47【友】
【友】
「せっかくですが、お断りします」
冬休みが終わり、新学期が始まって早々、俺は校長室に呼び出された。しかしそれは、俺が問題行動を起こしたとかそういう話ではない。
「そこを何とか」
「何度頼まれても答えは変わりません。なんで私なんでしょうか?」
校長室のソファに座る背広の男性とスーツ姿の女性。女性の方は全国ネットのバラエティ番組でよく目にする女性アナウンサー。男性の方は番組のプロデューサーらしい。
「中央高校サッカー部全国制覇の陰の功労者である跡野さんを取り上げたドキュメンタリーを――」
「陰の功労者なんかじゃありません。とにかく取材は拒否します」
「分かりました」
プロデューサーの男性はそう言った。でも、本当に分かっているようには見えない。
プロデューサーの男性がさっき俺に差し出した書類に目を向ける。その書類は企画書か何かのようで『一〇ヶ月の睡眠から目覚めたサッカー部の救世主』なんて謳い文句が書かれている。何が救世主だ。
どうやら何処かから、俺が事故で入院していた事を聞き付け、そして先日の空港の件と合わせ、俺を題材に番組を一つ作る気らしい。しかし、明らかに面白おかしく俺の事を大袈裟に取り上げる気のようだ。
「では、サッカー部の方への取材は可能でしょうか?」
俺から校長先生へ視線を向けたプロデューサーが笑顔で尋ねる。それに、校長は大きく頷いて答える。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
今、選手権大会優勝でうちの高校は全国的に有名になってきている。そこで全国ネットのテレビ局が取り上げれば、それは更に加速するだろう。校長先生としては、ありがたい事以外の何物でもない。だが、正直俺は不安だ。
御堂の件でも、テレビ局を含めたマスコミは、事件を大きく報道したが、報道された本人の事は何も考えちゃいない。
今回の取材が俺は個人で留まるとは思えない。サッカー部の奴らはもちろん取材を受けるはずだし、俺の事故の事を知っているという事は、その事故について更に取材をするだろう。そうなったら、香織の心の傷に触れるかもしれない。それが、一番怖い事だ。
香織に悲しい事を考えさせたくない。辛い思いなんてさせたくない。
「校長先生、口を挟んで申し訳ないとは思いますが、以前うちのサッカー部員がテレビに映り、その映像画像がインターネットで拡散して問題になった事をお忘れでしょうか? 生徒会副会長として、当校の生徒が恐怖心を感じ平穏な学校生活を送れなくなる可能性があるので、取材は反対です」
「しかし跡野くん、こちらの方々は全国でも有名なテレビ局の方々だ。その辺りの配慮はきちんとしているだろう」
「はい、大丈夫です。生徒さん方にはご迷惑をお掛けしないように十分配慮します」
「ほら、こうも言っている。それに当校の良さを知ってもらうチャンスだ」
口では何とも言える。配慮しますとは言っても、言い方は悪いが相手としては『放送してしまえば勝ち』なのだ。放送の裏で誰が傷付こうが、視聴率がとれればそれでいいのだ。そんな人達の大丈夫なんか当てにならない。
「では、早速本日より取材をさけて頂きます。取材に関してですが――」
「私はこれで失礼します」
プロデューサーが校長先生へ取材の説明を始めようとした所で、俺は席を立って頭を下げ校長室を出た。
校長室を出ると、少し離れた所に香織と二ノ宮、それからセリアが立っていた。
「優一、なんだって?」
「サッカー部の取材をするんだってさ。それで全国制覇の陰の功労者らしい俺を取材したいって言ってきた」
「そう、んで断ったのね」
「断った、デスカ?」
セリアが首を傾げて俺を見る。そのセリアに二ノ宮がニヤッと笑う。
「優一下手くそだから、試しにサッカーして下さいって言われたら、全国に恥晒すことになっちゃうからよ」
「オウ! なるほどデス!」
「下手くそとは酷いな。セリアもそれで納得するな」
軽口を叩きながら歩き出す。そんな俺を見て香織はフッと笑って隣に並んだ。そんな香織を見て、胸が痛む。
「ごめん、サッカー部の取材の方も止めようとしたけど、ダメだった」
「それは優一が謝る事じゃないわよ」
「うん、二ノ宮先輩の言うとおり。優一さんのせいじゃない」
二人は以前うちのサッカー部がテレビで取り上げられた時、怖い思いをしている。だから、当然取材には慎重になるべきだ。でも、校長先生は全国ネットという分かり易いブランドに目が眩んでいた。
二ノ宮と香織は柄の悪い奴らに絡まれ、二ノ宮に至っては連れ去られそうになった。それは学校でも大きな問題になったはずだ。それなのに、喉元過ぎれば熱さを忘れるのか、何も学習してはいない。
「バカ、何辛気臭い顔してるのよ。優一は何も悪くない。それに私も取材拒否するから大丈夫よ」
「私も取材拒否する。テレビに映って良いことなんて何もないし」
「そうか」
二人が思いの外落ち着いていて、俺は内心ホッとした。あの時の事は二人とも怖かったはずだし、思い出したくない事だろう。もしかしたら、俺に気を遣って気丈に振る舞ってくれたのかもしれないが、それでもその気の遣われ方は嬉しかった。
数学の授業中、教室の扉が突然開く。何事かとクラスメイトが視線を向けると、中に校長先生が入ってきた。
「テレビ局の方が生徒の皆さんの授業風景を取材したいということなので、気にせず続けて下さい」
にこやかな校長先生の顔に、俺は失礼ながら苛立ちを覚えた。後ろに居るプロデューサーが俺の方を指さして、カメラマンに指示を出している。どうやら俺を撮れと言っているようだ。
「失礼します。ジャパンニュースの織元麻里です。お話を聞かせてもらっても構わないでしょうか?」
「はい、遠慮なくどうぞ」
美人の女子アナウンサーにそう言われ、数学の先生は話半分で取材を許可する。そしてそのアナウンサーは俺の隣に立ちマイクを俺の方に傾けた。
「はじめまして、お名前は?」
「何故名乗らないといけないんですか?」
俺の思いも寄らない返答に教室内は凍り付く。しかし、取材拒否の件を知っている香織とセリアは驚いた様子はない。
「年頃ですから恥ずかしいですよね? では、サッカー部の全国制覇についてはどう思いますか?」
「サッカー部の部員達は毎日遅くまで練習をして努力し、選手もマネージャーも一丸となって戦っていました。その努力が報われて、私も中央高校の一生徒として嬉しく思います」
「全国制覇の陰に、跡野さんの貢献があったとお聞きしましたが――」
「失礼ですが、その件に対しての取材は拒否したはずです。これは重大な人格権の侵害ですが、報道に携わっている方ならそういう事は守って下さい」
「跡野くんッ!」
自分でも生意気な事を言っているとは思う。しかし、約束を破ったのは向こうが先だ。礼を失した相手に敬意を払う必要はない。
女性アナウンサーはニッコリとした表情を崩さず、他の生徒へインタビューを続けた。
テレビ局の取材は昼休みにも行われ、香織やセリアと居れば二人との仲を質問され、二ノ宮が訪ねて来た時も同じような質問をされた。
その度に抗議をしたが、神経が図太いらしく全く気にした様子はない。
「優一さん、大丈夫?」
「俺は大丈夫だ。香織は?」
「うん、私は大丈夫。それに部活に行ったら先生も居るし」
「そうだな、あの先生ならちゃんと見張ってくれそうだ」
部活へ行く香織と分かれ、俺は生徒会室に向かって歩く。
最近はあまり大きな仕事もなく、細々したデータ整理くらいしかしていない。あとは、ダラダラと喋るくらいだろうか。
いつも通り階段を上って廊下を歩き、生徒会室の目の前に立った瞬間、中から聞こえる声に俺は勢い良く扉を開けた。
「何してるんですか?」
「生徒会の皆さんにもお話を聞こうかと思いまして」
「跡野さん、ごめんなさい。私も今来たところなの。どうやらサッカー部にも生徒会にも関係ない質問をされたみたい」
腕を組んで立っている近藤さんの側では、俯く眞島と野田さんの姿がある。なるほど、二人に対して俺の事について取材をしたらしい。
「では私達はサッカー部の取材がありますので、ご協力ありがとうございました」
女性アナウンサーが俺の隣を通り過ぎる瞬間「歌がお上手なんですね」と言って歩き去って行った。
「跡野先輩、すみませんでした」
「跡野先輩、ごめんなさい」
「眞島と野田さんが謝る必要はない。もちろん、近藤さんも」
俺が椅子に座ると、近藤さんも自分の椅子に腰掛ける。
「根掘り葉掘り跡野さんの事について聞かれたそうよ。私が個人に対してのご質問にはお答えできませんって言ったら、生徒会に絡めて跡野さんの話を聞こうとして来たわ。もちろん、そっちも拒否したけれど」
「ありがとう。それにしても、近藤さんには俺が取材拒否した事言ってなかったはずだけど?」
俺が近藤さんに尋ねると、近藤さんはノートパソコンを起動しながら答える。
「数学の授業中に美人アナウンサーへ喧嘩を売った男子生徒って有名よ。あのアナウンサー、女子人気が低いらしくて、そのおかげで跡野さんの株がまた上がってるわ」
「どんな株だよそれ」
テーブルの上に肘を突いて言うと、近藤さんはパソコンの画面を見たまま口を開く。
「跡野さん、あの人達は跡野さんを取材して何をする気なの?」
「俺は事故で入院してたし、それに絡めて面白おかしく報道する気らしい」
「そう……最低ね」
その言葉を聞いて、視界の中に居る眞島と野田さんが更に肩を落とす。
「二人共、気にしなくて良いぞ」
「でも、跡野先輩に私達のせいで迷惑が……」
「大丈夫大丈夫。それよりもやらなきゃいけない事が山ほどある」
一息吐いて俺が立ち上がると、近藤さんがチラリと視線を向けて首を傾げる。
「最近はそんなに忙しい訳ではないわよ? 山ほど仕事なんて――」
「あるだろうが、山ほど散らかった紙の束が! これを片付けるのが先だ。全く、仕事ないのにどうやったらこんなに散らかせられるんだ! 眞島、野田さん、手伝ってくれ」
「「はい」」
テーブルの上に散らかった紙の束の片付けを三人で始める。するといつも通り、作業の手を止めた近藤さんが立ち上がった。そして唇を尖らせながら、いつも通り呟く。
「別に、このままで良いのだけれど」
生徒会が終わって香織を迎えに行く頃には、テレビ局の取材陣の姿はなかった。
まだ一月の上旬。日が落ちるのはまだまだ早いし、夜の風は頬をチクチクと刺すように冷たい。
グラウンドで練習するサッカー部には、三年の姿は少ない。
サッカー部として全国制覇を成し遂げたという事は、選手権大会が終わったという事で、選手権大会が終わったという事は、三年の引退があったという事だ。
専門学校や大学の入試がある奴らはそれに注力している。今、部活に参加している三年の殆どは、大学への指定校推薦等で進路が確定した奴等ばかり。
三年が減っただけで、使っているグラウンドが広く見える。
「あ! 優一じゃん! お疲れ!」
「お疲れ二ノ宮。テレビ、大丈夫だったか?」
「案外大人しくしてたわよ。先生も居たし」
二ノ宮、音瀬、加藤のマネージャー三人は大学への進学が決まっている。サッカー部のマネージャーを長く務めていた事や日頃の生活態度、授業態度が評価されたようだ。
二ノ宮も見かけは派手でふざけたところもあるが、三人の中で一番責任感が強いし根性がある。そういうのも、学校での高評価に繋がったのかもしれない。
「佐原は相変わらずキャプテンしてるな」
遠くで二年の部員と話す佐原を眺めながら、ボソッと口にする。佐原はスポーツ推薦での大学進学が決まっていて、体力を落とさない意味でも練習に参加している。
「佐原、祝賀会終わりに、侑李に告白したのよ」
「どうだったんだ?」
「振られてた」
「そうか」
「やっぱりまだ跡野くん以外の人は好きになれないって。あんた、神崎から刺される心配しなくて良くなった代わりに、佐原から刺される心配しないといけなくなったわね」
ニヤッと視線を向ける二ノ宮に、俺は細めた視線を返すだけに留めた。
「侑李の気持ち分かるわ。やっぱり忘れろとか諦めろとか、そういうって考えてもダメなのよね。考えても無駄なのよ。だから、自分に気持ちがある間は、その気持ちと向き合うしかない。たとえ、それが叶わなくても、向き合う事って大事だと思わない?」
「俺は、それにどう答えれば正解なんだよ」
「わたし的には、お前の事が好きだ、かな?」
「そうか。すまんが俺は香織が好きだ。でも、二ノ宮も音瀬も好きだと思ってる。単に好みって事じゃない。もちろん佐原も好きだ。香織と同じくらい大切にしたいし、絶対に失いたくない仲間だ」
「女としては複雑ねー」
「おい二ノ宮!?」
二ノ宮が急に腕を抱いて斜め下から俺の顔を見上げる。綺麗な顔立ちの二ノ宮が上目遣いをしただけで、心臓が跳ね上がるのを感じた。
「二ノ宮先輩! 優一さんから離れて下さい!」
「おっと、危ない危ない」
俺と二ノ宮の間に突っ込んできた香織は、俺の腕をがっちり抱いて二ノ宮に真っ直ぐ視線を向ける。
「こんな番犬付いてるんじゃ、誰も優一に近付けないわね」
香織をからかうように見る二ノ宮は、俺に短くウインクを投げた。
「優一さんデレデレしない」
「してないだろ」
「ヒドい……優一は私を女として見てなかったのね……」
香織の言葉に否定した途端に、二ノ宮がそう言う。からかう気なのは分かってるが、否定するしかない。
「二ノ宮は可愛いって思ってるよ。女の子として」
「そうなんだ! エッチしたくなるくらいカ・ワ・イ・イ?」
「ゆ・う・い・ち・さん?」
二ノ宮の言葉に過剰反応する香織は、冷たい顔を俺に向ける。もうそろそろ二ノ宮のからかいにもなれてほしいんだが……。
「何よ何よ、ちょくちょく相談に乗ってあげてるのに。ちょっとくらい良い思いさせてくれたっていいじゃない」
「相談?」
「ちょっ! 二ノ宮先輩ッ!」
二ノ宮の相談という言葉に俺は疑問を感じ、隣に居る香織は真っ赤な顔をして二ノ宮に飛び付いて口を塞ごうとする。二ノ宮は飛び付いてきた香織をヒラリとかわし、ニコニコ笑って逃げる。
「大丈夫だって、流石の私でもあんな相談の内容は人前では言えないわよ」
逃げ惑う二ノ宮が俺の後ろに隠れて俺を盾にする。その後ろに居る二ノ宮が、俺の耳に小さく呟いた。
「大好きな彼氏を喜ばせる方法、伝授しといてあげたから」
二ノ宮の言葉を聞けば、普通の健全な男子高校生なら同じ一つの結論に達する。そして、その結論に達した瞬間に体の熱がカッと上がった。
「に、二ノ宮先輩!」
俺の顔を見た香織が真っ赤な顔をして二ノ宮を追い掛けていく。
「そ、そういえば、音瀬は居るが加藤は来てないのか?」
「春? 春は横山とデートよ、デート。横山の方はもうとっくに引退してたし、春も引退して一緒に過ごせる時間が増えたし。ラブラブしてるんじゃないの?」
話題を変えようとふと思いついた事を口にする。立ち止まった二ノ宮は腕を組んでニヤッと笑う。
「優一は残念ねー。香織は引退してないからデート出来なくて」
「そういえば毎日一緒に帰ってるけど、確かに選手権大会で忙しくて二人でゆっくりはしてないな」
「優一さん……ごめんね」
「香織は悪くないだろ。それに、部活やってる香織を見るのも好きだし」
「ありがと」
香織が両手を前で組んではにかむ。それを隣でジーッと見ていた二ノ宮が、ハァーっと深いため息を吐いた。
「春も惚気てるし、優一と香織も惚気るし、何? みんな私に見せつけてそんなに楽しいわけ?」
「それは俺達のせいじゃないだろ」
「そうね、春は悪くないし香織も悪くないわ」
「なんでその中に俺が入ってないんだよ!」
「あら? 乙女を振るのはどんな罪よりも重いのよ? さて、遊んでると先生戻って来た時に怖いし、香織、優一、片付け始めるわよ」
「はい!」
香織は二ノ宮と一緒に歩き出す。仲が良さそうに笑顔で話す二人の姿は、もうかなり見慣れたものだ。でも、香織がサッカー部に入ってきた頃を考えれば、かなりの進歩だと言える。まあ、もう二年の付き合いになるんだし、そうやって信頼関係が築けているのは当然かもしれない。
「優一! 何ボケッとしてんの! さっさとやっちゃうわよ!」
遠くから俺の方を振り向いて手を上げる二ノ宮に、俺はバレない程度に口を緩めて笑い、声を張り上げた。
「仕事やらせるときだけ数に入れるな!」
数日後、学校から帰ってきて家に着くと、玄関に聖雪が飛び出して来た。家の中に暖房が効いてる事で油断したのか、かなりラフな格好だった。
「おかえ――ギャー、寒ッ!」
「……バカだろ」
出迎えの挨拶を途中で切り上げ、暖房の効いたダイニングに戻っていく。こっちは寒空の中、歩いて帰ってきたというのに。
とりあえず、二階の部屋に上がって荷物を置き、手洗いうがいをしてダイニングに入る。入った瞬間にちょっと効き過ぎな気もする暖房に顔をしかめた。
「ただいま」
「優一おかえり」
台所から母さんの声が聞こえ、聖雪はお気に入りの黒猫型の座椅子に腰掛け、テレビのスイッチを入れる。俺は内心「その座椅子、俺のじゃなかったのかよ」と思うが、もう随分前から聖雪専用になってしまっているから、今更抗議しても意味がない。
テレビにはこの時間帯によく見ているニュース番組が映っている。そういえば、サッカー部の取材に来たテレビ番組もこれだった気がする。
「今日、この前取材した時のが流れるんだって」
「へぇー、そうなの? 香織ちゃん映ってるかしら?」
母さんが台所から顔を出してテレビ画面の方を見詰める。香織のお父さんと話した後、香織のお父さんとお母さんがうちに来て、主にお父さんの方が謝罪し、そして無駄に俺を持ち上げて帰っていった。母さんや父さんは俺の異様な褒められように気をよくしたようで終始満面の笑みで、その顔の緩み方に見ている俺の方が恥ずかしくなった。
「あ! サッカー部だって! ……えっ?」
聖雪の大きな声に眉をひそめながら視線をテレビ画面に戻す。そして、聖雪の戸惑った声と共に画面に映し出されたテロップが目に入った。
『全国制覇の裏に隠された闇。サッカー部を危険に晒した者』
赤黒い文字で後ろに流されているBGMも楽しい雰囲気は一切ない。
放送内容は当初予定されていた、全国制覇を成し遂げたサッカー部の努力やエピソードを紹介する物、ではなかった。
サッカー部は当初地方でも強い部では無かった。しかし、事故である部員が休学したことでチームに良い雰囲気が流れ、部が一致団結し有力な選手の加入もあり地方でもかなりの強豪校に成長した。だがしかし、そんな順風満帆に見えたサッカー部に嵐が来る。休学していた部員が戻ってきたのだ。
休学していた部員は、事故で“当時一年だった女子マネージャーのせいで”約一年間を無駄にされたと逆恨みし、自分が居た時よりも強くなっていた部に嫉妬して部活を辞め、腹いせに様々なトラブルを部内に起こした。
新規加入した有力な一年生部員とトラブルを起こし、部を活動禁止処分に追い込もうとした。更には他校の生徒とトラブルを起こし、そのせいで女子マネージャーの連れ去り未遂まで引き起こした。
しかし、少年の問題行動はそれだけに留まらない。
学校の卒業生でサッカー部OBの教育実習生とトラブルを起こし、その大学生はトラブルが原因で教育実習の単位を取得する事が出来なかった。その大学生はインタビューに答え「目上の人に敬意を払わない生徒だった」と答えた。
更に、最近では援助交際を行っていた同校の女子生徒と結託し、他の女子生徒に援助交際を斡旋し利益を得ていた。その行動のせいで、サッカー部の女子マネージャーがトラブルに巻き込まれ、警察沙汰になる事件に二件も関与している。
実際はこんな露骨な表現はしていない。でも、そう取れるし、そう取らせようという意図がある。そして、極め付きは……。
『問題の生徒である跡野優一さんに取材を試みましたが、強い口調で取材拒否を受けてお話しを聞く事が出来ませんでした』
別にあの人達を信じていたわけじゃない。どうせ面白可笑しく脚色されるのだろうと思っていた。だから取材は拒否したし、映像に映らないように気を付けて行動していた。でも、これはどうしようもない。自分の知らない所で自分について取材されたものを、自分の実名と合わせて報道された。これは確実に問題になる。放送倫理の視点から問題視されるのはもちろんだが、一度報道されてしまったものは取り消せない。そして、今、全国の人の目に触れているのだ。
全国で問題になる。跡野優一という人間がどんなに悪い奴であるかが。
「ちょっと! なんでこんな! お兄ちゃんがまるで悪者みたいじゃん!!」
「すぐに、テレビ局に抗議の電話をするわ!」
母さんが電話に走って行く。しかし、それはきっと無駄に終わるだろう。どうせ事務的に対応されてまともに取り合ってくれないだろう。
「俺、少し出てくる」
そう言って、母さんや聖雪の声を聞かずに立ち上がって玄関を飛び出す。寒い夜道を走っている途中で、ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。
「もしも――」
『優一! 今すぐテレビから離れて!』
「ん? 今外だけど?」
『良かった、テレビ観てなかったのね……』
「さっきの取材のやつなら観た。それを観て、家を出てきたんだ」
『……なんで、あんなの観ちゃうのよ』
「なんで二ノ宮が泣いてんだよ」
電話の向こうから聞こえる二ノ宮の声が震え、鼻を啜る音も聞こえる。
『あんなの観たら、泣くに決まってるじゃない! 優一があんな風に言われて、何も思わないわけないじゃない!』
「二ノ宮、ありがとう。でも大丈夫だ」
二ノ宮を安心させるために笑いながら声を掛ける。
個人の名前を出して明らかにその個人を中傷する意図の見える番組内容。放送倫理上、確実に問題になる内容だった。だから、放送倫理に関する団体からケチが付くだろう。
ケチが付き、番組内容に問題があるとされれば、謝罪放送ないし撤回放送はあるだろう。でも、問題はもうこれが報道されてしまった事。
実際、事故で十ヶ月昏睡状態になっていたというエピソードは再現映像を使って相当俺が醜悪に見えるように報道された。再現映像の中の俺は、自分を事故に遭わせた女子マネージャーに辛辣な言葉さえ浴びせていた。
「ごめん、二ノ宮。電話切っていいか。急いで香織の所に行きたい」
『そうよね。うん、香織の所に行ってあげて』
電話を切りポケットにスマートフォンを仕舞うと、走る足を速めた。
俺がどんだけ醜悪だと見られても、大した問題じゃない。それにそれは一時的なものだと確信出来るし、いくら取材を拒否されたからと言っても、取材陣の行動は浅はかだ。たとえ一瞬だけ高視聴率を取れたとしても、報道局としての信頼が地に落ちる事を考えれば、天秤に掛けることもバカらしい。
問題は、俺が懸念していた、絶対に避けたいと思っていた事が現実になった事だ。
香織は俺が事故に遭ったことが自分のせいだと責めていた。でもそれは俺と香織がちゃんと話して、香織も俺の気持ちをちゃんと理解してくれて納得してくれた。でも、心に深い傷を負ったことは消えない。そして、その傷を今回抉られた。放送では俺に扮したタレントが香織に扮したタレントを、それこそ罵詈雑言の限りを使って「お前のせいで俺は事故に遭った」と責め立てていた。あんなものを見せられたら、香織が平然としていられるわけがない。
香織の家は両親が留守なのか明かりが点いていない。俺はすぐにインターホンを鳴らす。
『はい、どちら様ですか?』
「香織! 俺だ」
『優一さん? どうしたの? さっき一緒に帰ったばかりじゃ――』
「開けてくれ」
『急にどう――』
「いいから開けろ!」
門を開き玄関の扉の前まで行く。そして、内側から内鍵が解錠される音を聞いてすぐに扉を開ける。そして、扉を開いた先には、目を真っ赤にして涙を流す香織の姿が見えた。
クソ野郎、なんで香織がこんな目に遭わないといけない。なんで香織がこんな悲しそうに泣かなければいけない。香織は、俺が事故に遭ってから、今の今までずっと、俺を見守って支えてくれていたのに。何故、汚い大人達の利益のために、香織の心が踏みにじられなければいけないんだ。
「香織、ごめん」
「なんで、優一さんが謝るの? 酷い事されたのは優一さんなのに」
涙を流す香織を引き寄せる。震える香織の体の震えが止まるように、力の限り締め付ける。
「俺は香織が好きだ。香織が居てくれて嬉しい、香織が俺の事を好きでいてくれて嬉しい。事故の事もあんな作り話の中みたいに思ってない」
「うん、分かってる、分かってるよ。優一さんが事故の事、少しも私のせいなんて思ってない事」
抱き返す香織の手に力が無い。そして、こんなに抱き締めているのに、香織の震えは止まらない。
「分かってるの、分かってるんだけど……どうしてかな? ……体が震えて、止まらないの」
次の日の朝には、問題の番組を放送したテレビ局以外のテレビ局がこぞってあの番組を取り上げた。放送倫理に関する団体も重大な人権侵害だとコメントを出し、調査に乗り出す事も発表した。
しかし、俺の予測と違ったのは、問題の番組を放送したテレビ局が『内容に脚色があり誤解を抱かせてしまった事には謝罪いたします。しかし、報道内容は事実であり、問題はないと私達は考えます』とコメントを出した事だ。だが、調査が進んでいけば、そのうち解決するだろう。
問題は香織だ。
香織は今日、学校を休んだ。理由は体調不良、でもその体調不良の理由は明らかだ。
今すぐにでも、あの平然と嘘を吐いたプロデューサーを、平然な顔で約束を破ったアナウンサーを、八つ裂きにして不幸のどん底に落としてやりたい。香織を傷付けたあいつ等を許せるわけがない。だが、俺があいつ等に対抗する力を持ち合わせてないし、何よりそんな事をしたって香織が喜んでくれるわけはない。
傷付いて、体を震わせていた香織の姿が、体に伝わった震えが忘れられない。
「ユーイチ、大丈夫デスカ?」
「……ごめんセリア、大丈夫じゃない」
「ワタシこそごめんなサイ。大丈夫なわけ、ありまセン。あんなに辛い事をされて、カオリにも……」
隣に座るセリアが視線を落とす。セリアの為に気丈に振る舞うべきだったのかもしれない。でも、申し訳ないが、そんな余裕はなかった。
どうして、あのテレビ局はあんな軽率な行動をとったのだろう。テレビ局の行動は、俺が予測していたものとは大きく違った。俺が面白可笑しく取り上げられた事には変わりない。でも、やっぱり内容が露骨過ぎる。あんな物を報道すれば大問題になるのは誰でも気付くはずだし、普通どこかの段階でで誰かが止めるはずだ。だが、実際は報道された。
俺の個人名を出して、変に持ち上げる形で話題性を作って報道するなら、やり過ぎた事があれば、軽い謝罪だけで済む。そもそも、放送の路線が俺を中傷するような方向性じゃないからだ。誰かを中傷する意図は無く、功績を広く伝えたかった。やり過ぎた事は申し訳ない。なんて事を言えば案外世間も許してしまうものだ。でも、今回の内容は明らかに個人を中傷する意図が見える。あんな物を報道すれば批判が上がるのは避けられない。
じゃあ、何故報道したのだろう。
「優一、ちょっといい?」
「二ノ宮」
教室の入り口に二ノ宮が現れ、俺に手招きをする。席から離れて二ノ宮の所に行くと、二ノ宮はクラスを見渡して険しい表情をする。
「香織は?」
「……今日は体調不良で休んでる」
「そう……。あいつ等、絶対に許さない」
「俺も許せない。でも、香織を支える方が最優先だ」
「分かってるわよ。優一こそ大丈夫なの?」
チラッと俺の様子を窺うように二ノ宮が視線を合わせる。昨日もすぐに電話を掛けてきてくれた。だから俺の事を心配してくれているのが分かる。
俺は、俺自身の事が悪く言われた事なんかより、香織のために何も出来なかった事が辛い。
香織の負っている心の傷は、簡単に癒えるものではない。香織本人も頭では理解していてもままならないようだった。それを俺はただ抱き締めて言葉を掛ける事しか出来なかった。何をしたって、香織の心を癒せなかったのなら意味がない。
「優一、自分を責めちゃダメだからね。そんな事したって香織が喜ばない事くらい分かってるだろうけど」
「分かってる。分かってるけど――」
「分かってるけど、どうしようも出来なかった事が辛い。それは分かるわよ。私だって、辛いし。優一が事故に遭ったときに、香織の側に居たんだから」
「ごめん」
「言っておくけど、優一は謝る必要なんてないからね。私は、私の可愛い後輩守ってくれた優一には感謝してるの。ありがと」
「俺の方こそ、ありがとう」
スッと視線を逸らしながら言う二ノ宮は照れくさそうに頬を赤く染める。
「優一、今日の放課後、香織の家に行ってくる。私は引退した身だし、それにこのまま香織を放っておくわけにもいかないし」
「頼む。俺も帰りに寄ってみるけど、二ノ宮が行ってくれたら香織も喜ぶだろうし」
「分かった、じゃあ私はもう行くわ」
「ああ、わざわざありがとう」
廊下を歩いて行く二ノ宮の後ろ姿を見て、俺は自然と口元が緩む。
本当に、二ノ宮は良い奴だ。
放課後、生徒会室に行くなり、野田さんと眞島が俺の顔を見て申し訳なさそうに俯く。
「何を気にしてるか知らんが、昨日のテレビの件を気にしてるんだったらお前等の考えすぎだ」
椅子に座って二人を見ると、野田さんがゆっくり顔を上げて俺の方を見る。痛々しく、今にも泣き出しそうな顔だった。
「私が、ちゃんと気を遣ってインタビューなんかに答えなければこんな事に――」
「野田さんと眞島がインタビューに答えなくても、他の奴がインタビューに答えなくても、結果は同じだったと俺は思うぞ。ただ、ああなるとは予想してなかったけどな」
「跡野先輩をあんなに酷い人だと報道するなんて、僕がもう少ししっかりして居れば……」
「眞島も変に気にしすぎだ。もう世間で十分問題になってるだろ。それに、俺は全然気にしてない」
俺がそう言っても二人は安心した様子も見せない。
「全く……あり得ないわ」
「近藤さん? どうしたんだ?」
生徒会室の扉が開いて、酷く疲れたような顔をした近藤さんが入って来た。そして、自分の席に座るなり大きくため息を吐く。
「あの校長、辞めてしまえばいいのに」
「……近藤さん、何があったんだ?」
近藤さんは結構強い口調で物を言うことが多々ある。だが、こうも露骨に不快感をあらわにするのは珍しい。
「跡野さん達が来る前に、生徒会室に校長先生が来たのよ。それで、跡野さんが来たらすぐ校長室に来るように伝えなさいって言われたの」
「じゃあ、今から行って来――」
「話を聞いていなかったのかしら? 跡野さん達が来る前に言われたの。それに代わりに私が行ってきたところよ」
「なんで近藤さんが行くんだよ。近藤さんは俺の保護者かなにかなのか?」
「生徒会を束ねる長という事を考えれば、副会長の跡野さんは子どもみたいなものよ」
近藤さんの超理論に言及するのは置いておいて、その俺が呼ばれた理由と近藤さんが代わりに行って話した事を聞いた方が良さそうだ。
「で? 結局なんの話だったんだ?」
「要約すると、跡野さんがテレビ局の取材に反抗したから、相手の機嫌を損ねてあんな放送をされた。そのせいで学校のイメージが著しく損なわれた。という馬鹿げた話だったわ」
「そんな! 跡野先輩は何も悪くないのに!」
「野田さん、落ち着いて。私も跡野さんには一切責任がないと思ったわ。だから、校長先生に責任は跡野さんではなく、悪意のある放送をしたテレビ局の方だって主張したわ。でも、全然ダメ、よっぽど教育委員会から今回の件で怒られたようね。どうしても責任を誰かのせいにしたいみたい。本当に大人って汚いわ」
近藤さんはまたため息を吐く。きっと近藤さんは、俺を気に掛けてくれたから俺に話を回さずに、近藤さんの所で止めたのだ。
「近藤さんありがとう。でも俺は大丈夫だ」
「駿河さんの事でいっぱいいっぱいの跡野さんに、余計な心配をさせるわけにはいかないわ。私は跡野さんにも感謝しているし、駿河さんにも感謝している。今回の放送は二人を傷付けるものだった。それに跡野さんは取材自体を考え直すように進言していたようだったし、それを聞き入れず目先の利益しか見ていなかった校長先生が、責任を跡野さんに擦り付けようとするなんて絶対に許せない」
「でも、どっちにしても俺に責任を擦り付けようとしたら反論したけどな」
「それでも余計な労力を使わせるわけにはいかないわ。それと、今日はもう帰っても良いわ。対して仕事があるわけではないし、すぐに駿河さんの所に行きたいでしょう?」
近藤さんの気遣いに涙が出そうになった。野田さんや眞島も自分達の行動に責任を感じているが、それは俺の事を真剣に考えている事の裏返しだと思う。だから、俺は同じ生徒会の仲間である三人に心の底から感謝した。本当に、俺は生徒会をやって良かった。
「ありがとう。お言葉に甘えて今日は帰らせてもらう。三人とも本当にありがとう。俺は大丈夫だから心配するな」
校門を出てからずっと走りっぱなしだ。一刻も早く香織の顔を見たくて、香織に言葉の限り思いの限りを尽くして安心させたくて。横を通り過ぎる自動車の走行風を感じながら硬いアスファルトを蹴って、心臓が破裂しそうなのもいとわず足を踏み出す。そうして走っていると、見慣れた後ろ姿が見えた。
茶髪のウエーブ掛かったロングヘアーにセンス良く着崩された制服。見慣れたその姿は二ノ宮で間違いない。しかし、二ノ宮の向こう側に立っている男には見覚えがない。
中肉中背のガッチリとした男性。髭が濃い顔はイケメンとは言えないが、極めて酷いとも表現出来ない。
「最近顔見なくて清々してたんだけど、いきなり何?」
「江梨子――」
「名前で呼ばないでくれる? 寒気がするんだけど」
「酷いな、せっかくいい話を持ってきたのに」
車はそこそこ走っているが、徒歩での通行人は居ない。だからか、車の走行音と一緒に二ノ宮の不機嫌な声と、男の野太い声がこっちに流れてくる。その会話を聞いている限り、二ノ宮にとってはあまり会いたい人間ではないようだ。
俺が絡まれているであろう二ノ宮を助けようと足を進めると、男の野太い声が聞こえた。
「跡野優一って男を助けられるかもしれないぞ?」
その言葉に足を止める。そして、そう言った男は二ノ宮の顔を見てニヤリを笑った。どうやら二ノ宮の方に気を取られて、二ノ宮の後方に居る俺には気が付いていないらしい。
「なんで優一の名前があんたから出てくるのよ」
「ここではゆっくり話せない。そこの喫茶店に入ろう」
二ノ宮の相手の出方を窺う低い声が聞こえる。それに対して男は、一段階声のトーンを上げて嬉しそうに言う。きな臭い、頭の中にすぐその言葉が浮かんだ。
男と二ノ宮は少し離れた場所に建っているコーヒーチェーン店に入って行く。近藤さん達に香織の所へ行くために早めに帰してもらったが、今は二ノ宮とあの男の方が気になる。いや、嫌な予感がする。
少し間を置いて入った店内は少し混雑していた。でもその混雑のおかげで、男と二ノ宮には俺が入って来た事は気付かれていない。カウンターでコーヒーを買う男をよそに二ノ宮は何も買わず、二人は窓際にある二人掛けの席へ歩いて行く。
俺は慌てて一番安いドリンクを購入してパーティションで区切られた隣の席に座り、悪い事だと思いながらもパーティション越しに二人の会話に聞き耳を立てる。
「奢ってあげるのに」
「あんたなんかの施しは受けないわ。さっさと用件を話して」
「つれないな、せっかく久しぶりに会えたのに」
パーティションの隙間から、男が二ノ宮に机の上を滑らして何か差し出すのが見えた。それを見た二ノ宮は、男の方に顔を向けて睨み付ける。
「あんたみたいなのを部下に持った社員を哀れに思うわ」
「そう言う気の強いところは変わらないね。やっぱり俺が目を付けた女だ」
男の言葉に俺は眉をひそめる。しかし、二ノ宮は俺とは比べ物にならないほどの不快感を表情に表して男を見返す。
「気色悪いんだけど」
「そういう言い方していいのか? あの跡野って奴の事を助けたくないのか?」
「さっさと用件を言いなさいよ。あんたと会話してるのも苦痛なんだから」
「うちで、跡野優一を擁護する番組を作ってやる。その代わり、分かるだろ?」
男の下卑た言葉に、俺は立ち上がり二ノ宮と男が座る座席に行く。そして、後ろから二ノ宮の腕を掴んで椅子から立たせた。
「二ノ宮行くぞ」
「優一!? あんた、なんでここに?」
二ノ宮は俺の顔を見て目を丸くする。そして、男は俺の方を見て、とても不快そうな視線を向ける。
「俺は江梨子と話しているんだ、邪魔しないでもらえるかな?」
「あんた、誰だ」
「誰だって良いだろう? お前には関係ない」
俺はテーブルの上に置かれた名刺に視線を落とす。柳田和樹、代表取締役社長という肩書きが書かれている。運営しているのは動画配信サイトやブログ等の運営をしている有名なIT企業。
どこでそんな男と二ノ宮が出会ったのかは分からないが、良い関係には全く見えない。
「それだけ大きな会社の社長が女子高生にちょっかい出してたなんて、俺の話題よりよっぽどテレビ局が食いつきそうだな」
「残念だが、主要なテレビ局の筆頭株主は俺だ」
「なるほど」
筆頭株主。株式会社の発行する株式の持株比率が最も高い株主を指す言葉。そして、はっきりとは言わなかったが、テレビ局がこの男に反する事が出来ないと自信を持っている事から考えると、発行株式の一〇パーセント以上を保有している主要株主である可能性が高い。いや、十中八九そうなのだろう。
株式会社は株主総会等で経営の方向性について株主による決議を行ったりする。そして、株主が保有する株式一株は、その決議で一票となる事がほとんどらしい。と言うことは、その決議を自由に出来る程の株式を過半数保有しているという事になる。それが中小企業を大企業が買収する形ならまだしも、全国ネットのテレビ局に対する過半数保有なのだから異常であるのは明らかだ。その保有株式の総額がいくらになるのか、考えるだけでもバカらしくなってくる。
そんな大企業の社長が、二ノ宮に近付いて自分の力で俺を擁護するような番組を作らせる。その代わりに下劣な要求をしたのだ。
「俺は金持ちを嫌いだとは思わない。でも、あんたみたいな人として最低な人間は大嫌いだ」
「いいのか? 謝罪は示したが完全に放送内容を撤回したわけじゃないだろう。それに、少なからずあの放送内容を信じている視聴者も居る。そんな状況では――」
「信じたい奴には信じさせておけばいい」
男の言葉を最後まで聞かずに、俺はそう口にする。確かに、あの放送内容を信じる人も居るだろう。それは全国的に見れば少ない割合だとしても、数百人では下らない数なのかもしれない。でも、本当にどうでもいい。
俺には、俺の事を信じてくれる人が沢山居る。それが俺の事を批判する人に比べて圧倒的少数だとしても、俺の周りには沢山居る。しかも、そういう人達は俺が信じてほしい、味方してほしいと思っている人達ばかりだ。どうでもいい奴等の批判なんてどうでもいい。信じてほしい人が信じてくれていれば、俺はそれだけで前に進める。
「それに、たとえ俺が今の状況に辛さを感じていたとしても、お前の言葉に二ノ宮が利用される事なんて許容出来ない。お前みたいな低俗な人間がどうにか出来る程、二ノ宮は価値の低い軽い人間じゃない。二ノ宮をどうにかしたければ、もっと人間としての価値を高めてから出直してこい。まあ、金で何でも動かそうとしているあんたじゃ、一生掛けても二ノ宮に見合う価値は得られないだろうがな」
「黙って聞いていれば、俺の一声があればお前の人生なんて簡単にひねり潰せるんだぞ」
椅子の上でふんぞり返って余裕を見せる男は足を組んで俺を見上げる。視線の方向的には見上げているのに、意識的には見下している視線だった。
「どうせ金を持っている俺の事が羨ましいんだろう。そりゃそうだよな、どんな物でも容易く手に入れて、どんな女でも手に入れられる。なんでも俺の思いのままだ。お前らがテレビで見ているアイドルのほとんどは俺の女だぞ。それに、お前を取材した織元も俺の女だ。俺が別のテレビ局に好待遇で移してやると言ったら、プロデューサーを懐柔してまであんな番組を――」
「いや、現実に居るんだな。本物のバカって」
仕舞ったという顔をする男に、俺は呆れを通り越して哀れに思えてきた。
『お前を取材した織元も俺の女だ。俺が別のテレビ局に好待遇で移してやると言ったら、プロデューサーを懐柔してまであんな番組を――』
「なっ!」
俺はポケットからスマートフォンを取り出して画面をタッチする。そのスマートフォンから再生された音声に、さっきの仕舞ったという顔から、額に脂汗を掻いて焦り取り乱す顔に変わる。
近藤さんが以前、俺と香織の仲を引き裂こうとした佐伯に使った手をそのまま真似ただけだが、かなり効果があったようだ。
「正直、これをあんたが出資してるテレビ局に持っていっても無駄だろうな。でも他のテレビ局なら、ゴシップ誌ならどう扱うか分からないよな? それに、それで明るみに出る罪も沢山ありそうだし」
「ま、待て! 悪かった! そのスマホを買おう。言い値で買う!」
「…………あんた、プライドって物は無いのかよ」
コロコロ変わる態度に心底哀れに思えてきた。横に居る二ノ宮に視線を向けると、二ノ宮は大きなため息を吐いて、男を見下ろす。こっちは方向的にも意識的にも、立場的にも見下ろしている。
「前にも言ったけど、私は金と引き替えに男とヤるほど落ちぶれちゃいないわ。それに、あんたみたいな中年親父、私の守備範囲外よ。優一、行くわよ」
「ああ」
「その音声は――」
後ろから食い下がるように声を出す男に、顔だけ向けた二ノ宮が吐き捨てた。
「あんたが大人しくしてる間は世の中に出ないと思うわよ」
店を出ると、二ノ宮がスッと手を繋ぐ。俺は、その手を見てから視線を二ノ宮の横に向ける。
「ごめん優一、今日は香織の所いけないわ」
「二ノ宮? おい二ノ宮!」
スッと手を離した二ノ宮が駆け出していく。俺はその二ノ宮の後ろ姿に右手を伸ばして呼び止めたが、二ノ宮は俺の話を聞かずに走り去って行く。
「……香織、ごめんッ!」
一瞬、香織の姿が頭に過ぎる。でも、ここで二ノ宮をあのまま行かせてはいけない気がした。
「二ノ宮、待て!」
俺は二ノ宮を追い掛ける事を決めて、どんどん離れて行く二ノ宮を追うために走り出す。前を走る二ノ宮は、一瞬振り返って走る足を速めた。
「そういえば、二ノ宮足速いんだったっ!」
俺も全力で足を速めるが、二ノ宮との距離はどんどん離れていく。少しずつ小さくなっていく二ノ宮の後ろ姿を睨み付けながら、俺は叫んだ。
「二ノ宮止まれ!」
「追い掛けて来るな変態!」
「何っ!」
唐突な変態呼ばわりに怯む。いや、確かに走る女の子を追い掛ける男という図式は、十中八九女の子を追い掛ける変態に見えるかもしれない。しかし、いきなり走り出したのは二ノ宮の方で、俺はその二ノ宮を呼び止めようと追い掛けているだけだ。断じて変態じゃない。
「香織の所に行きなさいよ!」
「いきなり行かないって言って走り出されたら心配するだろうが!」
「心配すんな、ストーカーッ!」
幸いなのは、通行人が俺達以外居ない事だが、それでも街中で変態呼ばわりされるというのは言い分はしない。
二ノ宮が香織の所へ行かないと言い出して、いきなり走り出した、逃げ出した理由は大体分かっている。
二ノ宮は自分の事を責めているのだろう。
さっきの社長の男はボロを出したときに『俺が別のテレビ局に好待遇で移してやると言ったら、プロデューサーを懐柔してまであんな番組を』と言っていた。そこから想像すれば、今回の騒動、俺を中傷するような放送をさせた張本人はあの男だったという事になる。そして、男はどこから仕入れたか分からないが、俺と二ノ宮が友達だという事を知り、二ノ宮を脅すためにあんな大がかりな事をやったのだとしたら……。ほぼ間違いなく、二ノ宮は思うだろう。
『今回の件は全部自分のせい』だと。
実際、二ノ宮は何も悪くない。二ノ宮もあの男に付き纏われていた被害者であり、脅迫を受けた被害者だ。その脅迫のネタにたまたま俺がされただけで、それに二ノ宮の責任は一切無い。でも二ノ宮江梨子という人間は、友達が傷付くような事には過敏に反応する。それに、今回はあの放送の件で香織も影響を受けた。
俺は周りが心配するほど傷付いてはいない。でも、二ノ宮は放送があった直後から過剰とも言えるくらい俺を心配してくれた。そんな二ノ宮だから、あの話を聞いて責任を感じたのだ。
右手を握り締めて唇を噛む。本当に、あの男は最低な奴だ。香織を傷付け、二ノ宮まで傷付けた。絶対に許さない、絶対に報いを受けさせてやる。でも、その前に二人の方が先だ。
体力は俺の方があったのか、少しずつ二ノ宮の走るペースが落ちてくる。そして、ほんの数歩先に迫った二ノ宮の腕を俺は後ろから掴んだ。腕を掴まれた二ノ宮は、逃げるのを諦めて足を止める。
「なんで来るのよ! 香織の所に行きなさいよ! 彼女が落ち込んでるんでしょうが! 他の女に構ってる暇があったら――」
「放っておけるわけないだろうがッ! 二ノ宮が自分を責めて自分を傷付けるって分かってるのに、そのまま行かせられるわけないッ!」
「止めろって言ってんのが分かんないのっ!? 優しくすんな!」
「優しくなんかしてない! 友達なんだから心配するのは当然だろうがッ! 二ノ宮が俺にしてくれたみたいに、俺だって二ノ宮を心配するに決まってるだろうがッ!」
「止めろって言ってんのよ……なんで、止めてくんないのよ……」
両手で顔を覆い、二ノ宮はその場に座り込んで声を殺そうとする。しかし、手の隙間から、ギュッと閉じているはずの唇の隙間から、嗚咽が漏れてくる。
「私が居なかったら、優一も香織も傷付かなかったのよ。私があの男と一回くらいヤってやれば――」
「二ノ宮はそんな価値の低い奴じゃないだろ! あんな最低野郎の言いなりになる必要なんか無い! 自分を責める必要も無い! それに、俺や香織のためとか言って自分を削って、俺や香織が喜ぶと本気で思ってるのかっ! 二ノ宮に感謝すると思ってるのかっ! もしそうだとしたら、俺は二ノ宮にがっかりだ。俺達を、そんな程度の低い、あの男みたいな最低な人間だと思われてたな――」
「そんなわけないじゃん!」
二ノ宮は俺の制服の胸ぐらを掴み上げ、泣いてぐしゃぐしゃになった顔で睨み上げる。
「香織は可愛くて優しくて気が利いて、ちょっと思い込みが激しかったり頼りないところもあったりして放っておけない所もあるけど人懐っこくて。頑固者で、一度こうと決めたら絶対に曲げなくて。でも絶対に最後まで諦めなくて。香織は私が見てきた中で一番の女よ!」
胸ぐらを掴み上げていた手を離し、二ノ宮は右手の拳を握って俺の胸に打ち下ろす。女の子とは思えない、手加減の感じられない力強さで打ち下ろされた拳に胸が詰まる。
「優一は、格好良くて優しくて気が利いて、いつも私が困った時、辛い時に私の前に立ってなんでも解決してくれる。解決の仕方は気に食わないけど、でも優一が居るといつも安心できた。優一の背中を見ると凄く凄く嬉しくなった。何でもかんでも自分で抱え込もうとするし、恋愛事には凄く奥手でしかもバカみたいに心配性で。でも、凄くロマンチストでみんなに好かれて信頼されて、めちゃくちゃ格好いい。優一は、もう二度と会えないくらい、世界で一番格好いい私の王子様よ……」
二ノ宮は額を俺の胸に付けて、俺の胴に両手を回す。
「なんで、優しくしちゃうのよ……。諦めなきゃいけないと思っても諦めきれないのに、そんな優しくされたら、そんな格好いい事されたら、諦められないじゃない……」
「ごめん、でも放っておけなかったんだ。あのまま放っておいたら、二ノ宮と友達で居られなくなるような気がした」
「もうホントマジで……むかつく。なんで、優一って、そんなに格好いいのよ」
二ノ宮は香織の家に行って香織に会うなり抱き締めていた。パジャマ姿で疲れた様子をしていた香織も、二ノ宮の行動に驚いて目を丸くしていた。
俺は香織を二ノ宮に任せ、いや、二ノ宮を香織に任せて一階に下りる。香織の家には香織のお母さんが居て、今はダイニングに居る。俺は一階の廊下でスマートフォンを取り出して電話を掛けた。
『もしもし、優一くんか』
「すみません、駿河さん。都合の確認もせずにいきなり電話を掛けてしまって」
『何を水臭い。将来の息子が父親に遠慮する必要があるか』
香織のお父さんの言葉に電話越しに苦笑いを浮かべ、俺は本題を切り出した。
内容は、今回の一連の俺に対する中傷まがいの放送は、IT企業社長の男が女子高生を脅すためにやった事で、男がそれをほのめかすような事を言った証拠の音声がある事も伝えた。その内容を聞いた香織のお父さんは低い声で答える。
『そのゲスの話は分かった。音声を実際に聞いてみなければ分からないが、優一くんの話を聞いて判断すれば十分名誉毀損罪に値する。それに優一くんと香織の友人の女の子、その子に男が働いていた行為はストーカー規制法違反でもある。だが、それには少し問題がある』
ストーカー規制法は、正式にはストーカー行為等の規制等に関する法律という。このストーカー規制法は、この法律に規定された『つきまとい行為』をした人間に対して警告を出したりする事が出来、つきまとい行為を繰り返す『ストーカー行為』に発展した場合には逮捕して刑事罰に問う事が出来る法律だ。
ストーカー規制法に規定されているつきまとい行為は、一、つきまとい・待ち伏せ・押しかけ。二、監視していると告げる行為。三、面会や交際の要求。四、乱暴な言動。五、無言電話、連続した電話・ファクシミリ・電子メール。六、汚物などの送付。七、名誉を傷つける。八、性的しゅう恥心の侵害、の八つがある。俺が二ノ宮の話を聞いて知っている中で、二ノ宮は一と三を受けていたはずだ。そして、それを以前から繰り返し行われている事も聞いている。それは問題ないが、名誉毀損罪もストーカ規制法は親告罪という事が問題だ。
「問題というのは、親告罪。どっちも告訴しなければ犯罪に問えないって事ですよね。それに……あの男が二ノ宮にした事は、ストーカー規制法のストーカー行為には問えるけど、脅迫罪には問えない……」
『そうだ。親告罪は告訴しなければいけない。優一くんは強い心を持っているが、犯罪によって傷付いた年頃の女の子が告訴に踏み切って、犯罪と真正面から戦える精神力があるのかという問題もある。そして、優一くんの言うとおり、残念だが脅迫罪には問えない。脅迫罪の対象は“被害者本人か、被害者の親族”のみだ』
あの男は俺を使って二ノ宮を脅した。それは俺からしたら、二ノ宮からしたら立派な脅迫罪だ。でも、今の法律では友人は脅迫罪にはならない。
「でも、ストーカー規制法では本人、配偶者、親族以外に、その他当該特定の者と社会生活において密接な関係を有する者がありますよね。俺は二ノ宮の友人です。だから――くそっ! 憲法三九条……いや、観念的競合、違う、牽連犯か……」
俺がそう呟くと、香織のお父さんはフッと電話の向こうで笑う。
『優一くんは本当によく勉強している。だが、警察官はどんな環境、状況下でも冷静沈着な行動を出来なければならない。犯人の挑発に乗って興奮し我を失っては、自分も周りも危険に晒す事になる。これは、警察学校時代の教官に教えられた事だ。それに併合罪でなくても、社会的制裁を受ける事に意味がある。その男には、よっぽどそっちの方が堪えるだろう』
「すみません」
罪は重ねれば重ねるほど重くなる。それは香織のお父さん言った併合罪の考え方だ。併合罪は、一度に二つ以上の罪を犯した場合、その複数の犯罪の内で最も重い刑を取り出し、有期懲役、有期禁錮を一.五倍にして科せられる罪状の事を言う。罰金の場合は、全ての罰金額の合計額以下になる。
俺が考えていた罪のうち、名誉毀損罪は、三年以下の懲役若しくは禁錮または五〇万円以下の罰金。ストーカー規制法違反は最大で、一年以下の懲役または一〇〇万円の以下の罰金。そして、脅迫罪は二年以下の懲役又は三〇万円以下の罰金。
もしこれが脅迫罪も認められて、併合罪になった場合、最も重い名誉毀損罪の三年以下の懲役もしくは禁錮が一.五倍されて、四年六ヶ月以下の懲役若しくは禁錮になり、罰金の方は全ての合算以下の、一八〇万円以下の罰金になる。
でも、香織のお父さんが言ったように、脅迫罪は認められない。
ストーカー規制法の保護対象には、被害者本人である二ノ宮以外にも、友人である俺も保護対象になっている。だから俺と二ノ宮が別々に告訴すれば二人からストーカー規制法違反の罪で訴えられる、と一瞬考えた。でもそれは不可能だ。刑法よりも根本的な事で、日本の憲法でそれが出来ないようになっているのだ。
日本国憲法第三章、国民の権利及び義務に含まれる第三九条では、『何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない』とされている。
三九条は遡及処罰の禁止や一事不再理について定めている。でも条文にある『同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない』は、俺が考えてた二人からの告訴を完全に禁止している。
そして、牽連犯は、一連の行動が二つ以上の犯罪に触れる場合に適応される。
あの男が二ノ宮を脅して従わせようと行動した事で、二ノ宮に対するストーカー規制法違反と俺に対する名誉毀損罪を犯した。これは牽連犯に当たる。観念的競合は、一つの行動によって二つ以上の犯罪に触れた場合に適応される。分かり易く言えば、職務質問をしてきた警察官を殴ったという犯罪があったとする。それには、殴ったという暴行罪と、職務質問を妨害したという公務執行妨害の二つが含まれる。
牽連犯と観念的競合は違う状況で適応されるものだが、ある共通点がある。それはどっちも『最も重い刑で処罰される』という事だ。どっちの場合でも、刑が加重される併合罪よりも“刑が軽く”なる。
名誉既存罪とストーカー規制法では、名誉毀損罪の三年以下の懲役若しくは禁錮または五〇万円以下の罰金の方が刑が重い。たとえ脅迫罪が認められなくても、もし名誉毀損罪とストーカー規制法違反の併合罪が認められれば、四年六ヶ月の懲役または一五〇円以下の罰金だったのだ。
『友人を傷付けられた優一くんの気持ちも分かる。だが、刑罰は痛めつけるだけのものではない。優一くん、刑罰の意味と目的を言ってみなさい』
「威嚇、社会規範の表出、被害者及び社会の感情的修復、社会的結束と動員のツール、祝祭です」
『全く、君は警察官ではなく弁護士や検察官を目指すべきだと思うぞ』
「いえ、私は」
『話を逸らしてしまったな。優一くんの言ったとおりだ。刑罰は威嚇して犯罪を抑止する事、社会では何が許されないかを明確に示す事、刑罰に科して処罰し、被害者や犯罪に見舞われた社会を納得させる報いを与える事、犯罪は悪であると社会で結束し、社会的結束への旗印とする事。そして、公開処刑、いわゆる見せしめだな。それは刑が重かろうが軽かろうが全て成されるものだ』
「はい、駿河さんのおっしゃるとおりです。私が、間違っていました」
俺は、あの男が許せなかった。香織を傷付けた、二ノ宮を傷付けたあの男が憎かった。だから、あの男に重い罪を科して叩きのめして痛めつけてやりたいと思った。でも、それは間違いだ。
『だが、友人や香織のために悪を憎む優一くんは、人間として正しいと私は思う。その二人を思う気持ちを、男ではなく二人に優しさや気遣いとして向けてやってくれ』
「はい」
『事の詳細については理解した。後はこちらの方で動く。もう君からは何もしなくていい。君の友人にも我々の方から話をしに行く。今回の件で傷付いたのは香織と君の友人だけではないだろう。優一くん君も被害者だ』
「はい、ありがとうございました」
電話を切ってスマートフォンをポケットに仕舞うと、二階から二ノ宮が下りてきた。そしてブスッとした顔で俺を見詰める。
「香織に謝ってきた」
「二ノ宮、だから二ノ宮は何も――」
「優一にまた甘えちゃったって。そしたら、優一さんはそんな状態の二ノ宮先輩を放っておくような人じゃないです、だってさ。それと……」
「それと?」
「二ノ宮先輩になら優一さんをあげても――」
「言ってません!」
二ノ宮の落ち込んだような表情から放たれた一言を、階段を駆け下りてきた香織が否定する。
「もー香織、せっかく優一を味見しようと思ったのに」
「優一さんをスーパーの試食みたいに言わないでください!」
香織が二ノ宮の横をすり抜け、俺の腰にがっちり手を回してホールドする。
「優一、ちゃんと話してきてやったわよ。優一がどんだけ格好良かったか。それと私がどれだけ二人を好きか。……ちょっと、それは恥ずかしかったけどね」
二ノ宮が頬を赤らめ、照れくさそうに頬を掻く。隣に居る香織も顔を赤くして俯いた。
「とりあえず、香織の様子も見れたし私は帰るわ」
二ノ宮はダイニングの方に入って香織のお母さんに挨拶をしに行く。そしてダイニングから出てくると、二ノ宮が俺と香織を見て腕を組む。
「前から思ってたんだけど、二人共なんで私を名字で呼ぶのよ」
「唐突になんだよ」
「だって私は香織と優一なのに、二人は二ノ宮先輩と二ノ宮でしょ? なんか距離を感じるんだけど? 私の事嫌いなの?」
「いや、嫌いってわけではないけど」
俺は女子を名前で呼ばない。名前で呼ぶのは彼女の香織だけだ。そこに拘りがあるというわけではないが、昔から女子と話すのが苦手だったし、名前で呼ぶのはなんか気恥ずかしい。
「二ノ宮先輩は先輩ですし」
「香織、二ノ宮って次言ったら、優一を取っちゃうわよ」
「わかりました江梨子先輩。でも優一さんは絶対に渡しませんから」
またヒシッと俺を抱き寄せる香織を見て「よし」と頷いた二ノ宮は、俺の方に視線を向ける。
「付き合ってる振りしてる時は名前で呼んでたでしょうが」
「分かったよ」
「…………」
「…………」
「なんで黙るのよ」
「先に黙ったのは二ノ宮の――」
「な、ま、えッ!」
ギッと睨み付けて強い口調で言われる。俺は仕方なく、どうしようもない、やりどころのない恥ずかしさを感じながら口を開いた。
「分かったよ……江梨子。どわっ!」
「キャッ!」
いきなり二ノ宮が飛び付いてきて、俺と香織を一緒に抱き締める。
「二人共大好き。優一は最高の友達で私の初恋の人。香織は最高の友達で可愛い後輩。二人共、ありがとう」
二ノ宮は俺達から離れてニッと笑う。
「香織、明日は学校来れそう?」
「はい、江梨子先輩のお陰で元気が出ました」
「そう、じゃあ優一からもっと元気もらいなさい。ただ、お母さんが居る時は音に気を付けなさいよ」
ニヤッと笑う二ノ宮は玄関まで歩いて行く。俺はその後ろ姿に声を掛けた。
「……江梨子、また明日」
「うん。優一、香織、また明日ね」
香織の部屋に行くと、妙な緊張に襲われた。
江梨子が帰ってすぐ、香織のお母さんが、香織のお父さんが急な泊まりになって着替えを届けに行かないといけなくなったと言い、ついでに買い物もしてくると家を空けたのだ。
防犯のために内鍵を閉め、香織の部屋まで上がってきた。久しぶりの二人きりだ。
白くふわりとして可愛いパジャマを着た香織の後ろ姿。あまり見ることの出来ないその姿に、ドキリと胸が高鳴る。でも、俺は首を振って頭からその考えを振り払う。
香織は傷付き辛い思いをして体調を崩した。だから今日は香織を優しく支えてやるのが俺のやるべき事だ。
「優一さん、心配掛けてごめんね」
「いや、俺よりも香織は大丈夫なのか?」
「江梨子先輩が来てくれたし、それに優一さんが来てくれたから」
香織は振り返り、俺の方を向いて正面から抱き締める。せめて香織の柔らかさだけでも感じたくて、俺は香織を抱き返す。でも、それをやって後悔した。
柔らかく小柄な香織。でも女性らしく魅力的な香織。暖かく触れているだけで幸福感が溢れてくる香織。全部、俺の理性に掛けられた鎖をガチャガチャと解こうとする。
「優一さんが事故に遭った事を考えないようにしようとしたけど、どうしてもそれが出来なくて、事故に遭った瞬間の優一さんが頭の中から離れなく――ん、んんっ……」
香織の体を扉に押し付け、上から香織の口を塞ぐ。唇の間から漏れる香織の吐息が、もっと理性の鎖を緩めていく。
俺のキスを受け止めていた香織が、俺の首を抱いてキスを返す。もう何度も何度も交わしたキス。でも香織のキスは初めからちっとも変わらない。純粋な素直な真っ直ぐなキス。俺の大好きなキス。
「キャッ! ゆ、優一さん……」
「香織、無理、我慢出来ない」
「あっダメだって、汗掻いて、ああっ……」
パジャマのボタンを外し前を開く。きめ細かく滑らかな白い肌。可愛らしいブラに包まれた女の子らしい胸の膨らみ。
胸の膨らみに直接触れる事も出来た。でも、俺の右手は香織のズボンには伸びる。
「優一さん、シャワー浴びよう? 汗臭いから」
「香織の匂いは臭くない」
「優一さん、あっ……やっ……」
右手を伸ばして香織のズボンを脱がせ、ブラとお揃いの可愛いパンツが露わになる。香織は恥ずかしさからか、綺麗な太ももを閉じて隠そうとする。でも、俺は香織の股の間に足を割り込ませて、香織の行動を妨害した。
「ゆ、優一さんのいじわる……」
「俺の事を嫌いになった?」
「そ、そんな事ない!」
「香織にいきなりこんな事して、変態だと思った?」
「優一さんは元々エッチな人だもん」
「それは酷い評価だな」
香織のブラを外し、パンツを引き下ろす。香織は腰を浮かせてニッコリ笑った。
「修学旅行の時、ホテルで何度もしたくせに」
「あれは香織も悪いだろ。あんな誘われ方したら一回や二回で満足出来るわけ無いだろ」
「優一さんのエッチ……」
熱い香織の体。触れ合う互いの肌は汗ばみ、互いの肌を求めるようにピッタリと吸い付く。
抱き締め、唇を重ね、体に触れ、体を打ち付ける、その度に、香織は甘く可愛い吐息を漏らす。その可愛い息遣いが、俺の背中から脳天を刺激し、心に沸き立つ欲望を掻き立てる。
サッカー部の美人マネージャー駿河香織の体も心も、今この一時は俺の手の中にある。
香織に想いを寄せる男達全てが、夢見る、思い描く幸福を、そんな男達を尻目に俺だけが独り占めしている。
体を駆け巡る感覚に、香織は表情を歪ませ、苦悶するように首をしきりに動かす。この表情も感覚に堪える声も、俺だけが独占出来る。
もう何度も重ねてきた思いや行為だとしても、重ねる度に、重ねれば重ねる程に、底がない欲望に変わっていく。
前よりも強く、前よりも激しく、前よりも深く、香織を感じていたい。
そして俺は、もう何度目か分からないほど、何度も何度も想いを吐き出した。何度も何度も、香織を愛した。
上がっていた息が落ち着き、額に滲んでいた熱い汗が冷えてきた。それにつれて、頭の方もすっと冷えてくる。
「優一さんのバカ」
「バカは酷いな」
「汗臭いって言ったのに……」
隣で俺の腕を抱いている香織は唇を尖らせて抗議する。その表情も可愛い。
「ごめんね、最近は全然優一さんの事、構ってあげられなくて」
「結構頻繁に会ってたけど?」
「そうじゃなくて、その……エッチしてあげられなかったから……あっ! 優一さん笑ってる! からかうなんて酷い!」
今度は頬を膨らませ、両手で俺の頬を引っ張る。そして、ニッコリ笑うと両手を離し、スッと唇を重ねた。そして、体を引き寄せるように抱き締める。
「香織は嫌だった?」
俺の問に、香織は激しく首を振る。
「ううん、優一さんを独り占め出来てるって思ったら、凄く幸せで。優一さんの事を好きな人は、優一さんとエッチ出来る私の事が羨ましいのかなって」
俺の手を握り指を絡め、そして、嬉しそうに胸に抱く。
「優一さんに抱き締めてもらう度に、凄く幸せな気持ちになるの。優一さんが私の事を好きだって分かるし。優一さんの一番になれてるのが本当に嬉しい」
「俺だって香織を好きな奴等に勝って香織の一番になれてるって思うと――」
香織は人差し指を俺の唇に当てて言葉を止める。そして、柔らかく微笑む。
「一番じゃないよ、優一さんは私にとってたった一人の男の人。他の人なんて、私には居ないから、最初からずーっと優一さんただ一人」
体を上気させて赤く熱っぽくしている香織は、クスクスっと声を抑えるように笑う。
「優一さんはどんな私が好き?」
「どんな香織?」
香織が横になりながら俺を見上げて尋ねる。
「俺はどんな香織でも好きだ」
「それじゃダメ」
「いや、ダメって言われても……」
「だって、もっと優一さんに好きになってほしいから。もっともっと、幸せいっぱい感じたいから」
本当に、俺は香織の全てが好きだ。香織が側に居て、笑ってくれれば、俺の事を好きで居てくれればそれ以上は何も望まない。でも久しぶりにこんなに甘えた香織を見る。だから、少しだけいたずらしてみたくなる。
「そうだなー強いて言えば、エッチな香織とか好きだなー」
香織が顔を赤くし頬を膨らませて抗議してくる。それを予測していた俺は、香織の顔を除き込もうとした。しかし、香織は体を起こすとベッドから机の上に置いてあった箱を手に取る。そして、躊躇するように俺の顔を窺って、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「ゆ、優一さん、これ、使い切っちゃおうか?」
真っ赤な顔で小首を傾げ、香織なりにエッチな香織をイメージしてやったのだろうが、エッチというよりも無理して背伸びしている感じが、愛らしいというか、いつもの可愛い香織だった。
「…………香織、めっちゃ可愛い。ありがとう」
俺は香織の頭を撫でて抱き寄せる。
一月が終わりに近づく頃、まだ寒さ残るこの季節に、俺と香織には穏やかで暖かい空気が流れていた。




