51【協奏曲をもう一度】
【協奏曲をもう一度】
コートを着ていても寒い。冬は、どうしてこうも寒いんだろう。毎年寒いんだからたまにはその寒さの手を緩めてくれてもいいと思う。
「優一さん、お仕事お疲れ様でした」
「香織も昨日は夜勤大変だっただろ?」
「もう慣れたよ。今年で二五。もう三年もやってるんだから」
「香織が看護大卒業してもう三年か。早いな」
高校卒業後、看護師になるために香織は看護大学に通い、四年の大学課程を修了して看護師になった。今は、俺が高二の時、一回目の高二の時に入院した病院で内科の看護師をしている。
高校時代から可愛かったが、年齢を重ねて可愛さの上に大人の色気まで増えて、彼氏の俺としては戦々恐々としている。実際、香織と歳が近い医者がちょっかいを出してきた事もあったし、また変な男にちょっかいを出される。確実に。
「香織、夜遅くなる時は気を付けろよ。あと夜帰って来る時はちゃんと電話しろ」
「優一さんは心配し過ぎだよ」
「この前、強引に連れて行かれそうになってただろうが。彼氏の俺の身にもなってくれ」
俺がそう言うと、ちょっと落ち込んだ様子で、シュンと香織が肩を落とす。
「うん……あの時は、ちょっと困ったかな……」
「ちょっとどころじゃなかっただろ」
俺がそう言うと、香織はいきなりクスクスと笑い出す。
「優一さん、腕を掴まれる私を見て、腕を掴んでる先生に『県警本部警備部機動隊第一小隊長、跡野優一だ!』って手帳持って走って来て、先生、腰を抜かせて尻餅ついてたよね」
「だから……笑い事じゃないって……」
落ち込んだ後に笑い出した香織を見て心配になる。そして、香織は俺にジトっとした目を向ける。
「優一さんだって、今年も婦警さんから、いーっぱいチョコレート貰ってたし。彼女としては心配です!」
「いや、あれは義理だって。部内にも他に貰ってる人は居るし」
確かに、小隊長になってから増えた気はするが、ちょっと署内で名前が広まったからでしかない。まあ、部内では先輩から非難囂々だったが……。
「県警警備部機動隊のイケメン小隊長、跡野優一巡査部長。有名だってお父さんも言ってたし」
「署長にも伝わってるのか……」
香織のお父さんは県警の刑事部捜査一課長から刑事部長を経て、現在は警察署長を務めている。香織のお父さんはノンキャリア組いわゆる地方採用組で、地方採用組での刑事部長はとんでもない出世だし、警察署長なんてもっと凄い。簡単に言うと、普通の会社の平社員が社長になるくらい凄い。ちなみに香織のお父さんは現在の階級は警視正だ。
交通機動隊から警備部機動隊へ転属になった当時、香織のお父さんは刑事部長で、その時に先輩から「刑事部長が義理の息子が世話になるって、隊長の所に来てたぞ」と話された事があった。あの時は、先輩や同期からも距離を取られて大変だった思い出がある。
「お父さんに言って、優一さんに女の人がちょっかい出さないようにしてもらわないと」
「ちょっかい出されてないって」
笑って冗談で言う香織に視線を向けると、香織はニッコリ笑う。
「優一さん、また白バイ乗ってくれないかなー。優一さんが白バイ隊員になって二年目の時に見た時に凄く格好良かったから」
「今は小隊指揮が任務だからな。白バイのハンドルよりも拳銃のグリップ握る方が多い」
「……それが、ちょっと……ううん、凄く心配……」
しまった、そう思った時には、もう香織は下を向いて青い顔をしていた。香織に銃を扱う話をすると、途端に真っ青な顔をして暗くなってしまう。
主に幹線道路等の交通取締りを行う交通機動隊とは違い、警備部機動隊は一般の警察官では対処しきれない暴漢や集団犯罪を実力行使で鎮圧する。しかし、銃を扱うことは訓練以外では滅多にない。それを説明はしたが、それでも銃を扱うという事を聞くと、俺の事をかなり心配してくれる。心配してくれるのは嬉しいが、やっぱり気持ちを暗くさせてしまっているから喜べない。
この調子だと、今日言われた事も言い出しにくい。
「まあ、せっかく今日は楽しい日だし、明るく行こう」
「うん、みんなで集まるのは久しぶりだしね」
今日は高校時代の友達と集まる日。一年に一度か二度開かれているが、今日はなかなか会えない奴も来る。
場所はよく行く居酒屋で、もう既に飲み会好きのあいつが全部予約から何から済ませてしまっている。
「江梨子先輩、こういうの好きだよね」
「江梨子は基本寂しがり屋だからな。高校時代も、卒業して大学行って清々したと思ったら、いきなり家に来たり電話で呼び出されたり、大変だったな」
「私もよく電話来てたなー。大学での愚痴とか、最近優一さんは元気かって」
江梨子は国立大学に推薦で合格し、晴れて国語教師になった。今は母校の中央高校で教師をやっている。
体育教師を目指していた佐原も夢を叶え、同じ高校で体育教師をしている。ただ、未だグリズリー先生は健在らしく、顧問ではなくコーチという形でサッカー部に関わっているらしい。
暗くなった冬の空の下を、香織と手を繋いで歩く。香織の手は昔から変わらず温かくて柔らかくて、そしてホッと安心出来る。妹の聖雪からは「付き合って七年経つのに、付き合い立てのカップルみたい」なんて言われて冷やかされる事もあるが、どんなに冷やかされても、香織と手を繋ぐ事は止めようなんて思わない。
週末の夜だからか、街には飲みに出てきたサラリーマンやOLが沢山居る。まあ、飲み屋街だからそういう人達が多くなるのは当然だ。
「優一さん、ココだね」
「ああ。香織、覚悟しておけよ」
「う、うん」
香織にそう注意を促して、俺は居酒屋の引き戸を恐る恐る開ける。
「優一! 遅いッ!!」
「……やっぱり、もう飲んでたか」
引き戸を開けた瞬間、大きな声で怒鳴り付けられる。視線の先には、座敷に敷かれた座布団の上に座り、グラスを片手に俺を睨み付けている江梨子だった。
「優一のためにみんなお酒飲まずに待ってたのよっ!」
「おかしいな。俺には既に飲んでる奴が見えるんだが?」
「優一なんか待ってられるかっての! 今日はせっかく楽しい飲み会になると思ったのに、あのクソババアに嫌味言われるし! もー、サイアクッ!」
とりあえず絡んでくる江梨子から目を離し、カウンター席に座る佐原に視線を向ける。まあ、大体何があったか分かるが……。
「また学年主任に色々言われたらしい。二ノ宮は生徒に人気があるからな。厳しいとか怖いって言われてる主任が目の敵にしてるみたいだ」
「アイツ! ただの八つ当たりじゃないッ!」
「江梨子先輩、それで? 何があったんですか?」
何時も通り香織が江梨子の隣に座り、江梨子の話を聞く体勢に入る。江梨子はいつも何かあると俺と香織が一緒に住んでいるアパートに、酒とつまみを持参して上がり込んで来る。俺は大抵仕事があるから付き合ってやれないが、そもそも江梨子は香織の予定を聞いてから来ているから、俺が居なくても全く問題は無い。
江梨子から目を離し、隣に座る佐原に視線を戻す。
「跡野も大変だな」
「ああ、ちょっと訓練が長引いちゃってな。うちの小隊所属の若い奴がやらかして、ちょっとした説教をしてた」
「説教?」
「ああ、連携乱すなって言ってるのに独断専行。理由を聞いたら『自分の力量なら行けると判断しました』なんて抜かすから、とりあえず連帯責任で走ってきた」
「連帯責任で走ってきたって、そいつを走らせたんじゃないのか?」
「もちろん走らせた。そいつと俺を含めた指揮下に居る小隊員全員な。まったく、これだからちょっと柔道だか剣道だかで全国取っただけの天狗が入ってくるのは嫌だったんだ……。連携乱したら全員の命を危険に晒す事になるって、口酸っぱく言ってたつもりだったんだが……」
「跡野も二ノ宮みたいになってるぞ」
苦笑する佐原の指摘に、急にばつが悪くなる。そして、ウーロン茶を注文して、近くにあった唐揚げを一個摘まむ。
「相変わらず酒は飲まないんだな」
「まあ、そもそもあまり好きじゃないしな。それに、いつ出動があるか分からない」
警察だから機動隊所属だからといってお酒が飲めない決まりがあるわけじゃない。実際、機動隊に居る人達にもお酒を飲む人も多い。ただ人員の豊富な本庁や大都市の警察署所属ではない、地方警察署所属の警察官は急な出動が多い。俺もそんな地方警察署所属の警察官だ。
「跡野みたいな、真面目な警察官のおかげで、俺達は安心して日常生活を送れている。ありがとう」
「改めてお礼を言われると反応に困るな。俺は仕事をしてるだけだし」
「そういうのも、昔から跡野は変わらないな」
懐かしそうに笑う佐原はハッと思い出した様に、鞄から雑誌を一冊取り出して俺の前に置く。それはサッカー専門のスポーツ雑誌で、表紙には『日本の一〇番が世界最高の一〇番へ』という見出しがデカデカと載っていた。そして、ボールに触れる神崎の写真も合わせて載っている。
俺の高校の後輩で、あの香織にちょっかいを出したり揉めたりした神崎裕人は、Jリーグからイングランドプレミアリーグを経て、七月の移籍期間中にスペインのリーガ・エスパニョーラ一部に所属するチームに移籍した。移籍先のクラブは、クラブワールドカップでも最多優勝回数を誇る超強豪クラブで、その中でも一〇番を付けているのだから、かなりの期待が寄せられているのが分かる。実際、アシスト数もゴール数も現地で期待以上と高評価らしく、主力選手として扱われている。
「ここ、見て見ろよ」
「ん? 年俸推定一二億!?」
佐原が広げた雑誌のページには神崎の特集が組まれていて、俺は年俸の数字に身を逸らして驚いた。神崎一人で一二億稼ぐとは、やっぱりスポーツ選手のスケールは桁違いだ。
「あー神崎の記事ね。香織も惜しいことしたわよね。神崎とくっついてたら、今頃大金持ちよ。まあ、金で男を選ぶような女じゃないけどね、香織は」
後ろからグラスを片手に雑誌を覗き込んで来た江梨子が、ニヤッと笑って雑誌の一文を口に出して読む。
「私は高校一年の頃、天狗になって周りから見放されてしまった事がありました。その時に私を正してくれた先輩が居たんです。今、サポーターの皆さんがカンザキフェイントと呼んでくれているフェイントも、その先輩のフェイントをヒントにしたものなんですよ。……日本最高のサッカー選手の転機になって、しかも世界で通用するフェイントの生みの親ってどんな凄い奴かしらね?」
昔からちっとも変わらないニヤニヤ顔で俺を見る江梨子を無視して、もう一つ唐揚げを放り込む。
「もし、高校時代に跡野が神崎を変えてなかったら、今はどうなってたんだろうな」
「他の誰かが変えるか、自分で気付いて変わってただろ」
「でも、優一ってうちのサッカー部じゃ伝説よ。あの神崎裕人を置き去りにした最強の帰宅部って」
お酒が入っているせいか、江梨子はいつもより大げさに笑いながら俺の背中を叩く。その江梨子に若干めんどくさくなっていると、江梨子の肩に優しく手を置く人物が居た。
「江梨子ちゃん、跡野くん困ってるよ」
「全く、侑李は昔っから優一の味方ばっかりして!」
「そんな事無いよ」
絡み酒の江梨子に苦笑いを浮かべる音瀬。音瀬は今、精神科医として働いている。大学在学中にPTSD、心的外傷後ストレス障害の研究をしていたらしく、そういう精神疾患の知識が豊富らしい。今はPTSDに限らず、様々な精神疾患で苦しむ患者の治療をしている。見た目も大人しく落ち着いているからか、結構人気のあるそうだ。
「神崎はサッカー選手、侑李は医者、優一は警察官、そして香織は看護師でしょ? なんか私達の周りって結構凄いわね」
「そんな事言ったら、教師やってる江梨子も佐原も十分凄いだろ」
ワイワイガヤガヤと話をしながらつまみを摘まんでいると、店の扉が開く。表には『二ノ宮江梨子ご一行貸し切り』みたいな張り紙がしてあったから、江梨子が呼んだやつ以外は来ないはずだ。
「お、やっと来たわね」
俺は、思わず入り口の方を見て固まる。
綺麗なスーツに身を包んだ、スラリとしたブロンド髪の白人女性。いや、もの凄く大人っぽくなっているが、間違いない。
「セリア!? なんで日本に居るんだよ!」
「こんばんは、ユーイチ。私が日本に居たらダメなの?」
「日本語めっちゃ上手くなってるし……」
高校在学中は長期休暇の時には日本に遊びに来ていて良く会ってたりしたが、俺が警察に就職してから会うタイミングがなく、時々メールのやりとりをするくらいになっていた。
セリアは俺の驚いた様子を見てクスクス笑い俺の隣に座る。
「カオリとエリコにはそれなりに会ってるけど、ユーイチにはあまり会わないから。それに、私、今は日本で働いてるのよ」
「そうよ優一。セリアには敬語使いなさい。日本の現役警察官がイギリスと外交問題起こす気?」
「外交問題って大袈裟な……」
「何言ってんのよ。セリアは今、イギリス大使館に務めてるのよ」
江梨子の言葉を聞いて、恐る恐るセリアの方を見る。セリアは苦笑いを浮かべて肩をすくめた。
「ユーイチ安心して、私は一等書記官だから、日本とイギリスの外交を左右するような事は出来ないわ」
「いや、一等書記官ってかなり凄いんじゃ無かったか? それにしても、セリアが外交官とはな。頭が良いのは知ってたけど、エリートじゃないか」
「そんな事ないわよ。これでも日本で働くために結構頑張ったんだから。それで、やっと今年日本に来れたの」
ニコニコ笑う顔は昔のセリアそのものだが、全体的に品が増したというか大人っぽさが桁違いに上がった気がする。
「優一さん? セリアさんに見とれてる」
俺の肩に両手を載せて後ろから覗き込む香織に怖い顔で睨まれ、俺は作り笑顔を返した。久しぶりに会ったのだから、そりゃあビックリして見てしまうのは仕方ない。
「いやー、急に声掛けたのに悪かったわね、セリア」
「ううん、呼んでもらって本当に嬉しい。ユーイチ、最近ちっとも連絡くれないんだもん」
唇を尖らせて今度はセリアに睨まれ、俺はセリアにも作り笑いを返す。
「日本に居るなんて知らなかったからな。教えてくれても良かったじゃないか」
「ユーイチ忙しそうだったし、こっちに来るときは私もちょっと忙しかったから。それに、カオリから話してくれてるのかと思ってた」
セリアが香織に視線を向けると、香織はばつが悪そうに視線を逸らして、ボソッと一言発した。
「だって、丁度その時、優一さんとちょっとトラブルになってたし……」
「そういえばそうだったわね。私が日本に行けるようになったのって教えたら、ユーイチが浮気したって聞いてビックリしたわ。なんで私以外の女の人と浮気するのって」
「セリア、それは聞き捨てならないわね。そこは私でしょ」
「ふ、二人とも! 優一さんの彼女は私です!」
なんだか頭の痛いやりとりになって困る。すると、横から佐原が顔を出して首を傾げた。
「浮気ってなんの話だ?」
「いや、浮気じゃなくて、香織が浮気だって勘違いしたんだよ」
丁度半年前、交通指導課の女性職員から相談を受けた事があった。その相談はストーカーの被害を受けているという相談で、俺はストーカーなら生活安全課に相談した方が良いとアドバイスしたが、ストーカーを行っているのが生活安全課の職員だから相談できないと言われた。
結果から言うと、そのストーカー被害は完全な『嘘』だった。
俺に相談してきた職員は俺に好意があったらしく、どうにか俺と仲良くなろうと思い、相談と称して近付く事にしたらしい。俺はそれに気付かず、警察署外の喫茶店で相談に乗り、喫茶店から出たところを香織に目撃された。しかもそれが、丁度その女性職員からいきなり腕を組まれたところだったものだから、完全に香織が浮気だと勘違いして落ち込ませてしまったのだ。
アパートに帰ったら真っ暗な部屋で泣き崩れていて、一ミリも香織は悪くないのに落ち込ませてしまっていた。それは怒るというよりも自分に自信を無くしてしまった。と言った方が正しい状況で「優一さんに相応しくないから家に帰る」なんて言いだしていたのだ。
怒られて怒鳴り散らされ「あなたとはやっていけません。実家に帰らせて頂きます!」と言われるような状況だが、そこで自分が悪いと思ってしまうのが香織なのだ。
あの時は、香織に機嫌を直してもらうのが大変だった。
「そういえば、その時、優一はどうやって機嫌取り直したんだっけ?」
「ハットトリックの何でも権を使った」
「あーそうだったわね。ハットトリックで何でも言う事を聞くっていうやつの二回目を使って、俺に一日休みをくれって言って、デートしたんだっけ? ドライブに水族館デート、それで夜は夜景の見えるホテルでディナーを食べてそのまま宿泊。いいわねー、そういうデート」
「それでカオリは簡単に機嫌を直しちゃったのよね?」
セリアに尋ねられた香織は顔を真っ赤にした。
「だって、あんな事されたら、誰だって……」
香織も俺も、一緒に住むようになってからデートをしなくなったわけじゃない。時間が合えば出掛けもする。でも、江梨子が言ったような改まった、きちんとしたデートは随分してなかった。だから、そういう事の積み重ねで香織を不安にさせてしまったのだと反省して、香織にデートしてもらったのだ。
もちろん、件の女性職員とはもう二度と会っていない。好意自体は悪いとは思わないし、迷惑だと吐き捨てる事はしないが、それで香織との関係が壊れるなら、それは迷惑だ。
「でも、ユーイチが浮気なんてするわけないから、私はちゃんとカオリに勘違いだよって言ったんだけど……」
「まあ、香織は心配性だからね。優一が知らない女の人に腕組まれた所なんて見たら、そりゃあパニクるわ」
俺の摘んでいた唐揚げを江梨子が横取りして食べる。取られて何も無くなったスペースを見てしょんぼりしていると、隣に座るセリアが唐揚げの入った皿を前に置いてくれた。
「でも、優一も同じようなものよねー」
「何がだよ」
「忘れたの? 私が高三の時、香織の幼馴染みに香織を取られたって勘違いして行方不明になったくせに」
唐揚げに伸ばそうとした箸を止める。クソっ……また昔の忘れたい過去を掘り起こしやがって。
「有り得ない速さで走って消えていって、サッカー部の三年全員で探し回ったんだから。インターハイ出発の前日の夜によ。全く迷惑な話だったわー」
「あの時、江梨子も俺に脅し掛けてただろうが」
「あらー? そうだったっけ?」
とぼけた声でしらばっくれる江梨子が、俺から視線を向けて香織を見て人をからかう時のニヤニヤとした笑顔を浮かべる。
「あの時は、香織が目の前で優一とディープキスした事しか覚えてないわね」
「江梨子先輩。私も大人ですからそういう事を言われても動じませんよ」
ニッコリ笑って返す香織に、江梨子はニヤニヤしたまま香織に耳打ちをする。すると香織は一気に顔の熱を上げて焦り始めた。
「江梨子先輩! それ言わないって約束したじゃないですかッ!」
「香織に言っただけじゃない。香織から聞いて他には誰も言ってないわよ」
一体、香織のどんな弱みを握っているのかは分からないが、香織の焦り様を見るに相当やばい弱みらしい。
「この場で知ってるのは私と優一だけね」
「俺も知ってるのか?」
「知ってるわよ」
「ゆ、優一さん、この話はもう止めにしようね!」
香織に一口ハンバーグをあーんされる。モグモグと口を動かしてハンバーグを食べていると、隣からセリアがウーロン茶を俺のコップに注いでくれる。
「美人看護師からあーんされた上に美人外交官からお酌、ついでに美人教師のげんこつを付けましょうか?」
「なんでげんこつなんだよ。しかも、自分で美人って言うのか」
江梨子はしょっちゅう見るし、佐原も時々顔を合わせる事もある。ただ、音瀬もセリアも滅多に合わないから、なんだか懐かしかった。
「今度はちゃんとした同窓会を開きたいわね」
そう呟いた江梨子の声にみんなが微笑む。
高校を卒業して七年。それでも何だかんだ言って度々会う奴も一人居るが、久しぶりに会う顔は懐かしさを感じた。
女子四人で楽しそうに話をする香織を遠巻きに眺めて、思わず頬が緩む。香織の笑顔は可愛らしく愛嬌のある笑顔だ。その笑顔はいつ見ても飽きない。きっとこれから先も見飽きることなんてないだろう。
「そういえば、加藤は二人目の子どもが出来たらしいぞ」
「加藤って、あのマネージャーの加藤か?」
「ああ」
「加藤もそのまま横山と結婚したからな。加藤の結婚式に行った香織が、加藤のウエディングドレス姿が綺麗だったって興奮してたなーそういえば」
「あの時は、跡野は何か急用が入ったって言ってたな」
「ああ、あの時は、ちょっとヤバかったからな」
加藤の結婚式当日にかなり大きな事件が起きて、人手が足りず非番だった俺も緊急出動をした。後日加藤の家に謝りに行ったが「安全を守ってくれる警察官を怒るわけないでしょ」と言ってくれて、内心ホっと一安心した。
「さっき二ノ宮が愚痴ってたぞ。今日集まる奴らはみんな行き遅れだって」
「そんな事を言われてもな。……佐原、音瀬の事、まだ好きなんだろ?」
「いきなりなんだ」
俺がその話題を振ると、佐原はビールの入ったグラスを手にして視線を俺からも、音瀬からも逸らす。
佐原は高校時代に音瀬と付き合っていた。その後別れてよりを戻したという話は、俺の知る限りない。だが、佐原が音瀬の事をまだ好きなのは分かる。
大学時代も、県外の大学へ進んだ音瀬の話をよく俺にしてきたし、音瀬が帰省するときも必ず仲間を交えてはいたが会っていたようだった。
それに、男だけにしか分からない雰囲気的な事もある。
「もう一度、アタックしてみたらどうだ?」
俺が何気無しにそう言うと、佐原はフッと笑みを漏らして首を振る。
「まだダメだな。俺も勇気が出ないのもそうだが、音瀬との間には高い壁がある」
佐原が俺を見て力無くそう言った。
「いや、高校時代からの付き合いだし、いくら一度別れたって言っても心の壁なんてないだろ」
そう言うと、佐原は少しギョッとした目をして驚き、呆れたように深く大きなため息を吐いた。
「本気で言ってるのがムカつく」
「はあ? いきなりなんだよ」
「いいや、俺の独り言だ」
ゴクッとビールを飲む佐原がそう吐き捨てる。心無しか怒っている様にも見えた。
「跡野の方こそどうなんだ」
「どうって?」
「駿河の事に決まってるだろうが。聞いたぞ、勤め先の外科医から強引に言い寄られたって」
「ああ、あの時はマジでヤバかった。危うく殴って懲戒免職処分だった」
「駿河は男に好かれる見た目と性格してるんだから、彼氏のお前が目を配ってないとまた同じ事があるぞ」
「分かってる」
「それに、世の中には跡野よりも良い男なんていくらでも居る。うかうかしてると、駿河を持っていかれるぞ」
「分かってるって」
分かってる。永久に変わらないものなんて無い事くらい。俺よりも香織に相応しい男がこの世に溢れている事くらい。佐原に言われなくても分かってる。だけど分かっていても全てが何の問題もなく進むとは限らない。
香織と俺には、九年という長い時間がある。だけどそれは、自信を確認出来る材料であって、確証を得られる証拠じゃないのも分かる。
「何かあったのか?」
「いや、まあ……あったと言えばあったな。ただ、ネガティブな事じゃない」
「駿河はお前にちゃんと話してほしいと思うぞ。それがポジティブだろうがネガティブだろうが。昔からあいつは跡野一筋だ。あの筋金入りの跡野好きは多少の事じゃ揺るがない。入院した跡野を忘れようって言った俺に、駿河は食って掛かってきたって話しただろ」
「ありがとう佐原。香織に話してみる」
ウーロン茶の入ったグラスに口を付け、楽しそうにお酒を飲む香織を見詰める。
大丈夫。きっと、大丈夫だ。
飲み会もお開きになって、俺は良い感じに酔っ払った香織と手を繋いで歩く。隣を歩く香織は赤ら顔で機嫌が良く、ニコニコ笑っている。
「優一さんっ! えへへっ」
腕をギュッと抱いて、下から俺の顔を覗く。香織は酔っ払うと異常に可愛くなる。
「優一さんと一緒に歩くの楽しいなー」
ブンブン腕を振る香織に合わせて歩いていると、急に立ち止まった香織が頬を膨らませて振り返る。
「そういえば優一さん、セリアさん見てデレデレしてたでしょ!」
「してないって。確かに久しぶりに会ってビックリしたけどな」
「優一さん、スーツの方が好きなの? ナース服可愛いって言ってたのにー」
「な、何の話だよ」
「大学生の時、ハットトリックの一回目まで使ってたのに」
「あ、あの事は忘れてくれ!」
黒歴史というか、若気の至りというか、そんな過去を思い出させられて顔から火が出そうだ。…………ん? 確か一回目のハットトリックの何でも権を使った事は、俺と香織しか知らない。でも、さっき飲み会で江梨子が『二回目』って言ってなかったっけ?
「……香織」
「うん?」
「江梨子に話したな」
「……なにを?」
「一回目の何でも権の話だ」
そう言うと、香織はボーッと俺の顔を見た後に背を向け、走り出した。しかし、現役警察官に勝てる訳もなく、すぐに俺は香織の腕を掴んだ。
「逃げるな」
「優一さんのエッチー」
笑いながらモゾモゾ動く香織を抱き締め、俺は香織を後ろから強く抱き締めた。
「香織、俺、転属になった」
「……何処に?」
「県警に新設される機動隊二課だ」
「引っ越しはしなくていいんだよね?」
「ああ、引っ越しはしなくてもいい。ただ今よりも危険な職場になる。だから、もしもの事が……」
そこで言葉に詰まる。先を言ってしまって、もし、万が一、香織が俺から離れ――。
「うん、分かった」
「えっ?」
香織の言葉に戸惑う。俺がしばらく固まっていると、香織が顔をこちらに向けて優しく微笑む。
「優一さんが言う事を悩む事はあっても、絶対に答えは決まってるから。優一さんが危ない仕事に就いても、私はずっと優一さんの側に居れる方を選ぶから」
「結婚してくれ」
「えっ?」「あっ……」
思わず口に出てしまった言葉に、俺は自分で戸惑う。香織は驚いた声を上げた後、俯いてしまった。その姿を見て血の気が引く。マズイ、先走り過ぎた。まだそんな重要な事を切り出す状況じゃ――。
香織に腕を振り解かれ、香織が体から離れる。頭がグラグラして地に足がついていないような浮遊感が襲う。
香織は俺を置いて離れていく、と思った。でも、腕から逃げた香織はクルリと振り返り、下から突き上げるようにキスをする。
唇が離れ、ハッキリと見えた香織の顔は泣いていた。
「香織……ごめ――」
「はい」
「えっ?」
「だから、はい」
「いや、はいって……」
「ふつつか者ですが、よろしくお願いします。こう言えば、分かってくれる?」
ニッコリ笑った香織が、俺の胴をギュッと締め付ける。やばい、さっきよりも浮遊感が酷い。嘘だろ? 香織が俺と結婚してくれるのか?
「もう取り消せないからね!」
「と、取り消すか!」
「やっと、私は優一さんの彼女から、優一さんの奥さんになれるんだね」
香織は俺の胸に額をつけて、グリグリと押し付ける。
「夢みたい。私、本当にあの、大好きで憧れだった跡野先輩の奥さんになれるんだ。どうしよう、夢じゃないよね?」
香織が自分の頬をつねろうとした手を掴み、香織を引き寄せて唇を奪う。
「ンンッ……」
どんなに求めても足りない。キスだけじゃ伝わらない。俺がどんなに嬉しくて、俺がどんなに香織を好きか香織は伝わらない、伝えられない。
「優一さん……激しぃっ……」
「ごめん」
少し息を切らした香織に言われ、やり過ぎたと焦る。しかし香織はニコニコっと笑って俺の顔を見上げる。
「明日、私も優一さんもお休み」
「ああ、そうだな」
「だから、ちょっと夜更かししても大丈夫だよね?」
香織は俺の手を引いて駆け出す。俺も香織に引っ張られながら駆け出す。
「急いで帰ろう。今日は優一さんの大好きなナース服着てあげよっか?」
「いっ、いいって」
「あれー? 何でも権使ってまで大学生の時は頼み込んできたのに?」
「だからそれは忘れろって!」
香織にニヤニヤと笑われてからかわれ、俺はため息を吐く。そんな俺を香織は真っ赤な笑顔で見返した。
「早くみんなに言いたいな! 跡野優一の妻、跡野香織ですって」




