42【不透明の先】
【不透明の先】
キンと冷えた朝の空気を吸うと、喉の奥が少しピリピリとする。
冬真っ盛りの十二月、俺は大変緊張している。
初めて、香織の両親が居る家に遊びに行く。いや今まで香織のお母さんが居る時に遊びに行った事はあるが、お父さんが居る時には遊びに行ったことがない。
お父さんは忙しい人だと香織も言っていた。お父さんが何の仕事をしている人かまでは聞いてはいないが、厳しい人だというのは話を聞いていて分かる。そして今回、遂に香織のお父さんと対面する。
指定された時間より十分ほど早く香織の家の前に着いた。今まで香織の家に遊びに行く時は、香織とどこかへ出掛けてからその帰りに寄る場合ばかりだった。でも、今日は香織の家に行くというのが目的であり、最大の山場だ。
落ち着かない。とりあえず、香織に連絡して出てきてもらおう。
「優一さん!」
「か、香織!?」
「優一さんなら少し前に来るかなって思って」
俺がスマートフォンを取り出す前に玄関の扉が開いて、中から香織が出てきた。俺は香織の姿を見てホッと一安心出来た。香織の家なのだから危険はないのだが、敵地に放り出された兵士のような気分だったのだ。そこへ援軍である香織が現れたのだから、安心するなという方が無理な話だ。
「優一さん、緊張してる?」
「あ、ああ、心臓が止まりそうだ……」
いつも、香織の家に入るときは緊張する。しかし、今日はその緊張が圧倒的に強い。それは香織のお父さんと対面するからで、それ以外の理由はない。
「ごめんね、急にお父さんが優一さんを連れてきなさいって」
「いや、なかなか挨拶する機会もなかったし、俺は大丈夫だよ。かなりドキドキしてるけど」
「もう入る? お母さんもお父さんも大丈夫だけど」
「ああ、遅かれ早かれ会うんだ。五分や十分、引き延ばしても大して変わらないしな」
「分かった、じゃあどうぞ入って」
「お邪魔します」
香織に招かれ、玄関の扉を潜り中に入る。そこそこ見慣れた洋風の一軒家の中に入ると、白く綺麗な壁と淡くピンクがかった、優しい色のフローリングの廊下。その廊下には俺に笑顔を向けてくれている香織のお母さんが居た。
「いらっしゃい、優一くん」
「お邪魔します。今日はありがとうございます」
「お父さんが急に優一くんに会いたいって言いだして、ごめんなさいね」
ニッコリ笑った香織のお母さんは、スッと俺に顔を近付けて耳打ちをする。
「お父さん、変な事言うかもしれないけど、あまり気にしないでね。私は優一くんと香織の味方だから」
「は、はあ……」
香織のお母さんから若干不安になるような事を言われ、緊張はさっきよりも強く張り詰めていく。
香織のお母さんがダイニングの扉を開けて、俺と香織に中へ入りやすいようにしてくれる。そして、香織を先頭にダイニングに入ると、俺は体全体にビリビリとしたプレッシャーを感じた。
ダークブラウンのフローリングに黒い革張りのソファー、そのソファーの上にズッシリと大きな存在感を放ってこちらを見る、壮年の男性が居た。
「初めまして、香織さんとお付き合いさせて頂いています。跡野優一と申します。本日は、お招き頂きありがとうございます」
頭を下げ、昨日から練習していた挨拶を口にする。大丈夫、出だしは詰まらずに言えた。
「……俺は、お前を招いてはいない」
「……えっ?」
全く予想していなかった返答に、俺は思わず顔を上げて抜けた声で聞き返した。今、招かれてないって?
「お父さん、お父さんが優一さんに会いたいって言ったんじゃない! だからわざわざ優一さんに来てもらったのに!」
香織のお父さんは俺の父さんとは別種の怖さがある。それは彼女の父親というのもそうだろうが、なんといえばいいだろうか? 下手なことをすれば命が無い様な、そんな生命の危機を感じる。
「俺は娘を傷物にした奴の顔が見てみたいと言っただけだ」
「お父さん!」
「貴方、優一くんに失礼よ」
完全に怒っている香織の後ろから、香織のお母さんが穏やかな声で香織のお父さんに声を掛ける。しかし、香織のお父さんは俺から視線を外さず、両腕を組んだ。
「夏には娘を夜中に連れ回し、先日は二度も生活安全部の世話になったそうだな。更には家に外泊させた」
「もしかして、香織さんのお父さんは警察関連の?」
俺は香織のお父さんの言葉に弁解する前に、生活安全部という言葉が気になり尋ね。俺の言葉に香織のお父さんは眉をひそめ、そして俺に濃い焦げ茶色をした革張りの手帳を広げて向けた。
「け、警視!?」
思わず香織に視線を向ける。今まで香織に香織のお父さんの仕事について全く聞いた事はなかったが、まさか警察官だとは思わなかった。しかも警視とは……。
「え、えっと、香織さんのお父さんは生活安全部の方なのでしょうか?」
「俺は刑事部一課所属だ」
「刑事部の捜査一課で警視……」
体から血の気が引いていく。
県警本部の刑事部捜査一課といえば、強盗、殺人、暴行、傷害、誘拐、立て籠もり、性犯罪、放火のような凶悪犯罪を担当する部署だ。テレビの刑事ドラマで描かれる刑事の人達は、大抵この捜査一課所属であることが多い。そして、香織のお父さんの階級である警視だが、県警所属の警視なら課長である可能性が高い。
つまり、香織のお父さんは凶悪犯罪を取り締まる課のトップであるかもしれないという事だ。
「し、失礼ですが、やはり捜査一課長でしょうか?」
「そうだ」
ああ、やっぱり……。
初っぱなから完全に俺を認めて居ないという感じを見せつけられ、しかも警察官で捜査一課長なんてどうやっても勝てる気がしない。ただの高校生の俺では、戦車に割り箸片手で戦うようなものだ。
「生活安全部という言葉から、警察関係者である事に気付き、階級から役職まで読んだのは大したものだ。だが、それとこれとは話が別だ。警察の世話になるような奴に娘は任せられん」
「お父さん! 優一さんは事件に巻き込まれた人を助けようとしたの! なにも悪い事は――」
「事件に巻き込まれた被害者を助けるのは警察の役目だ。一高校生が首を突っ込んで良い問題じゃ無い」
香織の言葉に、香織のお父さんは毅然とした低い声で言い伏せる。香織は更に言葉を返そうと口を開こうとしたが、俺が手で香織を制した。
「香織のお父さんの言うとおりだ。悪い事はしてないが、危険な事をしたのは間違いない。だから俺が怒られるのは仕方ない」
「でも! 優一さんのおかげで音瀬先輩も御堂先輩も無事だったじゃない! 確かに優一さんは危ない事をしたかもしれないけど、お父さんに怒られる事なんて」
「話は以上だ。すぐに香織と別れろ。香織、お前には俺が良い男を紹介してやる。法学部に通う将来有望な若者なら俺も認めて――」
「お父さんなんて大嫌いッ!」
「香織!」
香織のお父さんを怒鳴り付けて走って出て行く香織。俺はその香織を追い掛けようと足を踏み出した。しかし、その直後に後ろから重たく低い声が聞こえる。
「話はまだ終わっていない」
声の主は間違いないなく香織のお父さんで、その声を無視して香織を追い掛ける訳にはいかない。
「優一くん。香織は私が追い掛けるから」
「は、はい」
香織のお母さんが駆け出して行くのを見送り、俺は香織のお父さんに向き直る。
微動だにせず俺に視線を向ける香織のお父さんは、手で自分の向かい側にあるソファーを指した。
「座りなさい」
「はい、失礼します」
ゆっくりソファーに腰掛けると香織のお父さんは、テーブルに置かれたコップを持ち上げて中身を一口飲む。
「香織と別れてくれ」
「出来ません」
「香織は俺の大切な娘だ。警察の世話になるような不良少年には任せられん」
香織から間接的に聞いていたイメージとは少し違う。香織は自分の父親を優しい人だと言っていた。確かに香織の事を優しく大切にはしてるのだろう。だけど、俺に対しては厳しい。というか、圧倒的な拒絶を感じる。
「香織さんのお父さんが、香織さんを大切だと思うのは当然の事です。でも、私も香織さんの事が大切です」
「去年の五月、事故に遭っているな。それが原因でお前は一年留年している」
「はい」
「留年自体を否定するわけではない。世間的には留年という言葉があまり良いものではないが、原因が事故による入院なら致し方ないだろう。だが、その事故が原因で香織は一時期笑わなくなった。毎日の食事量も減って、体調を崩した事もある、全て、お前のせいだ。香織がお前の事を真剣に思っていようとも、俺の大切な娘をそんな状態まで追い込むような人間なぞ信用出来ん。香織には事故に関して何度か聞いたが、私が悪いの一点張り。俺の個人的な用件で事故記録を勝手に参照するわけにもいかない。だから実際の所は分からん。だが、お前は事故の当事者だ。どうせお前が悪いのだろう。香織は真面目で素直な性格だ。香織が原因で事故に遭うわけがない」
「…………」
「黙りを決め込む気か」
「……いえ、事故の件は全て私に落ち度があります。事故の件で香織さんにとても心配を掛けた事は申し訳なく――」
「香織は食事量が減って体調を崩したんだぞ! やせ細って見ているのも辛かった! そんな状態に追い込んで、申し訳ないで済むと思っているのかっ!」
「はい……」
初めて聞いた。香織に心配を掛けた事や落ち込ませてしまった事は、聖雪や二ノ宮から聞いて知っていた。でも、食事も取れないくらいまで追い込み体調まで崩させていたなんて、全然知らなかった。
「とにかく、今すぐに別れろ。香織にはもっと相応しい男が居る」
「それは出来ません」
「別れたくはないだろうな。あんなに可愛い女の子は同年代にも早々居ないだろうからな」
「私は見た目だけで香織さんを好きな訳では――」
「残念だが、お前をここに連れてくるように言った時から、お前を認める気は更々ない」
取り付く島もない。俺がどんなに食い下がろうとも、言葉を重ねようとも、香織のお父さんは俺を否定する。
「話は以上だ。もうこの家には一歩も近付くな。そして香織と二度と――」
「貴方の考えはよく分かったわ」
俺は無駄だと分かっていながら、それでも食い下がろうと、言葉を重ねようとしていた。でも、その前に後ろから落ち着いたでも、決して穏やかでは無い声が聞こえた。
振り向くと、香織のお母さんが立っていた。
「貴方、話が違うわ。私は香織の彼氏の優一くんに会ってみたいって聞いていたのだけれど?」
「間違ってはいないだろう。香織の害になる奴の顔を見たかったんだ」
「香織の気持ちを考えずに否定するなんてどういうつもり? 香織は言っていたでしょう? 優一くんがとても優しくて素敵な人だと」
「香織は優しい子だ。どうせこの男に騙されているのだろう」
「そう」
香織のお母さんは、香織のお父さんの言葉を聞き終え、一度目を閉じてから短くそう言った。
「俺はこれから用事がある。もうお前とは会うことはないだろう」
そう言い残して香織のお父さんはダイニングから出て行き、すぐに玄関の扉が開いて閉まる音が聞こえた。
「全く、反対はすると思ったけど、ここまで強く言うとは思わなかったわ。優一くん、本当にごめんなさい」
「いえ……あの、香織さんは?」
「香織は、ちょっと自分の部屋に行かせてる。少し落ち着かせないと」
「そうですか」
初めて付き合った彼女の父親に、彼氏として完全に否定された。いや、もはや一人の人間としても認められていないかも知れない。家にも近付くなと言われたし、香織と会うなとも言われた。
「香織が男の子と付き合ったのは、私が知っている限り優一くんが初めてよ」
「私も、香織さんからはそう聞いています」
「そう、それは良かったわ。香織も年頃の女の子だから、そういうのってあまり言いたがらないんじゃないかって」
香織のお母さんはそう言うと、ほっこりとした笑顔になった。
「香織がね、優一くんと付き合いはじめた時に、私に言ってきたの。お母さん、彼氏が出来ましたって。真っ赤な顔をして凄く嬉しそうに。あの時の香織の笑顔は忘れないわ」
「すみません、俺のせいで香織さんにとても心配を掛けてしまったみたいで。体調も崩させてしまったとも」
「あの人、そんな事も優一くんに言ったのね。気にしないで、優一くんには感謝する事はあっても恨むなんて事は絶対に無いわ。優一くんが香織を守ってくれなかったら、香織はどうなっていたか分からないんだから。ありがとう優一くん」
「いえ、私は……」
香織のお母さんはキッチンに向うと、紅茶を入れてくれて、俺の前に出してくれる。そして、自分の分の紅茶に口を付けて、フッと息を吐いた。
「優一くんの事故があった時、家に学校の先生から電話があったの。先生は
私に『部員が事故に遭って、それで香織の気が動転している』って伝えたのだけれど、私もその電話で取り乱してしまって『香織が事故に遭った』と思い込んでしまった」
両手を膝の上でギュッと握る香織のお母さんは、少し体を震わせている。
「急いで病院に駆け付けたら、ロビーのベンチに座る香織が見えて、私はその時にやっと香織が無事な事に気が付いてホッとした。でもその後すぐに、香織から少し離れた所で優一くんのお母さんと妹さんが……とても取り乱していらっしゃった。優一くんのお父さんは必死にお二人を励ましていらっしゃったわ」
「そうですか……」
「それで、私は香織を連れて帰ろうとしたら……香織の目が何も見てなかったの。さっきの笑顔もそうだけど、あの目も、私は一生忘れないわ」
「すみません、私のせいで」
「そんな事ないわ! さっきも言ったけど、私は優一くんに感謝しているの! 貴方が居なかったら、香織は無事に帰っては来れなかった。それを曲解して責めているのはあの人だけよ。私も落ち着いてから事情は説明したわ。でも、香織の事になるとあの人は本当にダメな人だから……」
「いえ、香織さんのお父さんと話をして、香織さんの事を大切にしているというのは十分分かったので」
認めてもらえなかったのは、単純にショックだ。でも、一目見ただけでホイホイ男に娘を任せるような父親よりは、香織のお父さんが香織の事を大切にしているのが分かる。でも、このままではいけないのは確かだ。どうにかして、香織のお父さんに認めてもらわなければいけない。
「いいえ、流石に今回は酷いわ。いくら香織に彼氏が出来たからって、あれはダメよ。私と香織の話もまともに聞いてはいないし…………優一くん、今、ご両親はご在宅かしら?」
「はい? 父も母も居ると思いますが」
「では、少しお電話させてもらいないかしら」
「えっ? 電話ですか?」
突然の申し出に戸惑いながらも、俺はスマートフォンを取り出す。そして、スマートフォンを取り出して戸惑う。ちょっと廊下に出た方がいいだろう。
「ここで構わないわ」
「そうですか、では少し失礼します」
自分の家族に電話するのに、こんなに緊張する事は今まであっただろうか?
母さんは携帯を持っていないから、父さんに掛けるしかない。しかし、母さんに代わってもらった方がいいだろう。父さんは怖いわけではないが、やっぱり母さんの方が、香織のお母さんも話はし易いだろうし。
『どうした優一』
「父さん? 今、家に居る?」
『ああ、家に居るが』
「母さんに代わってほしいんだけど」
電話に出た父さんにそう伝えると、電話の向こう側から、父さんと母さんのやり取りが聞こえる。
『もしもし優一? どうしたの?』
「母さん、香織のお母さんが話をしたいって」
『分かった。代わってもらえる?』
「分かった」
スマートフォンから耳を離して香織のお母さんに手渡すと、マイクの部分を手で押さえて俺に微笑む。
「香織に声を掛けてもらえる? きっと優一くんが側に居てくれた方が香織も嬉しいから」
「はい」
俺は香織のお母さんの言葉に従って、ダイニングを出て二階に上がる。 俺が聞いているとマズイ話だったのだろうか。それとも、単に俺が居ると落ち着いて話せなかったからだろうか。
階段を上り切って、扉の前に立つ。控え目に扉をノックすると、すぐに扉が開いて、扉の隙間から香織の顔が見える。
「おっ、と」
泣いて目を真っ赤にした香織は、俺の手を掴んで部屋に引っ張り込む。いきなり引っ張られてバランスを崩しながら部屋に入ると、香織が俺の胴に手を回し、ヒシっと抱き締める。
「優一さん、ごめんね」
「なんで香織が謝るんだよ」
「お父さんが優一さんに酷い事言ったから」
「娘想いのいいお父さんだな」
「ううん、今日のお父さんは頭が固くて嫌なお父さんだった」
「それだけ香織の事が好きで心配なんだよ」
「私はちゃんと優一さんは凄く優しくて素敵な人だって言ったのに、なのに……」
涙を流す香織の頭を撫でる。
「優一さんは悪くないのに……優一さんはいつでも優しくて助けてくれる格好いい人なのに……」
「ありがとう、香織にそう言ってもらえると嬉しい」
香織のお父さんに否定されても、香織に肯定してもらえればそれで頑張れる。
「優一さん、キスして」
香織の言葉を聞いた直後、すぐに唇を重ねる。香織は俺の首をギュッと抱き、目を瞑って俺を受け止めていた。
「やっぱり、優一さん以外有り得ない」
「俺だって、香織を法学部出身のエリートになんて渡さない」
キスを終えて抱き合って話していると、部屋の扉がノックされる。
「あっ……」
俺が慌てて体を香織から離すと、香織は不満そうな顔をして俺の手を引ったくってギュッと握る。
「入っていいよ」
香織がそう返事をすると、扉を開けて香織のお母さんが部屋の中に入ってくる。
「優一くん、ありがとう」
「い、いえ」
スマートフォンを手渡してくれる香織のお母さんが、いつも以上にニコニコしている。その笑顔にかなり気まずさを感じる。香織のお母さんの視線が、繋がれた手に向いているからだ。
「今、優一くんのご両親ともお話したのだけど、今から優一くんのお家にお邪魔する事になったから」
「えっ!?」「は、はい!?」
香織のお母さんの言葉に、驚く香織と俺。全く予想していなかった言葉だし、どうしてそうなったのかも見当がつかない。
「優一くんのご両親をお待たせするわけにもいかないし、香織もすぐに準備しなさい」
「ど、どうしよう……私、目が真っ赤」
「ファンデーションで誤魔化してあげるから来なさい」
香織はお母さんに連れられて部屋を出ていき、俺はすぐにスマートフォンを取り出して父さんに電話を掛ける。
『どうした優一』
「父さん! どういう事だよ、香織のお母さんがうちに行くって」
『聞いたままだ。駿河さんから話があるそうだ』
「内容は聞いたんだろ? 何の話を――」
『それは駿河さんがいらっしゃってから話す。切るぞ』
「ちょっ、父さん! …………切りやがった」
知らないうちに事が、途方もない所まで進んでいる。完全に、俺は置いてけぼりを食らっている。
どうなるか分からない、何が起きているのか分からない状況は、酷い不安に俺を追わせる。背中に感じるプレッシャーは、俺に振り返ることも後戻りする事も許してはくれない。
だから俺は、追い立てられるまま、ただ歩くしかない。
父さんと母さんが正座する向かい側には、香織と香織のお母さんが同じく正座して座っている。そして、俺は妹の聖雪と並んで脇に座り、対面する四人を横から見つめるしかない。
聖雪は時折、俺に視線を向けて「この状況はいったい何なのか」という視線を向けてくるが、俺もよく分かんないのだからどうしようもない。
「急に押しかけてしまって申し訳ありません」
「いえ、こちらこそわざわざ来て頂いて」
母親同士のそんな会話が始まり、シンとしていた空間に音が加わる。それでも、この異様な緊張感は拭えない。
「先程のお電話でもご説明しましたが、私の主人が優一くんに大変失礼な事をしてしまいました。申し訳ございません」
頭を下げる香織のお母さんに、父さんが口を開く。
「頭を上げてください。私も男親です。年頃の娘を心配する父親の気持ちは分かります」
「いえ、優一くんは香織の事を大切にしてくれている素敵な男性です。しかし、やはり香織に初めて出来た恋人というせいか、主人も冷静さを失くしてしまっていて」
俺は「気にしてませんから」と発言したかった。しかし、この場は子供の俺の発言は許されない雰囲気だ。それを体全体に感じているせいで、ただ口を閉じて堪えるしかない。
「香織は一人娘ですし、主人も子供離れが出来ていない。それを、今回の件で感じました。いつかは香織も独り立ちする時が来ます。その時にまた同じような事になるかと思います」
香織のお母さんはまた頭を下げる。
「お恥ずかしい話ですが、跡野さんに主人の子供離れにご協力してほしいのです」
「それで、さっきの電話でご説明して頂いた件になるわけですね」
香織のお母さんと、父さん母さんでは話が進んでいる。しかし、俺の方からは、不透明過ぎて話が見えて来ない。
「はい、改めてお願いします。しばらく娘を跡野さんのお宅に泊めて頂けないでしょうか?」
「はい!?」「えっ!?」
予想だにしなかった言葉に俺は驚きの声を上げ、香織は驚きと喜びが混じった声を上げる。香織の顔が笑っているし若干ニヤけているのが気になる。
「ちょっと! ちょっと待ってください! それはダメです!」
もう俺と香織の驚きの声で雰囲気は壊れている。今更発言を気にする必要はなかった。
「香織のお父さんは、俺と香織が付き合ってる事に反対していました。それなのにその俺の家に香織が泊まるなんて。しかもしばらくなんてダメに決まってるじゃないですか!」
「えっ!? 優一さんは嫌なの?」
この状況でシュンとして、聞き返してくる香織に心の中で頭を抱える。香織へのフォローも大切だが、この意味の分からん状況をどうにかする方が先決だ。
「もちろん、母さんと父さんは反対したんだよな?」
「私はいいと思うわよ。実際、香織ちゃんは何度か泊まりに来てるし。それが何日間かになるだけよ」
「あーもう! 父さんはどうなんだよ。もし聖雪が彼氏の家に何日も外泊するって聞いて認めるわけないよな?」
「確かにそれ――」
「貴方、さっきこの件は私に任せてって言ったわよね?」
「むむぅ……」
よ、弱え……。そういえば、うちのパワーバランスは圧倒的に女の方が強いのを忘れていた。
「これで香織を泊めてもっと俺が嫌われたらどうするんだよ。ただでさえも印象が悪いのに、娘を自分の家に外泊させてる彼氏なんて有り得ないだろ!」
「優一。優一には女性の気持ちが分からないのよ」
「そんな曖昧な言葉で片付けられる問題か!」
「私は、優一くんを信頼しています」
俺と母さんの言い合いに、凜とした香織のお母さんの声が響く。その言葉に、俺は言葉を止めた。
「優一くんとお付き合いさせて頂いてから、香織は目に見えて明るくなりました。毎日楽しそうにしていて、優一くんと付き合う前と比べると会話も増えました。娘がこんなにも幸せそうにしているのに、それを親の私達の利己主義で踏みにじる事はあってはなりません。主人には一度娘と離れて娘について考える時間が必要なんです。その間、娘を任せられるのは優一くん以外に有り得ません」
それは、俺だけではなく、父さん母さん、そして聖雪にも向けられた言葉に思えた。
「あの、お兄ちゃんの妹で香織ちゃんの友達の立場から、あとは女の子の立場からですけど……私は賛成です。誰だって好きな人を認めてもらえないのは嫌だし、私だったら頭ごなしに否定されたら家出するかも。それは、否定された私の方もちょっと落ち着かないと、多分ちゃんと話出来ないと思うし。きっと、香織ちゃんもそうだと思うから」
香織に視線を向けると、スッと視線を下に落とす。少なからず、聖雪の言葉に共感出来る部分があったのかもしれない。
「もうすぐ冬休みに入ります。冬休みの間という事ではどうでしょうか。もちろん、香織の生活費の方は――」
「娘の友達が泊まりに来るだけです。お金は頂けません」
俺は、その父さんの言葉を聞いて、隠すことなく頭を抱えた。遂に、この場で香織の泊まりに反対しているのは俺だけになった。
「無理なお願いを聞いて頂きありがとうございます。主人の方には私から全て説明します。跡野さんには一切ご迷惑をお掛けしないので、ご安心下さい」
もうすぐ冬休み。しかし、その冬休みが波乱に満ちている事は、未来が見えない俺でも簡単に想像出来た。




