『神の書』
リリアナが、グレイ導師に頼んだのは、ウィリアム王子への『神の書』の講義であった。
『神の書』とは、国の祖である初代王が神より与えられた書物のことであり、世界の成り立ちが書かれていると言われている。原本は、国宝として保管されているが、多くの写本があり、神殿では、これを写して諳じるのが見習いたちの必須のつとめの一つとなっている。ただ、古い時代の書物であり、古語で書かれているために、翻訳し、要約した書物が作られているため、一般には読まれていない。貴族や裕福な商家が、豪華に飾り立てた写本を持つのは、ステータスとしてであり、読むためではないのだ。
王子が読まされているのも、ルカイオス神学教導書という初歩の要約書である。
リリアナのお願いを聞くと、導師は茶色がかった淡い緑色の瞳を彼女に向け、静かに問うた。
「それは、原語のままということですか
」
「そのとおりですわ」
「殿下は、まだ幼くていらっしゃる。古語もお年の割にはかなり進んでいるとは言え、理解するには至らないでしょう。それでも原語の『神の書』を教えろと?」
「ええ。もちろん、これはお願いですから、導師さまのご判断で決めていただいて構いませんわ」
導師は、わずかに考え込むように間をおいて、理由を訊ねた。
「殿下が、呪いから身を守るために必要だと感じたからですわ」
身振りで話を続けるよう促され、リリアナは言葉を重ねた。
「殿下が呪われると申しているわけではありませんわ。ただ、殿下の立場はよろしくないと聞いたものですから、不安になったんですの。殿下は騎士さまにも魔術師にも守られておいでです。けれど、呪いから身を守るすべはお持ちでありません。周りの者がいかに努力しようと、本人以外に呪いから身を守ることはできないのですわ。世間的な地位がどうあろうと、王家の一員である以上は、呪いから身を守るすべを持つべきでしょう?」
導師は、その穏やかさを崩しはしなかったが、リリアナの言葉を聞くにつれ、思索に耽る様子を見せた。その小さな妖精の問いには、非常に真摯な態度で応える。何か思い当たることがあるようでもあり、相手への敬意が兆してきたようでもあった。
「……確かに、リリアナ嬢の言う通りでしょうな。して、呪いから身を守るために『神の書』が必要だと言うのは?」
「『神の書』を身に付けることが、唯一の術となる場合があるからです。『神の書』は、身に染み込むほど繰り返し読んで、音から身に付けなければ意味がないことはご存じでしょう?」
長い沈黙があった。導師の態度は、いまや真摯を通り越して、敬虔といえるものに変化していた。
「リリアナ嬢、今となっては、それを知る者は、神殿にもほとんどいないでしょう。まず音から身に付けるというのは、とても……、とても古い方法です。私もはっきりと知るわけではありません。ただ、『神の書』により得るものは人により違うものだと聞き及んでいます。それで呪いから身を守ることができるのは本当なのでしょうか」
「導師さま、わたくしは、必要な知識しか得ることができないのですわ。すべてを知ってはいません。ですけれど、ウィリアム殿下の身を守るためには『神の書』を身に付ける必要があるのは確かですわ」
「わかりました。やってみる価値はあると存じます。少し時間をいただきますが、なるべく早い時期から古い時代の方法を調べてやってみましょう。幸い、古語の発音はローウェル博士もいらっしゃることですし、何とかなるでしょう」