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ビターエンジェル

掲載日:2015/10/08

昔に書いたお話を、書き直したものです。

 一の羽根・おしまいのオムライス


 いたずら描きでも、しようかな。

「……にしても、ほんとにひまだなあ、病院の個室って」

 ぽつりと呟いた幼い少女が、くす、とおかしそうに頬を緩めて微笑んだ。

「なんか、ひとりごと多くなったなあ、あたし。……って、これもひとり言か」

 くすくすと孤独に少女が笑う。

 小さな笑いを打ち消すように、こんこん、と誰かが窓をノックした。

「……え? ちょっと待って、ここ三階だよ? しかも個室だよ?」

 病院の三階の窓を、外側からノックって、どゆこと?

 少女が軽くパニックを起こしつつ、窓の方を見やる。窓の外にいるものを見て、少女は本当にパニックにおちいった。

 天使だ。

 全身真っ黒な天使が、ふわふわとくうに浮いている。

 少女はくらくらする頭を抱え、それでもしっかり彼女に見ほれていた。天使はそれほどに綺麗だった。

 少女と同い年くらいの背格好。さらさらとした、黒く長い髪。

 カラスのそれのような黒く艶やかな羽根。日の光に照り映える漆黒の瞳。

 そんなものに囲まれて、真っ黒なワンピースからのぞく肌が、透けるほど白く美しかった。

 天使はこともなげに窓をすり抜けて、ふわりと重さを感じさせないおじぎをした。

「こんにちは。マユ・マユリ・マユカさんですね? わたくし死の天使、アン=アンジュ=アンジェリカと申します。あなたの望みをかなえるために、天上からまいりました」

「……望み?」

 マユがぼうぜんと訊き返すと、アンと名乗った天使は静かにうなずいた。

 マユを見つめる黒い瞳が、美しい。宇宙の果てまで吸い込まれそうな、ブラックベリーのような綺麗な瞳。

 少女が実際、くらくらと吸い込まれそうな思いで見ていると、アンは困ったように首をかしげた。

「……あの。お話を続けても、よろしいでしょうか?」

「え? ああ、うん」

 マユがあわててうなずきながら、心の中で首をかしげる。

 可愛らしいけど、のっぺりとした平らな声だ。

 そういえばこの天使、表情が少ない。もったいないな。せっかくこんなに可愛いのに。

 黒い天使は少女の思いなど気づかぬ様子で、ひらりと一つおじぎした。

「マユさん、とお呼びしても?」

「う? うん、構あないよ」

「では、マユさん。あなたは今日からきっかり半年後に亡くなります。亡くなる前に、この世に未練が残らぬように、一つだけ望みをおっしゃってください」

 何度口にしたせりふなのか、アンは淀みなく告げ、事務的に軽くおじぎした。

「わたくし共『死の天使』が、責任をもってその望みをかなえさせていただきます。ですからどうか、未練を残さずこちら側へいらしてください」

 あと半年。

 その事実を耳にしても、マユは初めて天使を見た時以上の衝撃は受けなかった。

 大したことじゃない。

『今すぐ死んでもおかしくない』と告げられて、もう何年が過ぎたろう。こうして十二の年まで生きられただけで、めっけもんじゃないかと思う。

 それでも少女がふざけ半分で口にした返事は、実際少しかすれていた。

「寿命をのばして、っていうのはナシだよね?」

「ナシです」

 アンがきっぱりと否定する。その無感情な瞳からは、心の動きは読み取れない。

 実は何も考えていないのかもしれない。

 人の死と向き合うなんて、それはしんどい仕事だろう。だから、いちいち心を動かしてはいられないのかもしれない。

 少女はそんな事を考えてから、ベットの上で腕組みした。

「……今んとこ、ない、かも」

「ないですか?」

 アンがわずかに小首をかしげる。くるっとカーブしたまつ毛に彩られた瞳には、あいかわらず真っ黒な宇宙がたたえられている。

 小さな宇宙を見ているうちに、ぱ、っと少女の頭にナイスアイディアがひらめいた。

「じゃあね、じゃあさ。願い事を思いつくまで、あたしと一緒にいてくれる?」

 弾けるように口にすると、アンは考えこむそぶりで目を閉じる。ひとひらの羽根がかぶさったように、黒い瞳がまつ毛に隠れた。

 一対のまつ毛が震えて、また底抜けに綺麗な瞳が、黒い木の実にも似た姿をのぞかせた。

「うけたまわりました」

「いやったあ! 友達ゲットォ!」

 マユが大きくバンザイすると、黒い天使は、ぱちっとまばたきして右頬へ手をあてた。

「あなた、本当に病人なんですか?」

 小さな問いかけには微かな呆れがにじんでいる。

 初めて気安く接してもらった気がして、少女はそれが妙に嬉しかった。マユは細く幸せな息をはくと、ふと顔を上げてカレンダーへ目をやった。

 コスモスの花の絵が描かれたカレンダーだ。十月の十九日のところまで、×が書いてある。

「……あと、半年か」

 呟いた穏やかなことを、黒い天使が目を閉じて静かに聞いていた。


 アンは、本当にもの静かな子だった。

 基本的に何も言わないし、何も訊かない。時おり思い出したように口を開いても、そこからこぼれるのは

「空が」

 とか

「落ち葉が」

 といった言葉の切れはしだけだ。

 マユが応えて

「青いね」

 とか

「綺麗だね」

 とか続けると、ただだまってうなずいてみせる。

 そこでおしまい。会話はもう続かない。それでも、個室の沈黙に慣れきっていた少女には、アンの存在は十分新鮮だった。

 出会ってちょうど一月後、アンが珍しく問いかけた。

「あなたのご病気は、どんな病なのですか?」

「え」

 マユは少しびっくりした顔をしてみせた。

 聞いてないのかな、天上うえのヒトから。

 不思議には思ったけれど、訊かれたので素直に答えた。

「うん。あたしの病気はね、血が固まっていく病気なの。ぱきぱきぱき、って、身体のすみから結晶していくの」

 マユは言いながらアンの手をとって、自分の指先に触れさせた。

 硬い。

 少女の柔い指だと思えば、少し異常なほどの硬さだ。

 あいまいな微笑を浮かべて自分を見やる天使に、マユは意味もなく一つうなずいた。

「お医者さんにも、治し方が分からなくてね。ただ静かに寝ていなきゃいけないの」

 マユはしゃべりながら考える。

 ああ。これは、アンが話をふってくれたのかな。

 だってだまって聞いてくれてるアンの瞳に、答えを知っているような、穏やかな光が宿ってるもの。

 少女は困ったように眉をひそめて、小さく苦笑した。

「ご両親は?」

「お母さんはあたしが五つの時に、あたしとおんなじ病気で死んじゃった。お父さんは仕事が忙しくて、めったにここには来ないんだ」

 アンが、小さく息をつく。

「……あなたのお望みは、そのことと関係しているのではないですか?」

 ああ、それが訊きたかったのか。なあんだ。

 マユは残念なような、当たり前のような気持ちになって、ぺろっと舌を出してみせた。

 栗色の柔い巻き毛に、ぱっちりした緑の瞳。

 人形のような美しく整った顔立ちに、いたずらな表情が映える。

 天使は少し目を見張り、微かに痛々しげな目つきをしながら微笑んだ。それに気づいていないのか、気づいていないふりをしているのか、少女は軽く腕組みをして首をかしげた。

「うーん、お母さんにいたい……ってのは、もうすぐかなうしね。お父さんはしょうがないよ、あたしの入院費用払うために、一生懸命働いてくれてるんだし」

 だから、望みはまだいいよ。

 さりげなく拒んで微笑む少女に、アンは微かに首を振る。

「そのかわり、あたしが死ぬまでずっと一緒にいてくれる?」

 マユがおねだりしてみせると、アンは表情を浮かべずにうなずいた。ちょっと口のはしを緩めて、微笑しているつもりらしい。

 マユはお手本を見せるつもりで、白い歯を見せて、にっと笑った。

 でも、これじゃお手本にならないか。あたしの笑顔も、どこか歪んでいるだろうから。

 そう思いながら、無理に笑った。


 黒い天使と過ごす日々は、とても楽しかった。

 少女はずっと個室で暮らしていたから、友達と長いこと一緒にいるだけで楽しいのだ。

 しばらく一緒に過ごすうちに、アンのことも少しずつ分かってきた。

 長い髪をかき上げるのは、嬉しい時。頭を軽く手で押さえるのは、何かに困った時。

 けれど、どうしてアンが全身黒いのかは、分からない。

「ねえ、訊いて良い?」

「何ですか?」

「アンは、どうしてそんなに真っ黒なの?」

 ぴく、と天使が動きを止めた。微かにうつむいて、だまりこむ。それから静かに顔を上げ、ほんのわずかに微笑んだ。

「……黒い天使は、出来そこないなんです。普通の天使のように、豊かな感情をそなえてもいませんし、特にすぐれた能力がある訳でもありません」

 アンは苦しそうに微笑して、自分の胸に白く細い手をあてた。

「なかでもわたくしのようなものは、はぐれ天使ですから」

「はぐれ天使?」

「天上界の花や、木の精気がこごって出来た、親なしの天使です」

 そんな生まれの子供たちは、髪も目の色も、そして翼も真っ黒な天使になるのです。

 アンはささやくように言葉をこぼすと、細く長く息をついた。

「黒い天使には、普通の天使のするような仕事は出来ません。ですから大部分はごく自然に、死の天使になるのです」

「ふうん。……でも、さ」

 マユはアンの黒い髪先に手をのばして、恋人にするように優しくなでた。

「あなたの真っ黒な姿、とても綺麗だよ」

 マユがおせじ抜きでそう言うと、アンの白い頬にほんのりと血がのぼる。真っ黒な両の瞳がわずかに潤み、アンはむきになったようなしぐさで必死に目をこすった。

 その様が妙にせっぱつまっていたので、マユは少し不思議に思った。

「どうしたの、アン? 別に泣いても良いんだよ?」

 アンがかたくなに首を振る。

 ぐい、と思いきり目のふちを拭い、いつになく堅い口調で言いつのる。

「いけません。死の天使は、泣いてはいけないのです」

「泣いちゃいけない? どうして?」

「死の天使は、感情のとぼしい出来そこないの、黒い天使だからこそつとまる仕事。泣くなどと感情に流された行為など、言語道断なのです」

 マユが納得いかない顔をして小首をかしげ、口元へ軽く手をあてた。

「そうなの? でも、破ったって別に、罰がある訳じゃ……」

「破れば失業です」

 ぴしゃりと言いきるアンの言葉には、『失業』の裏に『死』という言葉さえもが隠れている気がして、マユは急に不安になった。

「じゃあ……泣かないで」

 少女がすがるようにアンの瞳を見上げると、天使は微かに笑ってみせた。

「泣きませんよ。泣きませんとも」

 それが、あなたの望みですか? とは、もうアンは訊かなかった。

 意外に彼女も、この残り少ない暮らしを楽しみ出しているのかもしれない。

 それなら、もっともっと楽しくさせてあげよう。泣いちゃいけないのなら、かわりにいっぱい笑わせてあげよう。

「あたしが死ぬまで、ずっと一緒にいてね、アン」

 マユがささやくと、天使はだまって、微笑って、うなずいた。


 苦しい。

 ぱきぱきと血液の凍る音が、聴こえる気がする。

 マユはもうナースコールを鳴らすこともなく、天使の手を握っていた。

 アンとの出逢いから、ちょうど半年が経った。もうじき、終わりだ。沈んだアンの表情からも、それが読み取れる。

「……望みは、何ですか?」

「アンと、一緒にいられたこと……」

 黒い天使は首を振り、

「それはあなたの、本当の望みではありません」

 とささやいた。

「あなたの望む、本当の願いを一つかなえます。望みは、何ですか?」

 重ねてアンに訊ねられ、少女はもうろうとした頭で考える。

 望みかあ。特にないなあ。半年アンと一緒にいて、楽しかったしなあ。

 ……あ。

「オムライス、食べたいな。お母さんのオムライス……」

 本当はずっと望んでいた。

 無理だと分かっていたから言わなかったことを、今初めて口にした。

 優しかったお母さんの作ってくれた、美味しいオムライス。あれを一口食べられたら、笑ってけると思うから。

「無理、だよね」

 アンはだまってかぶりを振ると、

「待っていてください」

 とささやいてすう、と消えた。そのまま、戻ってこなかった。

 ああ、無理なお願いなんかしたから、愛想つかされちゃったかな。

 何もいらないから、そばにいて、って言えば良かったのかな。

 くす、と微笑うと、涙がこぼれた。

 ほとんど馬鹿になった少女の鼻が、トマトのすっぱい匂いをかぎつける。重たいまぶたを押し開けると、目の前に少女の父とアンがいた。

 スーツ姿にエプロンをした父親の手には、卵がスクランブルエッグになった、オムライス。

「ほぉらマユ、待望のオムライスだ。……母さんの作ったのには、比ぶべくもないけどな」

 ぐちゃぐちゃのオムライスを手に、父親は笑いながら泣いていた。父親が小さなスプーンでチキンライスをすくい、マユの口へと運ぶ。

 焦げだらけで、べちゃべちゃで、ケチャップが多すぎて、だけどとても美味しかった。

 涙が出るほど、美味しかった。

「マユ。父さんな」

 ず、っと鼻をすすり上げ、父親が口を開く。

「父さんな、母さんがいなくなった時、すごく悲しかった。あんまりつらくて、悲しくて、もう一度こんな思いをするのは耐えられない、と思った。だから……」

 父親が、ぐ、っと言葉をつまらせる。後ろでアンが、ぽつりと物憂げに呟いた。

「だから、わざとあなたを避けていた」

 天使の言葉に、父親の肩がぴくりと震える。震えはだんだん大きくなり、父親は幼い子供のようにしゃくり上げて泣き出した。

「お父さん……美味しかったよ、オムライス……」

 マユがほとんど息だけの声で呟くと、父親は顔をぐしゃぐしゃにしながら微笑んだ。少女が小さいころに目にした、そのままの笑顔だった。

「ありがとう、お父さん……アン……」

 意識がさあっと波の引くように遠のいて、少女は目を閉じた。

 その刹那、マユは天使がぽろぽろと大粒の涙をこぼすのを見た。

 とたんにアンの黒い羽根がばらばらに散らけ、髪と服の色が抜け、真っ白な天使になるのを、軽くなった魂で見た。

 ああ、そうか。

『失業』っていうのは、本物の天使になるってことだったんだ。

 笑いながらふと気づくと、身体を抜け出した少女の背にも、真っ白な羽根が生えていた。


 一月後、マユはアンと一緒に天上で花をつんでいた。

 鼻歌まじりの少女を、アンが少し呆れたように真っ黒な目で見つめている。マユはつみとったたんぽぽを軽くアンの前へとかざし、小さくウィンクしてみせた。

「あたしはさあ、『泣いちゃいけない』って言った時のアンがあんまり真剣だったから、失業したら死んじゃうんだと思ってたよ」

「……わたくしもです」

「で、せっかく白くなったのに、どうしてその姿に戻してもらったの?」

 少女の目の前に、見慣れたアンの美しい黒い姿がある。アンは、さっと長髪をかき上げ、誇らしげな態度で言いきった。

「姿など白くとも黒くとも良いのです。わたくしにしか出来ないことがあるならば、それに励むのが天使のつとめだと思うのです……それに」

 言いさしてアンは微かに頬を染め、

「黒い姿を、初めてほめられましたから」

 と小さな声で呟いた。

「あなたこそ、良いのですか? せっかく心の清い者として白い天使になったのに、わたくしのような死の天使になりたい、なんて」

 アンの問いかけに、マユは大きくうなずいた。

「うん。だって、アンと一緒にいられるもの」

「……見習い期間が過ぎたなら、一人で仕事をするんですよ」

 アンが淋しそうな表情を浮かべて、気遣うように少女へ告げる。生まれたての天使はこともなげにうなずいて、嬉しそうに微笑いかけた。

「うん、それでも良いの。アンはあたしのあこがれだから。いつかアンみたいな死の天使になるのが、あたしの夢なんだ」

「……物好きですね」

 ささやくように呟きながら、アンの頬がまたひときわ赤くなった。


 こんこんこん、とマユが軽く窓をノックする。

 ここは二階だぞ、と言いたげな顔をした少年とガラス越しに目が合った。

「ひ」

 相手の子が青い目を見張り、息を飲む。窓をすり抜けたマユとアンは、さっき天上でつみとった野の花の花束を差し出した。

「初めましてー。こちらは死の天使、アン=アンジュ=アンジェリカとマユ・マユリ・マユカでーす!」

 テンション高めの自己紹介が良かったのか悪かったのか、男の子は鼻からふーん、と息をはき、つっぱっていた肩を下ろした。

「……何だ、死神にしちゃあ、やたらとノリの軽いのが来たな」

「死神ぃ? ひどいなあ、死神じゃないですよ、天使です天使! あなたのお望み、かなえに来ました!」

 マユのとなりでアンが何も言えず、おろおろとマユと少年を見比べている。少年はまた青い目を見張り、きょろきょろと何か探すそぶりで辺りを見渡した。

「……ドッキリ?」

 マユが空回り気味の空気を読み取って、ちょっと口元へ手をあてる。

 はてさて、どっちに転ぶのか。

 白黒コンビの初仕事、たった今から始まります。

 自分で自分をあおっておいて、マユがにんまり笑ってみせた。

「ドッキリじゃないです! さああなたのお望みはぁ?」

「じゃあ……本当に、天使なのか?」

 警戒の声音で問いかけた少年が、ふい、とするどくそっぽを向く。

「だったら、ぼくは君たちに用はない。望みなんてないからな」

 言ったきりだまりこんでしまった少年が、ふと右手を持ち上げる。細く骨ばった手のひらは、痛んだ果実のようにところどころ黒ずんでいた。

 ふと気がつけば、病室には微かな腐臭がただよっていた。

 人を拒む、静かな臭い。

 死の臭いが、した。


 二の羽根・哀しみのカシア


 少年は、名をカシアと言った。

 マユにしつこく訊ねられ、少年はようやく自分の名を告げた。それっきり、またそっぽを向いて口をつぐむ。そんな少年の顔をのぞきこみ、マユが重ねて問いかける。

真名まなは?」

「カシア=カシュア=カミア。それがどうしたよ」

 ガードが堅い。一瞬ひるんだマユが、ベットの上におおいかぶさるように身を乗り出した。

「そっか。あたしはマユ! マユ・マユリ・マユ……」

「さっき聞いた」

 だまりこんだマユが、静かに少年の指先へ手をのばす。後ろに影のようにひかえたアンが、緩やかに小首をかしげてみせた。

 黒ずんだ指先にそっと触れ、マユがささやく声音で問いかける。

「病気?」

「うつる病気だ。……お前らは、平気なのか?」

 少し不安そうな声音になったカシアに、二人は微笑ってうなずいた。

「そうか」と答えた少年の頬に、初めて微かな笑みが浮かぶ。笑みは波の引くように消えて、少年は老いた哲学者めいた憂鬱ゆううつそうな顔をみせた。

「身体がすみっこから、腐れ落ちていく病気だ。……もう長いこと、家族とも会ってない」

 カシアは青い目をうろのように淀ませて、どこか遠くを見る目つきをした。

「食事と薬をもらう時、一瞬看護婦と目を合わせるだけだ。後は死を待つだけ。望みなんてない」

 後ろで聞いていたアンは小さく息をつき、前に進んで少年の手を軽く握った。

「言ってくだされば、かなえます。現世に未練を残していては、うまく魂が抜けません。死して後も、見えない身体でこの世をさまようことになってしまいます」

「良いよ、それでも」

 カシアはなげやりにささやいて、ベットに横たわり目を閉じた。

 アンが静かに握った手に力をこめる。柔い卵を抱くような、優しい手つきで握りしめる。マユがその上に手を重ね、ふんわりとした口調で言葉をこぼす。

「じゃあさ、あたしたちが、あなたにお願いしても良い?」

「……何だよ」

「こうして、そばにいても良い?」

 病室に、ずっと一人きり。

 それがどんなに淋しいことか、生まれたての天使には、痛いくらいに分かるから。

 カシアが、だまってうなずいた。

 少年の目じりが濡れている気がしたけれど。

 二人の天使は、それに気づかぬふりをした。


 カシアは少しずつ、二人に心を開いていった。

 普通に話をするようになったし、軽口をたたいて笑うようにもなった。

 ただ、望みは決して口にしない。

「あのさ、あんまり『望み』『望み』って訊かないでくれるかな?」

 ベットに横になりながら少年に言われ、マユが盛大に首をかしげた。

「ええ? だってこれがあたしたちの仕事だよ?」

「……まあ、そうなんだろうけど。ないものを訊かれても、困るんだ」

 嘘だ。

 カシアは何かを望んでいる。

 ふと気がつくと遠い目をして、ぼんやりとくうを見つめている。

 何かをいっそ切ないくらい、望んでいる瞳をしている。

 マユはだまったまま、少年の黒ずんだ手に触れた。カシアは軽くくちびるを噛み、細く長く息をはいた。ベットの上に起き上がり、軽く頬杖をつく。

「……お前らさ、好きなひととか、いるの?」

 文脈をたがえた質問に、マユが緑の瞳を意外そうに見開いた。

「好きなひと? うーん、アンが一番好き、かな。アンは?」

「え……。マユ、ですかね」

 女の子天使が二人で羽根をはためかせて笑い合う。

 意味のずれている答えを聞いて、カシアがあきれたように息をつく。ふ、と小さく苦笑して、また口を開いた。

「ぼくもいるよ。幼なじみの女の子。ミィア、って言う子なんだけど」

「えぇ、そうなの? 『好き』って言った?」

「……いや」

 弾けるように問いかけるマユから目をそらし、少年は沈んだ顔で呟いた。

「また会いたい。一度で良いから、好き、って言いたい。そのくちびるにキスしたい」

「それが、あなたの望みですか?」

 だまりこんでいたアンが、静かな口調で問いかける。少年が小さくうなずいた。

(でも)と息だけの声で呟いて、カシアがあきらめたように微笑する。

「こんなになっちゃったぼくに告白なんかされても、相手が迷惑なだけだ」

 うつるかもしれないし。

 くちびるの動きだけでぽつりこぼすと、少年は痛々しげに微笑んだ。

「望みはあるけど、かなえたくない。だから今まで、ずっと言わなかったんだ」

 カシアはベットに横になり、毛布を口のところまで引き上げた。

「だから、もう良いよ。……ごめんね。ありがとう」

 そう呟いて、優しく拒絶するように目を閉じた。

 アンが無言でマユを促し、二人は窓をすり抜けて外へ出ていった。


「つらい、って思うことも、罪なのかな」

 カシアの病室をのぞめる大木の枝へ腰かけ、マユが呟く。問いかけの目つきで自分を見つめるアンを見かえし、生まれたての天使が物憂げにささやいた。

「あたしみたいな感情の振り幅が大きい天使が、この仕事してちゃ、いけないのかな?」

「……いけなくはないと、思いますが。その分つらい目にうことも多いでしょう」

 ゆっくりとまばたいて、マユが重いしぐさで目をこする。

「なんか、泣きそう。泣いたら失業?」

「……あなたのような白い天使がこの仕事をするのは、今までに例がありません。泣いたらどうなるか、わたくしにも分かりません」

 おそらく、大丈夫だとは思いますが。

 小声で答えながら、まるでそれが悲しいことだとでも言いたげに、アンが黒い羽根をゆっくりと縮こませた。

「あなたはきっと、これから先もたくさんつらい思いをするでしょう。だから、この仕事にはわたくしのような黒い天使の方が、……」

「何が違うの?」

 ぽつり呟いて、うつむいていたマユが顔を上げる。アンの真っ黒な瞳をまっすぐ見つめて、真剣な声で問いかけた。

「感情がない訳じゃないでしょう? 表し方が分からなかったり、必死で抑えてるだけでしょう?」

 マユは苦しげにまばたいて、またアンをじ、っと見つめて訊ねかけた。

「白い天使と、何が違うの?」

 アンが戸惑いがちに目をそらす。

 答えられない。答えられないから、アンは微笑んで話題を変えた。

「夜が明けたら、ミィアに話をしにいきましょう」

 マユが、ぱっと顔を輝かし、弾けるようにうなずいた。

「……何話してんだろ、あいつら」

 病室の窓から、カシアが二人を見つめていた。

 もうじき死に逝く少年と、白と黒の天使たちと。

 小さな三人を見下ろして、星空は皮肉なほどに、美しかった。


 アンが病室のドアを、外側からノックする。

「誰?」

 警戒の声音で問いかける少年に、ドアの向こうで、生まれたての天使が上ずった声を張り上げた。

「マユだよ、マユとアン!」

「何だ、お前らか。早く入れよ」

 カシアが一気に警戒を解き、ぞんざいな口ぶりで少し嬉しそうに告げる。

 二人の後から入ってきた人影に、少年が青い目を見開いた。

 カシアと同い年くらいの赤毛の少女が、琥珀こはく色の瞳を緩ませてはにかんだ。

「おひさしぶりね、カシア」

「……ミィア……?」

 ぼうぜんと呟いた少年が、ば、っと毛布を引き上げて黒ずんだ身体を隠そうとする。隠そうとする手の甲が、もう痛々しいほどに黒く臭く傷んでいる。

「こ、来ないでミィア……! うつるから……!」

「うつらないわ。うつっても構あない」

 きっぱりとそう言いきって、ミィアがカシアへ近づいた。口づける距離まで近づいて、ふわ、と大人びた笑みを見せる。

「聞いたわ、あの天使さんたちに。言ってよ、その口で」

 カシアが泣き出しそうな顔をして、だまって首を振る。ミィアが端の欠けた耳たぶへ口を寄せ、こぼれるように

「好きよ」

 と小さくささやいた。

「さあ、わたしは返事をしたわ。ちゃんと伝えて、あなたの気持ちを」

 強引な誘いにカシアが鼻をすすり上げ、

「好きだ」

 と懺悔ざんげの口ぶりで呟いた。

 ミィアが少年のくちびるへキスをする。触れるだけの口づけは、微かな腐肉の臭いがした。その臭いが、ミィアの幼い脳内に残酷な現実を突きつける。

 愛しい人は、死にかけている。

 ミィアのふせた瞳から、静かに雫が落ちた。

「……カシア……わたし、待ってる。ずっと待ってるから、生まれ変わってまたわたしに逢いに来て。そしたら、一緒になりましょう」

「駄目だ」

 堅い声音でさえぎられ、ミィアがうろたえて顔を上げる。後ろで何か言いかけたマユを、アンがだまったままで押し止めた。

「君はもう十四歳だ。死んだ後すぐに生まれ変わっても、長いこと君を待たせることになる」

 カシアが透き通るような目の色で、愛しい人をまっすぐ見つめた。

 まるで嘘のない、青い瞳。

「だから、君は他の人と結ばれて、幸せになって。ぼくは君とその人の子供になって、必ず君に逢いにいくから」

 ミィアの琥珀の瞳から、ふき出すように涙があふれる。

 何度も何度も首を振るミィアの頬に、カシアが腐った手をのばす。のばしかけた手を痛ましいほどためらわせ、苦しそうに瞳が歪む。

 少年は眉をひそめてぽろぽろ涙をこぼしながら、そ、っとミィアの頬へ触れた。

 しゃぼん玉に触れるような、ひどく優しい手つきだった。

 ミィアは切なげに目を閉じて、最後にようやく、かぶりを振るようにうなずいた。

「行きましょう」

 くちびるだけで促して、アンが部屋を出る。ためらいながら後を追うマユの緑の瞳から、ぽろり、と一つ涙がこぼれた。


「あれで、本当に良かったのかな」

 マユがうつむきながら呟いた。

 大木の枝の上、カシアの眠る病室の窓が見える。嬉しそうに頬を緩めて、もうじき死に逝く少年は、口元に笑みをたたえていた。

 アンが静かに口を開く。子守唄をうたう母を思わせる優しい声音で、なだめるようにマユへと告げる。

「今この結末が最上のものでなくても、またお話は始まります。何度でも、やり直しはきくのです」

「……でも、好きあってる二人が、今幸せになれないなんて。次に生まれ変わっても、結ばれることが出来ないなんて」

 ぽとりぽとり、言いつのるマユの瞳から雫が落ちる。

(やはりこの子は、死の天使をやるべきでない)

 アンはこっそり、心の中で呟いた。

 この子は、優しい。優しすぎる。

「もう、止めますか?」

 祈るような問いかけに、マユはむきになったようにぐい、と涙を拭って顔を上げた。

「やるよ! ……ここで止めるってことは、何度でもやって来る『誰かの幸せな結末』のチャンスを、自分で捨てるってことでしょう?」

 アンが淋しげに微笑する。

 本当に幸せな結末など、めったに訪れないことを、黒い天使は知っている。知っていながら何も言わずに、アンは黒い羽根を広げてそ、っとマユの手を引いた。

「では、行きましょう。次の仕事がつまっています」

 何か言いかけたマユに柔らかく微笑んで、アンが桃色のくちびるを開く。飛び立ったアンに手を引かれ、マユもあわてて白い羽根を広げてはばたいた。

「逢いに行きましょう。罰を受けて堕ちた天使へ」

 堕ちた天使。

 どういうことかと訊ねかけ、マユは思わず口をつぐむ。

 はばたきの風にまぎれてかすれるアンの横顔が、彫像のようによそよそしく見えたから。

 それはマユとはかけ離れた、自分の仕事に疑問を持たない、生粋きっすいの天使の顔だった。


 三の羽根・愛執あいしゅうのアーシュラ


 たどりついたのは、湖の上だった。

 ふわり、と羽根をたたんだアンが、水面みなもの真ん中を指さした。

「つきました。ここです」

「ここ、って……湖の上だよ? ここにお客さんがいるの?」

 マユの問いかけに、アンはうなずきかけてかぶりを振る。

「正確には、湖の底ですね。水の底のお城の中に、次のお客さまがいます。……年老いた、蛇の王子の奥さまが」

「蛇の王子?」

 おうむ返しに訊ねるマユの手を握り、アンはぼそぼそと何事か呟いた。とたんにアンの身体が青白く光を放ち、つないだ手からマユの身体まで光り出す。

 まぶしさに思わず目を閉じたマユが、再び目を開ける。

 そこはもう薬湯やくとうの匂いのする、見知らぬ寝室の中だった。

 蛇苺へびいちごのような赤い目をまたたいた初老の女性が、ふわり、と穏やかに二人に向かって笑いかけた。

「あらあら、可愛いお客さんね。白黒天使のお客さまなんて、初めてだわ。何のご用?」

 あれ? 驚かない?

 にこやかな応対にマユは違和感を感じたが、アンはこれ幸いとばかりにいつもの口上を述べ出した。

「初めまして、蛇の王子の奥方さま、ハニア=アーヴィス=アードゥラさま。あなたは今日からきっかり十日後に亡くなります」

 それを聞いてもハニアはさしたる驚きも見せず、他人事ひとごとの口ぶりで

「あらあら」

 と一つ呟いた。

 アンはだまってうなずいて、流れるようにすらすらと言葉を継いでゆく。

「奥方さま、何か一つ、お望みをおっしゃってくださいませ。この世に未練を残していては、魂がうまく身体を抜けません」

 言葉の意味を、本当に分かっているのかいないのか。初老の女性は微笑みながら、小さくうなずいて聞いている。

 戸惑った顔つきのマユに気づかぬふりで、アンはまっすぐ女性を見つめてしゃべり続けた。

「魂が満足してこちら側に来られるように、わたくしたち死の天使が、何でもお望みをかなえてさしあげます。何でも構いません。どうぞおっしゃってください」

「……望み、ねえ」

 ハニアが困ったように小首をかしげて呟いた。少し考えこんだ後、降参こうさん、といった風に両手を上げるポーズをしてみせる。

「分からないわ、思いつかない。あと十日あるのよね? もう少し考えさせてもらって良いかしら」

「もちろん。それでは、わたくしたちは今日はこれで失礼させていただきます」

 しゃんなりとおじぎをしてそう言うと、アンはマユの手を引いた。戸惑った様子のマユの手を半ば強引にひっぱって、アンが寝室の戸を閉める。

 リビングのテーブルの上にちゃっかり腰かけて、マユがほう、っと息をついた。

「……なんか、今までのお客さんと感じが違うね、あのおばあさん。ったって、まだ二件目だけど」

 静かに首をかたむけたアンが、桃色のくちびるを小さく開いた。

「あの奥さまは、老いの波に溺れて忘れてしまっているのです。自分を愛する蛇の王子が誰なのか」

「忘れて? だって、自分の夫でしょう?」

 だまってうなずいたアンが、黒い羽根を微かに揺らす。

「蛇の王子は、不老不死。若すぎる容姿の自分の夫を、あの方は夫と分からないのです。自分の身の回りの世話をしてくれる、ただの若いお手伝いさんだと思っています」

 何と言っていいのか分からずに、マユが細い眉をひそめて息をつく。ふと思いついて顔を上げ、追いかけられるような声音で問いかけた。

「ねえ、さっき『堕ちた天使』って言ったよね? それってどっち? あのおばあさん? それとも、蛇の……」

「『蛇の』、何? 蛇の王子アーシュラに、何かご用かな?」

 不意に背後から訊ねられ、マユが肩をはね上げて振り返る。

 いつのまにそこにいたのか、背の高い青年が微笑みながら立っていた。

 白銀の髪に、猫の目のような黄金きんの瞳。

 青年は柔らかなしぐさで口元へ手をあて、ちょっと首をかしげてみせた。

「君たちは、天使だよね? こんな蛇の化身の城に、どうして君らみたいな可愛らしい子が来たのかな?」

 説明のために口を開きかけたアンをせいして、青年が人なつっこい笑顔を見せる。

「待ってて、今お湯を沸かすから。お茶でも飲みながら話そうよ」

 メープルシロップ入りのミルクティーを飲みながら、二人はことのなりゆきを説明した。軽くうなずきながら聞いていた蛇の王子は、ふ、と小さく息をついた。

「なるほど、分かったよ。……にしても、君たちが見えるってのは、つまり、そういうことなのかな」

 訳が分からずに首をひねるマユに、アーシュラは微笑って説明した。

「いやさ、僕は今まで何度も彼女をみとってるのに、今まで一度だって死の天使を見なかったんだ。だから、僕が彼女に『死んでほしい』と思ってるから、君たちが初めて見えちゃったのかな、って」

 死んでほしい? 何度もみとって?

 よけいに訳が分からない。

 困惑しきった顔を見せる出来たて天使に、アーシュラは眉をひそめて苦笑した。

「聞いてないのかな、天上うえのひとから。……彼女はね、何度も死んでは生まれ変わって、何度でも僕の奥さんになるんだよ」

 マユがあんぐりと口を開ける。おかしそうに頬を緩めたアーシュラが、口元に軽くこぶしをあてた。

「ハニアの目、見たでしょう? あの蛇苺みたいな赤い瞳が、彼女だっていう目印なんだ。僕は何度も彼女をめとった。何度だって愛した。でも、こんなのは、初めてで……」

 ぐ、とアーシュラが言葉をつまらせる。無理やりに鼻をすすり上げ、しわくちゃの笑顔を見せた。

「目の前に彼女がいるのに、彼女が僕を見てくれないのは、初めてで。だったらいっそ、早く死んじゃえば良いのに、とか、早く生まれ変わってくれれば良い、とか……」

 最低だ。

 吐き捨てる口ぶりでそうこぼし、蛇の王子は黄金の瞳を糸のように細くした。ふ、と困ったような顔をして微笑い、細い首をかしげてみせる。

「ごめん、君らみたいな綺麗な子にぐちる話じゃなかったね」

 アンが後ろめたそうな顔をして

「いいえ」

 と小さくかぶりを振った。

『また十日後に』と言いおいて、二人は湖の底の城を後にした。


 湖をのぞめる森の木の上で、二人は水面みなもを見つめていた。

 微風にそよぐ水面に目を落としながら、マユが訊ねる。

「アン。さっき聞きそびれたんだけど、『堕ちた天使』って、どっちのこと? あのおばあちゃん? それとも、……」

「二人ともです」

 アンは黒い羽根をひらめかせ、遠くを見る目つきをした。風にそよぐ漆黒の髪が、マユには夜に染められた絹糸のように見える。

 頭を軽く手で押さえ、アンは話し出した。

「あの二人は、遠い遠い遠い昔、はじまりの天使だったのです。けれど後から創られた人間をねたみ、二人は知恵の実を人間に食べさせました」

 聞いたことがある。

 幼いころに耳にした、天上のおとぎ話。

 緑の目を見開いて聞き入るマユにうなずいて、アンはまた口を開く。

「そのために人間は楽園エデンを追われ、あの二人も呪いをかけられ、楽園を追われました」

 ここまでは、聞き覚えのある話。

 けれどアンの話は、まだ終わらなかった。

「アーシュラは永遠とも思える寿命を持ち、奥方の魂は人間並みの寿命しか与えられませんでした。何度も何度もくりかえし訪れる出逢いと別れが、あの二人に科せられた罰なのです」

 語り終えたアンが、小さく息をつく。

 泣き出しそうな目の色を見せたマユが、水面を見下ろし言葉をこぼした。

「そんなに、悪いことなのかな」

「……え?」

「人間に、知恵の木の実を食べさせるのは。そんなひどい罰を与えて良いほど、悪いこと?」

 まっすぐな、まっすぐすぎる瞳で訊かれて、アンは思わずマユの顔から目をそらす。

 予定調和のような答えを、微かに揺らぐ声音で呟いた。

「神様が、お決めになられたことですから」

「神様は、絶対?」

 ぽつりこぼした言葉に真っ黒な目を見開いて、アンは

(信じられない)

 といった顔でマユを見つめた。

「……あなたは……」

「何?」

 何ごとか言いかけたアンが、だまって首を振る。

 黒い天使はどこか痛んだように微笑して、軽く空へとはばたいた。

「いったん天上に帰って、ごはんにしましょうか」

 食べても食べなくても構わないごはんのお誘いに、マユは

(うまく逃げたな)

 と思う。

 思いながらも、素直にうなずいて後を追うようにはばたいた。


 十日がたった。

 マユとアンは、また湖の真上におりたった。

「あのおばあさん、本当に望みがないのかな。それとも、望みさえ忘れちゃっているのかな」

 ひとりごちるように呟いたマユが、痛ましげにくちびるを噛む。

「もしもそうだとしたら、おばあさんの魂はどうなっちゃうんだろう」

「大丈夫です。きっと」

 マユの耳元でささやいたアンが

「行きましょう」

 と優しくマユの手をとった。

 行きついた湖の底の寝室で、初老の女性はぼんやりとした目の色で、歌をうたっていた。ベットのわきで、蛇の王子が女性の手をとり、歌を聴いている。

 自作の歌詞なのだろう、蛇の王子と赤い目の女性との恋を歌った、たあいない歌だった。

 とぎれた歌の続きをつむぐように、アンが静かに言いかける。

「十日たちました、アーシュラさま、ハニアさま。ハニアさま、お一つ望みをおっしゃってください」

 ハニアは茫洋ぼうようとした様子で首をかしげ、

「そうねえ」

 とあいまいに呟いた。

 ふと何か思い出したように赤い目をまたたかせ、嬉しげに打ち明ける。

「そうだわ、どうして思いつかなかったのかしら。夫に逢わせてほしいわ、蛇の王子さまに」

「蛇の、王子……」

 呟いたマユにうなずいて、ハニアが微笑を浮かべて言い重ねる。

「そう、わたしの夫よ。今はもう、ここにはいらっしゃらないけれど……」

 アーシュラが苦しげに細いまゆを寄せて微笑う。

 アンがアーシュラとハニアの間にわりこんで、くる、っとアーシュラを振り返った。

「アーシュラさま、ハニアさまのひたいに口づけすること、おゆるし願えるでしょうか?」

 蛇の王子が戸惑いながらもうなずくと、アンはハニアのひたいへキスをした。

 ゆるゆると手を広げ、幕を引くように手のすきまからアーシュラの姿を見せてゆく。

「ハニアさま、あなたさまのお望みはもうずっと前からかなっています。……どうぞ」

 ハニアの赤い瞳に、己の夫の姿が映る。初老の女性は赤い目を見開いて、しわの刻まれたくちびるを開いた。

「……アーシュラ……」

 ハニア。

 アーシュラが、ほとんど息だけの声でささやいた。泣き出しそうに顔を歪めて、老いた妻を抱きしめる。抱きしめ返したハニアが、赤い目を潤ませて、夫の髪に頬ずりをした。

「そうだわ、どうして忘れていたのかしら。……アーシュラ、あなたが蛇の王子だわ。わたしの、最愛の夫だわ」

 アーシュラがなくし物を見つけた少年のように泣きながら、妻を抱く手に力をこめる。

「いやだ。……いやだ」

 だだっ子さながらに言いつのり、薬湯の匂いの妻の身体を、しめ殺すように抱きしめる。

「せっかく思い出してくれたのに、また別れるなんていやだ……!」

 ハニアが少し苦しそうに、蛇の王子の背中をさする。なだめるようなそのしぐさは、明らかに妻が夫にするものだった。

「アーシュラ、またすぐ逢えるわ。わたしは死んで、生まれ変わって、またすぐあなたの元へ行くから」

 アーシュラがむちゃくちゃに首を振る。後ろで涙をこぼすマユの目じりを、アンが優しい手つきで拭った。

「そうしたら、またたくさん笑って、たくさん泣いて……たくさん、幸せになりましょう」

 ハニアが頬を緩めて泣きながら、満ち足りた声音で言葉をこぼす。

「愛してるわ、アーシュラ」

 最愛の人の名を呼んで、ハニアの腕が王子の背中をすべり落ちた。

 くたり、と力の抜ける身体を、アーシュラが虚を突かれた様子で抱きとめる。

「……ハニア? ハニア……ぁああぁ……っ」

 泣き出そうとした蛇の王子の腕の中で、ハニアの身体が光を放つ。

 ふわ、っと若い美しい女性の姿が宙に踊り、嬉しげに愛おしげに、アーシュラの頬をひきよせてキスをした。

『またね、アーシュラ!』

 若返ったハニアの魂は弾けるように言い残し、光を放ってかき消えた。

 アーシュラの肩が、小さく震える。

 最後に語らえた嬉しさか、それとも別れの悲しみか。

 不老不死の蛇の王子は、笑いながら、泣いていた。


「幸せなのかな、あの二人」

 ぽつり呟くマユの言葉に、アンが物憂げに顔を上げる。

「何度も出逢って、何度も別れて……あの二人の幸せと不幸せは、どっちの方が重いのかな」

 答えるかわりに、アンは

「罰ですから」

 と冷めた口ぶりで呟いた。

 マユがアンの真っ黒な瞳をのぞきこみ、またゆっくりと目をそらす。

「あたし、やっぱり分からない。神さまはそんなにえらいのか」

 アンがくしゃり、と顔を歪める。

 天使にとっては、口にするのさえ罪であるような言葉。

 そんな言葉を、生まれたての天使は小さな声で重ねてゆく。

「神さまってのは、あの二人にあんな思いをさせても構あないくらい、絶対的な存在なのか」

 答えられない疑問の山に、アンは別の言葉で応えた。

「……あなたは、この仕事につくべきでなかった」

 ゆるゆると顔を上げたマユの目を見ずに、アンは水面を見下ろして続ける。

「天使になんて、なるべきでなかった」

「どうして?」

 問いかけるマユの緑の瞳をようやく見返して、アンは小さく言葉をつむいだ。

「あなたは、綺麗すぎるから。わたくしたち生まれつきの天使が当たり前だと思うことにも、全て疑問を持ってしまう」

 マユは何か言いかけてためらって、また静かに口をつぐんだ。

 アンの手に、そっと手をのばしかけ、小首をかしげて問いかける。

「手、握っても、良い?」

 アンがだまってうなずくと、マユは気弱な笑顔を見せて遠慮がちに手を取った。

「……ずうっと昔ね、お父さんとお母さんにはさまれて、手をつないで眠ってたことがあったんだ。あったかくて、柔らかくて、すごく安心したの」

 きゅ、っとアンの手を握り、マユが優しい笑みを浮かべる。

「こうしてると、その時のこと、思い出す」

「……いずれは、この手もなくなりますよ」

 苦しげに眉をひそめて事実を告げる友だちに、マユはだまってうなずいた。

 見習い期間は、あとどのくらい残っているのだろう。

 一緒にいられる時間は、あとどのくらいあるのだろう。

 それでも、あたしはこの仕事をして生きてゆく。他の誰でもない、自分で決めた道だから。

「あのねえ、アン」

「……はい?」

「あたしね、今、幸せだよ」

 何と答えて良いものか分からない。

 そんな顔をして、アンが真っ黒な目をふせた。マユはさらさらと、アンのすべらかな手の甲に指を伝わせる。

 あたしはこの先、きっともっとつらい思いをくりかえし、何度でも疑問を持つだろう。

「ねえ、アン」

「……何ですか?」

「あたしがね、とんでもない『罪』を犯して、あの蛇の王子さまみたいに、罰されたとしたらさあ」

 アンが苦しげにくちびるを噛む。

 マユの突飛な仮定の話は、『絶対ない』とは言いきれないから。

「たまには、逢いに来てくれる?」

 だまってうなずくアンの手を、マユは優しく握ってみせた。

 これから先あるものは、きっとつらくて痛いこと。でも今は、手の中の温もりが嬉しくて。それが全てで、それで良い。

 あたしは、きっと、幸せだ。

 マユが淋しげに微笑んで、でたらめな歌を口ずさむ。

 歌はだんだん形を変え、おしまいにハニアのうたっていた恋歌になって、水面をすべって流れていった。

                              (了)



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