9【狂った時間】
【狂った時間】
部屋の中には、バラエティ番組の後付けされた笑い声が響いている。ただ、その笑い声は雰囲気を明るくすることはなく、むなしさを感じた。
テーブルの上に緑茶の入ったコップを置くと、音瀬が俺を見て痛々しく笑った。
「ありがとう」
二ノ宮達にパフェを奢って帰ってきたら、家の前に音瀬が立っていた。その、状況に戸惑っている所に、更に佐原から電話が掛かってきて……。そして、音瀬と佐原が別れた事を告げられた。
そんな事を告げられて何になる。だからって、音瀬が俺の事を――。
『でも、侑李はお前の事が好きだったんだ』
『今だから言うけどさ、侑李はあんたの事が好きだったのよ』
以前聞いた、佐原と二ノ宮の言葉が反響する。でもそうだ、音瀬は俺の事を“好きだった”んだ。
「跡野くん、今までごめんなさい。今までずっと跡野くんの事を避けていてごめんなさい」
「いや、大丈夫だ。色々と事情は二ノ宮と佐原から聞いてる」
「そっか、江梨子ちゃんと佐原、くんが」
止めろ、そうやって俺に分からせようとしないでくれ。二人が別れた事なんて知りたくもない。俺はもう音瀬の事を諦めたんだ。もう、音瀬への思いは過去に置いてきた。俺は、友達の恋が終わった直後に希望なんて抱きたくない。
「跡野くん、私の話、聞いてくれる? 聞きたくないかもしれないけど」
「…………それを、話すために来たんだろ。聞くさ」
俺はテーブルを挟んで音瀬の前に座り、テーブルの影で拳を握って震わせながら言った。その俺に、音瀬は穏やかな笑顔を浮かべた。
「やっぱり、跡野くんは優しいね」
◇◆◇
「跡野先輩! 嫌だ、先輩! いやです! 先輩! 嫌、いや、イヤ……イヤァァアアアッ!!」
跡野くんがトラックに引かれるのを見て、すぐに江梨子ちゃんが救急車を呼んでくれた。周りに居た大人の人達も手を貸してくれた。香織ちゃんは、必死に跡野くんに手を伸ばして泣いてた。
でも、私は何も出来なかった。
ただ、交差点の真ん中で倒れてる跡野くんを見て……ただ見てるだけしか出来なかった。
こんなの嘘だ。きっと夢だ。ほんと、嫌な夢見ちゃったな。明日良いことあるといいな。そんな事ばっかり考えて、目の前の現実をしばらく認められなかった。
「侑李ッ! 侑李ッ!!」
気が付いたら、私は江梨子ちゃんに体を揺さぶられてた。江梨子ちゃんは涙を一杯溜めて、それで私に泣きついてた。
「跡野が、跡野が救急車で運ばれちゃった……どうしよう、どうしよう……」
あんな江梨子ちゃんを見るのは初めてだった。いつもニコニコしてて、跡野くんをからかって楽しんで。ちょっとツンツンしてて話し掛けづらい江梨子ちゃんじゃなかった。そんないつもと違う江梨子ちゃんを見て、やっと私は、現実が見えた。
それで、現実が見えた途端に、私は凄く最低な人間になった。
「先輩、先輩……」
歩道の真ん中で、香織ちゃんが両手で顔を覆いながら、ずっと跡野くんを呼んでた。それを見て、私はもっと最低になった。
江梨子ちゃんを離して、私は香織ちゃんに近付いたの、それで……。
「あなたのせいよ! あなたが居なかったら跡野くんはこんな事にならなかったのにっ! 跡野くんが……跡野くんが戻ってこなかったら、私はあなたを絶対に許さないっ!!」
気が付いたらそう言っちゃってた。香織ちゃんは悪くないのに。跡野くんだってそんな事望んでないのは分かるのに、私は香織ちゃんを責めてた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
香織ちゃんは、ガタガタ体を震わせて必死に何度も何度も私にそう言ってた。それを見ても当然気分が晴れるわけなんかなくて。でも、私はその時、嬉しさも悲しさも苦しさも、何も感じなかった。
跡野くんが事故に遭った次の日、どうしても学校に行く気がしなくて、学校を休んだ。一度休んだら止められなくて、二日三日、一週間、二週間、気が付いたら一ヶ月になってた。
その間、江梨子ちゃんが毎日電話やメールをくれて、家にも来てくれてた。でも、会えなかった。ううん、会う気が起きなかった。私はきっと、跡野くんが来てくれるのを待ってたの。何時も通りの明るい声で「心配掛けて悪かったな」って「いや~参った参った、車に轢かれるとは思ってなかったよ」なんて、冗談めかして笑う跡野くんが来てくれるのをずっと待ってたんだと思う。でも、跡野くんが来ることはなかった。
江梨子ちゃん以外にも毎日家を訪ねてくれる人は居たの。それが佐原くん。佐原くんはインターホン越しに「みんな心配してる」「戻ってくるのを待ってる」そう言ってた。
一ヶ月を過ぎた日に、私は始めて訪ねてきた佐原くんの言葉に応えた。けど、私は佐原くんに聞いたの「跡野くんは元気?」って。そしたら、モニター越しの佐原くんは俯いて、それで「生きてる。跡野は無事だ。……でも、意識が戻らない」って。
それを聞いた瞬間、体の力が全部抜け落ちてフローリングの上に座り込んでた。それで、私はもっともっと最低になって、目の前に垂れ下がったインターホンの受話器に私は怒鳴り付けてた。
「そんなの無事じゃない! 適当な事言わないでよッ!」
どうして、私あんな事言っちゃったんだろうね。佐原くんが私に心配させないように言葉を選んでくれたって分かったはずなのに。
「……すまない」
その日は、そう言って佐原くんは帰っていった。佐原くんが帰っていった後、私はもっともっともっと最低になった。
あの時、跡野くんの腕を掴んで止めればよかった。跡野くんが居なくなっちゃうくらいなら、香織ちゃんが居なくなった方がよかった。そう思ったの。本当に気持ち悪いよね。私も、本当に自分が気持ち悪いよ。凄く最低で気持ち悪くて――。
跡野くんの意識が戻らない。それを知ってから、毎日同じ夢を見るようになった。部活で楽しく話している途中で、急に跡野くんが居なくなっちゃう夢。
私は、すごく怖かった。跡野くんにもう会えないんじゃないかって。そんな時、また佐原くんが家を訪ねてきてくれた。それで、何時も通り「みんな心配してる」「戻ってくるのを待ってる」って言ってた。でも、その日は少し違った。
「跡野の事は忘れよう。俺達は、前に進まなきゃいけない」
そう言った佐原くんは、インターホンのモニター越しで分かるくらい、辛そうだった。
佐原くんの言葉を聞いた私はね……ああ、その方が楽だな、そう思っちゃった。本当に最低……。でもね、もっと、もっともっともっと私は最低な事をしちゃった。
「佐原くんが忘れさせてくれる?」
…………ごめんなさい、じゃ済まされない事をしてしまったと思ってる。佐原くんが本当に私の事を好きで居てくれて、ただ私を元気付けてくれようってしてくれてたのに……。私は、跡野くんがもう戻ってこないかもしれない事から逃げるために、人間として最低な事をしちゃったの。
私、跡野くんの事が好きだったんだ。ずっと、ずっと前から好きだった。それで江梨子ちゃんと佐原くんにも相談してたんだ。だけど、跡野くんはもう遠くに行ってしまった。もう、私の声も手も届かない所に行っちゃった。そう思った瞬間に、私は跡野くんの事を忘れなきゃって思った。でも、自分だけで跡野くんを過去の人にする事なんか出来なくて。それで、それで、佐原くんを利用したの。
私は、佐原くんを跡野くんの代わりにしちゃった。跡野くんと行きたかった水族館やプラネタリウムも佐原くんと行った。跡野くんとしてみたかった部活帰りに手を繋いで帰る事も佐原くんとやった。絶対に初めては跡野くんとしたいなって思ってた、キスもなにもかも全部、佐原くんとした。
本当に、私は、酷い事をしちゃった……。
◇◆◇
最悪の告白だった。好きと言われる事が、相手を知る事がこんなにも苦痛だなんて知らなかった。
音瀬が言った事全てを事実だとは言い切れない。音瀬が自分を責めるために酷く誇張したかもしれない。逆にもっと苦しく辛い何かを隠したかもしれない。どちらにしても、音瀬が酷く傷付くのは変わらない。
俺のせいで、音瀬はこんなにも自分を傷付ける人間になってしまった。俺が、そうさせてしまった。
俺は一体何様なんだ。家族の時間を止め、部活を動揺させ、佐原に辛い選択をさせ、二ノ宮に負担を掛けさせ、駿河に辛いトラウマを持たせてしまって……そして、音瀬に至っては人間性まで大きく変えてしまった。
音瀬は、二ノ宮ほどゲラゲラ笑わない。駿河ほどニコニコ笑わない。いつもニッコリと穏やかな笑みを浮かべて見守っている。決して器用な人間じゃないが、丁寧に一生懸命仕事をこなす真面目さを持っている。結構人見知りで初めての相手だと緊張して何も話せないような人間。だった……。そんな音瀬を変えてしまった。
俺にはそんな力はない。俺には社会を、誰かを変えていい権限なんてない。誰かを変えたいなんて身の程知らずな事を思った事も無い。なのに、俺は何様なのだ。
「ただの言い訳だけど、どんどん最低になっていくのが分かって、そんな最低な私を見せたくなくて跡野くんのお見舞いにはいけなかった。それで、事故から十ヶ月後、跡野くんの意識が戻ったって聞いた時、私は今までした事への後悔が押し寄せてきた。でも、もうその時には遅かった。私は、底が見えないくらい最低になってた」
音瀬は、自分で自分の体を抱き、体を小刻みに震わせる。まるで寒さを我慢するように。いや、何かに怯えるように。
「こんな自分を見られるのが怖かった。最低になった私を跡野くんに見られたくなかった。だから、今までずっと跡野くんの事を避けてた。だけど、ごめんね」
音瀬は震えながら、怯えながら、俺の目を見て言った。
「それでも、跡野くんの事が好きなの」
ずっと憧れていた相手からの告白。密かに想いを寄せていて、遂に踏み出せなかった相手からの告白。でも、喜びはなかった。ただただ、申し訳ないとしか思えなかった。
あの時、俺が事故にあった時の記憶は定かではない。でも、二ノ宮や音瀬に聞いた状況では、何度考えても、いや……考えるまでもなく選択肢は他になかった。だから、俺がやった事は間違いではない。とは思う。間違いではないと思う反面、現実に俺は周りの人間に対してマイナスな影響を与えている。そして、俺にはそれを償える何かはない。
過ぎ去った事を振り返り後悔する事は出来ても、過去を帳消しに、過去をやり直す事なんて出来ない。
それでも、思ってしまう。どうすれば、みんなを楽に出来るのだろう、と。
「ごめんね、こんな話で好きって言われても困るよね」
「…………」
「佐原くんと別れたばっかりなのに、こんな事言うなんて、やっぱり私は最低だね」
「…………」
何も言えなかった。でも、分かった事がある。音瀬達の時間をめちゃくちゃにしたのは俺だという事。そして……。
俺が目覚めなかったら、みんな悲しい思いをしなくて済んだ事。
ベンチに座り、ボーッと太陽を眺める。眩しい、でも太陽を見たら少しだけ心が温かくなる気がした。
「先輩、おはようございます」
「おう、おはよう駿河」
ベンチから立ち上がり、目の前に居る駿河に笑顔を向ける。グレーだが全体的に大きな花柄が施され爽やかさを感じるミニ丈のワンピース。そのワンピースの裾からスラリと伸びる細くて綺麗な足。いつも見る駿河よりもより大人っぽく女性らしく見えた。
「先輩?」
「ん?」
「いえ、何でもありません。早速行きましょうか」
ニッコリ笑う駿河と並んで、駅から出るショッピングセンターへ向かうバスに乗り込む。
俺が意識を失っている間に出来たショッピングセンターは、いわゆる大型複合商業施設というもの。敷地面積はかなり広く二階建てで、中には沢山のファッション系ショップの他、小物雑貨等を販売するショップという若い女性向けのショップから、主婦層向けの大きなスーパーマーケット。更には様々な食事処が集まったフードコートまである。もちろん、一般的な飲食店もあり落ち着いて食事を取ることも出来る。
今回はそんな色んな店が集まったショッピングセンターにある映画館で映画を観るのが主目的だ。
「まずは昼飯だな」
「はい、先輩は何か食べたい物とかありますか?」
「う~ん、あそことかどうだ?」
「えっ?」
俺が指差した店を指差して、駿河が驚いた声を上げる。なんだか意外そうな表情までしている。
「どうした?」
「いえ、私もあのお店入ってみたくて。パスタのお店なんですけど、値段が安いのに美味しくて雰囲気も良いって、マネージャーとかクラスの女子で言ってたので」
「そうか、じゃああそこに入ろう」
店内に入って座席に案内され、席に着くと駿河が目を輝かせてメニューを見詰める。
「どれも美味しそうですね!」
「そうだな、結構迷うな~これは」
二人してメニューの端から端まで目を通して吟味し、パッと同時にメニューを閉じる。
「先輩は何にしました?」
「俺はグラナ・パダーノチーズとベーコンのトマトソーススパゲティにするよ」
「なんか、お洒落で先輩らしくないですね」
「なんだよその微妙なイメージは」
「いえ、先輩はもっと大盛りナポリタンとか頼むのかなって思って」
「まあ確かにそっちも魅力的だけど、せっかくだから日頃食べないようなのを食べようかと思って。で? 駿河は何にしたんだ?」
「私ですか? 私はマッシュルームとエビのクリームソーススパゲティです」
「そうか。なんか、女の子らしいな、やっぱり」
それから、俺と駿河は他愛の無い話をした。全国大会で泊まる宿舎がなかなか綺麗な所で楽しみだとか、遠征資金を貯めるためにみんなで物品販売をしてるとか、そんな話だ。マネージャーにもノルマがあるらしく、駿河の分に協力してやる約束もした。
「やっぱりあの店に入ってよかったですね」
「おお、そんなに高くないのに美味かったからな」
駿河は実にご機嫌のようでいつもよりもニコニコ笑っているように見える。とりあえず、それを見てホッとした。
次は主目的である映画だったが、エスカレーターで二階に上がった瞬間に駿河の足が止まる。
「あ、あんなに並んでる……」
今日は週末。普通の人ならほとんどが休日であるからか、ショッピングセンターの中は人で溢れていた。そして、当然の如く映画館ではチケットを買い求める客で長蛇の列が出来上がっていた。
「え……に、二時間待ち……」
列の最後に立っている係員が『二時間待ち』と書かれたプラカードを掲げている。何人かの並ぼうとしていた客がそのプラカードを見て並ぶのを断念するのが見えた。
「先輩、どうしましょう」
「どうしましょうって、チケット買いに行くぞ」
「え、でも、二時間も並ばないといけないなんて」
「はぁ~、駿河。ちょっと俺について来い」
せっかく機嫌が良かったのに、目に見えるほどテンションを下げた駿河を連れて、映画館の受付のある方向に歩いて行く。そして、映画館の受付前を通り過ぎ、端にある機械の前に立った。そして、スマートフォンを開き、画面に番号を入力して料金を支払う。すると、機械から映画のチケットが発行されて出てきた。俺はその二枚のチケットの片方を駿河に差し出す。
「ほれ」
「先輩、これ……」
「あれ? 君を忘れるって名前の映画だったよな? もしかして間違えたか?」
「い、いえ、合ってます! でも、なんで」
「昨日ネットで予約してたんだよ。駿河は映画のチケットの話まではしてなかったから、多分予約してないんだろうと思ってな。こんな人が多いって分かってる日に並ぶのは大変だろ? それに、そもそもチケット買えなくて見れないかもしれないし」
俺が意識を失う前にも、チケットを事前に予約できるシステムはあった。昨日のうちにとりあえず真ん中の席を二つ予約しておいて、今日ここで発券機に料金を払おうと思っていたのだ。駿河はすっかりその事は頭の中にないと思っていたが、やっぱり俺の予測通りだったようだ。
「あ、あの、お金払います」
「いや、ここは奢りな。ちょっとは先輩に見栄を張らせてくれ」
「で、でも、昨日割り勘だって――」
「昼飯は割り勘って約束したけど、映画の方はしてないだろ?」
「で、ですが」
「はいはい、せっかく映画観るんだから気持ちいい気分で観たいだろ。だからこれ以上はでももですがも無しだ」
「は、はい! ありがとうございます」
人によっては座席とかのこだわりがあって先に決めてしまったのはマズイかと思ったが、どうやら駿河は素直に喜んでくれたようでよかった。駿河が楽しめているならよかった。
その後、少し時間を潰してから映画を観た。内容は、記憶喪失の宣告をされた少年と友人の交流を描いた青春ラブストーリーで、隣で駿河はハンカチで目元を拭いながら観ていた。
俺はその映画を観て、不謹慎にも記憶を失える主人公を羨ましいと思った。
映画も観終わり俺と駿河はバスに乗って駅に戻った。そして、駅から昨日と同じ道を歩いて帰る。
「先輩、今日は本当にありがとうございました」
「いや、久しぶりの駿河からのお願いだったからな。それに駿河が楽しそうで良かった」
「はい!」
やっぱり駿河は笑顔だ。良かった。
「じゃあ、私はここで」
昨日と同じ分かれ道の十字路。そこにたどり着いた時、駿河が元気の良い声でそういう。
「今日もここでいいか?」
「はい! ここで大丈夫です」
「じゃあ、気を付けて帰れよ」
「はい!」
タタタッと駆けていく駿河を見送り、俺も自分の帰り道に向かって歩き出す。
「良かった……」
駿河と分かれた途端、体が一気に重くなる。
昨日、音瀬の話を聞いて、音瀬からの告白を受けて、俺はその告白を受けなかった。ずっと好きだった人からの告白を断る。それは辛い話と共に告白されたから、そんな理由だけではなかった。
俺は、周りの人を変えた。それも悪い方向に。そして、周りの人の心に暗い部分を作ってしまった。悲しみ苦しみ、憎悪嫌悪、そんなネガティブな物を、俺がみんなに作ってしまったのだ。それに気付いたとき……俺は俺自身を恐ろしく感じた。
俺が事故に遭わなければ。そうは考えなかった。何故なら俺が事故に遭わなかったら駿河が事故に遭っていた。それはあり得ない、あってはいけない事だ。だから、俺は後悔した。
自分が目を覚ました事を。
俺が目を覚まさなかったら、きっと俺は時間の中に置いて行かれていつの日かみんなの記憶から消える事が出来ただろう。サッカー部もみんなで協力する部活に変わってから問題なく運営できていたみたいだ。二ノ宮達もマネージャーの仕事が出来ていた。佐原も好きな音瀬と付き合えて幸せだった。音瀬も時間が経てば俺の事を忘れて佐原と幸せになれた。駿河も、責任を感じて俺を見舞いに来てくれていた。でも、いつか時間がその重荷を軽くしてくれていたはずだ。
人は忘れる事が出来る生き物だ。忘れる強さを持った生き物だ。
でも俺が目を覚ましたせいで、全てを崩した。
円滑に運営できた部活を活動禁止の危機に遭わせた。佐原は俺の気持ちと音瀬の気持ちを知っていて音瀬と付き合った事を俺に謝らなければいけなくなった。音瀬は俺が目覚めたせいで自分を酷く責めて傷付けなくてはいけなくなった。駿河は、俺が目を覚ましたせいで事故のトラウマを引き摺り出された……。全部、全部、俺が目を覚ましたせいだ。
これ以上、身近な人を悲しませたくはなかった。だから、今日も駿河が嫌な思いをしないように、悲しい思いをしないように頑張った。でも今日は、なんとか駿河を悲しい思いにさせずに済んだようだった。
「ハァハァ……」
重い体を引き摺ってゆっくりと歩いていた俺の前に、脇道から人影が飛び出してきて息を上げながらこちらを見ている。その顔は、楽しいとか嬉しいとか、そういうポジティブな顔にはほど遠い、酷く痛みを我慢しているようなそんな顔だった。
「ハァハァ、せ、先輩、奇遇ですね……」
「駿河……どうして……」
全力で走ってきたのか息を荒くする駿河は、俺の右腕を掴んで引っ張る。俺はその駿河に為す術もなくついていく。
駿河は近くにあった公園に入り、その公園のベンチの前に立って俺に真っ直ぐ視線を向けてくる。
「何かあったんですか?」
「え?」
「今日、会った時から先輩ずっと変でした。ずっと私の顔色を窺って、私が笑ったらホッとした表情をして。いつもの先輩じゃなかったです。私と映画観に行くのが嫌でしたか?」
「そんなことは――」
「じゃあ、何かあったんですね。先輩が無理したり私の顔色を窺ったりしないといけなくなる何かが」
今日一日の俺の頑張りは、無駄だった。全部、駿河に勘付かれていた。
「話して下さい」
俺は、駿河に昨日の音瀬との事を話した。でも、駿河に対しての事や俺への告白の事は伏せた。音瀬が酷く自分を責めていた。そんな事を話した。
俺の話を聞いて、駿河は俯いて声を地面に落とした。
「私、跡野先輩が音瀬先輩の事を好きで、音瀬先輩が跡野先輩を好きな事は、実は知ってたんです。跡野先輩の方はたまたま二ノ宮先輩と話してるのを聞いてしまって、音瀬先輩の方は、マネージャーで話している時に話題に上がって」
「そうか……」
「でも、私が言っちゃうのはルール違反だったし……それに……」
「いや、俺は誰も責める気はないよ。結局、告白できなかった俺が悪いんだ」
謝ろうとした駿河に言うと、駿河は何かを言おうとして口を開き、首を横に振ってそれを止めた。
「俺は、目を覚ましてから色々変わってる事に結構辛かったんだ。街の景色も違ったし、俺が知ってた常識が通用しなくなってる事が沢山あった。まるで違う世界に来てしまったみたいに感じて、不安になった。でも、佐原や二ノ宮、それに駿河みたいに変わらず接してくれる人達も居て、安心した部分もあった。でも、やっぱり全て同じようにってのは無理だって気付いたよ。佐原が俺に謝った事、二ノ宮に聞いた事故後の話、それに、その事故のせいで駿河に深い傷を負わせたこと。それが全部俺のせいだって思ったときに、凄く自分が怖くなった」
「そんな、先輩は何も悪くは」
「悪意がなくても人は傷付くんだ。でも、人を傷付けた事は変わらない。平等に、傷付けたやつが悪いんだ。俺は、自分の傷付けた人達を見て、後悔したよ。意識が戻らなければ良かっ――ッ!?」
左頬がヒリヒリする。左耳に耳鳴りがする。少しだけ頭の中がグワングワンと揺れている。そして、俺の視線の先には俺の方をキッと睨んで右手を振り抜いた駿河が居た。
「……あっ、すみません! 私、なんで、こんな事を……」
ハッと我に返った駿河は、今、正に俺の頬を打った自分の右手を見て、そう慌てながら謝った。そして瞳から大粒の涙を流した。
「駿河」
「意識が戻らなければ良かったなんて、言わないで下さい!」
「でも……」
「私はずっとずっと待ってたんです! 先輩が目を覚ましてくれるのをずっと待ってたんです! それなのに、意識が戻らなければ良かったなんて、そんな事言わないで下さい! そんな……そんな悲しい事、言わないで……」
どうやっても人を傷付けてしまう。目の前で誰かが苦しんでいる所なんて見たくないのに。目の前で、誰かが泣いている所なんか見たくないのに。
俺は、いつだって間違えて、いつだって人を傷付けてしまう。
「先輩、ぶっちゃってごめんなさいっ!」
走り去って行く駿河に声を掛ける事は出来なかった。何か声を掛けようとした所で、言葉を出す事を止めた。その言葉がまた間違えそうで怖かった。また、駿河を傷付けてしまいそうで怖かった。
だから、俺は、何かしなければいけないその時、何も出来なかった。