っただろう。
仕方なく、家路に向けて車を発進させるべく、僕はフロントライトを点灯した。
しかし、その前方に広がる視界に、さしたる明るさが感じられなかった。寧ろ、その視界は徐々に暗くなっていっているように僕には感じられた‥。自然と涙が溢れ出てきた。
僕は思い知らされていた。
今日僕が得たものなど、実は殆ど何も無かったのだ。
そして、今日僕が失ったものはあまりにも大きかったのだ。




