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コンチェルト。アゲイン  作者: 煮込みハンバーグ
50/51

50【これから】

  【これから】


 パソコンの画面を見詰め、俺は欠伸をする。今は午前二時を回った所。まあ、明日……いや日付が変わったから今日は休みだし夜更かししても大丈夫なのだが……。

『ユーイチ、聞いてマスカ?』

「聞いてる聞いてる。俺の話をしたら、小説家にでもなれるんじゃないかって言われた話だろ? 一体、どんな話をしたんだよ」

『一言でクラスや学校をまとめ、熱中症で倒れたカオリを助け、サッカー部からは厚い信頼のある、とても女性にモテる正義のヒーローだと話しまシタ』

「…………そりゃあ、信じるわけ無いだろ」

 端的に説明してはいるが、セリアの事だから実際はもっと大袈裟に言ったに違いない。

 今、イギリスは一七時頃。この後は香織、江梨子、高塚、そして聖雪と話す予定らしい。

 セリアがイギリスに帰って一週間。メールは毎日来るし、電話で話す事も度々あった。そして、たまたま時間の余裕がある休日が重なった今日、ビデオチャットを使って話をしようという事になった。

「セリアは寮なんだろ? ルームメイトは居ないのか?」

『ノー、ワタシは一人デス』

「そっか。そういえば、セリアの高校について何も聞いてなかったな。どんな学校なんだ?」

『ワタシの学校は、スコットランドにあるゴードンストウンスクール、デス』

「出身はイングランドだけど、学校はスコットランドなのか。ゴードンストウン、スクールね」

 セリアの言葉を聞いて、ブラウザソフトでその言葉を検索する。

「ゴードンストウンスクール。英国王室のメンバーを多数輩出した、北部スコットランドの名門寄宿学校。…………英国王室!?」

 目に飛び込んできたその文を読み上げて、思わず飛び上がって声を上げてしまう。そして学費の所には、約七七〇〇〇ユーロと書かれている。レートを調べて計算してみたら一〇〇〇万を軽く超えていた。しかも、これは一年間の学費だ。

「セリアは何歳からその学校に?」

『八歳からデス。ユーイチ? 顔が真っ青デス。大丈夫デスカ?』

 ネットの情報だから、一〇〇パーセント真実とは限らないが、ネットの情報を信じると、セリアの一〇年間の学費は一億になる。一億なんて数字をこんな身近なところで聞くとは思わなかった。

「セリアの家って、仕事は何をしてるんだ?」

『パパはホテルを幾つか持っているバロンデス』

「バロンデス?」

『ノー。バロン、デス』

「…………セリア、バロンって男爵って意味のバロンだよな?」

『オー、そーデス! 男爵デス! 日本語が思い出せなくて困っていたデス』

 画面の向こうのセリアは、いつも通りニコニコと屈託のない笑顔を浮かべている。が、俺は額から汗がジワジワと滲んてくる。もちろん冷や汗だ。

 バロン、日本語で言うところの男爵は、貴族の爵位の一つだ。大抵は五つある爵位の最下位に位置する爵位だが、それでも男爵は一つの国に数十名ほどしか居ないはず。

 現代では貴族に特権等はなく名誉のみらしいが、セリアの話を聞くと、大抵の人が貴族と想像して頭に浮かぶ貴族そのものなのは間違いない。

『ワタシの家の話をすると、皆さん固まってしまうから良くない、とナギサに言われたので秘密にしていました。ごめんなサイ』

「いや、その判断は正しかったと思うぞ」

 高塚は知っていたのか。いや、セリアをホームステイに受け入れたのだから、知っていて当たり前だ。でも、もしセリアが貴族なら、なんでうちみたいな平凡な高校に来たのだろう。

「セリアはなんでうちの学校に来たんだ?」

『一般的な日本の学校に行きたかったからデス』

「なるほどな、確かにうちは一般的だ」

『ナギサに初めて会った時は、ナギサとても遠慮していまシタ。だからお願いしまシタ。普通にして下サイ、ト』

 高塚が知っていたという事は、当然校長や先生達は当然、セリアの家系について知っていたのだろう。という事は、あのグリズリー先生、男爵令嬢を俺に任せたって事か……なんという恐ろしい事を。もし、変な事でもしたら俺の首が物理的に飛……。

「あのさ、セリア」

『ハイ?』

「空港の時のアレ、セリアの両親に言ったのか?」

『空港のアレ、デスカ? ――ッ!』

 首を傾げて考え込んだセリアは、空港のアレを思い出して顔を真っ赤にする。

 空港のアレというのは、セリアが俺にキスをした事で、もしあれがセリアの両親に知られたら「娘を傷物にしよって!」と首をはねられかねない。もちろん物理的に。

『ノー、言っていまセン。いくらパパとママでも恥ずかしいデス』

「よ、良かった……俺、首を飛ばされるのかと思ったぞ……」

 俺がホッと息を吐くと、セリアがケラケラと笑う声が聞こえた。

『ユーイチ、安心して下サイ。心配しなくても大丈夫デス。パパはそんな事で首をはねたりしまセン』

「だよな、そんなの物語の話だ――」

『責任を取らされるくらいデス』

「安心出来んわ! 絶対に言うなよ!」

 画面の向こうに念を押してそう言うと、セリアは頬を膨らませて不服そうな顔をする。

『ユーイチ、何故そんなに嫌がるデスカ? ワタシと結婚するのがそんなに嫌デスカ?』

「いや、俺には香織という彼女が居てだな。それにまだ高校生で責任を取れと言われても……」

 セリアに弁解をしていると、セリアは画面の向こうで口元を手で押さえ笑いを堪えている。この野郎、からかいやがったな。

『ユーイチ、大丈夫デス。パパはとっても優しいデス。それにユーイチの話はしまシタ。とても素敵な彼女の居る素敵な男性に恋をして、失恋しまシタ、ト』

「それを聞いてお父さんはなんて言っていたんだ?」

『セリアが恋をする男性だから、とっても魅力的だったのダロウ。そして、魅力的だったから素敵な彼女が既に居タ。今回は、セリアに魅力が足りなかったのダ。だから、これからもっと魅力的な女性に成れるように努力しなサイ。そう言われまシタ』

「良いお父さんだな」

『ハイ! 世界一のパパデス!』

 セリアはニッコリ笑った後、俺の方をジーッと見てシュンと顔を下げた。

『ユーイチ、寂しいデス』

「俺だって寂しいよ。でも、こうやって話せるからまだマシだろ?」

『ハイ……でも、ユーイチとカオリと、みんなと過ごした学校はとっても楽しかったデス』

「そっちの学校は楽しくないのか?」

『ウーン……あんまり、デスネ』

 セリアの行っている学校はかなりの名門校のようだった。名門校なら通っている生徒は家も生徒自身もかなりレベルの高い人が揃っているのだろう。そうなれば、生徒同士の競争も苛烈だろうし、家同士の確執や対立とかもあるかもしれない。それにセリアほど容姿が良ければ、それに対する嫉妬もある可能性がある。

『とても仲の良い友達は沢山居マス。でも、そうでない人も居マス』

「セリア、それは何処でも同じだろ。セリアなら大丈夫だって、それにセリアはもうすぐ大学生だろ? 何処の大学に行くんだ?」

『ハイ、オックスフォード、デス』

「オックスフォード、ねー」

 世界でもトップレベルの超名門大学。大学に詳しくない人間でも名前くらいは聞いた事がある大学だ。セリアの家の話を聞いてからだと驚きはしないが、それにしても生きている次元が違う。

『ユーイチ、ワタシとユーイチは友達デス』

「分かってるよ。セリアが貴族の令嬢だろうが超名門大学に行こうが、セリアはセリアだ」

『ありがとうございマス! やっぱり、ユーイチはとっても素敵デス!』

「ありがとうセリア。そろそろ、次の奴と話す時間じゃないのか?」

『オウ! あっという間デス!』

 時計の針は、もうすぐ三時を指そうとしている。一時間喋りっぱなしだったが、もうそろそろ切らないとセリアの寝る時間が無くなってしまう。

『ではユーイチ、またメールをしマスネ!』

「分かった。セリアもあんまり無理するなよ。何かあったら高塚でも香織でも江梨子でもいい。誰かしらに話してストレス発散しろよ」

『ハイ! その時はユーイチに癒やしてもらうデス。ではまたデス』

 画面がブラックアウトして、俺はヘッドセットを外す。全く、江梨子のせいでセリアに俺をからかう癖がついてしまったようだ。

「男爵令嬢に変な事吹き込んだって知ったら、江梨子の奴、どんな顔をするんだろうな」

 そう思ったが、セリアが自分から言うまでそれはフェアじゃないだろうと思い、男爵の話は俺の胸にしまっておこうと決めた。


「今でも思うんだけど、お兄ちゃんの格好良さって全然分からないよー。だって家ではダラダラしてばっかりなんだよ? 優しくて格好いいねー、それって恋は盲目ってやつだよきっと。セリアさんがお兄ちゃんに恋してるから変な所が見えなくなってるの。ちゃんと見れば、ダラケたただの留年高校生だって」

 俺のパソコンでセリアと話す聖雪を後ろから見ていると、聖雪の後ろに立っている俺を見たセリアが苦笑いを浮かべる。

「一昨日なんかさー。こたつに潜って動かなくて、お母さんに怒られてたんだよー。ほんと、香織ちゃんもなんであんなグータラ人間を彼氏に持ったのかなー」

「グータラ人間で悪かったな」

「おっ、お兄ちゃん!? お、おはよーよく眠れた?」

 引き攣った笑みを浮かべる聖雪の頭をポンポンと叩き、セリアに手を振って一階に下りる。

「優一、起きて早々悪いんだけど、おつかいお願いしてもいい? お母さん、ちょっと町内会の集まりがあって。ほら、聖雪はセリアさんとお話してるし」

「分かった。飯食べたら行ってくる」

 香織もセリアと話して今頃は寝てるだろうし、今日は会う予定は入っていない。だから、暇なのだ。

 朝飯は焼いたウインナーと焼いた食パンという簡単なもの。飲み物を牛乳にして、申し訳程度に栄養は気にしています感を出す。

 三月も上旬。もうすぐ、三年の卒業式が近付いている。生徒会でももう、準備の方は粗方片付いた。あとは、卒業式を迎えるだけだ。

 本来なら俺は送り出される方だった。それを俺は送り出す方として迎える事になる。気分的に違和感がないと言えば嘘になる。なんせ同い年の奴らを送り出すのだ、違和感を抱くなという方が無理な話だ。

 そしてやっぱり、セリアを送り出すのと同じく、寂しいものがある。

 サッカー部の三年連中は特に、俺の中では特別な奴らだった。あいつ等の新しい門出を祝ってやらなければという反面、もう少し一緒にバカやって笑っていたいという気持もある。

「さて、買い物行くか」

 考えたって仕方がない。俺だって来年になれば卒業するのだ。だから、今度こそ、笑顔で送り出してやろう。


 買い物に出てすぐ、俺は真正面から風を浴びた。大分、風が暖かくなり、春の香りを感じる。流石にまだ桜は咲いていないが、蕾の元がチラホラ見える。

「跡野くん!」

「おお、音瀬」

 十字路に差し掛かると、別の道から音瀬が歩いて来て、十字路でばったりと音瀬に出会った。

 音瀬は肩にトートバッグを下げてニッコリ笑った。

「跡野くんはお出かけ?」

「ああ、ちょっと買い物を頼まれてな」

「私も近くのスーパーに買い物に行くところだったんだ」

「そりゃ奇遇だな。どうせ目的は同じだし一緒に行こう」

「うん」

 音瀬と並んでスーパーまでの道を歩く。

 一年の頃は、音瀬と話すなんて緊張して何を話せばいいのか分からなかった。それに並んで二人で歩くなんてまともな思考なんて廻らせられなかった。

 それだけ好きだった女の子が居ても、今は自然と歩いている。

「もうすぐ卒業式だな」

「うん、早いね」

「そうだな。俺が寝てる間に随分時間が経ったしな」

「跡野くんと一緒に卒業出来ないのは寂しいけど、それよりも跡野くんがちゃんと居てくれることが私は嬉しいな」

「音瀬には随分心配掛けたしな。すまなかった」

 俺が謝ると、音瀬は首を振って否定する。

「ううん、跡野くんがちゃんと戻って来てくれたから。だから、それでいいの」

「ありがとう」

 音瀬と一緒に歩く道の先に、何やら道のど真ん中で何やら話している男女が見えた。

「あれ? 佐原と江梨子じゃないか。珍しいな二人きりで……ん? 二人きり?」

「優一、それは優一の勘違いよ。佐原なんて有り得ないから」

 江梨子がキッと俺の方を睨んですぐに否定する。俺、まだ何も言ってないんだが……。

「私からしたら、仲良さそうに歩いてる優一と侑李の方が怪しいわ」

「江梨子ちゃん、跡野くんと私は買い物に行く途中にたまたま会ったんだよ」

「二人も買い物!? 私と佐原と同じじゃん!」

 驚く江梨子から、今の今まで会話の外に居た佐原に視線を向ける。

「今までサッカーばかりで家の手伝いなんてしてなかったからな。四月からは大学でまたサッカー漬けになるだろうし、今のうちに出来ることはやっておこうと思って」

「そっか、体育教師を目指してるんだっけ?」

「ああ、高校の体育教師になってサッカー部の顧問になりたい。そして、全国を目指す。出来れば、うちの高校がいいけどな」

「佐原はいい教師になるだろうな。周りの事を良く見れるし、気遣いも出来る」

 キャプテンを務めていたし、佐原は教師に向くと思う。しかし……。

「江梨子も教師とはねー」

 俺が視線を向けると、江梨子は俺より遥かに強く鋭い視線を返してくる。

「何よ、私が先生目指したらダメなの?」

「いや、江梨子が教師ってイメージが出来なくて。教師よりも服屋の店員とかファッション雑誌の編集者とか、あとはそれこそモデルとかの気がする」

「江梨子ちゃん、スタイル良いからモデルは似合うね」

 ニッコリ笑って俺の言葉に同意する音瀬を見て、江梨子は手をヒラヒラ振って否定する。

「なんで笑いたくもないのに笑わないといけないような仕事しないといけないのよ」

「教師も笑顔は大切だぞ」

「教師に大切なのは生徒を導く力よ」

「江梨子から導くって言葉を聞くと、理由は分からんけど胡散臭さを感じるな」

「なんですってぇ?」

 江梨子に掴まれそうになってひらりと体をかわすと、ムッとした表情で両腕を組む。

「全く、優一は失礼な奴ね」

「でも、江梨子は面倒見が恐ろしいくらい良いからな。教師になると生徒に頼られるいい先生になりそうだ。頑張れよ」

 腕を組んでいた江梨子は顔を真っ赤にしてそっぽを向く。視線を音瀬に向けると音瀬は苦笑いを浮かべた。

「跡野は相変わらずだな」

「相変わらずってなんだよ」

 佐原が笑いながら言うのを聞いて、軽くバカにされたと判断して不満を返す。佐原はちらりと音瀬と江梨子を見て俺に視線を戻した。

「女子に好かれるのが上手い。それを計算でやってない辺りがたちが悪いな」

「私も佐原に同意するわ」

「私も」

 江梨子と音瀬の声も聞こえて、俺は三人に更に不満を返す。

「別に普通だろ。上手いことは特に何もしてねえよ」

「だから言っただろ。計算じゃなく天然でやってるからたちが悪いんだって。女子を何気なく褒めれるし、女子が困ってる時にはさり気なく手を差し伸べる。そういう事は、早々自然に出来るものじゃない。大抵の男は下心が出る」

「佐原は下心丸出しだったしねー」

 思わぬ江梨子からのツッコミに、佐原は苦笑して返すしかなかった。

「なんか、俺が女たらしみたいじゃないか」

「「「えっ?」」」

「えってなんだよ、えって」

 三人同時に驚いた顔をしやがる。全く失礼な奴等だ。

「まあ、優一は下心の無い女たらしね」

 江梨子の言葉に佐原も音瀬も頷く。この場においては、三対一だからどんなに否定しても覆らない。だから、否定するのは諦めた。

「さっさと買い物済ませて帰ろう帰ろう!」

「待ってよ、アナタ」

「誰がアナタだ!」

「いーじゃん、夫婦ごっこよ」

「誰がそんなごっこ遊びするか!」

 見慣れた小道を歩く四人。ありそうでなかった組み合わせ。この四人で歩ける事がとても嬉しく思えた。きっと俺がそう思えているのも、別れの時が近付いてきたからなのだろう。

 季節は仲春。彼ら彼女らの旅立ち、そして俺達の旅立ちが近付いている。


 快晴。その一言に相応しい雲一つない空。そして俺は、その快晴の空を窓の先に見て、俺はホッと息を吐く。

 朝から卒業式の準備に駆けずり回り、ホッと一息つけると思ったら、卒業式開式の時間が迫っていた。卒業証書授与式が行われていて、俺はそっちに目を移した。

 卒業証書を受け取る大抵の女子生徒は既に泣き出している。音瀬も泣いていたし、加藤も涙を流して受け取っていた。江梨子は泣いてはいなかったが妙にすました感じが、感情を堪えている事の裏返しに見えた。

 そして、今まさに卒業証書を受け取っている佐原は、至って普通に、佐原らしくきっちりとした姿勢で卒業証書を受け取っている。

 俺が卒業式でやる事は何もない。俺は副会長だし、送辞は近藤さんの役目だし記念品の贈呈も生徒会からは野田さんがやる予定だ。

 そんな事を考えているうちに、ただ時間が過ぎて行き、卒業式は呆気なく終わりを迎えた。


 卒業式と言っても、特別なのは卒業する三年だけだ。二年一年は、また来週から学校がある。そして、また一年間を人それぞれの歩き方で歩いて行くのだ。

 廊下からは誰かの第二ボタンを誰が貰ってただのという話で盛り上がり、誰かが誰に告白しただのという話で盛り上がり、なんだか卒業に対する寂しさを感じない。どっちかと言えばポッカリと心に隙間が空いたような喪失感か虚無感。いや、これを寂しさと呼ぶのかもしれない。

 今日は生徒会も無いし帰ったら何をしよう。ああ、いつも通りセリアにメールを返してテレビでも見ようか。

「優一さん!!」

「香織、どうかした。そんなに慌てて」

「セセセ!」

「せせせ?」

 らしくもなく慌てた様子で教室に飛び込んできた香織が、口をパクパクさせながら廊下を指さし、何かを俺に訴えようとしている。しかし、様子から見ても分かる通り、香織は相当パニクっていて何を言いたいのかよく分からない。

「ハーイ、ユーイチ。お久しぶりデース」

「おーセリア、久しぶりってこの前ビデオチャットで……セリア!? なんで日本に居るんだよ!」

 私服姿で手をヒラヒラ振りながら入ってきたセリアを見て、思わず驚いて立ち上がる。そして、俺の声を聞いたクラスメイト達がセリアを見て歓声を上げ、瞬く間にクラスメイト達に囲まれた。

 クラスメイトの塊から抜け出して来たセリアはニッコリ笑う。

「ユーイチ、私は何歳か思い出して下サイ」

「何歳って、俺と同じ一八……あれ? セリアは一八に去年なってるから今年卒業だよな? ん? ……確か、海外の高校の卒業式って六月じゃ……まさか!」

 ニヤッと笑ったセリアは俺に何かカードのような物を見せる。それは真面目な顔をしたセリアの顔写真の載ったカードで、書かれている英語の全ては読めないが、比較的大きく書かれた文字はオックスフォードと読める。

 要するに、セリアはそもそも六月に高校を卒業していてオックスフォード大学に入学していた。そして途中からは、そのオックスフォード大学からうちに留学していたという事になる。それに日本の春休みが一週間程度に対して、海外の春休みは二週間から三週間ほどある。つまり、今はその春休み期間という事らしい。

「ちょっと待て、大学から高校に留学出来るのかよ!」

「出来るのデス! 語学留学なのデ!」

 Vサインを指で作り、したり顔でセリアは言う。

「今は日本で言う春休みデス。なので、里帰りに来まシタ!」

「帰って来るの早すぎだろ……てか、六月から大学生だったなら、大学どうしてたんだよ」

「レポートを書いて送っていまシタ。あとはテストを受けるために、夏と冬に帰りまシタ」

「なるほど、夏冬の帰省の時にそのテストを受けたわけだな」

 確かにセリアは日本語系の教科でもかなり高得点を採っていたし、他の教科ではぶっちぎりだった。だから頭も良いとは思っていたが、世界で一位二位を争う名門大学の授業をほぼ通信学習でこなしてテストもパスするなんて、全くどういう頭の構造をしているんだ。

「三年生まで居たかったのデスガ、それはダメだとセンセーに言われてしまいました」

 セリアはシュンとして肩を落とす。

「てか、この前ビデオチャットした時には、学校の事を聞いたら高校の話をしてただろ。大学の話なんて何処に行くかくらいしか――」

「ユーイチは、高校は何処かと聞きまシタ。だから、高校について話しまシタ。大学は、通っている大学はオックスフォードなので、オックスフォードに行きマス、と話しまシタ」

「変な頓智を覚えて帰りやがって、全く……」

 勝ち誇った顔で微笑むセリアには、今回ばかりは完敗だ。完全に騙された。

「セリアさんッ!」

「カオリ、苦しいデス」

「会いたかった! いつまで日本に居られるの?」

「そーデスネー。四月の終わり頃までデス」

「春休み丸々居る気かよ……」

 セリアを思いっ切り抱き締めた香織に、セリアがそう答えるのを聞いて、俺は嬉しさを隠すために悪態をつく。

「セリアッ!」

「オー、ナギサ! お久しぶりデース!」

 教室に涙目の高塚が飛び込んで来て、香織と同じようにセリアへ抱きつく。その様子を見て微笑ましくなって笑いそうになったが、すぐに違和感に気付いて眉をひそめる。

 セリアは春休みいっぱい日本に居るつもりなのだから、当然高塚の家に泊まるのだろう。だったら高塚は事前にその話を聞いているだろうから、涙を流すほど驚いて抱きつく訳がない。

「まさかセリア……高塚にも言わずに来たのか?」

「ハイ、サプライズ! デス!」

「…………バカだ」

「ユーイチ! バカとはヒドいデスッ!」

 確かにサプライズだが、サプライズ過ぎる。帰る時に散々泣かされたのに、危うく今回も泣きそうになる。

「そうデス、ナギサ! ワタシは泊まるところがありまセン。ナギサのお家に泊まらせて下サイ」

「いいよ! いつまでも居て! 何ならずっと居て良いから!」

 高塚が珍しく大きな声を出して感情豊かに頷く。

「セリア、江梨子達の卒業、祝いに来てくれたんだろ?」

 俺はセリアにそう声を掛ける。

 日本に来るタイミングが良過ぎる。狙って来たに違いない。

「ハイ、エリコ達をお祝いしに来まシタ」

「絶対、江梨子達が喜ぶ。ありがとな、セリア」


 放課後、俺は香織に強引に引っ張られ、サッカー部に顔を出した。既に三年は集まり、選手達はユニフォームに着替えていた。卒業式に行われる、三年対一年二年の引退試合の準備だろう。

「セリア!? なんで居るのよ!」

 香織と俺の後ろに隠れながらついてきたセリアを、江梨子が目ざとく見付けて驚いた声を上げて駆け寄って来た。

「エリコ達の卒業をお祝いしに来まシタ!」

「ありがとうセリア。セリアが来てくれただけで十分過ぎるくらい嬉しい」

 セリアをヒシっと抱き締めた江梨子は、俺の方を向いてニッコリ笑う。

「跡野くんもありがと」

「…………」

 男が好みそうな猫なで声を出し、俺を跡野くんと呼ぶ江梨子に、俺は眉をひそめた。

「なんで黙ってるの?」

「冬が戻って来たかな、寒気がする」

「はあ? 酷くない? せっかく一年の頃思い出して接してやったのに。私が猫なで声で媚売るなんて、今となっては超レアよ」

「そんな妙な希少性は要らん」

 確かに一年の時、江梨子がサッカー部に入って来て初期の頃は、俺の事を跡野くんと呼んで、さっきみたいな猫なで声を出していた記憶がある。しかし、すぐに猫なで声ではなく普通に話すようになったから、記憶から消え去っていた。

「江梨子、卒業おめでとう」

「ありがと、優一」

「おめでとうございます。江梨子先輩」

「ありがとう、香織」

「エリコ! 卒業、おめでとーございマス!」

「ありがとーセリア」

 少し頬を赤く染めてはにかむ江梨子を見ていると、俺の視界が真っ暗になった。そして、顔に何か布みたいなものが触れているのが分かる。

 その顔に触れている物を剥ぎ取って確認すると、サッカー部のユニフォームだった。

「跡野、何してんだ。早く着替えろ」

 遠くから佐原が真面目な顔をして言う。冗談を言う顔にしては面白みがゼロだ。

「佐原、なんの冗談だよ」

「冗談なわけあるか。何のために駿河に連れてきてもらったと思ってるんだ。引退試合、三年側の右サイドハーフで出ろ」

「はあ?」

 佐原から香織に視線を向けると、香織がジーッと俺の顔を見詰め、少し上目遣いになって言う。

「優一さんがサッカーするところ、見たいなー」

「よーし佐原! 絶対に勝つぞ!」

 男というものは単純である。それがわざとであると分かっていても、彼女に可愛い仕草で頼まれればやる気が出ないわけがない。それにしても何処であんなあざと可愛い仕草を覚えてきたんだ。またやってくれないかな、あれ。

「跡野も駿河には弱いな」

「彼女に頼まれたら断れん。でもいいのかよ、サッカーなんて授業でやるくらいだぞ。それに知ってるだろ、俺が下手くそなのは」

 放り投げられた一二番のユニフォームに着替えながら、佐原に視線を向ける。気替えを終えた佐原は、ニッと笑って俺に言う。

「跡野と一緒にやるから意味があるんだ。下手くそなのは問題じゃない」

「チッ、そこは下手くそを否定しろよ」

「すまんな、流石にお世辞でもそれだけは言えない」

 佐原の返しに三年全員が笑い声を上げ、圧倒的な数的不利を目の当たりにし、俺はぶつくさ文句を言いながらユニフォームに着替えた。


 部室に置いてあったお古のスパイクに履き替え、もう随分やってないアップをやっていると、三年の一人が不貞腐れた声を出す。

「みんな、マネージャーの方を見てみろよ。二ノ宮に音瀬、駿河に金木まで、めちゃくちゃ緩んだ顔をしてやがる」

 その声を聞いて視線を向けると、確かにニヤニヤしているという意味では四人とも緩んだ顔をしてはいる。

「駿河の隣に居るセリアさんも緩んでるな」

 確かに、セリアも何故かニヤニヤとこっちの方を見ている。まさかあいつ等、あまりに俺が下手くそなのを見て笑っているんじゃ。

「跡野だな」

「ああ間違いない」

「くそ、跡野下手くそなのになんでそんなにモテんだよ」

「いや、あいつ等、俺が下手くそなの見て笑ってるんだろ? ちょっとは活躍して見返して――」

「「「はあぁ?」」」

 やる気を出した途端、三年全員から非難の目と声を向けられる。

「跡野がきっちりユニフォームを着てスパイクを履いてるのは久しぶりだからな。跡野に惚れてる、憧れてる奴等には効果あるんだろ」

 佐原が笑いながら俺の肩を叩く。まあ、そっちの方だったら悪い意味ではないし良いのだが、どっちにしても見られていると言うのは緊張する。

 授業でサッカーをやった時、高嶺には「現役の頃より上手くなってるんじゃないですか?」なんて言われたが、俺自身はあんまり変わったという印象はない。そもそもが下手くそなのだから、多少上手くなっていても変わらないのだが……。

「おー、跡野。ユニフォームが似合わんな!」

 グリズリー先生が俺の姿を見て、腹を抱えて笑いながら言う。自分でも違和感があるが、笑いながら他人に言われると傷付くものがある。

「よーし、お前ら。跡野が一点取らなかったらグラウンド二〇周だ」

「「「そんなッ!」」」

「おいお前ら! なんだよその反応は!」

「だって、跡野が点取ったのってスパイ事件の一点だけだろ?」

「スパイとは酷いな! せめてレンタル移籍にしてくれよ」

 まあ、こいつらは俺の下手くそさを間近で見てきたから、こういう反応は仕方がない。

 グリズリー先生は作戦盤を取り出して佐原に差し出す。

「佐原キャプテン。指揮はお前に任せた。相手には神崎も居るが、三年としてはいいハンデだろう?」

「ハンデって、先生までそういう扱いですか……」

 俺がそう呟くと、佐原を含めた三年全員が大声を上げて笑った。


 佐原の立てた作戦は一つ。俺をセンターフォワードに置いて、ラストパスを全て俺に集める。そして、他のチームメイトは、俺へラストパスを出すために動く。それだけだった。まあ要するに、シュートを打ちやすいチャンスを作りまくるから、それをものにしろという事だ。ブランクの長い俺には酷な話である。

「優一、一生のお願いがあるんだけど」

「江梨子、その一生のお願いの切り出し方は、あと三回は一生のお願いを切り出す奴の切り出し方だぞ」

 スパイクの紐を結び直している俺に近付いてきた江梨子が、俺に両手を合わせて何かを頼もうとしている。しかし、その胡散臭い一生のお願いには危険を感じる。

「引退試合終わった後に、一緒に写真撮らせて!」

「はあ? 写真?」

「お願いっ!」

「わ、分かった」

 両手を合わせながら頭を下げて懇願する江梨子の頼み様があまりに必死だったから思わず承諾してしまう。俺の答えを聞いた江梨子は、あまり見たことのない女の子らしい素直な笑顔を浮かべて飛び上がる。

「やった! ありがとう優一!」

 写真くらい、どうせ後で集合写真みたいなのを撮るだろうし、一枚増えようがあまり変わらない。

「跡野くん、私もいいかな?」

「ああじゃあ江梨子と一緒――」

「「別々で!」」

「りょ、了解……」

 二人共真剣な顔で詰め寄るもんだから、ビックリを通り越して若干怖い。

「ユーイチ、格好いいデス! ワタシも一緒に写真を撮ってほしいデス! ワタシもユーイチと二人で撮りたいデス」

「分かった。もう二人も三人も同じだし」

「私も一緒に撮って下さい!」

「金木も? 分かった分かった」

 みんな俺を写真に撮るとお金が貯まるパワースポットだと思ってるんじゃないだろうか。残念だが、俺にそんな御利益はない。

「跡野、グラウンド二〇周がかかってるんだからきっちり決めてくれよ」

「補欠外だった元サッカー部員に無茶言うなよ。仲良くグラウンド二〇周走ろうぜ」

「俺は絶対に嫌だからな。それに後輩に何か残してやりたいし」

 三年の部員が、作戦盤で作戦を確認している一年二年に視線を向ける。まあ、三年としての威厳もあるし、目標を作ってやりたい気持ちも分からんでもない。こいつらだって、先輩達に目標を貰ってきたんだろうし。

「よし円陣組むぞ」

「おーなんか部活っぽいな」

「跡野、気合い抜けるだろうが」

「気楽に行かせてくれよ。あんまり緊張させるとシュート外しまくるぞ」

 円陣を組みながら不満を漏らすと、みんながクスクスと笑う。その和やかな雰囲気を佐原の声が一瞬にして絞め上げた。

「お前ら、これが本当に高校最後の試合だ。相手に日本代表が居ようが差を見せつけてやるぞ」

「「「オウッ!」」」

「跡野」

「なんだ」

「駿河から伝言だ」

「香織から?」

「もし”ハットトリック決めたら”何でも言う事を聞くそうだ」

 佐原の言葉を聞いて思わず顔を上げて香織の方を見る。香織は俺と目が合うと、控えめに手を振ってくれた。

「佐原。それ、嘘じゃないだろうな?」

「嘘じゃない」

「…………みんな頼んだぞ」

「「「羨ましいなオイ!」」」


 妙な掛け声で気合いを入れた俺達は、キックオフを一、二年チームに譲り、一、二年チームのキックオフで始まった。

 久しぶりにスパイクを履いて走るグラウンドは思ったよりも固い。サイズはちゃんと合っているが、久しぶりに履いたせいか違和感がある。

 ボールは相手チームの要である神崎が持ち、神崎が鋭いスルーパスをフォワードの選手へ出す。そのボールはフォワードへ行く前にディフェンダーが足を伸ばして弾いた。

 浮き上がったボールを今度は右ハーフの選手が縦へ長いロングボールを放り込んで来る。

「跡野!」

「バカ野郎、初っ端から走らせるなんて、人使い荒すぎだろ!」

 みんなは俺が一点取らなければグラウンド二〇だし、俺はハットトリックを決めたら香織が何でも言う事を聞いてくれるらしい。

 縦へ放り込まれたボールに合わせて走り出し、ペナルティエリアの手前まで差し掛かった所で、左から相手のディフェンダーが体をぶつけてくる。

「させませんよ!」

「帰宅部相手に容赦ないな」

 右側からくるボールに合わせて飛び上がる。俺に付いたディフェンダーも飛び上がるが、丁度ボールとの間に俺が居てボールに触れる事は出来ない。

 ゴールに向かって逸らしたボールは、ゴールキーパーがパンチングで触れた後、クロスバーを叩いてゴールラインの外に出ていく。

「あ、あぶねー。今一瞬、入ったかと思った」

 相手のゴールキーパーが息を吐きながら言った言葉を聞いていると、三年の一人が耳打ちをしてくる。

「一年の時やったあれ覚えてるか?」

「あれ?」

「あのコーナーキック」

「ああ、あれな」

 そう言ってコーナーキックが蹴られる方とは逆のサイドに走っていく三年を見送り、コーナーキックに競るために構えた選手達を眺める。

 コーナーキックが蹴られると、一切に動き出し、ペナルティエリア内で様々なポジショニングの攻防が繰り広げられる。しかしボールはその攻防の真上を通り過ぎ、逆サイドに構えていた選手に向かって飛んでいく。

 ポジショニングの攻防を繰り広げていた選手達は、頭上を飛ぶボールに頭で触れようとし、高く飛び上がった直後だった。

「グ、グラウンダー!?」

 誰かの叫びと共に、逆サイドの選手が地を這うように蹴り出した低い弾道の速いパス。そのパスは、ゴール方向ではなく、ペナルティアークに飛んでいく。そこには、競り合いに参加せず突っ立つ俺が居た。

「させるか!」

 いち早く気付いた神崎が迫って来る。しかし、もう既に俺の右足は飛んで来たボールにジャストミートし、蹴り出されたボールはゴール右端に吸い込まれていた。

「うぉっしゃー! 跡野やるじゃねえかッ!」

「パスが良かったんだ。ナイスパス!」

 パスを出した三年が肩を組んできて、他の三年も駆け寄ってきて俺の頭やら背中やらをバシバシ叩く。

「よし、これでグラウンド二〇周は無くなったな」

「じゃあ次は俺のハットトリックに協力してくれよ」

 俺が自陣側へ戻るなりチームメイトの背中に声を掛けると、みんながニッコリ笑っていいとも腕を上げる。

「仕方ねーな」

「跡野の頼みなら協力するしかないだろ」


 その後、味方がもらったPKを蹴らせてもらって二点目を入れる事が出来たが、流石に帰宅部に二点も取られたのが堪えたのか、俺には何とも厳しいマークが付いた。

「これ以上、跡野先輩の好きにはさせませんよ」

「神崎、なんで日本代表が帰宅部にマンマークなんだよ。しかも攻撃の要がここまで下がってどうする気だ」

「どうやら、三年生の先輩方は跡野先輩に点を取らせたいみたいですから。跡野先輩に付いていれば、ボールに絡める機会も増えます」

「なるほど。でも、俺がボールに絡む必要があるのはシュート打つタイミングだけだしなー」

 正直、サッカーと言うよりも飛んで来たボールをゴールに向かって蹴っているだけしかやってない。

 サイドラインの向こうではマネージャー達が試合を見詰めているもちろんその中には香織も居る。

 香織は胸の前に両手を組んで、祈るように俺の方を見ている。

 香織が言ったという『もし”ハットトリック決めたら”何でも言う事を聞く』それが本当かは確かめていない。もし本当だったらめちゃくちゃ嬉しい。でも、それを抜きにしても、ハットトリックを決めて良い所を見せたい。

 俺はサッカーをするのは好きだった。でも、何が何でも上手くなってやるという気概が無かった。それは後悔していないつもりだ。楽しさを求める事は悪い事じゃないと、俺は思うからだ。

 だけど今になって思う。もし、俺がもっとサッカーを上手くなろうと頑張っていたら、俺が見ている景色は今よりもっといい景色だったのではないかと。

「跡野! 行けッ!」

 真後ろからのパス。目の前には神崎が居る。足元の技で神崎に勝てる訳がない。下手に時間を掛けても抜けない。

 後ろに戻すか、サイドに流すか……それとも。

「なっ!?」

 神崎が驚きの声を上げて、上を見上げる。俺は無意識に動いていた。左足のアウトサイドでパスされたボールを跳ね上げ、俺と神崎の上を浮かせて通す。

 プレイしてる部員も見ているマネージャーも驚きの声を上げているのが聞こえる。しかし、一番驚いているのは、神崎を抜いた俺自身だ。

「行かせるなッ!」

 少しバランスを崩しながらドリブルで駆けだした俺を、神崎ともう一人の一年が追い掛けてくる。しかし、思っていた以上に体が軽く感じた。

 俺は、警察官になるという夢を持ってから、自分なりに努力したつもりだった。とりあえず刑法の本を読み漁ってみたり、警察官になるためにはというサイトをインターネットで調べてみたりした。それ以外にも、夜にはランニングをして体力を付けようとしていた。多分、母さん達にはリハビリの延長で続けていると思われているだろうが、俺は明確に夢に必要なものだと思ってやっていた。

 俺はサッカーを上手くなろうとしなかった。でもそれは上手くなろうとしなかったのでは無く、明確な目標が無かったから上手くなれなかった、のかもしれない。そして、明確な目標を持って努力した事は、意外な形で俺にその努力の成果を教えてくれた。

 現役の運動部員に比べれば遅いかもしれない。でも、退院した直後の俺どころか、サッカー部だった当時の俺よりも速く動けている気がした。

 正面に二年ディフェンダーが半身の体勢で立ちはだかる。俺は、そのディフェンダーをかわすために横へボールを蹴った。その瞬間、不思議と目に見えている景色がスローモーションに見えた。

 体を一旦左に振ってから逆サイドへ抜けようとするマシューズフェイント、それで相手のディフェンダーを抜こうとした。しかし、相手ディフェンダーはそれを読んで左足を俺が抜けようとした右に伸ばす。それを知覚した瞬間、俺の体は反射的に行動を起こしていた。

 既に右へ抜き去るために傾いた体を無理矢理左に引き戻し、軸足の左足で地面を踏み付ける。そして、右足の内側で外へ流れようとしていたボールを引き戻し、左足の後ろを通して方向転換する。左足の伸ばした相手ディフェンダーは俺の急な方向転換に対応出来ず、俺はそのディフェンダーを置き去りにした。

 ディフェンダーを抜き去った後ろはゴール前。だが、目前にゴールキーパーが迫っていた。

 ゴールの左方向へ流れていく俺のシュートコースを消す様に、右側から迫ってくるゴールキーパーの姿を見ている時も、俺のスローモーションは終わらなかった。

 ボールは左足の外側にある。しかし左足は体のバランスを支えるために地面を踏みしめていてボールを保持したりシュートしたりには使えない。だからと言って左足で保持出来るようになるまで待っていたら、確実に止められる。

 そう思い、俺の体が動いた後、スローモーションが終わった。

「えっ……」

 後ろからゴールキーパーの抜けた声が聞こえ、正面からはボールがゴールネットを揺らす乾いた音が聞こえた。

「あ、跡野さん! 今のなんっすか!?」

 後ろからついさっき抜いた二年のディフェンダーが駆け寄ってくる?

「今の?」

「そうっすよ! なんか右足のアウトで無理矢理左足の前通して、それでキーパー抜いて! あんなの初めて見たんですけど!」

「いや、俺も無我夢中でやってたから良く分からん」

「こんなのっすよ! こうやって、どわっ!」

 ゴールに入ったボールを持ってきて、二年がボールを使って表現しようとする。左足の外側に置いたボールを、右足を後ろからクロスさせ、右足の外側で右側へ蹴り出そうとする。しかし、蹴り出した後に足をもつれさせ、その場で派手に転ぶ。

「イテテ……上手く出来ないな。神崎! 神崎なら出来るだろ? 神崎?」

 二年が駆け寄った神崎は、隣の一年と一緒にその場に立ち尽くし、ゴールの方をボーッと見ていた。そして、ハッとした表情をした後に、俺の方を見て詰め寄ってくる。

「跡野先輩! ラボーナエラシコ出来たんですか!?」

「ラボーナエラシコ?」

「軸足に交差させて蹴り足の外側で切り返すフェイントですよ。跡野先輩のはラボーナエラシコの途中からっぽかったですけど、一度、スペインの代表がやってるのを見ましたけど、成功率はそこそこの結構難しいやつですよ。それに、マシューズフェイントからクライフターンで切り返した後にラボーナエラシコって、そんなに上手いのになんでサッカー上手くないなんて嘘を……」

「いや、俺はあんまり上手く――」

「いや神崎。間違いなく跡野は下手くそだぞ」

「おい! 佐原! 下手くそは言い過ぎだろ!」

 いつの間にか側に来ていた佐原が、俺に疑いの眼差しを向ける神崎の肩に手を置いてそう言う。そして、俺の方を向いて、サイドラインの外側で俺の方に手を上げる三年を視線で指した。

「跡野、久しぶりに動いて疲れただろ。一緒にプレイしてくれてありがとう。ハットトリックも決めたし、交代して良いぞ」

「やっと解放されて一安心だ」

「それにしても、あのフェイント、どうやって覚えたんだ?」

 肩を叩いて労ってくれる佐原に尋ねられたが、俺は苦笑いを浮かべてこう答えるしかなかった。

「俺も、あんなの出来るなんて初めて知ったから分からん」


 交代してピッチ外に出ると、加藤が近くに歩いて来た。

「跡野お疲れ」

「ありがとう加藤」

「最後のあれ、凄かったわね」

「褒められるのは嬉しいけど、二度と出来ないからもう一度やって見せろと言われても無理だからな」

 俺の言葉を聞いた加藤は苦笑を浮かべ、自分の後ろを親指で指す。

「あそこで呆けてる連中には一回で十分効果あったみたいよ」

 加藤が指さす先には、香織、江梨子、音瀬、金木、そしてセリアが居る。その三人はさっきの神崎みたいにボーッとしているように見えた。

「跡野も、最後の最後でやってくれるわね。ちょっと感動しちゃったわ」

「おお、そうかそうか。俺もなかなか――」

「ヘタクソ跡野が日本代表抜いた上に、三人に囲まれてもドリブル突破してゴール。なかなか見られる奇跡じゃないわ」

「奇跡は否定しないけど、言う奴みんな表現に気を遣わないなー」

 遠慮のない物言いに眉をひそめた。でも、怒ったり嫌になったりは不思議としなかった。逆に、なんだか心が温かくなった。

「あ、跡野先輩! これ!」

 ボケッと続いている試合の方を見ていると、隣から香織がタオルとスポーツドリンクの入ったコップを持って来てくれた。俺はそれを受け取り、香織に笑顔を返す。

「ありがとう、香織。……跡野、先輩?」

 コップのスポーツドリンクを飲んで汗を拭く。そして、香織の『跡野先輩』という言葉に対して聞き返す。隣に立っている香織は手を前に組んだままモジモジして、チラチラ俺の方を見ていた。

「夢、だったの」

「夢?」

「試合か終わった優一さんに、ドリンクとタオルを渡すの、一年生の頃すっごく憧れてて」

「ごめんな、試合全然出てないヘタクソな先輩で」

「ううん、練習試合でも何でも、優一さんが頑張った後に私が入れたドリンクと私が用意したタオルを使ってほしいなって思ってたの。でも、いつも江梨子先輩か音瀬先輩が優一さんに渡してたから、そういう機会無くて」

 そういう香織は顔を赤くして俺に寄り添う。冬の寒さが吹き飛ぶくらい、隣に感じる香織の温度は温かかった。

「優一さん……キャプテンから聞いた?」

「ハットトリックのやつか? あれ、嘘じゃなかったんだな」

「うん、優一さんに発破をかけるからって。でも、私、優一さんが一点決めたらって言ったんだけど、ハットトリックって?」

 佐原のやつ、一点でいいところをハットトリックにしやがって。まあでも、あいつのおかげで久しぶりにサッカーを楽しいと思えたし、それに何より祝いの場だし、怒るのは止めておこう。

「三点取ったから三つだな」

「みっ、三つも!?」

「何で驚くんだよ。一点決めたら何で言う事を聞いてくれるんだろ?」

 俺がそう言うと、香織は真っ赤な顔をして驚く。

「で、でも三つは流石に……」

 困った様子で更に顔を赤くしていく香織の向こう側から、江梨子が相変わらずのニヤニヤ顔で近付いてきた。

「女が『何で言う事を聞く』って好きな男に言ったら、その何でもはエッチに決まってるじゃん」

「江梨子、俺は命令して無理矢理そういう事を香織にさせたりしない」

「あらー? 好きな男から強引に押し倒されるのも、案外燃えると思うけど?」

 香織をチラチラ見ながらからかう気まんまんの江梨子。その江梨子の言葉に香織は火が出そうなほど顔を真っ赤にして俯いた。

「優一、私も三つ何でも言う事を聞いてあげるわよ」

「人をからかうのは止めろ、ちょっとは慎みを持て、俺に敬意を払え」

「却下ね」

「何でもって言っただろうが!」

「さっき女が好きな男に何でもって言ったらエッチの事だって言ったでしょうが! 優一はさっき聞いた事も忘れたの?」

「忘れたんじゃねえよ、聞き流したんだ!」

 いつも通りの言い合いをしていると、突然、江梨子が瞳から雫を一粒流した。

「江梨子?」

「あっ、いや……これは、そういうんじゃなくて!」

 少し語気を強めた江梨子は、更に一つ、また一つと雫を増やし、そして遂には止めどなく溢れていた。

「もう、高校で優一とこうやってバカな言い合い出来ないなんてイヤだ!」

「江梨子、何を子供みたいな事を……」

「だって、十ヶ月も優一との時間が抜けてるのよ! それを埋められないで卒業なんて、絶対に嫌よ!」

 卒業式でも淡々としていた江梨子が急に泣き出して困る。すると加藤が真正面から江梨子を抱き締めて優しく頭を撫でた。

「はいはい、我がまま言わないのよ。跡野が困ってるじゃない。……それに寂しいのは、江梨子だけじゃないんだから」

 江梨子に笑いかける加藤も涙を流す。近くに居た音瀬も顔を両手で覆って泣き出し、それらにつられてマネージャー達がワンワンと泣き始めた。

 試合をしていた三年達も足が次第に止まり始め、みんな手で頭を押さえてみたり、腕で目を擦ってみたりしている。一緒にプレイしていた一年二年も三年と同じように涙を堪え、三年と同じ様に涙を流していた。

 チラリと視線を流すと、遠巻きに見ていた先生は、怖い顔で歯を食いしばり、涙を流していた。

「バカ野郎。過ぎた時間なんて埋められるわけ無いだろう」

 俺だって、過ぎた時間を、過ごせなかった時間を、埋めたい、過ごしたいとは思う。だけど、それは不可能だ。時間を巻き戻すのとは出来ない。でも、過ぎた時間は問題じゃない。

「”これから”があるだろ。これからもっと一緒に過ごせばいい。これからもっと一緒にバカやればいいんだ。それが十年、二十年って続けば、十ヶ月なんてたかがしれてる」

 俺の言葉を聞いたみんなは涙を流しながら笑って、口々に俺へのコメントを返してくる。言い方は雑なものばかりだったが、全て前向きなものばかりだった。

 隣で涙を流す香織は俺の手を握り、精一杯笑う。そしてギュッと俺を握る手に力を込めた。

「これからもずっと、よろしくお願いします!」


 《終わり》

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