7【行き先】
【行き先】
五月末、既に夏の兆しが見え始める頃、夏のインターハイ予選が始まる。そのせいか、駿河は忙しそうでクラスにいる時も深く息を吐くのを見る機会が増えた。
「ユーイチ、カオリの元気が無いデス」
「サッカー部の大切な試合が始まったからな。マネージャーの駿河も気を遣うだろう」
駿河を見て心配そうに話すセリアに、俺はそうやって説明するしかなかった。
俺の方は、ほぼほぼ全快した。なまっていた体も頭の怪我もほぼ元通りになっている。
「ユーイチ、カオリが嬉しい事をしまショー!」
「駿河が嬉しい事か……」
駿河の嬉しい事といえばなんだろう。……ダメだ、甘い物を奢るくらいの事しか思い浮かばない。
「セリアは、何をすれば駿河は喜ぶと思う?」
「ウーン、おいしー物を食べるデスカネー?」
どうしよう、二人して思考結果が変わらない。
「香織、行くわよ」
「は、はい!」
今日は県予選一回戦の日で、駿河達サッカー部は学校の途中で予選に向かう。
二ノ宮に呼ばれた駿河が立ち上がり、慌てながらスポーツバッグを肩に掛けた。
「オウ、ナイスキャッチ!」
俺は駿河のスポーツバッグから落ちたスポーツドリンクのペットボトルを、地面に落ちる前に掴み取る。それにセリアが拍手で反応した。
「駿河、緊張するのは分かるがリラックスしろ。マネージャーがガチガチだったら選手も硬くなる」
「は、はい!」
返事にはまだ硬さが残ってる。俺は駿河の後方にいる二ノ宮に視線を向けた。
「二ノ宮、本当に去年も駿河はマネージャーをやってたのか? 一度経験してる割にはガチガチだぞ」
「香織は大会の時は毎回こんな感じよ。だから迎えに来たんじゃない」
「そうか、まあ二ノ宮が居るなら大丈夫だな。そうだ、駿河」
「は、はひぃ?」
さっきよりも更に硬くなった気がする駿河に、俺はニッと笑って言った。
「佐原に約束忘れるなって言っておいてくれ。言えば分かるから」
「約束、ですか? は、はい! 必ず伝えておきます!」
「はいはい、時間ないから行くわよ。じゃあ跡野、行ってくるわ」
二ノ宮が駿河の腕を引き、廊下まで連れていく。その後ろ姿を俺は言葉で押した。
「おう、頑張れよ」
それに二ノ宮が振り返り、不敵な笑みを浮かべた。
「香織! 跡野が優勝したらパフェを奢ってくれるって。よし、意地でも優勝するわよ!」
「は、はいっ!」
「あっ! こら、二ノ宮! 勝手なことを――って、逃げやがった……」
あっという間に走り去った二ノ宮に、俺は椅子にドサリと腰を落として笑った。
「全く、この前奢ってやったばかりだってのに」
しばらく二ノ宮達が走り去っていった扉の方を見ていると、すっと隣に人影が近付いて来るのを感じた。
「あ、あの、跡野先輩」
話し掛けてきたのはクラスメイトの男子で、何やら恐る恐る探るような態度だった。
「先輩はやめてくれ。どうしても話しにくいならさん付けでも可だ」
「跡野さん、跡野さんは二ノ宮先輩と仲が良いんですか?」
「二ノ宮? まあ、サッカー部だった時に同じ部員だったしな。仲が良いと言えば仲が良いな」
「あ、あの! 二ノ宮先輩は今、彼氏とか居るんですか!?」
「二ノ宮の彼氏? そういえばこの間、彼氏と別れたって言ってたな。その後は分からん」
「そうですか……」
俺が男子の質問に答えていると、隣からセリアが俺の肩をつつき、耳打ちをしてくる。
「彼はエリコがきっと好きなのデス」
「だろうな」
俺は仕方なく。彼に希望を与えることにした。
「そういえば、付き合う最低条件が自分から告白出来るかどうかって言ってたな。って事は、男らしくアタックしてくれるやつが居ると好きになるかもしれんな」
「そ、そうですか! ありがとうございました!」
喜んだ様子で去っていく男子に「二ノ宮は手強いぞ」という注意をしなくて良かったのかとも思ったが、まあ、注意をしてどうにかなるものでもないし、大丈夫だろう。
「エリコは美人だからモテモテ、デスネ!」
「見た目は抜群に良いからな」
「オウ? ユーイチもエリコみたいな女の子好きデスカ?」
「顔は可愛いと思うぞ。性格も表面だけ見なければいい方だ。ただ、俺は友達にしか見えないな」
「オー、エリコが振られました」
「セリア、これは二ノ宮に内緒にしておいてくれよ。あとが怖い。きっと跡野ごときが私を振るとか一度鏡を見てこい、って怒鳴られそうだ」
「オーケー、ワタシとユーイチのヒミツデース!」
グッと親指を立てて右手を突き出し、パチッとセリアがウインクする。
セリアの反応を見てから俺は、もう出発したであろう駿河達の事を思いながら、窓の外を眺めた。
きっと、佐原達は勝つだろう。そう信じる事が出来たから、全く不安感はなかった。ただ、緊張している駿河が失敗して凹まないか、それが心配だった。
六月の頭。丁度授業終わりに夏のインターハイ県予選準決勝に挑んでいたサッカー部が夕方になって戻ってきた。そして、サッカー部が決勝まで残った事はすぐに全校に広がった。
「一先ず良かったな、駿河」
「はい! 跡野さんのお陰です!」
教室に戻って来た駿河に声を掛けると、そう返ってきた。
「いや、俺は何もしてないんだが……」
「そんな事ないです! 佐原キャプテンに、跡野さんの伝言を伝えた途端に佐原キャプテンの雰囲気が変わって、それで一回戦からずっと危なげなく勝てて!」
「そりゃ、チームが安定して実力を出せてるからだ。紛れもなくチームの力だろ。俺が何かしたわけじゃない」
「そうなんですけど、やっぱり佐原キャプテンの気合いの入り方は、跡野さんの影響なのは間違いないです! 一体何の約束を?」
「そりゃ、男の秘密だ」
「そんな……教えて下さいよ」
残念そうに顔を歪めてこちらを見る駿河。そんな駿河を見て、今更優勝旗を持ってこいという普通な約束だとは言えない。ここは秘密のまま押し通す事にしよう。
「決勝はいつなんだ?」
「中一日開けた明後日です」
明後日は平日で学校もあるが、試合会場も近いし全校生徒で応援をするかもしれない。今年のインターハイ、団体競技の部で決勝まで残っているのはサッカー部だけだ。その状況を考えればあり得ない話ではない。
「中一日か、ちゃんと休息は取らないとな」
「それで、なんですけど、今日これから決起集会をする事になったんです。食事会という形なんですが、決勝前にみんなで気合いを入れようって」
「いいじゃないか。決起集会もやって決勝後に祝賀会もやれるといいな」
「はい、それで……その決起集会に跡野さんも――」
俺は駿河に笑顔を向けて鞄を手にして席を立つ。そして、目をセリアに向けた。
「セリア、ちょっと放課後時間あるか?」
「ハイ? でも……カオリは」
セリアは視線を駿河に向け、駿河も俺に視線を向けて口を開こうとする。俺は駿河が言葉を口にする前に、その言葉を遮る様に言葉を口にした。
「聞いてなかったのか? 駿河はこれから部の食事会がある。それに試合終わりで疲れてるんだから遊ぶのはまた今度な」
「分かりマシタ。では、カオリ! イッパイ食べて、元気になってくだサイ! ああ! ユーイチ、ちょっと待ってくだサイッ!」
俺は鞄を肩に掛けて教室から廊下に出る。後ろからセリアが俺にそう言いながら走ってくる音が聞こえた。
駅前には様々な店が集まっている。商店街という下町情緒溢れるというよりも、近代的な商業区という雰囲気だ。
そんな駅前の商業区に足を伸ばした俺とセリアだったが、さっきからセリアがムスッとした表情をして俺の隣を歩いている。
「ユーイチ、何でカオリのお誘いを断ったデスカ」
「なんでって、あれはサッカー部の決起集会だぞ。俺はサッカー部じゃないんだから参加する理由がないだろ」
「デモ! ユーイチはサッカー部だったと言ってまシタ!」
「元サッカー部だからって、今のサッカー部の活動に首突っ込んでいいわけじゃないんだぞ」
実際、俺は二ノ宮の頼みがあったとしてもサッカー部の内情に関わって、そのせいでサッカー部を活動禁止処分にさせるところだった。処分は避けられたとしても、部員間のわだかまりは確実に作ってしまった。それに、そのせいで駿河や二ノ宮に嫌な事を思い出させてしまった。
俺はサッカー部を辞めると決意して退部した。でも、佐原や二ノ宮、そして駿河と過ごした思い出が俺の決意を鈍らせたのだ。そのせいで、その中途半端さが問題を起こしてしまった。
本来なら、二ノ宮の相談も断るべきだったのかもしれない。きちんと顧問の先生に話して対処してもらった方がいいと言うべきだったのかもしれない。でも、二ノ宮の力になりたい、なにより駿河の不安を取り除きたい、そんな俺の自己中心的なおごりが事態を深刻化させてしまった。
だから、佐原や二ノ宮、そして駿河を含めた部員への関わり方は変えないにしても、部へ関わる事は避けた方がいい。それが、俺や部にとって一番いいのだ。
「ユーイチはエリコが言ってたとおり、ヘタクソデス」
「唐突に随分酷い事を蒸し返すな」
「ユーイチ、優しいデス。でも、優しいを伝えるのヘタクソデス」
セリアはそう言ってニッコリ笑う。俺はそのセリアの顔と言葉が意外で、驚いた。
「優しくしてるつもりはないんだけどな。それに優しさって人に知ってもらうものじゃないだろ?」
「そーデス。優しいはみんなに知ってほしい! と、言うのはナンセンスです。デモ……誰にも分からない優しいは寂しい、デスヨ?」
「セリアは俺より日本人らしいな」
「ワタシは日本が大好きデスカラ! 日本は素敵デス! 日本人は親切デス。謙虚デス。真面目デス。礼儀正しい、デス。でも、日本人は……イエ、ユーイチはポーカーフェイスです。ポーカーフェイス、良くないデス。怒ってるか分かりまセン。喜んでるか分かりまセン。悲しいか分かりまセン。全部、ユーイチが苦しくなるだけデス」
ニッコリ笑っていたセリアは心配そうに俺の顔を覗き込む。
セリアはいつもニコニコ笑ってうるさいと思うくらい明るい奴だ。うるさすぎるのは困りものだとは思っていたが、クラスの良いムードメーカーになっていると思っていた。でも、実際はそれだけではなかったのかもしれない。
セリアは人をよく見ている。数日前も駿河の元気がない事を直ぐに気が付いた。俺は駿河とそれなりの時間を一緒に過ごしたし、駿河が凹んだ時に何度も慰めた経験がある。だから「ああ、何かあったんだろうな」という程度の気付きは当然出来る。でも、セリアはまだ駿河と付き合い始めて日が浅い。それでも、駿河の変化に気が付けるのだ。それは、セリアがよく人を見ている事もだが、そもそものセリアが持っている感受性が鋭いのかもしれない。その感受性に、今度は俺が引っ掛かったようだ。
「セリアみたいにはっきり感情を表現出来ればいいんだけどな」
「練習するデース! ハイ! 喜んで下サイ!」
「む、無茶苦茶な練習だな……」
セリアが両手を腰に置いて胸を張りながら言う。そのセリアに、俺は引きつった笑顔を作って返した。
「オウ! そういえば、ユーイチの用事は何なのデスカ?」
「ああ、駿河が元気ないって言ってただろ。だから、なんか元気が出るものをプレゼントしようと思って」
「オー! それはとても良いアイディアデース!」
両手の平をパンッと合わせてセリアはそう言う。まあ、元気のない駿河に元気が出るものを、というのももちろんだが、この前の件で心配させてしまった事へのせめてものお詫びのつもりだ。二ノ宮にも心配させてしまったが、あいつは勝手にパフェを奢る約束をでっち上げやがったから今回は無しだ。
「それで、女の子のセリアに選ぶのを手伝ってほしいんだ」
生憎、俺の女子の知り合いはサッカー部のマネージャーとセリアしか居ない。同級生はみんな年下だから、俺とみんなの間には絶対に取り除けない壁がある。だから、セリアに頼むしかなかった。
「ウーン、ユーイチが一生懸命選んだものなら、きっとカオリは何でも嬉しいデス」
「まあ、駿河は優しいから喜んで受け取ってくれるだろうけど、やっぱり女の子だから何をあげればいいのか分からん」
「そうデスネー。身に付けられる物にしまショー」
「セリア、俺だって身に付ける物が一番貰って困る物って事くらい知ってるぞ」
「ノーノー! カオリは喜びマス!」
「まあ、セリアからだったら女子だから抵抗ないだろうが、男から身に付けられる物貰っても困るだろ」
実際、二ノ宮がそんな事を言っていた覚えがある。よく知らん奴から残ってしまう物かつ身に付けるような物を貰っても困るのだそうだ。それは、付き合って日数の浅い彼氏からでも重いと感じるようで、だから身に付ける物を贈るのは完全にアウトだ。
「やっぱ食べ物が無難かもな~」
「身に付ける物が良いデス!」
「セリアは俺から身に付ける物貰っても困るだろ?」
「ノー! とってもとっても嬉しいデス!」
ダメだ、これぞカルチャーショック、日本人とイギリス人の違いだろうか? いや、単にセリアが特殊なだけなのかもしれない。
「ユーイチはカオリに身に付けられる物を貰って、どう思いマスカ?」
セリアの質問に、俺は頭の中で想像してみた。身に付けられる物という漠然としたカテゴリーはかなり困る。仮にアクセサリーだったら、俺はアクセサリーを付ける習慣がそもそもないし、アクセサリーは高価なイメージがあるから貰っても悪いと思うしかない。しかし、それがハンカチとかなら、よっぽど有名なブランド物でない限り値段は張らない。それに複数あっても困るようなものではないから迷惑だとは思わない。
「基本的に貰っても悪い気はしないが、あまり高い物とかだと悪いと思うかな。ハンカチとかタオルとかなら」
「なら、早速見に行くデス!」
セリアは俺の手を掴み駆け出す。後ろ姿しか見えないが、それでもセリアが楽しそうなのは分かった。
俺がセリアと出会ってからもう二ヶ月が経つ。でも、俺はせっかく日本に留学に来たセリアに何も出来ていなかった。きっと俺が何もしなくても、セリアのホームステイ先の人達が日本らしいことを体験させようと気は遣ってくれるだろう。セリアが言ったように、日本人の良いところは親切な所だ。だから、俺がそういう気を遣っても些細な物でしかない。
でも、セリアは俺と普通に話してくれる数少ない同級生だ。そんなセリアに日本を楽しんでほしいと思う。それは日本人の親切心だからじゃなくて、セリアの一人の友達としての自然な願望だった。だから、楽しそうに走り出すセリアを見て、少しはそういう事が出来てるのではないか。そう思えた。
「ユーイチ! ゼッタイ、カオリを喜ばせまショー!」
「そうだな。プレゼント選び、よろしく頼むぞ」
その日の夕方、プレゼント選びを終えて帰宅した俺は、自分の部屋で欠伸をしながらベッドの上でテレビに視線を向けていた。画面にはお笑い芸人が映っていてなんだか、無駄に体を張ることに特化されたゲームをやってる。
風呂は入ったし、夕飯も食べた。あとはこのままボケッとして眠くなったら寝るだけ。なんという有意義な時間だろう。そう思っていた俺の耳に、机の上でスマートフォンが震える音が聞こえた。
「誰だ?」
手を伸ばして机の上からスマートフォンを取る。そして、画面を見ると『二ノ宮』という文字が目に入った。
「もしもし二ノ――」
『マジ迷惑なんだけど』
「おい、もしもしはどうしたもしもしは。それに二ノ宮から電話を掛けて来たんだろうが」
電話に出た途端、脈絡のない批難を浴びせられる。その批難に抗議をしていると、電話の向こう側から騒がしい男の声が沢山聞こえた来た。
「そういえば、決起集会だっけ? それやってるんだよな?」
『そうよ、焼き肉食べてるの』
まあなんと運動部らしい食べ物だろう。しかし、賑やかな声は聞こえるのに、二ノ宮の声はえらく不機嫌だ。
「なんかあったのか?」
『なんかあったのか? じゃないわよ。跡野、あんた香織になんかやらかしたでしょ』
「やらかしたって、駿河がどうかしたのか?」
電話の向こうから不快ため息が聞こえ、二ノ宮の疲労感たっぷりの声が響く。
『部員全員が決起集会で盛り上がってるって言うのに、香織だけ御通夜に参加してるみたいな顔なのよ。ホント、何しちゃってくれてんのよ、あんた』
「何しちゃってくれてるって、何で俺のせいになってんだよ」
『香織がここまで凹んでるのは、酷いミスした時かあんた絡みだって決まってるの。とりあえず、今日学校帰って来てから香織と何話したか洗いざらい白状しなさい』
「白状って、俺、何も悪いことしてないんだが……」
二ノ宮の一方的な批難に全く釈然としないが、仕方なく駿河が戻ってきてから交わした会話をそのまま二ノ宮に話す。話すと言っても、そこまで長く話す時間もなかったし、すぐに話の内容は話し終えてしまう。
俺が話してしばらく電話の向こう側に居る二ノ宮は黙って居たが、さっきよりも深いため息を吐いたと思ったら、恐ろしく冷たい声が聞こえた。
『あんた、一遍死んでこい』
「おい、なんで俺がそんな事言われなきゃなんないんだよ」
『誘いを断るにしてももっと断り方ってもんがあるでしょうが。だから彼女出来ないのよ』
「全然関係ない事を持ち出して多方面から俺を傷付けるな。仕方ないだろ、サッカー部に関わらないようにしてるって言ったら、駿河気にするだろうし」
『だから、そこは用事があるとか他に言いようがあるでしょうがって話よ。全く、ホント死ねばいいのに』
三度目のため息を吐いた二ノ宮は黙る。すると、電話の向こう側から聞こえる騒がしい声が遠くなり、ガラガラっという引き戸を開けて閉める音が聞こえる。どうやら、店から外に出たらしい。
『ごめん』
「怒って死ねって言ったり謝ったり忙しいやつだな」
『私が巻き込まなかったらこんな事にならなかったから』
「二ノ宮は悪くないだろ。二ノ宮は友達に後輩の事を相談しただけだ。やり方を間違えたのもタイミングを誤ったのも、全部俺だ」
『ほんと、跡野って人に責任取らせないわよね、昔っから』
電話の向こう側から聞こえる二ノ宮の声が、少しだけ明るく聞こえた。
『香織がミスした時は特にそうだったけど、私や侑李がミスしても、他のマネージャーがミスしても、あんたはいつだって全力でミスを帳消しにしようとした。何度もそれで助かった時があったし、もしかしたら私はそんなあんたに期待しすぎてたのかもしれないわ。跡野ならきっとなんとかしてくれるかも、そう思ってたのかも。でも、今思い出せば帳消しに出来た時と同じくらいどうにも出来ない時があって、その度にあんたはいつも正面に立って一人で責任被ってた。それを忘れてたわ』
「チームメイトだったからな。フォローするのは当たり前だ。それに一応、マネージャーの仕事は俺が先輩だったし、監督不行き届きっていう俺の責任があった」
『だからって、あんただけ傷付くのはずるいわ。割と真面目に』
「俺は、傷付いてなんかないぞ。これでも怒られて頭を下げる経験は豊富だからな」
『自慢にならないっつーの』
クスクスと二ノ宮が電話口で笑う。
二ノ宮が入ってくる前は、ほとんど俺がマネージャーみたいなもので、手探りの事が多かったから怒られる事が多々あった。だからいつの間にか謝るのにも慣れていたし、感覚が麻痺していたのか怒られても凹まないメンタルが出来上がっていた。
『恥ずかしいからあんまり思い出したくないんだけどさ。私がミスして泣いた時の事覚えてる?』
「あー、入ってやっと慣れてきたかなって頃に弁当ぶちまけたあれか」
サッカー部では試合等の遠征に行ったときに弁当を注文する時がほとんどだ。その弁当の注文はマネージャーの仕事で、その時初めて二ノ宮が弁当の注文をした。弁当の注文自体は何の問題もミスもなく、丁度昼飯時に弁当屋が温かい弁当を人数分届けに来た。そして、腹が減っていた選手達が弁当を取りに来る直前、簡易テーブルに二ノ宮がぶつかって弁当を全部地面にぶちまけたのだ。
日頃、二ノ宮は多少のミスをしても部員から怒られる事はまずなかった。それは二ノ宮が女子であって可愛いという最大の長所が影響していたのは言うまでもない。その時も、流石に二ノ宮に対して怒鳴り散らす奴は一人も居なかった。でも、雰囲気は端から見ても分かるくらい暗くなった。
『あの時、滅茶苦茶みんなの顔が怖くてさ。まともに見れなくてずっと地面見てた。でも、地面見てても砂まみれの唐揚げとかご飯が目に入って辛くて……堪らなくてさ』
その時、俺は初めて二ノ宮が泣くのを見た。日頃はミスをしても取り乱すことなく、持ち前の愛嬌で乗り切っている二ノ宮が声を出して泣いていたのだ。そんな姿が、見ている俺も堪らなかった。
『そしたらさ、あんた「派手にやったな」って笑いながら言ったの。覚えてるわよね?』
「……覚えてないな」
『そしたら、なんでかそれ聞いた弁当ダメにされた先輩達が「跡野、その言い方はなんだ」って怒り出しちゃって。あんたは先輩に胸ぐら掴まれて引き倒されるし、弁当の事でパニクってた私の頭は真っ白になったわ。他校の先生まで出てきて止めに入る大騒ぎ』
その時の事は鮮明に覚えている。なんせ、当時一年の俺が三年の先輩に掴み掛かられたのだ。その恐怖は忘れられるわけがない。その時は気が付いたら地面に体を打ち付けていて、上からガタイの良い先輩が馬乗りになって殴り掛かってきていた。
『なんとかあんた達を先生達が引き離した後、直ぐに代わりの弁当が来たわ』
「あー、佐原が大会本部まで走って、弁当を直ぐに持って来れそうな業者を手配したんだったな」
『跡野、あの真面目な佐原が黙ってると思う?』
「…………あのバカ、黙ってろって言ったのに」
二ノ宮の言葉に、佐原へ優勝旗とは別に何かを追加してやれば良かったという後悔が浮かんだ。
弁当がぶちまけられるのを見て、俺は音瀬に先生への連絡、佐原に大会本部まで走ってあまりの弁当がないか、もしくは直ぐに弁当を持って来れそうな業者がないか聞きに行ってもらっていた。だが、弁当問題はそれで解決出来ても二ノ宮の状況は解決出来ない。あの二ノ宮が泣いている状況で、俺に出来る事は怒りの矛先を受け持つくらいだった。
『今時、小説や漫画のキャラでもあんなくさいことやらないっての』
「仕方ないだろ。一応俺だって男だ。女子が泣いてるの見て何も思わないほど軽薄じゃない」
『口止めしてたみたいだったから侑李ははぐらかしてたけど、佐原は直ぐに話してくれたわ。佐原が言ってたわよ、跡野は必要以上に責任を被る節があるから心配だって。実際、あの後しばらくあんた先輩達にいびられてたし』
食べ物の恨みは恐ろしいとはよく言ったもので、三年が引退するまで事ある毎にその話題を持ち出されチクチクと言われていた。でも、それを言われる側の人間が俺だったから良かったと思っていた。
『あの時、あんたが先輩達の怒り全部受けてくれた時、ほんの一瞬だけあんたが童話に出てくる白馬の王子様に見えたわ』
「おお、そうだろうそうだろう。ようやく二ノ宮にも俺の魅力が――」
『でも、それの倍以上にふざけんなって思ったわ』
「…………余計な事してすまん」
『全くよ。自分のミスなのに全然関係ない奴が、怒鳴られて殴られて責められるの見せられる方の身にもなりなさいよ』
電話口から鼻を啜る音が聞こえ、少しさっきよりも張った二ノ宮の声が聞こえる。
『とにかく、あんたのその責任取りたい症候群は良いことじゃないの。だからもうちょっと人のせいにしなさいよ』
「なんだか、それだけ聞くとクズ人間みたいなアドバイスだな」
『ふざけないで。だから、責任なんか感じなくて良いから、時々は部活に顔出しなさいよ。佐原も侑李も、香織も喜ぶから』
「分かった。今度は二ノ宮達の友達として顔出すよ」
『よろしい。んで、話は戻るんだけど、あんたやっぱり二、三度死んできなさい』
二ノ宮の声が明るい。多分、電話の向こう側ではニヤニヤして俺をからかう姿勢に入った二ノ宮になっているのだろう。
『それが嫌だったら、ちゃんと香織にフォロー入れる事。分かった?』
「分かった」
『な~んだ、もうちゃんと考えてるのね。電話した意味ないじゃない』
「え?」
『いや、こっちの話よ。じゃあ、そろそろ戻らないと』
「ああ、明日、多分全校応援になるはずだ。応援は任せとけ」
『ありがと、絶対に優勝旗持ってきてやるわ。そんで、あんたの目の前に突き立ててやる』
「期待してる」
電話を切って、机の上にスマートフォンを置き、電話を取る前と同じようにベッドの上に体を投げ出した。
懐かしい話だった。駿河もまだ居なかった頃の、本当に女子マネージャーが活動を始めた初期の話だ。二ノ宮とほぼ変わらないタイミングで入った音瀬はまだまだ頼りなかった。もちろん、やり慣れていた俺がそう思っただけで、本当は一人でこなせる力はあの時に既にあったのかもしれない。もしかしたら俺が過保護になり過ぎたせいで、二人が自信を持てるチャンスを潰してしまったのかもしれない。
二ノ宮達が居なくて、俺がマネージャーの仕事をやっていた時は、一人だった。最初は一年全員の仕事だったのに、いつの間にかBチームの一年の仕事になり、気が付けば俺の仕事になっていた。それを不満に思わなかったと言われれば、多少は不満に思った事はある。そりゃあ、ミスをすれば問答無用で先輩達から怒鳴られ責められる。その頃、同級生でフォローしてくれるのは佐原くらいだった。でも、その佐原も一年で既にサブのキーパーに食い込んで試合に出ていたし、いつでも手伝えるわけじゃなかった。
『下手くそなんだから雑用くらいしっかりやれや』
そんな叱責は何度受けただろう。もう数えるのもバカらしくなるくらい受けたのは記憶にある。
そんな時があったからこそ、一人でやらせないようにしていた。責められて嫌な思いをさせる事を防ごうとした。でもそれが、結果的に二ノ宮や音瀬のためになっていなかったんじゃないか。そう思えてきた。
「俺は、結局誰のためにもなってなかったのか」
一度目を閉じて頭の中から必死にそれを押し出す。そして、目を開くと、スマートフォンよりも奥に置いた小さな箱を見て、二ノ宮の『な~んだ、もうちゃんと考えてるのね。電話した意味ないじゃない』という言葉を思い出す。俺は二ノ宮に、駿河にプレゼントをして元気付けようとしている事は話していない。でも、二ノ宮は俺が何か考えている事を直ぐに気付いたようだった。どうして気付いたんだろう? そう思った。でも、あまり深く考える気にはなれなかった。
頭の中から押し出したものが戻って来て、他の考える余裕が直ぐになくなったから。
授業予定を変更した夏のインターハイ、サッカー部の決勝全校応援。そのために競技場に向かって歩く生徒の列に紛れながら、俺も周りの流れに沿って足を進めていた。
セリアはクラスメイトの女子に囲まれ、遥か後方を歩いて居るだろう。俺はやっぱりクラスに溶け込む事は出来ず、未だにセリアと駿河以外にまともに話せる友達は居ない。
サッカー部の試合がある場所は県の総合運動公園。敷地内には今回の決勝の会場になっているサッカーやラグビーに使用する、自然芝の競技場の他に、野球場、武道場、テニスコート、大きな体育館等の、スポーツ競技に関する施設が集まっている。他の県の事情はよく知らないが、結構スポーツに関する施設は充実している方だと思う。
俺も、何度かこの競技場に来た事がある。どれも選手としてではなくて、大会運営スタッフとかそれこそマネージャーという立ち位置ばかりだったが。
準決勝と決勝では、同じ競技場を使っても雰囲気が全く違う。やっぱりプレイする選手達の雰囲気もそうだが、応援する側の雰囲気が段違いなのだ。
「ユーイチ、なんで先に行っちゃうデスカ」
「セリア、いいのか? 友達と話してたんだろ?」
「大丈夫デス! ユーイチの所に行ってきマス! って言ったら、ガンバッテと言われまシタ!」
「俺と話すのに頑張りが必要なのか……」
「ウーン、みんなユーイチに遠慮をしてるデスヨ」
「まあ、その気持ちは分かるけどな」
留年生に気軽に話し掛けられるのは相当勇気が要る。留年してる側の俺からでもみんなと話すのに躊躇してしまうことが多々あるのだ。逆はもっと話し掛けづらいだろう。
「結局、朝はカオリに会えませんでシタネ」
「ああ、まあ試合前にちょっと抜け出して話す時間は作れるだろう」
応援に来た生徒は教師達の誘導によって競技場内の指定された場所で観戦する。だから選手達と話す暇はないのだが、会場内に入る前に部員達が待機している場所に顔を出す事くらいは出来るだろう。
「イッパイ応援して、ゼッタイに優勝するデス!」
「セリアの応援があればきっと優勝出来るさ」
俺は今回サッカー部が対戦する相手については何も知らない。だから何も根拠はないが、きっと優勝するはずだ。俺が目を覚ましてから見たサッカー部は本当に別物みたいになっていた。上下関係はあるものの、上級生がその立場に甘んじることなく、下級生とも分け隔てなく会話し、下級生よりも雑用を積極的にこなして下級生の手本であろうとしている。そして、下級生はその上級生の背中を見て、上級生を目標として努力をしている。俺が居た頃の、下級生にだけ仕事をやらせて事ある毎に怒鳴り散らす上級生。そして、その上級生にただ怯えながら活動していた頃とは違う。だからだろうか、変な不安感はなかった。
競技場に着いて流れる集団の中から、脇へスッと抜け出す。一緒に抜け出して来たセリアは後ろを振り返って生徒達の集団を見ながら、ニッコリを笑う。
「悪い事をしてる気分デース」
「実際、悪い事してるんだけどな。選手達が待機してるのはこっちだ」
競技場の入り口の方ではなく、そこから少し外れた多目的競技場の方に歩いて行く。この多目的競技場は、大会の予選で使われる事が多いが、大抵決勝の日には選手達の待機スペースとして使われる。セリアと一緒に少し歩くと、すぐにキャンプで使うタープが見えてきた。タープは組み立ても簡単だし、下にビニールシートを敷けば簡単な休憩スペースになる。だから、うちのサッカー部に限らず野外競技の部活ではどこも持っているものだ。
「オー! エリコデース!」
準備をしていた二ノ宮を見付け、セリアが両手を振って二ノ宮の名前を呼ぶ。そのセリアの分かり易く明るい声を耳にした二ノ宮はすぐに顔を上げ、セリアを見付けて手を振った。
「セリア! なんだ、あんたも居たの」
「俺が居なかったらセリアがここ分かるわけないだろうが」
俺を目にした途端、ジトッとした目で悪態を吐く二ノ宮。その二ノ宮に俺も必死の抵抗で言葉を蹴り返す。
「エリコ! カオリは居マスカ?」
「ちょっと待ってて、呼んできてあげるから」
二ノ宮がタープの奥の方に消えていき、俺とセリアはその場でボーッとしながら立っていた。すると、遠くから佐原が俺の方に近付いてくる。そして、その佐原の左側には例の一年、神崎? が、佐原に腕を掴まれて引っ張られるように歩かされていた。
「よう佐原」
「神崎、跡野に言う事があるだろうが」
せっかく挨拶をしたのに、佐原は神崎に視線を向けて俺の方に突き飛ばす。俺の目の前に突き出された神崎は、俺の目を睨み付けた後、吐き捨てるように視線を逸らした。
「この前は悪かった」
「アハハッ! アハハハハ!」
「くっ、わ、笑うな!」
明らかに不本意という感じで突っ張りながら謝る神崎に、俺は思わず声を上げて笑った。俺にとって、先輩と言ったら怯える対象だった。でもこの神崎は一切そんな様子もない。それが俺に対してだけならまだしも、キャプテンである佐原の前でこの態度だ。横柄とか礼儀知らずとも言えるが、俺からしたら面白くて仕方がなかった。やっぱり日本代表に選ばれるには、これくらいの度胸は必要なのかもしれない。
「神崎! その態度は――」
「こらこら、試合前に無駄な体力は使うな。それに、試合前に怒られたらテンション下がるだろうが」
「問題ない。コイツはベンチ外だ」
佐原の言葉に驚いた。日本代表にも選ばれた実力者ならすぐに戦力として使われると思った。でも、実際はそうではなかったようだ。
「お前のおかげで大事にならなかったと言っても、他人を怪我させておいてレギュラーにはさせられない。それが監督を含めた俺達部員全員の決定だ。跡野、改めて今回は済まなかった。そして、本当にありがとう。お前が大事にしないようにしてくれたから、今日のために十分な準備が出来た」
「佐原、俺、お前に頭下げてもらいに来たわけじゃないんだけど」
「ったく、昔っからお前は変わらないな。自分は責任を被るくせに、他人には絶対被らせようとしない」
「それ、二ノ宮にも言われたわ」
「ククッ、そうか。二ノ宮から言われたのなら応えただろ?」
「多分、二ノ宮の言葉が現実に起こったら、俺四回は死んでるな」
可笑しくなって堪らず二人して笑う。そして、笑いが止むと佐原が真っ直ぐ俺を見た。
「絶対優勝してやる」
「おお、頑張れよ」
「セリア~、香織呼んで来たわよ~」
二ノ宮が戻ってきて駿河と一緒に掛けてくる。すると、駿河は俺の顔を見た瞬間にスッと視線を下に落とした。やっぱり、昨日の事を気にしてしまっているらしい。
そんな駿河に困り笑顔を向けていると、視線の端に居た神崎がキッと俺を睨み付けてくる。どうやら、駿河が元気のない原因が俺だと察したらしい。意外と察しが良いようだ。
「駿河先輩、あんなや――」
「セリアさん、応援に来てくれてありがとうございます。なにか私に用事がありましたか?」
案外、駿河はきっつい性格らしい。話し掛けた神崎の真横を、駿河は素通りしてセリアに笑顔を向ける。神崎は神崎で拳を握り締め、俺を睨む。いや、それは俺のせいじゃないだろ……。
「香織はもう完全に神崎を拒絶する事にしたみたい。まあ、あんな事あったんだから当然よね」
「にしてもキツ過ぎないか? 見るに堪えないんだが」
セリアと駿河が話している間に、二ノ宮が耳打ちしてそう言う。好きな女子から完全に無視されるというのは、流石に強いメンタルの持ち主でも応えるようだ。
「言っておくけど、香織ほど露骨じゃなくてもマネージャー陣は新一年以外全員神崎の事嫌いよ。新一年以外はみんなあんたの世話になってるし」
「神崎、一年にはモテるのか?」
「サッカーは上手いし、日本代表ってブランドがあるからね。それだけでバカな女は引っ掛かるわよ」
「後輩にバカ呼ばわりは酷いだろ」
「まだ遠巻きに見て憧れてる程度だから、関わればそのうち分かるでしょ」
やっぱり恋愛経験が豊富な二ノ宮だからだろうか、言葉に説得力がある。
「ほら、私と話してないで早く香織のテンション戻してきてよ。試合前まで待ってやった私に感謝しなさい」
「分かったよ」
ドンッと二ノ宮に突き飛ばされ、談笑する駿河とセリアに近付く。
「駿河、ちょっといいか?」
俺が声を掛けると、駿河は俺の目を見て、スッと横に視線を逸らす。
「は、はい……」
頷きながらそう言った駿河に笑顔を向けていたセリアは、俺に敬礼してニッコリ笑う。
「ワタシはココで待っているデス!」
「サンキュ、すぐ戻る」
サッカー部の待機場所から少し離れた所まで行き、後ろから付いて来ていた駿河を振り返る。駿河は、体の前に両手を握り未だ地面に視線を向けたままだ。
「この前は悪かった。俺な、サッカー部にあまり関わらないようにしようって思ってたんだ」
「そ、そんな……」
顔を上げた駿河が今にも泣き出しそうに顔を歪めて力なく言う。
「あー勘違いするなよ。サッカー部にはあまり首突っ込まないようにするってだけだ。佐原とか二ノ宮、それに駿河、他の部員とも今まで通り普通に接する。ただ、もう部員じゃない俺は部活動に関して一定の距離を取るってだけだ」
「じゃ、じゃあ、食事会を断ったのは」
「部員じゃない俺が部の食事会に参加するのは、サッカー部に深く関わり過ぎる事になるからな。だから断った」
「じゃ、じゃあ、別に私の事を嫌いになったわけじゃないんですね」
「…………は? ちょっと待て、じゃあ駿河は俺が駿河を嫌っているから食事会に来なかったと思ってたのか?」
「はい……」
「俺、なんかそう思わせるような事したっけ?」
「先輩、私の話を無視して、セリアさんと帰ったから、きっと私が嫌われるような事をしちゃったんだと、そう思って……」
「わー! 待て待て泣くな! 俺は別に駿河の事を嫌いになったわけじゃなくてだな! 上手い断り方が良く分からなかったから流しただけで!」
最悪だ。駿河が目の前で、両手で顔を覆い泣き出してしまった。元気づけるはずだったのに泣かせてしまうなんて、最悪にも程がある。
「駿河、勘違いしてるみたいだが、前も言ったけど俺にとって駿河は可愛い後輩だよ。今は同級生だから後輩って言うのはなんだかおかしい気もするけど。それでも、俺は駿河を嫌いだなんて今まで思った事ないぞ」
「先輩……良かった……」
駿河は腕に付けたリストバンドで涙を拭う。そのリストバンドに見覚えがあった。そのリストバンドはセリアとプレゼント選びに行ったとき、セリアも何かをあげたいと言って選んだやつだ。セリアのセンスで「カオリにはピンクが似合いマース」っと言って選んでいたのを覚えている。
「セリアさんから貰ったの、さっそく汚しちゃいました」
「使ってもらった方がセリアも喜ぶさ」
ゴシゴシと目元を拭った後の駿河の目は真っ赤になっていた。でも、ニッコリと笑顔を浮かべている。とりあえず、二ノ宮から言い渡されたテンションを持ち直すという事は出来たようだ。
「そうだ、セリアと一緒に買い物に付き合って貰ったときに俺もこれを駿河に買ったんだ。良かったら使ってくれ」
スポーツバックから箱を取り出して、駿河に向かって差し出す。すると、駿河は目を丸くして箱を見詰め、俺に視線を移した。
「えっ、わ、私に、ですか?」
「おう、駿河には色々と迷惑かけたし。それに、入院中に見舞いに来てくれてた事にもまともなお礼してなかったしな」
「先輩が、私のために? えっ? 嘘ですよね?」
「本人がプレゼント差し出してるのに嘘はないだろ」
「す、すみません。全然予想してなくて!」
駿河は両手で俺から箱を受け取り、しばらくジーッと見詰めた後にハッとして頭を下げた。
「あ、ありがとうございます! あ、開けてもいいですか?」
「どうぞ」
正直、目の前で開けられるのは中身が中身なだけに恥ずかしかった。
「本当は使ってなくなる物にしようと思ったんだけど、セリアがどうしても身に付ける物じゃないとダメだって言うからさ。迷惑だったらクローゼットの奥にでも仕舞って置いてくれ」
恥ずかしさを誤魔化すためにそう言う。
駿河が箱から取り出したのは、髪を纏めるためのシュシュ。駿河は髪が長いからこれから夏になって暑くなってくるときっと大変なはずだ。それに夏という理由が無くても、マネージャーの仕事をしていたら髪が邪魔になる事もあるはずだ。駿河は紺色の髪ゴムで髪を纏めている。だから、必要無いかもしれないが、駿河に似合うような気がした。
「色は派手じゃないから、普通の学校でも使えるし。もし良かったら――」
「先輩、ありがとうございます! 一生大切にします!」
「いや、一生は流石に保たないだろ」
駿河はシュシュを両手で握って満面の笑みを浮かべる。困らせるかと思ったが、どうやらセリアのアドバイスは正しかったようだ。
駿河は髪を纏めていた髪ゴムを取り、あげたばかりのシュシュで髪を纏める。綺麗な黒髪に合っていて、やっぱり駿河に似合っていた。
「せ、先輩、どうですか?」
「おお、やっぱり似合うな」
「そうですか、先輩、本当にありがとうございます!」
「喜んでもらえたらなら良かった」
嬉しそうにしている駿河を見てホッと安心していると、待機場所から二ノ宮が走ってくる。
「香織! 集合!」
「は、はい! 跡野先輩!」
「ん?」
「絶対、絶対に優勝してきますからっ!」
「おう、絶対に勝ってこい!」
手を振って走って行く駿河と入れ替わりに、セリアがニコニコしながら俺の元に走ってくる。そして、俺の隣に並んで走って行く駿河を見送る。
「カオリ、凄く元気デス」
「ああ、セリアのおかげだ」
「ノー、ユーイチのせいデス」
「セリア、そういう時は所為じゃなくて御陰って言うのが正しいんだぞ」
ちょっと使い方の間違った日本語を正すと、セリアはニコニコ笑ったまま左右に首を振って否定する。
「イイエ、ユーイチの所為デス!」
夏のインターハイ、サッカー決勝戦は前半に相手チームに先制点を許した。そして後半終了間際のロスタイム。コーナーキックから三年がヘディングで押し込み土壇場で同点に追いついた。そして、今は延長戦の前半が終わり、後半ももうすぐ終わってしまうという所だった。
「ユーイチ、このままゴールが入らなかったらPSOになってしまいマス」
セリアの出身国であるイギリスだが実際は、イギリスを構成する島のグレートブリテン島とアイルランド島北部のうちの、グレートブリテン島南部にあるイングランド出身らしい。俺も海外の事だからよく分からんが、イギリスはイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの四国から構成されている国らしい。一国なのか四国なのか頭がこんがらがりそうだが、イギリスの中のイングランド出身という事で間違いないだろう。
そのイングランドだが、サッカー発祥の国で凄くサッカーが盛んな国だ。そんなイングランド育ちだからか、セリアはサッカーに詳しいらしい。
「PSOは見ているとドキドキしてしまいマス。心臓に悪いデス……。それに、PSOには運が関わってきてしまいマス……アウゥ……」
PSOはペナルティーシュートアウトの略で日本では一般的にPK戦と呼ばれる勝敗を決める方法。そして、セリアの懸念通り、延長戦終了のホイッスルが鳴りPK戦を行うことになった。
ゴールの周囲を白い白線で囲ったエリアをペナルティーエリアという。このエリアはキーパーが手を使ってボールに触ってもいいエリアだが、そのペナルティーエリアにはペナルティーマークという白い点がある。そのペナルティーマークに置いたボールを交互に五人ずつ蹴って、得点が多い方が勝ち。それがペナルティーキック戦、通称PK戦と呼ばれる勝敗決定法。
ペナルティーマークからゴールまでの距離は十一メートル。その成功率は約八〇パーセントと言われている。だが、運だけに左右される訳では無く、狙ったところに蹴れるシュートの正確性、プレッシャーに耐えられるメンタルも重要だ。それは蹴る側だけでなくシュートを止める側のキーパーにも言える。相手の目線や体の動きからシュートの方向を予測する。ただ、予測は読むことしか出来ない。そこには一定の運が関係してくるのは間違いない。
「ウウゥ、ユーイチ……」
隣で見てるセリアは胸の辺りを押さえて俺を見る。まあ、普通はPK戦を見せられたら心臓に悪いと思うだろう。
「ユーイチ? ユーイチはなんでそんなに冷静なのデスカ?」
「ん? PKになったらうちが勝つからだよ。見て見ろ、うちのチームの選手達笑ってるだろ?」
「本当デス。みんなニコニコしてマス! どうしてデスカ?」
「それはな、うちにPKの神様背負った奴が居るからだよ」
「PKのカミサマ?」
「そうだ。この前紹介したキャプテンが居るだろ? アイツ、PKの時に神懸かったセーブを見せるんだよ。あいつは最低三本は止める」
俺が唯一出る事が出来た公式戦が一年の新人戦だった。その新人戦は優勝する事は出来なかったが、PK戦にもつれ込んだ試合があった。その試合でキーパーを務めていた佐原は、相手のシュートを三本止めて見せた。そのうち、二本はパンチングではなくキャッチまでしてみせたのだ。それから、PK戦にもつれ込んだ試合では、必ず佐原がキーパーをした。その全てで、佐原は必ず三本のシュートを止めている。
PK戦のためにコートに戻っていく時、佐原がこちらを振り返った。そしてニヤリと笑って俺に言葉を発した。声自体は聞こえなかったが、佐原が何を言ったのかはハッキリと分かった。
「優勝旗を待ってろ、だと? あいつ……」
自然と腰が浮いていた。背中にぞぞっと言う寒気に似た興奮が立ち上る。
「てっぺん取るぞ!」
「「「おおっ!」」」
佐原のかけ声と共に、選手達が整列する。
主審が仕切るコイントスの結果、先に蹴るのは相手チームになったようで、佐原がゴールの前で両手を広げ相手を見据える。
高々と響くホイッスルの合図を聞き、相手選手が助走を始め右足を振り抜いてボールを蹴り出した。蹴り出されたボールはゴールの左下隅を這うような弾道で襲う。しかし、そのボールがゴールを仕留める直前、佐原が飛び付いてガッチリ両手で保持する。
「嘘だろ、あのボールキャッチするのかよ……」
近くに居た男子が呆然としてそう呟く。確かに普通なら弾くのでもやっとの上手いシュートだった。でも、佐原はそれをキャッチして見せた。
その後、二本目三本目も佐原はキャッチして見せた。しかし、うちも三本目まで外してしまい、結果は未だ〇対〇だ。
四本目を佐原がパンチングで弾き、そしてうちの四本目を蹴るのは、今回の試合で得点を決めた三年。ボールをゆっくりペナルティーマークの上に置き、深く深呼吸をする。ボールから距離を取り、ホイッスルの音を待つ。
「アアッ! 惜しいデス!」
ホイッスルが鳴って蹴り出されたボールはゴール右上隅のゴールポストに当たり、外へ弾かれる。これで四本目が終わっても〇対〇。四本も佐原が止めたが、相当プレッシャーを感じているのかうちも一本も決められていない。
「次止めて、最後が決めないとサドンデスだな」
サドンデスは交互に蹴り続けて得点が一点でも相手チームより多くなるまで続くルール。サドンデスになれば選手全員へのプレッシャーは更に強くなる。
「シャアァアッ!!」
競技場にその佐原の声が響いた。その気合いの入った声を発した佐原は大きく両手を広げて相手を見据える。
相手選手は十分な助走距離を取り、ゆっくりと駆け出す。そして左足を振り抜き、ボールがゴールの中央やや左よりへ吸い込まれていく。佐原は、ゴール右側に体を傾けていた。完全に逆を突かれた。
「ワォ! エクセレントッ!!」
セリアがバッと立ち上がりそう叫ぶ。佐原は完全に逆を突かれた。でも、佐原は右側に倒れながら右足を伸ばし、逆側に飛んだボールを右足で弾いた。これには、セリア以外の全員が息を呑んだ。
やりやがる。見せやがる。背中に走る興奮がピークに達し、今にも叫び出しそうなくらい感情が沸き立つ。でも、まだ試合が終わったわけじゃない。
うちの最後のキッカーは佐原。ペナルティーマークの上に置かれたボールを一度手に取り、ゆっくりと置く。そして、後ろを振り返り並んでいる選手に目を向ける。そして、ベンチにその視線を移し、ベンチで待機する選手達、そして両手を組んで祈るマネージャー陣に目を向ける。きっとその目は、一人を見詰めていただろう。
そして、その目は俺に真っ直ぐ向けられた。
『悪いな跡野、ちょっとお前の真似させてもらうぞ』
「えっ?」
耳に聞こえたその幻聴を確かめる間もなく、佐原は振り返りゴールを見詰める。
静まり返る競技場。その場に居る全員の視線が一点に集中する。尋常じゃないプレッシャー。俺が佐原が今居る場所に立っていたら、まともに体を動かすなんて出来ない。そんなプレッシャーの中、佐原は助走を始める。
ボールまで近付き、佐原の利き足である右足が振り抜かれゴールが蹴り出されるはずだった。しかし、右足が振り抜かれる事はなかった。
「「「ウォォオオオッ!!」」」
次の瞬間、ボールは、ゴールネットを揺らし突き刺さっていた。
佐原のシュートがゴールに突き刺さり勝利を確信した時、ベンチから選手やマネージャー、顧問の先生までもが飛び出して佐原に駆け寄る。佐原は右腕を天に突き上げていた。
「ヤッタ! ヤッタデスヨ! ユーイチ!! ユ、ユーイチ!?」
勝利が決まり喜んだセリアが俺に飛び付いてきた。しかし、俺はそのセリアを支えきれず椅子にドスンと腰を落とした。
「あいつ、バカだろ……」
紛れもなく佐原の蹴ったボールはゴールに突き刺さった。しかし、佐原は“左足”で蹴ったのだ。本来なら軸足として使う左足を、助走の途中で踏み出した瞬間をボールに合わせて、それでシュートした。
俺が一年の時、遊びで佐原を含めた一年でPKをやった事があった。その時に、俺が当時ネットで見た軸足で蹴るという変則的なPKの蹴り方で佐原からゴールを決めた事があった。そう、俺がなんのプレッシャーもなく遊び感覚でやったシュートを、佐原は県予選優勝と全国大会出場が懸かった試合でやりやがった。全くバカとしか言いようのない豪胆さだ。
こうして、県予選を制したサッカー部は県予選優勝と全国大会出場を決めた。
試合が終わり、学校に戻ってきて一頻り学校内がサッカー部優勝で沸いた。そして、全校生徒のほとんどが帰宅を終えた夕日が照らすグラウンドの中央に、俺は一人で立っていた。
そこへ、ユニフォーム姿の佐原が歩いてくる。両手には大きな優勝旗を抱え、俺を見てニヤリと笑う。
「お前があんなにバカだとは思わなかったぞ」
「俺はバカの真似をしただけだ」
目の前に立った佐原に俺が言うと、佐原は笑いながらそう返す。
佐原は優勝旗を持ち直し、勢いよく俺の目の前に突き立てた。
「約束したとおり、優勝旗をお前の前に突き立ててやったぞ」
「おう、確かに見てやったぞ。……本当におめでとう」
「ありがとう、跡野」
優勝旗を手にまた選手達に囲まれ喜ぶ佐原を眺めながら、俺はそんな佐原達を笑って見詰めた。
「先輩がサッカー部が活動中止にならないようにしてくれたって二ノ宮先輩から聞きました」
「そんな事をした覚えはないけどな」
話し掛けてきた駿河に視線を向けず応える。
「ありがとうございます」
「まあ、良く分からんけどどういたしまして」
「佐原先輩が帰りのバスの中で言ってました。一年の時に先輩にあのシュートでゴールを決められてから、時々遊びであの蹴り方をやってたそうです。ほんと跡野先輩は凄いです」
「何が凄いんだよ。俺はふざけてやったんだぞ。それに褒めるべきなのはあんな蹴り方を決勝でやった佐原だろ」
「だって、佐原先輩が言ってましたよ。跡野はあれを思い付きでやってたって。あんなヘンテコな蹴り方を思い付きで蹴れるなんて、やっぱり先輩は凄いです」
「まあ、遊びだったからな」
いつの間にか隣に立っていた駿河が俺にニッコリと笑顔を向ける。そして、優勝旗を囲んで楽しそうに話す選手達に目を向ける。
「みんな、凄く頑張りました。先輩に助けてもらったんだから絶対に優勝しようって頑張りました」
「だから、俺は何もやってないんだけど」
「私も頑張りましたよ?」
「おう、頑張ったな。お疲れ様だ」
「そんな頑張った私にはご褒美があってもいいと思うんです」
俺の前に立った駿河は、夕日に照らされて少し色味が赤くなった笑顔を向け、シュシュで纏められた髪を風になびかせる。
「だから、次のお休みに、一緒に映画を観に行きませんか?」
その時、少しだけ時間が進んだ気がした。でも、その行き先は俺が想像していたものとは違う未来に見えた。