ビターエンジェル
昔に書いたお話を、書き直したものです。
一の羽根・おしまいのオムライス
いたずら描きでも、しようかな。
「……にしても、ほんとにひまだなあ、病院の個室って」
ぽつりと呟いた幼い少女が、くす、とおかしそうに頬を緩めて微笑んだ。
「なんか、ひとり言多くなったなあ、あたし。……って、これもひとり言か」
くすくすと孤独に少女が笑う。
小さな笑いを打ち消すように、こんこん、と誰かが窓をノックした。
「……え? ちょっと待って、ここ三階だよ? しかも個室だよ?」
病院の三階の窓を、外側からノックって、どゆこと?
少女が軽くパニックを起こしつつ、窓の方を見やる。窓の外にいるものを見て、少女は本当にパニックにおちいった。
天使だ。
全身真っ黒な天使が、ふわふわと空に浮いている。
少女はくらくらする頭を抱え、それでもしっかり彼女に見ほれていた。天使はそれほどに綺麗だった。
少女と同い年くらいの背格好。さらさらとした、黒く長い髪。
カラスのそれのような黒く艶やかな羽根。日の光に照り映える漆黒の瞳。
そんなものに囲まれて、真っ黒なワンピースからのぞく肌が、透けるほど白く美しかった。
天使はこともなげに窓をすり抜けて、ふわりと重さを感じさせないおじぎをした。
「こんにちは。マユ・マユリ・マユカさんですね? わたくし死の天使、アン=アンジュ=アンジェリカと申します。あなたの望みをかなえるために、天上からまいりました」
「……望み?」
マユがぼうぜんと訊き返すと、アンと名乗った天使は静かにうなずいた。
マユを見つめる黒い瞳が、美しい。宇宙の果てまで吸い込まれそうな、ブラックベリーのような綺麗な瞳。
少女が実際、くらくらと吸い込まれそうな思いで見ていると、アンは困ったように首をかしげた。
「……あの。お話を続けても、よろしいでしょうか?」
「え? ああ、うん」
マユがあわててうなずきながら、心の中で首をかしげる。
可愛らしいけど、のっぺりとした平らな声だ。
そういえばこの天使、表情が少ない。もったいないな。せっかくこんなに可愛いのに。
黒い天使は少女の思いなど気づかぬ様子で、ひらりと一つおじぎした。
「マユさん、とお呼びしても?」
「う? うん、構あないよ」
「では、マユさん。あなたは今日からきっかり半年後に亡くなります。亡くなる前に、この世に未練が残らぬように、一つだけ望みをおっしゃってください」
何度口にしたせりふなのか、アンは淀みなく告げ、事務的に軽くおじぎした。
「わたくし共『死の天使』が、責任をもってその望みをかなえさせていただきます。ですからどうか、未練を残さずこちら側へいらしてください」
あと半年。
その事実を耳にしても、マユは初めて天使を見た時以上の衝撃は受けなかった。
大したことじゃない。
『今すぐ死んでもおかしくない』と告げられて、もう何年が過ぎたろう。こうして十二の年まで生きられただけで、めっけもんじゃないかと思う。
それでも少女がふざけ半分で口にした返事は、実際少しかすれていた。
「寿命をのばして、っていうのはナシだよね?」
「ナシです」
アンがきっぱりと否定する。その無感情な瞳からは、心の動きは読み取れない。
実は何も考えていないのかもしれない。
人の死と向き合うなんて、それはしんどい仕事だろう。だから、いちいち心を動かしてはいられないのかもしれない。
少女はそんな事を考えてから、ベットの上で腕組みした。
「……今んとこ、ない、かも」
「ないですか?」
アンがわずかに小首をかしげる。くるっとカーブしたまつ毛に彩られた瞳には、あいかわらず真っ黒な宇宙がたたえられている。
小さな宇宙を見ているうちに、ぱ、っと少女の頭にナイスアイディアがひらめいた。
「じゃあね、じゃあさ。願い事を思いつくまで、あたしと一緒にいてくれる?」
弾けるように口にすると、アンは考えこむそぶりで目を閉じる。ひとひらの羽根がかぶさったように、黒い瞳がまつ毛に隠れた。
一対のまつ毛が震えて、また底抜けに綺麗な瞳が、黒い木の実にも似た姿をのぞかせた。
「うけたまわりました」
「いやったあ! 友達ゲットォ!」
マユが大きくバンザイすると、黒い天使は、ぱちっとまばたきして右頬へ手をあてた。
「あなた、本当に病人なんですか?」
小さな問いかけには微かな呆れがにじんでいる。
初めて気安く接してもらった気がして、少女はそれが妙に嬉しかった。マユは細く幸せな息をはくと、ふと顔を上げてカレンダーへ目をやった。
コスモスの花の絵が描かれたカレンダーだ。十月の十九日のところまで、×が書いてある。
「……あと、半年か」
呟いた穏やかな言の葉を、黒い天使が目を閉じて静かに聞いていた。
アンは、本当にもの静かな子だった。
基本的に何も言わないし、何も訊かない。時おり思い出したように口を開いても、そこからこぼれるのは
「空が」
とか
「落ち葉が」
といった言葉の切れはしだけだ。
マユが応えて
「青いね」
とか
「綺麗だね」
とか続けると、ただだまってうなずいてみせる。
そこでおしまい。会話はもう続かない。それでも、個室の沈黙に慣れきっていた少女には、アンの存在は十分新鮮だった。
出会ってちょうど一月後、アンが珍しく問いかけた。
「あなたのご病気は、どんな病なのですか?」
「え」
マユは少しびっくりした顔をしてみせた。
聞いてないのかな、天上のヒトから。
不思議には思ったけれど、訊かれたので素直に答えた。
「うん。あたしの病気はね、血が固まっていく病気なの。ぱきぱきぱき、って、身体のすみから結晶していくの」
マユは言いながらアンの手をとって、自分の指先に触れさせた。
硬い。
少女の柔い指だと思えば、少し異常なほどの硬さだ。
あいまいな微笑を浮かべて自分を見やる天使に、マユは意味もなく一つうなずいた。
「お医者さんにも、治し方が分からなくてね。ただ静かに寝ていなきゃいけないの」
マユはしゃべりながら考える。
ああ。これは、アンが話をふってくれたのかな。
だってだまって聞いてくれてるアンの瞳に、答えを知っているような、穏やかな光が宿ってるもの。
少女は困ったように眉をひそめて、小さく苦笑した。
「ご両親は?」
「お母さんはあたしが五つの時に、あたしとおんなじ病気で死んじゃった。お父さんは仕事が忙しくて、めったにここには来ないんだ」
アンが、小さく息をつく。
「……あなたのお望みは、そのことと関係しているのではないですか?」
ああ、それが訊きたかったのか。なあんだ。
マユは残念なような、当たり前のような気持ちになって、ぺろっと舌を出してみせた。
栗色の柔い巻き毛に、ぱっちりした緑の瞳。
人形のような美しく整った顔立ちに、いたずらな表情が映える。
天使は少し目を見張り、微かに痛々しげな目つきをしながら微笑んだ。それに気づいていないのか、気づいていないふりをしているのか、少女は軽く腕組みをして首をかしげた。
「うーん、お母さんに逢いたい……ってのは、もうすぐかなうしね。お父さんはしょうがないよ、あたしの入院費用払うために、一生懸命働いてくれてるんだし」
だから、望みはまだいいよ。
さりげなく拒んで微笑む少女に、アンは微かに首を振る。
「そのかわり、あたしが死ぬまでずっと一緒にいてくれる?」
マユがおねだりしてみせると、アンは表情を浮かべずにうなずいた。ちょっと口のはしを緩めて、微笑しているつもりらしい。
マユはお手本を見せるつもりで、白い歯を見せて、にっと笑った。
でも、これじゃお手本にならないか。あたしの笑顔も、どこか歪んでいるだろうから。
そう思いながら、無理に笑った。
黒い天使と過ごす日々は、とても楽しかった。
少女はずっと個室で暮らしていたから、友達と長いこと一緒にいるだけで楽しいのだ。
しばらく一緒に過ごすうちに、アンのことも少しずつ分かってきた。
長い髪をかき上げるのは、嬉しい時。頭を軽く手で押さえるのは、何かに困った時。
けれど、どうしてアンが全身黒いのかは、分からない。
「ねえ、訊いて良い?」
「何ですか?」
「アンは、どうしてそんなに真っ黒なの?」
ぴく、と天使が動きを止めた。微かにうつむいて、だまりこむ。それから静かに顔を上げ、ほんのわずかに微笑んだ。
「……黒い天使は、出来そこないなんです。普通の天使のように、豊かな感情をそなえてもいませんし、特にすぐれた能力がある訳でもありません」
アンは苦しそうに微笑して、自分の胸に白く細い手をあてた。
「なかでもわたくしのようなものは、はぐれ天使ですから」
「はぐれ天使?」
「天上界の花や、木の精気がこごって出来た、親なしの天使です」
そんな生まれの子供たちは、髪も目の色も、そして翼も真っ黒な天使になるのです。
アンはささやくように言葉をこぼすと、細く長く息をついた。
「黒い天使には、普通の天使のするような仕事は出来ません。ですから大部分はごく自然に、死の天使になるのです」
「ふうん。……でも、さ」
マユはアンの黒い髪先に手をのばして、恋人にするように優しくなでた。
「あなたの真っ黒な姿、とても綺麗だよ」
マユがおせじ抜きでそう言うと、アンの白い頬にほんのりと血がのぼる。真っ黒な両の瞳がわずかに潤み、アンはむきになったようなしぐさで必死に目をこすった。
その様が妙にせっぱつまっていたので、マユは少し不思議に思った。
「どうしたの、アン? 別に泣いても良いんだよ?」
アンがかたくなに首を振る。
ぐい、と思いきり目のふちを拭い、いつになく堅い口調で言いつのる。
「いけません。死の天使は、泣いてはいけないのです」
「泣いちゃいけない? どうして?」
「死の天使は、感情のとぼしい出来そこないの、黒い天使だからこそつとまる仕事。泣くなどと感情に流された行為など、言語道断なのです」
マユが納得いかない顔をして小首をかしげ、口元へ軽く手をあてた。
「そうなの? でも、破ったって別に、罰がある訳じゃ……」
「破れば失業です」
ぴしゃりと言いきるアンの言葉には、『失業』の裏に『死』という言葉さえもが隠れている気がして、マユは急に不安になった。
「じゃあ……泣かないで」
少女がすがるようにアンの瞳を見上げると、天使は微かに笑ってみせた。
「泣きませんよ。泣きませんとも」
それが、あなたの望みですか? とは、もうアンは訊かなかった。
意外に彼女も、この残り少ない暮らしを楽しみ出しているのかもしれない。
それなら、もっともっと楽しくさせてあげよう。泣いちゃいけないのなら、かわりにいっぱい笑わせてあげよう。
「あたしが死ぬまで、ずっと一緒にいてね、アン」
マユがささやくと、天使はだまって、微笑って、うなずいた。
苦しい。
ぱきぱきと血液の凍る音が、聴こえる気がする。
マユはもうナースコールを鳴らすこともなく、天使の手を握っていた。
アンとの出逢いから、ちょうど半年が経った。もうじき、終わりだ。沈んだアンの表情からも、それが読み取れる。
「……望みは、何ですか?」
「アンと、一緒にいられたこと……」
黒い天使は首を振り、
「それはあなたの、本当の望みではありません」
とささやいた。
「あなたの望む、本当の願いを一つかなえます。望みは、何ですか?」
重ねてアンに訊ねられ、少女はもうろうとした頭で考える。
望みかあ。特にないなあ。半年アンと一緒にいて、楽しかったしなあ。
……あ。
「オムライス、食べたいな。お母さんのオムライス……」
本当はずっと望んでいた。
無理だと分かっていたから言わなかったことを、今初めて口にした。
優しかったお母さんの作ってくれた、美味しいオムライス。あれを一口食べられたら、笑って逝けると思うから。
「無理、だよね」
アンはだまってかぶりを振ると、
「待っていてください」
とささやいてすう、と消えた。そのまま、戻ってこなかった。
ああ、無理なお願いなんかしたから、愛想つかされちゃったかな。
何もいらないから、そばにいて、って言えば良かったのかな。
くす、と微笑うと、涙がこぼれた。
ほとんど馬鹿になった少女の鼻が、トマトのすっぱい匂いをかぎつける。重たいまぶたを押し開けると、目の前に少女の父とアンがいた。
スーツ姿にエプロンをした父親の手には、卵がスクランブルエッグになった、オムライス。
「ほぉらマユ、待望のオムライスだ。……母さんの作ったのには、比ぶべくもないけどな」
ぐちゃぐちゃのオムライスを手に、父親は笑いながら泣いていた。父親が小さなスプーンでチキンライスをすくい、マユの口へと運ぶ。
焦げだらけで、べちゃべちゃで、ケチャップが多すぎて、だけどとても美味しかった。
涙が出るほど、美味しかった。
「マユ。父さんな」
ず、っと鼻をすすり上げ、父親が口を開く。
「父さんな、母さんがいなくなった時、すごく悲しかった。あんまりつらくて、悲しくて、もう一度こんな思いをするのは耐えられない、と思った。だから……」
父親が、ぐ、っと言葉をつまらせる。後ろでアンが、ぽつりと物憂げに呟いた。
「だから、わざとあなたを避けていた」
天使の言葉に、父親の肩がぴくりと震える。震えはだんだん大きくなり、父親は幼い子供のようにしゃくり上げて泣き出した。
「お父さん……美味しかったよ、オムライス……」
マユがほとんど息だけの声で呟くと、父親は顔をぐしゃぐしゃにしながら微笑んだ。少女が小さいころに目にした、そのままの笑顔だった。
「ありがとう、お父さん……アン……」
意識がさあっと波の引くように遠のいて、少女は目を閉じた。
その刹那、マユは天使がぽろぽろと大粒の涙をこぼすのを見た。
とたんにアンの黒い羽根がばらばらに散らけ、髪と服の色が抜け、真っ白な天使になるのを、軽くなった魂で見た。
ああ、そうか。
『失業』っていうのは、本物の天使になるってことだったんだ。
笑いながらふと気づくと、身体を抜け出した少女の背にも、真っ白な羽根が生えていた。
一月後、マユはアンと一緒に天上で花をつんでいた。
鼻歌まじりの少女を、アンが少し呆れたように真っ黒な目で見つめている。マユはつみとったたんぽぽを軽くアンの前へとかざし、小さくウィンクしてみせた。
「あたしはさあ、『泣いちゃいけない』って言った時のアンがあんまり真剣だったから、失業したら死んじゃうんだと思ってたよ」
「……わたくしもです」
「で、せっかく白くなったのに、どうしてその姿に戻してもらったの?」
少女の目の前に、見慣れたアンの美しい黒い姿がある。アンは、さっと長髪をかき上げ、誇らしげな態度で言いきった。
「姿など白くとも黒くとも良いのです。わたくしにしか出来ないことがあるならば、それに励むのが天使のつとめだと思うのです……それに」
言いさしてアンは微かに頬を染め、
「黒い姿を、初めてほめられましたから」
と小さな声で呟いた。
「あなたこそ、良いのですか? せっかく心の清い者として白い天使になったのに、わたくしのような死の天使になりたい、なんて」
アンの問いかけに、マユは大きくうなずいた。
「うん。だって、アンと一緒にいられるもの」
「……見習い期間が過ぎたなら、一人で仕事をするんですよ」
アンが淋しそうな表情を浮かべて、気遣うように少女へ告げる。生まれたての天使はこともなげにうなずいて、嬉しそうに微笑いかけた。
「うん、それでも良いの。アンはあたしのあこがれだから。いつかアンみたいな死の天使になるのが、あたしの夢なんだ」
「……物好きですね」
ささやくように呟きながら、アンの頬がまたひときわ赤くなった。
こんこんこん、とマユが軽く窓をノックする。
ここは二階だぞ、と言いたげな顔をした少年とガラス越しに目が合った。
「ひ」
相手の子が青い目を見張り、息を飲む。窓をすり抜けたマユとアンは、さっき天上でつみとった野の花の花束を差し出した。
「初めましてー。こちらは死の天使、アン=アンジュ=アンジェリカとマユ・マユリ・マユカでーす!」
テンション高めの自己紹介が良かったのか悪かったのか、男の子は鼻からふーん、と息をはき、つっぱっていた肩を下ろした。
「……何だ、死神にしちゃあ、やたらとノリの軽いのが来たな」
「死神ぃ? ひどいなあ、死神じゃないですよ、天使です天使! あなたのお望み、かなえに来ました!」
マユのとなりでアンが何も言えず、おろおろとマユと少年を見比べている。少年はまた青い目を見張り、きょろきょろと何か探すそぶりで辺りを見渡した。
「……ドッキリ?」
マユが空回り気味の空気を読み取って、ちょっと口元へ手をあてる。
はてさて、どっちに転ぶのか。
白黒コンビの初仕事、たった今から始まります。
自分で自分をあおっておいて、マユがにんまり笑ってみせた。
「ドッキリじゃないです! さああなたのお望みはぁ?」
「じゃあ……本当に、天使なのか?」
警戒の声音で問いかけた少年が、ふい、とするどくそっぽを向く。
「だったら、ぼくは君たちに用はない。望みなんてないからな」
言ったきりだまりこんでしまった少年が、ふと右手を持ち上げる。細く骨ばった手のひらは、痛んだ果実のようにところどころ黒ずんでいた。
ふと気がつけば、病室には微かな腐臭がただよっていた。
人を拒む、静かな臭い。
死の臭いが、した。
二の羽根・哀しみのカシア
少年は、名をカシアと言った。
マユにしつこく訊ねられ、少年はようやく自分の名を告げた。それっきり、またそっぽを向いて口をつぐむ。そんな少年の顔をのぞきこみ、マユが重ねて問いかける。
「真名は?」
「カシア=カシュア=カミア。それがどうしたよ」
ガードが堅い。一瞬ひるんだマユが、ベットの上におおいかぶさるように身を乗り出した。
「そっか。あたしはマユ! マユ・マユリ・マユ……」
「さっき聞いた」
だまりこんだマユが、静かに少年の指先へ手をのばす。後ろに影のようにひかえたアンが、緩やかに小首をかしげてみせた。
黒ずんだ指先にそっと触れ、マユがささやく声音で問いかける。
「病気?」
「うつる病気だ。……お前らは、平気なのか?」
少し不安そうな声音になったカシアに、二人は微笑ってうなずいた。
「そうか」と答えた少年の頬に、初めて微かな笑みが浮かぶ。笑みは波の引くように消えて、少年は老いた哲学者めいた憂鬱そうな顔をみせた。
「身体がすみっこから、腐れ落ちていく病気だ。……もう長いこと、家族とも会ってない」
カシアは青い目をうろのように淀ませて、どこか遠くを見る目つきをした。
「食事と薬をもらう時、一瞬看護婦と目を合わせるだけだ。後は死を待つだけ。望みなんてない」
後ろで聞いていたアンは小さく息をつき、前に進んで少年の手を軽く握った。
「言ってくだされば、かなえます。現世に未練を残していては、うまく魂が抜けません。死して後も、見えない身体でこの世をさまようことになってしまいます」
「良いよ、それでも」
カシアはなげやりにささやいて、ベットに横たわり目を閉じた。
アンが静かに握った手に力をこめる。柔い卵を抱くような、優しい手つきで握りしめる。マユがその上に手を重ね、ふんわりとした口調で言葉をこぼす。
「じゃあさ、あたしたちが、あなたにお願いしても良い?」
「……何だよ」
「こうして、そばにいても良い?」
病室に、ずっと一人きり。
それがどんなに淋しいことか、生まれたての天使には、痛いくらいに分かるから。
カシアが、だまってうなずいた。
少年の目じりが濡れている気がしたけれど。
二人の天使は、それに気づかぬふりをした。
カシアは少しずつ、二人に心を開いていった。
普通に話をするようになったし、軽口をたたいて笑うようにもなった。
ただ、望みは決して口にしない。
「あのさ、あんまり『望み』『望み』って訊かないでくれるかな?」
ベットに横になりながら少年に言われ、マユが盛大に首をかしげた。
「ええ? だってこれがあたしたちの仕事だよ?」
「……まあ、そうなんだろうけど。ないものを訊かれても、困るんだ」
嘘だ。
カシアは何かを望んでいる。
ふと気がつくと遠い目をして、ぼんやりと空を見つめている。
何かをいっそ切ないくらい、望んでいる瞳をしている。
マユはだまったまま、少年の黒ずんだ手に触れた。カシアは軽くくちびるを噛み、細く長く息をはいた。ベットの上に起き上がり、軽く頬杖をつく。
「……お前らさ、好きなひととか、いるの?」
文脈をたがえた質問に、マユが緑の瞳を意外そうに見開いた。
「好きなひと? うーん、アンが一番好き、かな。アンは?」
「え……。マユ、ですかね」
女の子天使が二人で羽根をはためかせて笑い合う。
意味のずれている答えを聞いて、カシアがあきれたように息をつく。ふ、と小さく苦笑して、また口を開いた。
「ぼくもいるよ。幼なじみの女の子。ミィア、って言う子なんだけど」
「えぇ、そうなの? 『好き』って言った?」
「……いや」
弾けるように問いかけるマユから目をそらし、少年は沈んだ顔で呟いた。
「また会いたい。一度で良いから、好き、って言いたい。そのくちびるにキスしたい」
「それが、あなたの望みですか?」
だまりこんでいたアンが、静かな口調で問いかける。少年が小さくうなずいた。
(でも)と息だけの声で呟いて、カシアがあきらめたように微笑する。
「こんなになっちゃったぼくに告白なんかされても、相手が迷惑なだけだ」
うつるかもしれないし。
くちびるの動きだけでぽつりこぼすと、少年は痛々しげに微笑んだ。
「望みはあるけど、かなえたくない。だから今まで、ずっと言わなかったんだ」
カシアはベットに横になり、毛布を口のところまで引き上げた。
「だから、もう良いよ。……ごめんね。ありがとう」
そう呟いて、優しく拒絶するように目を閉じた。
アンが無言でマユを促し、二人は窓をすり抜けて外へ出ていった。
「つらい、って思うことも、罪なのかな」
カシアの病室をのぞめる大木の枝へ腰かけ、マユが呟く。問いかけの目つきで自分を見つめるアンを見かえし、生まれたての天使が物憂げにささやいた。
「あたしみたいな感情の振り幅が大きい天使が、この仕事してちゃ、いけないのかな?」
「……いけなくはないと、思いますが。その分つらい目に遭うことも多いでしょう」
ゆっくりとまばたいて、マユが重いしぐさで目をこする。
「なんか、泣きそう。泣いたら失業?」
「……あなたのような白い天使がこの仕事をするのは、今までに例がありません。泣いたらどうなるか、わたくしにも分かりません」
おそらく、大丈夫だとは思いますが。
小声で答えながら、まるでそれが悲しいことだとでも言いたげに、アンが黒い羽根をゆっくりと縮こませた。
「あなたはきっと、これから先もたくさんつらい思いをするでしょう。だから、この仕事にはわたくしのような黒い天使の方が、……」
「何が違うの?」
ぽつり呟いて、うつむいていたマユが顔を上げる。アンの真っ黒な瞳をまっすぐ見つめて、真剣な声で問いかけた。
「感情がない訳じゃないでしょう? 表し方が分からなかったり、必死で抑えてるだけでしょう?」
マユは苦しげにまばたいて、またアンをじ、っと見つめて訊ねかけた。
「白い天使と、何が違うの?」
アンが戸惑いがちに目をそらす。
答えられない。答えられないから、アンは微笑んで話題を変えた。
「夜が明けたら、ミィアに話をしにいきましょう」
マユが、ぱっと顔を輝かし、弾けるようにうなずいた。
「……何話してんだろ、あいつら」
病室の窓から、カシアが二人を見つめていた。
もうじき死に逝く少年と、白と黒の天使たちと。
小さな三人を見下ろして、星空は皮肉なほどに、美しかった。
アンが病室のドアを、外側からノックする。
「誰?」
警戒の声音で問いかける少年に、ドアの向こうで、生まれたての天使が上ずった声を張り上げた。
「マユだよ、マユとアン!」
「何だ、お前らか。早く入れよ」
カシアが一気に警戒を解き、ぞんざいな口ぶりで少し嬉しそうに告げる。
二人の後から入ってきた人影に、少年が青い目を見開いた。
カシアと同い年くらいの赤毛の少女が、琥珀色の瞳を緩ませてはにかんだ。
「おひさしぶりね、カシア」
「……ミィア……?」
ぼうぜんと呟いた少年が、ば、っと毛布を引き上げて黒ずんだ身体を隠そうとする。隠そうとする手の甲が、もう痛々しいほどに黒く臭く傷んでいる。
「こ、来ないでミィア……! うつるから……!」
「うつらないわ。うつっても構あない」
きっぱりとそう言いきって、ミィアがカシアへ近づいた。口づける距離まで近づいて、ふわ、と大人びた笑みを見せる。
「聞いたわ、あの天使さんたちに。言ってよ、その口で」
カシアが泣き出しそうな顔をして、だまって首を振る。ミィアが端の欠けた耳たぶへ口を寄せ、こぼれるように
「好きよ」
と小さくささやいた。
「さあ、わたしは返事をしたわ。ちゃんと伝えて、あなたの気持ちを」
強引な誘いにカシアが鼻をすすり上げ、
「好きだ」
と懺悔の口ぶりで呟いた。
ミィアが少年のくちびるへキスをする。触れるだけの口づけは、微かな腐肉の臭いがした。その臭いが、ミィアの幼い脳内に残酷な現実を突きつける。
愛しい人は、死にかけている。
ミィアのふせた瞳から、静かに雫が落ちた。
「……カシア……わたし、待ってる。ずっと待ってるから、生まれ変わってまたわたしに逢いに来て。そしたら、一緒になりましょう」
「駄目だ」
堅い声音でさえぎられ、ミィアがうろたえて顔を上げる。後ろで何か言いかけたマユを、アンがだまったままで押し止めた。
「君はもう十四歳だ。死んだ後すぐに生まれ変わっても、長いこと君を待たせることになる」
カシアが透き通るような目の色で、愛しい人をまっすぐ見つめた。
まるで嘘のない、青い瞳。
「だから、君は他の人と結ばれて、幸せになって。ぼくは君とその人の子供になって、必ず君に逢いにいくから」
ミィアの琥珀の瞳から、ふき出すように涙があふれる。
何度も何度も首を振るミィアの頬に、カシアが腐った手をのばす。のばしかけた手を痛ましいほどためらわせ、苦しそうに瞳が歪む。
少年は眉をひそめてぽろぽろ涙をこぼしながら、そ、っとミィアの頬へ触れた。
しゃぼん玉に触れるような、ひどく優しい手つきだった。
ミィアは切なげに目を閉じて、最後にようやく、かぶりを振るようにうなずいた。
「行きましょう」
くちびるだけで促して、アンが部屋を出る。ためらいながら後を追うマユの緑の瞳から、ぽろり、と一つ涙がこぼれた。
「あれで、本当に良かったのかな」
マユがうつむきながら呟いた。
大木の枝の上、カシアの眠る病室の窓が見える。嬉しそうに頬を緩めて、もうじき死に逝く少年は、口元に笑みをたたえていた。
アンが静かに口を開く。子守唄をうたう母を思わせる優しい声音で、なだめるようにマユへと告げる。
「今この結末が最上のものでなくても、またお話は始まります。何度でも、やり直しはきくのです」
「……でも、好きあってる二人が、今幸せになれないなんて。次に生まれ変わっても、結ばれることが出来ないなんて」
ぽとりぽとり、言いつのるマユの瞳から雫が落ちる。
(やはりこの子は、死の天使をやるべきでない)
アンはこっそり、心の中で呟いた。
この子は、優しい。優しすぎる。
「もう、止めますか?」
祈るような問いかけに、マユはむきになったようにぐい、と涙を拭って顔を上げた。
「やるよ! ……ここで止めるってことは、何度でもやって来る『誰かの幸せな結末』のチャンスを、自分で捨てるってことでしょう?」
アンが淋しげに微笑する。
本当に幸せな結末など、めったに訪れないことを、黒い天使は知っている。知っていながら何も言わずに、アンは黒い羽根を広げてそ、っとマユの手を引いた。
「では、行きましょう。次の仕事がつまっています」
何か言いかけたマユに柔らかく微笑んで、アンが桃色のくちびるを開く。飛び立ったアンに手を引かれ、マユもあわてて白い羽根を広げてはばたいた。
「逢いに行きましょう。罰を受けて堕ちた天使へ」
堕ちた天使。
どういうことかと訊ねかけ、マユは思わず口をつぐむ。
はばたきの風にまぎれてかすれるアンの横顔が、彫像のようによそよそしく見えたから。
それはマユとはかけ離れた、自分の仕事に疑問を持たない、生粋の天使の顔だった。
三の羽根・愛執のアーシュラ
たどりついたのは、湖の上だった。
ふわり、と羽根をたたんだアンが、水面の真ん中を指さした。
「つきました。ここです」
「ここ、って……湖の上だよ? ここにお客さんがいるの?」
マユの問いかけに、アンはうなずきかけてかぶりを振る。
「正確には、湖の底ですね。水の底のお城の中に、次のお客さまがいます。……年老いた、蛇の王子の奥さまが」
「蛇の王子?」
おうむ返しに訊ねるマユの手を握り、アンはぼそぼそと何事か呟いた。とたんにアンの身体が青白く光を放ち、つないだ手からマユの身体まで光り出す。
まぶしさに思わず目を閉じたマユが、再び目を開ける。
そこはもう薬湯の匂いのする、見知らぬ寝室の中だった。
蛇苺のような赤い目をまたたいた初老の女性が、ふわり、と穏やかに二人に向かって笑いかけた。
「あらあら、可愛いお客さんね。白黒天使のお客さまなんて、初めてだわ。何のご用?」
あれ? 驚かない?
にこやかな応対にマユは違和感を感じたが、アンはこれ幸いとばかりにいつもの口上を述べ出した。
「初めまして、蛇の王子の奥方さま、ハニア=アーヴィス=アードゥラさま。あなたは今日からきっかり十日後に亡くなります」
それを聞いてもハニアはさしたる驚きも見せず、他人事の口ぶりで
「あらあら」
と一つ呟いた。
アンはだまってうなずいて、流れるようにすらすらと言葉を継いでゆく。
「奥方さま、何か一つ、お望みをおっしゃってくださいませ。この世に未練を残していては、魂がうまく身体を抜けません」
言葉の意味を、本当に分かっているのかいないのか。初老の女性は微笑みながら、小さくうなずいて聞いている。
戸惑った顔つきのマユに気づかぬふりで、アンはまっすぐ女性を見つめてしゃべり続けた。
「魂が満足してこちら側に来られるように、わたくしたち死の天使が、何でもお望みをかなえてさしあげます。何でも構いません。どうぞおっしゃってください」
「……望み、ねえ」
ハニアが困ったように小首をかしげて呟いた。少し考えこんだ後、降参、といった風に両手を上げるポーズをしてみせる。
「分からないわ、思いつかない。あと十日あるのよね? もう少し考えさせてもらって良いかしら」
「もちろん。それでは、わたくしたちは今日はこれで失礼させていただきます」
しゃんなりとおじぎをしてそう言うと、アンはマユの手を引いた。戸惑った様子のマユの手を半ば強引にひっぱって、アンが寝室の戸を閉める。
リビングのテーブルの上にちゃっかり腰かけて、マユがほう、っと息をついた。
「……なんか、今までのお客さんと感じが違うね、あのおばあさん。ったって、まだ二件目だけど」
静かに首をかたむけたアンが、桃色のくちびるを小さく開いた。
「あの奥さまは、老いの波に溺れて忘れてしまっているのです。自分を愛する蛇の王子が誰なのか」
「忘れて? だって、自分の夫でしょう?」
だまってうなずいたアンが、黒い羽根を微かに揺らす。
「蛇の王子は、不老不死。若すぎる容姿の自分の夫を、あの方は夫と分からないのです。自分の身の回りの世話をしてくれる、ただの若いお手伝いさんだと思っています」
何と言っていいのか分からずに、マユが細い眉をひそめて息をつく。ふと思いついて顔を上げ、追いかけられるような声音で問いかけた。
「ねえ、さっき『堕ちた天使』って言ったよね? それってどっち? あのおばあさん? それとも、蛇の……」
「『蛇の』、何? 蛇の王子アーシュラに、何かご用かな?」
不意に背後から訊ねられ、マユが肩をはね上げて振り返る。
いつのまにそこにいたのか、背の高い青年が微笑みながら立っていた。
白銀の髪に、猫の目のような黄金の瞳。
青年は柔らかなしぐさで口元へ手をあて、ちょっと首をかしげてみせた。
「君たちは、天使だよね? こんな蛇の化身の城に、どうして君らみたいな可愛らしい子が来たのかな?」
説明のために口を開きかけたアンを制して、青年が人なつっこい笑顔を見せる。
「待ってて、今お湯を沸かすから。お茶でも飲みながら話そうよ」
メープルシロップ入りのミルクティーを飲みながら、二人はことのなりゆきを説明した。軽くうなずきながら聞いていた蛇の王子は、ふ、と小さく息をついた。
「なるほど、分かったよ。……にしても、君たちが見えるってのは、つまり、そういうことなのかな」
訳が分からずに首をひねるマユに、アーシュラは微笑って説明した。
「いやさ、僕は今まで何度も彼女をみとってるのに、今まで一度だって死の天使を見なかったんだ。だから、僕が彼女に『死んでほしい』と思ってるから、君たちが初めて見えちゃったのかな、って」
死んでほしい? 何度もみとって?
よけいに訳が分からない。
困惑しきった顔を見せる出来たて天使に、アーシュラは眉をひそめて苦笑した。
「聞いてないのかな、天上のひとから。……彼女はね、何度も死んでは生まれ変わって、何度でも僕の奥さんになるんだよ」
マユがあんぐりと口を開ける。おかしそうに頬を緩めたアーシュラが、口元に軽くこぶしをあてた。
「ハニアの目、見たでしょう? あの蛇苺みたいな赤い瞳が、彼女だっていう目印なんだ。僕は何度も彼女をめとった。何度だって愛した。でも、こんなのは、初めてで……」
ぐ、とアーシュラが言葉をつまらせる。無理やりに鼻をすすり上げ、しわくちゃの笑顔を見せた。
「目の前に彼女がいるのに、彼女が僕を見てくれないのは、初めてで。だったらいっそ、早く死んじゃえば良いのに、とか、早く生まれ変わってくれれば良い、とか……」
最低だ。
吐き捨てる口ぶりでそうこぼし、蛇の王子は黄金の瞳を糸のように細くした。ふ、と困ったような顔をして微笑い、細い首をかしげてみせる。
「ごめん、君らみたいな綺麗な子にぐちる話じゃなかったね」
アンが後ろめたそうな顔をして
「いいえ」
と小さくかぶりを振った。
『また十日後に』と言いおいて、二人は湖の底の城を後にした。
湖をのぞめる森の木の上で、二人は水面を見つめていた。
微風にそよぐ水面に目を落としながら、マユが訊ねる。
「アン。さっき聞きそびれたんだけど、『堕ちた天使』って、どっちのこと? あのおばあちゃん? それとも、……」
「二人ともです」
アンは黒い羽根をひらめかせ、遠くを見る目つきをした。風にそよぐ漆黒の髪が、マユには夜に染められた絹糸のように見える。
頭を軽く手で押さえ、アンは話し出した。
「あの二人は、遠い遠い遠い昔、はじまりの天使だったのです。けれど後から創られた人間をねたみ、二人は知恵の実を人間に食べさせました」
聞いたことがある。
幼いころに耳にした、天上のおとぎ話。
緑の目を見開いて聞き入るマユにうなずいて、アンはまた口を開く。
「そのために人間は楽園を追われ、あの二人も呪いをかけられ、楽園を追われました」
ここまでは、聞き覚えのある話。
けれどアンの話は、まだ終わらなかった。
「アーシュラは永遠とも思える寿命を持ち、奥方の魂は人間並みの寿命しか与えられませんでした。何度も何度もくりかえし訪れる出逢いと別れが、あの二人に科せられた罰なのです」
語り終えたアンが、小さく息をつく。
泣き出しそうな目の色を見せたマユが、水面を見下ろし言葉をこぼした。
「そんなに、悪いことなのかな」
「……え?」
「人間に、知恵の木の実を食べさせるのは。そんなひどい罰を与えて良いほど、悪いこと?」
まっすぐな、まっすぐすぎる瞳で訊かれて、アンは思わずマユの顔から目をそらす。
予定調和のような答えを、微かに揺らぐ声音で呟いた。
「神様が、お決めになられたことですから」
「神様は、絶対?」
ぽつりこぼした言葉に真っ黒な目を見開いて、アンは
(信じられない)
といった顔でマユを見つめた。
「……あなたは……」
「何?」
何ごとか言いかけたアンが、だまって首を振る。
黒い天使はどこか痛んだように微笑して、軽く空へとはばたいた。
「いったん天上に帰って、ごはんにしましょうか」
食べても食べなくても構わないごはんのお誘いに、マユは
(うまく逃げたな)
と思う。
思いながらも、素直にうなずいて後を追うようにはばたいた。
十日がたった。
マユとアンは、また湖の真上におりたった。
「あのおばあさん、本当に望みがないのかな。それとも、望みさえ忘れちゃっているのかな」
ひとりごちるように呟いたマユが、痛ましげにくちびるを噛む。
「もしもそうだとしたら、おばあさんの魂はどうなっちゃうんだろう」
「大丈夫です。きっと」
マユの耳元でささやいたアンが
「行きましょう」
と優しくマユの手をとった。
行きついた湖の底の寝室で、初老の女性はぼんやりとした目の色で、歌をうたっていた。ベットのわきで、蛇の王子が女性の手をとり、歌を聴いている。
自作の歌詞なのだろう、蛇の王子と赤い目の女性との恋を歌った、たあいない歌だった。
とぎれた歌の続きを紡ぐように、アンが静かに言いかける。
「十日たちました、アーシュラさま、ハニアさま。ハニアさま、お一つ望みをおっしゃってください」
ハニアは茫洋とした様子で首をかしげ、
「そうねえ」
とあいまいに呟いた。
ふと何か思い出したように赤い目をまたたかせ、嬉しげに打ち明ける。
「そうだわ、どうして思いつかなかったのかしら。夫に逢わせてほしいわ、蛇の王子さまに」
「蛇の、王子……」
呟いたマユにうなずいて、ハニアが微笑を浮かべて言い重ねる。
「そう、わたしの夫よ。今はもう、ここにはいらっしゃらないけれど……」
アーシュラが苦しげに細い眉を寄せて微笑う。
アンがアーシュラとハニアの間にわりこんで、くる、っとアーシュラを振り返った。
「アーシュラさま、ハニアさまのひたいに口づけすること、おゆるし願えるでしょうか?」
蛇の王子が戸惑いながらもうなずくと、アンはハニアのひたいへキスをした。
ゆるゆると手を広げ、幕を引くように手のすきまからアーシュラの姿を見せてゆく。
「ハニアさま、あなたさまのお望みはもうずっと前からかなっています。……どうぞ」
ハニアの赤い瞳に、己の夫の姿が映る。初老の女性は赤い目を見開いて、しわの刻まれたくちびるを開いた。
「……アーシュラ……」
ハニア。
アーシュラが、ほとんど息だけの声でささやいた。泣き出しそうに顔を歪めて、老いた妻を抱きしめる。抱きしめ返したハニアが、赤い目を潤ませて、夫の髪に頬ずりをした。
「そうだわ、どうして忘れていたのかしら。……アーシュラ、あなたが蛇の王子だわ。わたしの、最愛の夫だわ」
アーシュラがなくし物を見つけた少年のように泣きながら、妻を抱く手に力をこめる。
「いやだ。……いやだ」
だだっ子さながらに言いつのり、薬湯の匂いの妻の身体を、しめ殺すように抱きしめる。
「せっかく思い出してくれたのに、また別れるなんていやだ……!」
ハニアが少し苦しそうに、蛇の王子の背中をさする。なだめるようなそのしぐさは、明らかに妻が夫にするものだった。
「アーシュラ、またすぐ逢えるわ。わたしは死んで、生まれ変わって、またすぐあなたの元へ行くから」
アーシュラがむちゃくちゃに首を振る。後ろで涙をこぼすマユの目じりを、アンが優しい手つきで拭った。
「そうしたら、またたくさん笑って、たくさん泣いて……たくさん、幸せになりましょう」
ハニアが頬を緩めて泣きながら、満ち足りた声音で言葉をこぼす。
「愛してるわ、アーシュラ」
最愛の人の名を呼んで、ハニアの腕が王子の背中をすべり落ちた。
くたり、と力の抜ける身体を、アーシュラが虚を突かれた様子で抱きとめる。
「……ハニア? ハニア……ぁああぁ……っ」
泣き出そうとした蛇の王子の腕の中で、ハニアの身体が光を放つ。
ふわ、っと若い美しい女性の姿が宙に踊り、嬉しげに愛おしげに、アーシュラの頬をひきよせてキスをした。
『またね、アーシュラ!』
若返ったハニアの魂は弾けるように言い残し、光を放ってかき消えた。
アーシュラの肩が、小さく震える。
最後に語らえた嬉しさか、それとも別れの悲しみか。
不老不死の蛇の王子は、笑いながら、泣いていた。
「幸せなのかな、あの二人」
ぽつり呟くマユの言葉に、アンが物憂げに顔を上げる。
「何度も出逢って、何度も別れて……あの二人の幸せと不幸せは、どっちの方が重いのかな」
答えるかわりに、アンは
「罰ですから」
と冷めた口ぶりで呟いた。
マユがアンの真っ黒な瞳をのぞきこみ、またゆっくりと目をそらす。
「あたし、やっぱり分からない。神さまはそんなにえらいのか」
アンがくしゃり、と顔を歪める。
天使にとっては、口にするのさえ罪であるような言葉。
そんな言葉を、生まれたての天使は小さな声で重ねてゆく。
「神さまってのは、あの二人にあんな思いをさせても構あないくらい、絶対的な存在なのか」
答えられない疑問の山に、アンは別の言葉で応えた。
「……あなたは、この仕事につくべきでなかった」
ゆるゆると顔を上げたマユの目を見ずに、アンは水面を見下ろして続ける。
「天使になんて、なるべきでなかった」
「どうして?」
問いかけるマユの緑の瞳をようやく見返して、アンは小さく言葉をつむいだ。
「あなたは、綺麗すぎるから。わたくしたち生まれつきの天使が当たり前だと思うことにも、全て疑問を持ってしまう」
マユは何か言いかけてためらって、また静かに口をつぐんだ。
アンの手に、そっと手をのばしかけ、小首をかしげて問いかける。
「手、握っても、良い?」
アンがだまってうなずくと、マユは気弱な笑顔を見せて遠慮がちに手を取った。
「……ずうっと昔ね、お父さんとお母さんにはさまれて、手をつないで眠ってたことがあったんだ。あったかくて、柔らかくて、すごく安心したの」
きゅ、っとアンの手を握り、マユが優しい笑みを浮かべる。
「こうしてると、その時のこと、思い出す」
「……いずれは、この手もなくなりますよ」
苦しげに眉をひそめて事実を告げる友だちに、マユはだまってうなずいた。
見習い期間は、あとどのくらい残っているのだろう。
一緒にいられる時間は、あとどのくらいあるのだろう。
それでも、あたしはこの仕事をして生きてゆく。他の誰でもない、自分で決めた道だから。
「あのねえ、アン」
「……はい?」
「あたしね、今、幸せだよ」
何と答えて良いものか分からない。
そんな顔をして、アンが真っ黒な目をふせた。マユはさらさらと、アンのすべらかな手の甲に指を伝わせる。
あたしはこの先、きっともっとつらい思いをくりかえし、何度でも疑問を持つだろう。
「ねえ、アン」
「……何ですか?」
「あたしがね、とんでもない『罪』を犯して、あの蛇の王子さまみたいに、罰されたとしたらさあ」
アンが苦しげにくちびるを噛む。
マユの突飛な仮定の話は、『絶対ない』とは言いきれないから。
「たまには、逢いに来てくれる?」
だまってうなずくアンの手を、マユは優しく握ってみせた。
これから先あるものは、きっとつらくて痛いこと。でも今は、手の中の温もりが嬉しくて。それが全てで、それで良い。
あたしは、きっと、幸せだ。
マユが淋しげに微笑んで、でたらめな歌を口ずさむ。
歌はだんだん形を変え、おしまいにハニアのうたっていた恋歌になって、水面をすべって流れていった。
(了)




